總 説
一、政府はさきに経済緊急對策を公けにして、苦しい経済の現状からぬけでるための施策を國民につげた。この緊急對策の重点は かかげたところの方針をあくまで誠実果敢に実行するといふ点にあつた。しかし政府の実行は國民一同の積極的な協力からはなれて成功しうるものではない。こわれた自動車をなおす修繕工ははつきりと自分からはなれて存在する無心の自動車に相對するのであるが、病みつかれた國の経済を立て直そうとする政府は、おのれ自身から独立した人間やものごとを相手にするのではない對策を提案する政府も、對策の對象となる國の経済も、実はきりはなすことができないように結びあわさつたものである。むしろ、もつと正確に言うならば、國の経済の主体をなす國民は對策それ自体の主人公となつて、自らの選出した政府を通じ、且つそれを励ましながら、一人一人が直接自分のこととして、對策の成功をはからねばならないのである。
二、だから、政府はこの際拙速の努力により、集めうるかぎりの資料や統計をきそとして、わが國経済の現状を國民につたえ、國民と一緒に問題を考え且つ解決してゆきたいと思う。そのためには、國民一人一人が、國の経済をあたかも自分の家の家計を考えるかのように、つかんでおく必要がある。不幸にしてわが國統計の発逹は非常にたちおくれていて満足な診断書をかきあげることはむづかしい。しかし徒らに十全の統計ができあがるのを待つよりは、與えられた制約のなかで万全を期して、実状の把握に資するほうが、この際は大切でなかろうか。
三、まえがきとして二つのことを強調しておきたい。一つは、経済のうごきを動的につかむということであり、いま一つは、経済の分析を総合的に行うということである。
四、経済のうごきを動的につかむということは、過去にさかのぼつて経済のすすんできた途をあとづけることであると同時に、將來にむかつては、われわれの努力の結果を勘定にいれながら對策を考えることをも意味する。大多数の國民の意思に反して無謀ないくさを敢えてした結果が、どんな事態をもちきたらしたかについては、われわれはその及ぼしたところの深刻な影響を、いまだ十分には意識し得ていないくらいである。その上われわれは、終戰以來の過去二年間の間、必ずしもわれわれがなしえたであらうことを十分になしとげてきたとは言いがたい殊に、昨年の三月、新円措置を行つたときにはいろいろな資材のストツクもまだまだそれ程は枯渇していなかつたし、経済をたてなおすのには絶好の機會であつた。ところが生産はその後も依然として停滞をつづける一方、インフレーションの危險は次第々々にこくなつて今日にいたつたのである。経済を安定させるための積極的な施策が本氣にとりあげられなかつたばかりでなく、つみ重ねられてゆく不均衡や経済秩序のみだれを繕ろうことさえが、徒らにのびのびになつて今日の事態を招いたのである。政府が現にとりつつあり、又とらうとしている對策のなかには、もつと早くに実行に移されていたならば、その効果が更に大きかつたであろうと思われるものが少なくない。
次に、経済の分析を將來にむかつて動的におこなうこということは、或る程度不たしかな予測を基礎とすることではある。しかしこれからはわれわれの努力次第で事態は改善の一途をすすむものとみて差支えないだろう。それはたとえば、現在戰前の三割から四割ぐらいのところを低迷している労働の生産性にしても、あるいは又、現在までのところ非常に窮屈な状態にある國際経済收支の問題にしても、國をあげての努力によつて改善しうる余地は、きわめて大きい。努力次第では実現可能な見透しに眼をおおつて、われわれの緊急對策を消極的に制約してしまうことは、経済のうごきを動的につかむ所以ではないのである。
五、まえがきとしての第二の点、つまり経済の分析を総合的に行うということは、この際特に必要である。國民の一人一人が國の経済を、自分の家の家計のようにみて正しい判断を下すためには、どうしても経済の全体をその総合の関連においてつかむことが、第一條件だからである。手近かな例をひいてみよう。もしわれわれの問題が、財政の辻つまをあわせるということのみにあるのならばほかのことはどうなっても財政の点だけに努力を集中してかなりの程度まで成功するかもしれぬ。しかしそのためには、現在國家財政にたよつて收支をあわせているような重要企業は破綻せねばならぬかもしれぬし、又他方では、消費者に對する税金の負担が尨大となつて家計は更に均衡を逸するようなことになるかもしれぬ。