昭和31年
年次経済報告
経済企画庁
建設
昭和30年度における公共事業
昭和30年度の公共事業事業費は、前年度よりも約160億円削減され、2,067億円と推計される。このうち国の予算は、1,445億円で、前年度より85億円削減された。30年度における公共事業の特色は次の通りである。
第一に、当初予算編成期においては、30年度における輸出の好調、米の豊作などの予測がたたず、29年度のデフレ政策のあとを受けて、緊縮、健全財政のたてまえをとっていたため、公共事業支出を前年度並みに抑えることとなった。また、当時の金融情勢から、とても公債を発行して公共事業を推進するような状態ではなかった。
第二に、30年度地方財政の窮乏は意外に深刻となり、30年度末には、これの調整をはからざるを得なくなった。このため、公共事業の国費を削減するとともに、国の補助金に対する地方負担額を軽減する措置がとられた。 第53表 に示される通り、30年度当初予算より、地方負担を約36億円、国費56億円を削減した。直轄事業に伴う地方負担は、これで29年度並みになったが、補助事業の地方負担は29年度よりも約50億円軽減している。
第三に、失業対策事業と公共事業の関連が考えられ、特別失業対策事業が新たに設けられた。この事業に失業者3万人を吸収する計画であった。石炭業における失業問題、産業合理化に伴う失業の発生などにそなえ、従来の一般失業対策事業を若干でも生産的な事業に振り向けるとともに、従来の公共事業の一部を失業対策として運用するため設けられた特別失業対策事業は一般会計のなかでの公共事業及び失業対策の両面をねらう支出として注目された。しかしこの運営には、事業場所と要吸収失業者の地理的なずれや、タイミングのずれに困難を感じ、この点の改善は今後の課題とされている。
第四に、公共事業の実施が会計操作上の制約によって年度間に大きな変動を示すのは例年の傾向であるが、前述のように30年度は当初暫定予算が組まれ、本予算の成立が遅れたため、特に補助事業が下半期に集中して支出されている。
第五に、戦後続いた災害も28年度の大災害以後、29、30年度と災害規模が小さかったので、かなりの額に上る過年度災の残事業をかかえながらも、災害復旧事業は減少した。戦前(昭和10~12年度)には、災害復旧事業費は全公共事業費中30%程度であった。これに対し、戦後は大災害の発生によって全公共事業の40~50%となっていたが、昭和29、30年度は約35~36%程度に戻っている。
以上30年度の事業の特色について述べてきたが、ここで過去にさかのぼって、一般会計より支出される公共事業の変遷についてみてみよう。
戦前、公共事業支出のもっとも高率であってのは、世界恐慌のもとで、失業対策として土木事業を行った昭和2~4年度及び7~9年度であって、いずれの時期にも歳出予算中10%前後を占めていたが、国防費の増大により第二次大戦期は3%程度に低下してしまった。戦後は25年度より次第に増大し、28年度では15%をこえるに至り、以後頭打ちとなっている。すなわち24年度においては6.8%であったものが、25年度においては12.9%とはね上がった。これは予算総額が、縮減されたことによって相対的に比率が高くなったことにもよるが、シャープ勧告の趣旨に沿い、公共土木施設の災害復旧について全額国庫負担の制度を設け、地方負担の軽減と復旧事業の促進をはかるため、24年度に比して約倍額の災害復旧費が計上されたことによるものである。26~7年度は、25年度とほぼ同程度の比重を占め、28年度に至って同年の大災害の発生に伴う巨額の復旧費の支出により、歳出予算に対する公共事業の比率は15%を超えた。しかし28年度以降災害発生も少なく、かつ減税、他の重要経費の支出増大とによって公共事業支出の比率は頭打ちとなっている。
戦後における公共事業の増大は戦時中における公共的施設の荒廃と戦後の打ち続く災害の復旧に追われ、最近では人口の増加、産業の発展あるいは生活の向上によって、戦前以上に、公共施設の必要性が高まり――例えば自動車の増大に伴う道路改良の必要性など――社会的資本の増大が要求されている。このように、公共投資の要請が強いにもかかわらず、30年度においては地方財政の負担能力によって公共事業の国費支出が抑制され、公共事業の促進がはばまれている。この問題については民間資金の導入や、国庫の補助率の適正化、その他公共事業に関連する各種の制度の改善によりなんらか解決の糸口を見出すことが望まれている。