はじめに
我が国経済は、2024年には名目GDPが初めて600兆円を超えるとともに、2025年の春季労使交渉における賃上げ率は、33年ぶりの高さとなった2024年を更に上回る堅調な結果となるなど、近年にはない明るい動きが続いている。一方、個人消費については、食料品など身近な品目の物価上昇が続く中で、賃金・所得に比して回復力が弱いものにとどまっている。コロナ禍の2020年5月を谷とする現在の景気回復は、戦後3番目の長さに達し、成熟化した状態にあることを踏まえると、何らかの負のショックを機に景気の局面が変化する可能性には十分警戒が必要である。この点、2025年1月に発足した米国の第二次トランプ政権による広範な関税措置が、外需面から我が国経済を直接的・間接的に下押しする大きなリスクとなっている。過去四半世紀にわたる賃金も物価も動かない凍りついた状況から脱し、賃金と物価の好循環が回り始め、定着しつつある中で、現在、我が国経済は、この逆風を乗り越え、コストカット型経済から脱却し、成長型経済への移行を確実なものとすることができるか否かの試練に直面していると言える。
本報告では、我が国経済の現状と課題の分析を通じて、今後必要となる政策の検討に資することを念頭に置いた議論を行っている。各章の構成は以下のとおりである。
第1章では、2025年半ばまでのマクロ経済の動向等について、様々なデータを活用しつつ詳細にレビューする。具体的には、今回の景気回復局面について、輸出・製造業がけん引した過去2回の長期回復局面との違いを明らかにするとともに、米国の関税措置による我が国経済への影響に係るメカニズムを理論的に整理し、現時点において、輸出や生産、企業収益や雇用、設備投資、個人消費の各側面においてどういった影響が生じているのか、今後のリスクはどこにあるのかを点検する。また、企業の価格・賃金設定行動や経済主体の物価上昇に対する認識が着実に変容し、賃金と物価の好循環がようやく回り始めたことをデータで確認するとともに、その定着に向けたリスクと課題を議論する。あわせて、コロナ禍前後の我が国の財政状況をフロー・ストック両面から確認するとともに、近年活用されてきた中小企業等への投資補助金の実態等について新たなビッグデータを基に分析する。
第2章では、家計部門に注目し、持続的な賃金上昇が確立し、個人消費の回復がより力強いものとなるための課題について議論する。その中で、まず、本報告のために実施した内閣府の調査結果も踏まえ、賃金・所得の伸びに比して個人消費の回復が力強さを欠いている背景について、老後不安や物価上昇予想の高まりを介したメカニズムを含め多面的に検証する。また、賃金上昇が企業規模間、年齢間、産業間で広がりをみせているのかを確認しつつ、家計部門において、賃上げの実績に比べ、賃金上昇の実感が広がっていない背景を分析する。さらに、賃金上昇の持続性を占う意味で、過去、日本の賃金上昇を抑制してきた要因の一つとされる賃金の硬直性について、現時点においてどの程度解消が進んでいるのかを分析する。あわせて、過去30年程度の労働市場の変化を振り返るとともに、転職希望の高さに比して、転職を通じた労働移動が進まない背景を探り、労働市場のミスマッチの緩和に向け、賃金をシグナルとした市場のダイナミズムが機能するための課題等について分析する。
第3章では、第二次世界大戦後、国際社会が長年にわたり培ってきた自由で開かれた貿易・投資体制が大きな転換点を迎えている中で、我が国とグローバル経済との関わりの現状と課題を明らかにするとともに、米国の関税措置というリスクを乗り越え、賃上げと投資がけん引する成長型経済を実現するために必要な我が国の企業部門の課題を分析する。具体的には、過去30年程度の我が国の経常収支の長期的な変遷とその背景を概観するとともに、グローバルバリューチェーンと我が国経済との関わりに関する詳細な分析に基づき、米国の関税措置による各産業への潜在的影響を確認しつつ、経済連携協定等による自由貿易推進の重要性を示す。また、過去30年程度における我が国の企業行動の変化として、人への投資や設備投資を含めてコストカット志向が進んだ点を振り返りつつ、積極的な海外展開により利益を享受できた大企業、保守的な経営により現預金を蓄積することとなった中小企業において、豊富な資金を国内投資や賃金の引上げに結び付けるための課題について議論する。