またそうだからといつて、逆に企業や家計の收入さえあえば、財政の收支はどうなつてもよい、などと考えるならば尚さらまちがつている。部屋の掃除を言いつけられたものが、ほこりをすべて机の下にはきこんだのでは、一寸見た眼にはきれいになつたように見えても、実は本當に掃除したことにならないと同じように、國の経済についても経済全体として、ものごとを見きわめることが必要である。部屋の中は、机の下もたんすのうしろも全部きれいにしなければならないのである。もつとも、ものごとには急所というものがある急所さえつかめばたとえそれが全体のごく一部分であつても、それによつて全体をうごかすことができるものである。しかし、どこが急所であるかをみきわめるためにも全体を全体としてその相互の関連においてつかむことが第一の條件でなければならない。
六、國の経済を一家の家計のように考えるにしても、大まかに言つて、経済を営む部門を次の三つに分けることができる。
(一)政府の財政
(二)民間企業(農業経営もふくむ)
(三)國民の家計
之等はおたがいに、密接不可離の関係で結ばれているものであつて、一つをおさえれば、他の一つがふくらみ、一つに刺戟を與えれば、他の一つにまで影響を及ぼすという種類のものである。しかし一應は、この五つの部門の各々について、最近の帳尻をしらべてみよう。
七、毎月政府のふところから出る金と、政府のふところへ入る金との差額は、嚴格な意味で國家財政の收支を示すものとは云えないが、ほぼその大きさを傅えるものと云うことはできる、そこで、政府と民間との関係で、毎月資金撤布超過になつた額をしらべてみると、昨年度以來のうごきは次のとうりである。
上の数字をみると、数字のうごきは加速度的ではないにしても、五月以降のうごきが決して楽観をゆるす体のものではない事は明瞭である。
ここに参考のために昨年度一般會計及び特別會計の純計の收支(交付公債二一〇億円を含む)を総括してみると下表のごとく。
赤字は歳出の三九・八パーセントに達したことを知る。
八、重要企業の帳尻については、二、三の主だつものを例にとつてみよう。
(一)石 炭
石炭一屯あたりの送炭原價と公定による生産者價格とのひらきは最近つぎのようにふえている。(單位 円)
このような赤字の総額が、三月にはその月だけで、四億円をこしてしまつた。
(二)鐵 鋼
鉄鋼関係で主な會社四つからの報告によつて昨年十月から本年三月末にいたる六ヶ月間の経理状況をみると、次表のとうりであつて、
收入は支出のほぼ三分の二にとどまり、價格安定資金による補助も、赤字の半分程度をうめるに過ぎず、結局、純赤字が総支出の一五・三パーセントに及んだことを示している。
九、家計の赤字は「たけのこ生活」のことばが示すとうり、大部分の都市勤労階級のなやみであつて、いまさら数字をあげて実証するまでもないところであろう。しかし、東京の勤労者会計が平均的に云つて毎月どの程度の赤字を記録しているかを、物價廰の家計調査によつてしらべてみると次表のとおりである。(△しるしは黒字)
一〇、一國の経済の構成する三つの重要な部門の何れもが、かなり永い期間にわたつて赤字を続けているということは何を意味するのであろうか。これは國全体としては考えた場合、決して尋常なことではない。一家の家計に例をひくならば、それは主人も主婦も子供もが、必要なものを買うのに收入が足りなくても使いすぎた場合である。こんなことが永つづきしたら、いや、永つづきしうるためには、われわれは通常どんな方法をこうずるであろうか。
第一には、貯金をひきだす。
第二には、財産を賣る。
第三には、人から金をかりるか又はもらう。
これ以外に方法はない。ところが、上の第一、第二の方法は、貯金や財産のある人に限られた方法であつて、國民のだれもが利用しうるわけではなく、たとえ利用したとしても、そう永続きすることではない、第三の方法にしても、信用がなければ、なかなか金を借りることはむづかしい。
一一、たとえをもとにもどして、一國の経済についていえば、どうであらうか。
