第3章 企業の収益性向上に向けた課題 第2節

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第2節 我が国企業のマークアップ率の動向と課題

我が国は現在、40年ぶりの物価上昇率や30年ぶりの高い賃上げを経験するなど、物価と賃金を取り巻く状況に変化の兆しがみえる。こうした中で、物価と賃金の持続的で安定的な上昇を目指していくうえで、企業による価格設定行動、すなわち、賃金上昇とコストの適切な価格転嫁を通じたマークアップ率の確保が注目されている。

本節では、我が国企業の長期的なマークアップ率の動向を概観した上で、マークアップ率に影響を与えている要因や、マークアップ率と投資や賃金との関係について分析する。

1 我が国企業のマークアップ率の動向

マークアップ率とは、企業の限界費用(生産量を追加的に一単位増加させるときに必要な費用)に対する販売価格(製品一単位当たりの売上高)の比率を指す。完全競争の下で各企業に価格設定力がないとき、限界費用と販売価格は一致してマークアップ率は1となるが、例えば製品の差別化や生産性の向上などを通じて限界費用対比で他の企業よりも有利な価格設定が可能となる場合、マークアップ率は1を上回る。このように、マークアップ率には企業の生産性や製品市場における価格支配力が反映されている。

マークアップ率を推計するには、企業の最適化行動をベースに限界費用を計測する必要がある。これまで様々な先行研究が行われてきたが、代表的な手法としては、投入と産出量の関係(生産関数)からマークアップ率を計測するものが挙げられ、Hall (1988)Basu and Femald (2002)では、マクロや産業レベルのマークアップ率を計測した。さらに近年では、プラットフォーマーなど巨大企業の台頭とその市場支配力が注目される中で、個別企業間の異質性に注目した研究も広く行われている。その嚆矢となったDe Loecker and Warzynski (2012)では、企業が固有の生産関数を前提として生産に必要な費用を最小化する行動をとったとき、マークアップ率が生産関数における可変的生産要素の弾力性の関係から、企業の売上高や中間投入などの財務データを用いて導出可能となることを利用して、個別企業のマークアップ率を計測しており、同手法はその後、多くの先行研究で採用されている。

本稿では、こうした先行研究の手法を参考に、「経済産業省企業活動基本調査」34の調査票情報を活用して、我が国企業のマークアップ率を推計した35。同調査は、公的統計としてパネルデータを利用できることに加え、企業の財務データのみならず、各種の投資への取組や輸出入の状況など調査項目が豊富であるため、マークアップ率と企業行動との相関などについて包括的な分析を行うことが可能である。以下、その結果を基に考察していく。

長期的にみて、我が国企業のマークアップ率に大きな変化はみられない

我が国企業のマークアップ率の推移について、企業全体としての動向をみると、2001年度以降の20年間で、水準は僅かに低下したもののならしてみれば安定的に推移している(第3-2-1図)。我が国では、多くの先行研究で示されている米国や欧州でみられるようなマークアップ率の上昇は生じておらず、長期的にみてマークアップ率に大きな変化はみられない。こうした結果は、我が国企業のマークアップ率を推計したNakamura and Ohashi (2019)や、世界の上場企業データを基に1980年以降の各国のマークアップ率を推計したDiez et al. (2018)De Loecker and Eeckhout (2021)における我が国の2000年以降のマークアップ率の動きともおおむね整合的である36

次に、企業ごとのマークアップ率の分布について、2001年度からと2016年度からの5年間の平均値で比較すると、いずれの期間でも分布の山は1.0倍の近傍に集中しており、その割合が2016年度からの5年間ではわずかに高まっているものの、全体的にみれば分布の構造にも大きな変化はみられない(第3-2-2図)。

業種別にみると、非製造業に比べて製造業のマークアップ率の水準が高く、企業ごとの分布をみても、非製造業では1.0倍近傍に集中的に企業が分布しているのに対し、製造業ではそれよりも右側に厚く分布している。これは、製造業では輸送機械や一般機械などの加工業種で製品差別化によって高い付加価値を生み出す企業が多いことや、Hosono et al. (2022)が対外直接投資による海外生産の拡大が製造業の親会社のマークアップ率を上昇させることを示しているように、アジアを中心とした生産工程の分業化によってコストの低下が図られていることなどが背景にあるものと考えられる。一方で、製造業の分布をみると、2000年代前半から2010年代後半にかけて、マークアップ率が1.2倍以上である企業の割合が低下し、1.0倍から1.2倍までの割合が高まっており、製造業の中では、グローバル化の進展なども背景に競争環境が厳しくなってきた様子もうかがえる。

