おわりに

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現在の我が国の景気回復局面が戦後3番目の長さに達する中で、600兆円を超えた名目GDP、33年ぶりとなった2024年を更に上回る春季労使交渉における高い賃上げ率、過去最高を更新する設備投資など、これまでにない前向きな動きがみられている。一方、食料品など身近な品目を中心とする物価上昇の継続により、消費者マインドや実質賃金が下押しされ、個人消費の回復は力強さを欠く状態が続いている。これに加え、2025年1月に発足した米国の第二次トランプ政権による広範な関税措置が、外需を通じて、我が国経済を直接的・間接的に下押しするリスクをもたらしており、日本経済は内外需の両面から困難に直面している。バブル崩壊後の長きにわたるコストカット志向から脱し、賃金と物価の好循環が回り始め、定着しつつある中で、こうした経済への逆風を乗り越え、賃上げを起点とする成長型経済に移行できるか、日本経済は正にその分岐点にある。

こうした問題認識の下、本報告においては、公的統計のみならず、ビッグデータを含む多様なデータを活用することにより、我が国経済の実態に関して幅広くレビューを行い、「米国の関税措置による実体経済への影響は現時点でどの程度顕在化し、今後の経済・物価のリスクはどのように評価されるのか」、「GDPの過半を占める個人消費のより力強い回復、これを支える持続的な賃金上昇の実現に向けた課題はどこにあるのか」、「国際社会が戦後培ってきた自由で開かれた貿易・投資体制が転換点を迎えている中、グローバル化の利益を享受してきた我が国経済が直面する課題は何か」といった視点から議論を展開した。

本報告全体を通じて何が明らかになったのか、主要な論点と、それに対するメッセージを整理すれば、以下のとおりである。

●米国の関税措置による特段の変調はみられないが、下方リスクには十分留意

2020年5月を谷とする景気回復局面は、2002年1月以降の第14循環、2012年11月以降の第16循環に次ぐ、戦後3番目の長さとなっているが、過去2回の景気回復局面は、財の輸出と製造業の生産が中心であったのに対し、今回は、コロナ禍からの回復ということもあり、サービス産業の活動、そして国内民間最終需要がけん引役である。このように、過去の回復局面とは外需面のショックに対するぜい弱性は異なると考えられるものの、米国による大規模な関税措置は、我が国の輸出企業に対する直接的な影響に加え、世界経済を下押しすることを通じて間接的にも我が国経済を下振れさせる大きなリスクとなっている点に留意が必要である。2025年7月中旬時点までで利用可能な統計データを確認すると、マクロ的な輸出数量や生産指数、雇用等の指標の動きに特段の変調は確認されない一方、追加関税の発効直後には、短期的に北米向け乗用車輸出価格が大幅に低下するなど企業収益を下押しする要因がみられており、仮にこうした動きが広がれば、雇用・賃金、設備投資、個人消費等も下押しされるリスクがある。また、追加関税分の輸出価格への転嫁が進んだ場合には、米国市場における需要の反応によっては、輸出・生産の減少を起点に内需が下押しされるリスクがある。くわえて、世界経済の下押しという間接的な経路から我が国輸出が下振れする可能性とともに、米国の通商政策の動向やその影響に対する不確実性が、製造業を中心に設備投資の先送り行動につながり得るという点にも警戒が必要である。引き続き、関税措置の影響を注意深く分析し、国内産業・経済への影響に対する万全の措置を講じることにより、その影響を最小限に抑えることが重要である。

こうした米国の関税措置が、回り始め定着しつつある賃金と物価の好循環に与える影響にも注意が必要である。仮に、関税措置への対応として、輸出価格の引下げという動きが広がれば、短期的な利益の確保のために賃金や投資を抑制するというコストカット志向に回帰する可能性があり、留意が必要である。実際、過去の経済ショック時には、企業の販売価格設定行動が消極化し、経済主体の物価上昇予想も低下するという傾向もみられた。また、過去の経験に照らせば、負の経済ショックに伴うGDPギャップの悪化は、経済主体の賃金・物価上昇に対するノルムが確立しない中にあっては、経済を再びデフレに陥らせる蓋然性を高める要因となる。2%の安定的な物価上昇率を早期に実現・定着させ、経済主体の予想物価上昇率の安定化につなげること、中小企業の労務費等の価格転嫁・取引適正化を促進すること等も通じて、人件費比率の高いサービスを中心に賃金と物価の好循環を回し続けることが極めて重要であるといえる。