上のたとえで第一の方法、つまり貯金をひきだすということは、國の場合についていうときは、いくらか意味がちがう。個人の場合には、貯金をひきだせば、それだけ多くの購買力が手にはいり、したがつてそれだけ多くの物資やサービスを入手することができるが、國全体として考えた場合には、誰もかれもが貯金をひきだしたからといつて、それだけ物資がふえるわけではない。國全体について貯金をひきだすということは、結局、ものの形で蓄積されているストツクをくいつぶすということでしかない。もつとも外貨の形でなされていた貯金をひきだすことができれば、物資をそれだけ多く輸入することができはするが、今日のわが國にとつてはそのようなことは問題外である。次に第一の方法、つまり財産を賣るということは、一國の経済の場合であればたとえば、過去において生産され現在にいたるまで保有されてきた貴金属とか美術工藝品とかのたぐいを外國に賣る場合に相當する。最後に第三の方法、つまり人から金をかりるか又はもらうということは、一國の経済の場合であれば、外國から借金をするか又は無償で金や物の供興を受ける場合に相當する。
さて、わが國は、國土としても貧しいし、その上、無謀な戰さをして、國際的な信用も失つた。言わば、貧しい人が、隣近所に喧嘩をふつかけたようなものである。貧しくてはひきだす貯金や賣り拂う財産も乏しかろうし、又喧嘩をうつたりしたあとでは、そう心やすく金を借りることもできまい。つまり、上に三つの方法をあげたが、そのいずれの方法も現在の日本にとつては、非常に限られたものであることはすでに國民も熟知している。殊に、くいつぶしうるストツクや賣りはらいうる財産は、終戰以來二カ年間の間に、殆ど出つくしてしまつた状態である。
一二、事態の困難さはこれだけにつきるわけではない。先程のたとえで、主人や主婦や子供逹の金の使いすぎに言及したが、その日その日の生活に是非とも必要なものを買うのにさえ收入が不十分であつた場合には、その結果は一刻を爭そうのでないような補修的維持的な支出が、おのづからなおざりになるだろう。たとえば、住んでいる家の修理を怠らざるを得なかつたり、子供の保健に、十分のことができなかつたりする。かくして、はては、永い目でみた一家の維持を根底からおびやかすことになるのである。國の経済についても全く同じようなことが考えられる。たとえば、機械の修理や手入れを十分に行つたり、鉄道のレールのようなものであれば、或る程度以上にすりへつたものは適宜取りかえを行つたり、樹木を伐採する一方では、それを補うだけの樹林を行つたり、河川の堤防でくずれたのなどをはすぐさま直したり……このような仕事は國の経済を維持してゆくためには當然しなければならないことである。にもかかわらず、これ等の面での出費は、不當に節約したことの影響が短期間にあらわれないから、ともすればないがしろになりがちであり、現在のわが國のように、國の経済が窮迫したときには、おのずから後まわしになつてきている。
國土國富の將來のために、政府としても大いに戒心すべき点である。
一三、國の経済の三つの主な部門は何れも赤字であると言つたが、わが國経済を構成している経営單位のどれもこれも赤字であるというわけではない。もしそうであつたとすれば、到底現在程度の輸入超過や資本のくいこみでは間に合わないだろう。業者の中でも、全く不釣合な黒字をあげてきたものが少なくないことは不完全ながら統計の上にもあらわれている。たとえば、
(一)昨年一年間について、個人の取得した所得の推定を種類別にわけてみると、次のとおりであつて、(單位 億円)
商業にたずさわるものの所得全体に對する割合は昨年の新円措置によつて一度低下したが、直ちに再び増勢に轉じて、年末の四半期には年初の四半期にくらべて、二四・二%から二一・四%に、わずかながらふえている、この数字は、商業にたずさわるものの人口が有業者人口全体の中で七・一%でしかないことと、比べて考えるべきである。
(二)内閣統計局の消費者價格調査は、調査の對象を別に勤労階級とは限らないで、できるだけ実状がそのまま反映されるように仕組まれたものであるが、その本年一月東京についての調査を基礎にしてしらべてみると、家族單位での月間の家計支出は、四千円をこえたものが全家族の一五%をしめており、この一五%に属する人逹は、支出額全体の三八%を彼等の間で占めていたことが分る。當時は、形式的には所謂「五百円生活」の時代であつたことを思うならば、一部の人逹がいかに恵まれた生活をしていたかを推知することができるではないか。
一四、國の財政の赤字のごときは、このような黒字の部分から預金が生れでて、それでうまくゆけばよいのだが実は、この黒字を生んでできた部門というのは、上の資料からも想像できるとうり、主としてものの取引や賣買にたずさわる業者とか、サービスを提供する産業に関係した人達であつて、その所得に對應しただけの税金を正確に徴收することにも困難があるし、又その性格からいつでも、比較的消費性向のたかい、つまり所得の中から消費する部分の多い業種に属している。したがつて、國の経済の規模をだんだん高めてゆくために必要な、健全な貯蓄をこの黒字の部門から期待することは從來までのところ、非常にむつかしかつたと言わねばならぬ。
一五、そこで、國の財政も、重要企業も、國民の家計も、いずれも赤字をつづけているということの結論は次のようになる。
第一に、資材のストツクはどんどん減りつつある。
第二に、経済を維持するために、正常的に行わねばならぬような補修や補填が行われないでいる、しかも、その度合はひどくなりつつある。
第三に、外國に對する借金はふえる一方である
このような事態は決して永つづきしうるものではない。なぜかと言えば、それはなによりも、國の経済全体として、再生産の規模を日一日と狭めてゆくことを意味するからである。
一六、再生産の規模がだんだん小さくなりつつあるというのは、具体的に例示すれば、どういうことを意味するのであろうか。元來、生産は土地と資本設備(機械とか工場の建物とか)と人力とをもつてなされ、これ等の生産要素の各々が、つづけて生産に寄與しうるためには、たえず消耗をおぎない、故障をなおしていかなければならない。この点で、いかに最近のわが國が十分のことをなし得ていないかは、次の代表的な例によつても、うかがい知ることができる
(一)國土の荒廢
わが國國富の重要な一環をなす森林資源についていえば木材をきりたおしてゆく一方、それに見あつて行わねばならぬ造林のごときは昭和十四年から十六年にいたる平均で、毎年四十九万町歩程度でしかなかつたことは、國土が荒れすたれてゆく様を如実に示している
そのほかに次のような例もある。本年四月中旬に北海道、東北、北陸方面に雪解けの降雨があつただけで一度に十億三千七百万円の損害を生じた。例年夏の颱風で水害が出ることはあつても、春の雪どけでこのような水害が出たためしはない。これは結局資材や資金の不足から河川の堤防その他の補修が十分でなかつたためと、考えられるものである。しかもこの一囘の水害で米二一万五千石、麦四万三千石の收穫を失つたのであつて、この例でも分るように國土の手入れを怠れば、今後の被害は加速度的にふえてゆくだろう。
(二)企業設備の老朽化
実例はいくつもあるが、二三の代表的なものを挙げるならば、先ず第一には、國鉄の車輌故障が、日華事変前の昭和十一年には、列車百万粁あたり三・八七件でしかなかつたのが昭和十六年には一六・四一件にはねあがり昨年になると一〇一・九件というおどろくべき数字にまで増加していることを知る。
次に火力発電所の出力調べをみると、認可最大出力と可能出力とにほぼ同じくらいであつたが、最近の推定では、認可最大出力(事業用)は二百八十七万キロワツトであつても、可能出力は百九万キロワツト程度であつて、たとえ石炭の炭質が囘復したとしても、百四十万キロワツト位であろうというから、まさに半分にみたないわけであつて、その原因はほかならぬ設備老朽化のためである。
今までは無理をしてきたのだから、企業の設備が老朽化してきていることは當然であろうが、現在こそはこれを挽囘するために十二分の補修をしたければならぬときである。にも拘わらず企業の実態は、ほとんどどこもが人件費に追われて、補修を十分に行ないえない状態にある。たとえば電氣事業の主要會社九社からの報告を合計してみると、昭和十九年には総支出に對して二二・八%で減價償却費が一八・二%であつたのに對し、本年度の予算ではそれが四二・九%と三・五%という大きなひらきとなつているのである。
(三)國民體位の低下
國民体位を示す資料としては、都市小学校における学童の体位の調査がある。男女各々について昭和十二年と昭和二十一年とを比較したものであるが、大体の傾向は男子も女子も同じなので、ここには男子についての数字を掲げると、次表のとうりで
注意してみればすぐ氣付くことであるが、この九年間の間に、身長も体重もほぼ一年づつずれている。いいかえれは、小学校六年生は九年前の五年生に相應し、五年生は四年生のレベルにしかないことが分るのである。