●個人消費の力強い回復には安定的な物価上昇とこれを上回る持続的な賃金上昇等が不可欠

2024年に入り、33年ぶりの高さとなった賃上げの効果や財産所得の増加もあって、マクロの家計可処分所得において改善の動きが続き、家計の金融資産残高も拡大傾向が続く中にあっても、GDPの過半を占める個人消費の回復は、これらに比して緩やかなものにとどまっている。結果として、平均消費性向はコロナ禍で急速に低下した後も、コロナ禍前の水準に戻らず低下傾向を続けている。本報告のために実施した内閣府の調査からも、食料品を中心とした物価上昇が続く中で、家計において、潜在的には消費意欲が高い食費等を中心に節約行動をとっている姿が浮き彫りとなっている。

このように、所得等に比して個人消費の回復が力強さを欠く背景には、様々な要因が複合的に影響している。第一には、家計が賃金上昇を持続的なものと受け止めるに至っておらず、恒常所得の増加期待に乏しいことである。内閣府の調査からも、継続的な収入の増加は一時的なそれよりも消費の増加につながりやすいこと、そして、近年の賃上げの実績にもかかわらず、継続的な収入増加に対する家計の期待は必ずしも高くないことが確認される。このように賃上げの実感が広がらない背景には、バブル崩壊後に就職した多くの世代では就労開始時点での将来の賃金に対する期待値と比べて、実際の賃金が十分に上昇してこなかったことや、より若い世代では、近年の力強い賃上げの流れの中で、定期昇給もあいまって名目ベースの賃金上昇は堅調であっても、物価上昇を調整した実質ベースでの賃金上昇は抑制されていること等が、賃金の継続的な上昇を当然のものとして受け止めることを難しくしている可能性がある。第二は、物価上昇が続くという予想が、消費者マインドを低下させ、現実の消費を抑制させていることである。こうした経路は時系列モデルを用いたマクロ的な分析からも確認されるが、内閣府の調査からは、家計の物価上昇の予想は、中高年層を中心に、実際に経験・実感した物価上昇率に影響されやすく、また、年齢が上がるほど、物価上昇予想に対して耐久財等を前倒しで消費するという異時点間の代替効果が働きにくい可能性が示唆される。第三に、老後の生活をはじめとする将来への不安が、予備的な貯蓄動機を通じて、貯蓄率を引き上げ、消費を抑制させていることである。特に、内閣府の調査を基にした分析からは、総世帯に占めるシェアの上昇が続く単身世帯においてこうした傾向が強いことも分かった。これらの分析からは、2%の安定的な物価上昇を早期に実現すること、これとともに、実質賃金が継続的に上昇する環境を整え、賃上げのノルムを確立すること、そして持続的な社会保障制度を確立し、老後の生活に関する不確実性をできるだけ解消し安心感を高める、といった政策的観点が重要ということが再確認される。

●賃上げのノルムの確立と、賃金をシグナルとする市場メカニズムが重要

賃金上昇の持続性という点については、かつてコロナ禍前の2010年代後半において、企業の人手不足感の高さに比して、賃金上昇を抑制的なものにとどめていた各種の要因は解消されつつあると考えられる。この中で、デフレ状況下で特有の現象である、賃金・物価上昇率が共に低位な中では、景気後退期に賃金の引下げを行いにくいという下方硬直性と、これに伴い、その後の回復局面において賃金引上げが控えられるという上方硬直性については、近年のコロナ禍でも確認されたが、世界金融危機時と比較すると、より早期にその後の上方硬直性が解消した可能性があることが分かった。一方、転職希望者が増加し、これが内圧効果を通じて、企業が労働者の引き留めのために賃金を引き上げるという動きにはつながっているものの、マクロ的にみて労働者の転職行動自体が活発化しているとまでは言えず、これは労働需給のミスマッチの解消に向けた課題でもある。転職希望がありながらも転職行動に移れない背景には、長時間労働や自己都合退職時における退職金減額の慣行など様々な要因が介在している。賃金の硬直性や外部労働市場を通じた賃金上昇圧力の弱さは、賃金をシグナルとした市場メカニズムの働きを阻害し、労働移動の抑制等を通じて経済全体の効率性を低下させる要因となる。この点からも、2%の安定的な物価上昇の実現・定着と共に、これを上回る名目賃金上昇率の継続的な実現に向け、企業の生産性向上や三位一体の労働市場改革等の政策を進めていく必要がある。