一七、縮少再生産性が國の経済に及ぼす影響は、單に再生産の規模を小さくするだけではない「一分八間」のたとえに似て、現在直ちにおこなえば一分の補修ですむところも、一月のばし二月のばしたために、終には八間の補修を必要とするようなことが極めて多い。丁度人間の病氣についても同じようなことがいえるということは、誰もが知っている。早期に治療をすれば、なんでもなくすむことが、しばらく放任したために、とりかえしのつかぬ事態を招いてしまうことは、一再ならずわれわれが見聞し、又みずから経驗するところである。前例であげたいくつかの例は、わが國の経済について、このような憂うべき徴候がすでに見えだしてきたことを教えてくれるのであつて、現在われわれのとる對策が、いかに將來につながつているかを單的にさし示しているものというべきである。
一八、今までのべてきたことをいいかえれば、わが國は、土地と資本設備と人力という三つの生産要素のうち、現在は、人力の再生産に最低限必要なものを調逹するだけで手一杯で、実はそれさえも充し得ないくらいの貧弱な生産力しかもつていないということに帰する。生産力がいかに低下しているかということは、各論の中で具体的な数字をあげて示してあるとうりであるが、製造工業の分野では、現在労働者一人あたりの生産性が戰前の三分の一乃至は二分の一であるといわれる。労働者一人あたりの生産性であるからといつて、それがおちているのは、労働者がそれだけしか働いていないということを意味するものではない。原因はもつともつと多角的である。設備がいたんでいるとか、原料や燃料が足りないとか、あるいは又経営上の手腕がおちたとか、いう色々の原因が重なりあつて、数字の上では、労働者一人あたりの生産性の低下となつてあらわれる。現在このように落ちこんでいる生産性を、戰前のレベルに挽囘するだけでも、いかに大きな囘復を意味するかは明瞭であろう。勤労者の生活圏の確保というのは、働くものが自らの額に汗して勤労の果実をふやし、それを自らの生活を豊かにするように確保する体制をつくりだすことに自らが積極的になることを意味する。
一九、ふえた勤労の果実がそのまま、はたらくものの生活を豊かにするようにながれてゆく体制とは如何なるものであろうか。これは大きな基本的な問題であるが、ここでは當面の具体的な面だけをとりあげよう。少し話はまわりくどくはなるが、一つ現実的な例をとつてみる。與えられた賃金の水準から出発して公定價格の改訂をおこない、マル公の高さが二倍にも三倍にもなつたりする。すると今度は、マル公がそんなに上つたのでは最初の賃金水準では到底生活ができないというので、また賃金を上げねばすまなくなる。すると、したがつて、マル公もまたあがる。このように循環していてははじまらないから、そこで賃金と物價を同時的に決定しなければならぬということがいわれる。同時決定が望ましいことには異論はないが、一体何故このやうな循環がおこるのであろうか。
與えられた賃金から出発して公定價格の改訂をおこなつた場合、たとえその際マル公が二倍三倍に上つたとしても、もしも生活物が全部マル公で買えたならば、上のような循環はおこらない筈である。それは當り前だと誰でもいうだろう。ところが事実においては循環を余儀なくされるのは何故であろうか。マル公で計算に入れられているよりも何十倍かの利潤がヤミ利潤の形で流通過程に介入しているからである。このヤミ利潤を壓縮し、できればゼロにすることこそが、上の循環を断ちきる唯一の效果的な方法であり、ひいては、勤労の果実そのまま働くものの生活内容に結びつけるための最短距離である。ヤミ利潤の形でとられる割合をそのままにしておいたのでは、賃金がいかにマル公のあとを追つかけても、轉倒した配分関係はそのまま再生産されるのでしかない。この点にこそ現下のわが國経済にとつて核心をなす問題がひそんでいるのである。永い眼でみても、勤労の成果がそのまま働くものをうるほすような体制が作りあげることは、當面の課題として、このような手近な、しかも困難な問題を解決することからはじまるものと思う。
二〇、統計数字に完全な正確さをもとめることは無理であろうが、経済の論理はだますことはできない。殊に一國の経済という有機体は、このまとまつた有機体として診断し、把握することが肝要である。以下にくりひろげる各論も、この観点から書かれたものであり、したがつてこの観点からよんでいただきたい。