また、賃金上昇は、人手不足感が相対的に強い中小企業においても着実に進み、長期的に大企業との間の賃金差も総じて縮小傾向にある一方で、賃上げを積極的に行える企業とそうでない企業に二極化する兆しが生じ、平均的な賃金上昇率に遅れがみられる点にも注意が必要である。中小企業においては、全体として利益率が高まる中であっても、負の経済ショックに際して事業継続可能性を確保するという予備的な動機もあり、現預金が大きく蓄積する一方で、成長のための前向きな投資が抑制され、資本効率性が低い状態が続いてきた。他方で、生産性が相対的に高い中小企業においては、大中堅企業と比べても遜色のない生産性・賃金水準が実現されていることも事実である。中小企業の利益配分の考え方も、従前の内部留保を最重視する姿から、人への投資や設備投資をより重視する方向に変化している。こうした流れを後押しし、賃上げのノルムを確立するため、引き続き、中小企業の労務費の価格転嫁・取引適正化の推進と共に、省力化等の設備投資支援を通じた生産性の向上、事業承継やM&A等を通じた経営基盤強化を進めることが重要である。最低賃金については、近年の引上げにより、賃金水準が低いパートタイム労働者の時給を着実に底上げしたことが示されている。賃上げのノルム確立に向け、上記の中小企業支援の取組を進めつつ、2020年代に全国平均1,500円という高い目標の達成に向け、たゆまぬ努力を継続することが重要である。

●自由で公正な国際経済秩序を維持・強化し、自由貿易の下で持続的成長を目指す必要

保護主義的な貿易政策により経済のブロック化が進んだ第二次世界大戦前の教訓から、戦後、国際社会においては自由で開かれた貿易・投資体制が構築され、我が国を含め世界経済は国際分業体制に基づく自由貿易体制のメリットを享受してきたと言える。しかし、近年権威主義的な国家の台頭や自国第一主義の動きによって、国際協調が形骸化し、保護主義をはじめとする国際的な分断が進行する恐れが懸念されている。

こうした中で、過去30年程度の我が国の世界経済との関わりについて、経常収支の観点から振り返ると、かつて巨額の黒字を計上していた貿易収支は、アジア新興国等の発展に伴う競争力の低下、円高に伴う生産拠点の海外移転の進行等から、近年はおおむね均衡状態となり、原油など輸入に依存する資源価格の高騰によって赤字に転じやすい構造に変化した。また、サービス収支については、インバウンドの活性化により旅行等では黒字が拡大する一方で、DXに欠かせないデジタル分野等では赤字の拡大が進み、サービス収支全体としては赤字の状態が続いている。その一方で、これまでの積極的な海外投資の結果、直接投資収益を中心に、第一次所得収支の黒字が拡大し続けている。貿易・サービスの収支の赤字は、自由貿易の下、比較優位に基づく国際分業の観点からは必ずしも問題ではなく、海外に優位性のある分野では、その財・サービスを輸入・活用することが効率性の観点からは重要である。一方で、経済安全保障やエネルギー安定供給等の観点から、過度に海外からの供給に依存しない体制を整備していくとともに、コンテンツなど潜在的な強みのある分野で付加価値を高め競争力を磨く取組が重要と言える。また、第一次所得収支に関しては、企業がより高い収益を求めた結果、対外資産が積み上がり、その収益率は他国よりも高い傾向にある。ただし、こうした企業の海外投資は、必ずしも国内において生産性の向上や賃金の引上げに明確につながっているわけではない。日本企業が、国内ではなく海外での投資や再投資を増やしてきた要因の一つには、国内投資によって得られる期待収益が低いと認識されてきたことが挙げられ、規制改革による事業環境の改善などを通じて、企業の資金が、より国内投資に回り、国内賃金の引上げにつながるような環境づくりが重要である。

また、グローバル化が進展し、サプライチェーンの国際分業化が進んできた中で、我が国のグローバルバリューチェーン(GVC)との関わりを振り返ると、我が国は、他の先進諸国と同様にGVCへの参加度が高まり、その中でも、かつてのように日本が基幹部品等の中間財を他国に供給する構造から、生産コストが相対的に低い他国に中間財の生産拠点を移し、それらの地域で生産された中間財を活用して、更なる財・サービスを生産するという構造に変化している。このように、我が国産業と海外経済との関係がますます深まってきた中、米国の関税措置により、世界貿易が減退するような場合には、GVCを通じた我が国経済への影響も大きなものとなり得る。世界GDPに占めるシェアが4割超である米国や中国の最終需要が減少した場合、その影響は、輸送機械や電気機械をはじめとした製造業に加え、財の流通に関わる卸売業等の非製造業にも及ぶこととなる。こうした中、我が国としては、世界経済の持続的な成長に資する観点からも、引き続きリーダーシップを発揮し、CPTPPの拡充・発展等を通じ、自由で公正なルールに基づく国際経済秩序の維持・強化に取り組んでいくことが重要である。自由貿易協定や経済連携協定は、締結国の間での貿易創出効果を生むことが実証されているが、これは我が国においても同様に当てはまり、自由貿易体制推進の重要性を示すものと言える。

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