より詳細に業種別の動きをみると、製造業では、加工業種に比べ、素材業種においてマークアップ率の変動幅が大きい37第3-2-3図)。素材業種では中間投入に占める輸入品の割合が高い38など、相対的に原材料価格の変化による影響を大きく受ける構造であること等が影響していると考えられる。非製造業のうち、電気・ガスでは、2000年代の原油価格上昇を受けた発電コストの増加等も背景に、マークアップ率が大きく低下している。また、卸売・小売のマークアップ率は、非製造業の中でも相対的に低い水準であり、また、推計期間を通じた変化もほとんどみられない。

マークアップ率の短期的な変化には、原材料価格の影響

このように、マークアップ率は長期的には大きな変化がみられない一方で、短期的には一定程度の変動を示している。時系列での動きを詳しくみることで、その背景を探ってみよう。

まず、2001年度から2008年度にかけてマークアップ率は低下しているが、この間は、原油等の原材料価格が上昇して企業の中間投入コストが趨勢的に増加していた時期である。日本銀行「全国企業短期経済観測調査」で仕入価格と販売価格の判断DIをみると、両者ともに上昇していたが、そのペースは仕入価格に比して販売価格で緩やかなものにとどまり、両者の差である疑似交易条件は悪化した。これは、企業がコスト増加分を製品価格に十分に転嫁できなかったことを示している。企業の売上高と中間投入の動きもこれと同様であり、売上高は、増加はしていたものの中間投入に比べてそのペースは緩やかなものにとどまり、その結果、マークアップ率が低下した(第3-2-4図)。

その後、2008年後半に原油価格が急速に下落したことを受けて、2009年度にはマークアップ率も上昇に転じており、2011年度に再び原油価格の上昇等を受けて一時的に低下がみられたが、以降は緩やかながらも上昇傾向で推移している。こうした動きは、2010年代を通じて、仕入価格判断DIが変動をもちつつもならしてみれば横ばいで推移する中、販売価格判断DIが緩やかに上昇し、疑似交易条件が改善傾向であったこととも整合的である。

このように、我が国企業のマークアップ率は、短期的には原油等の輸入財価格の影響を大きく受けてきたと考えられる。原材料価格の変化に対して製品価格を柔軟に変化できればマークアップ率は一定の水準で保たれることになるが、我が国企業では、価格転嫁に課題が残る中で、原材料価格上昇による生産コストの増加に対してマークアップ率を低下させることで対応してきた様子がうかがえる。

欧米と異なり、マークアップ上位・下位企業の格差拡大はみられない

次に、マークアップ率の上位企業と下位企業の動向を確認する。De Loecker et al. (2020)Kouvavas et al. (2021)などの先行研究では、米国や欧州では2010年代以降マークアップ率に一段と上昇傾向が強まっていること、その背景には一部の価格支配力の強い企業のマークアップ率が著しく上昇してきたことが示されている39。欧米諸国との対比の観点で、我が国企業の状況を確認しよう。

我が国におけるマークアップ率の上位10%と下位10%の企業の動向をみると、先述の全体平均値と同じ傾向であるが、いずれも推計期間を通じて僅かに水準を切り下げつつも、総じてみれば安定的に推移している。また、2001年度からと2016年度からのそれぞれ5年間のマークアップ率の平均を比べると、下位10%企業では0.96倍から0.94倍へ約2%低下し、上位10%企業では1.37倍から1.31倍へ約4%低下しており、両者の差は大きくは変化していないものの僅かに縮小している(第3-2-5図)。

このように、我が国では「スーパースター企業」と呼ばれるようなグローバル市場における価格支配力の強い企業が少ないことから、欧米でみられるような一部の企業とそれ以外とのマークアップ率の格差の拡大は生じていない。

長期間続いたデフレの下で醸成された人々や企業の意識・慣行による影響

このように、欧米企業と異なり、我が国企業全体としてのマークアップ率は、分析の対象とした過去20年間にわたって大きな変化はみられず、また、相対的にマークアップ率が高い企業と低い企業との間の格差も拡大していない。こうしたマークアップ率の動向は、物価の動向にも含意があるものと考えられる。すなわち、長期間続いたデフレと低成長の下で、企業はコスト上昇局面においても販売価格を引き上げることができず、そうした企業の価格設定行動が物価上昇を長らく低く抑えることにつながってきた可能性がある40

渡辺 (2022)は、諸外国と比べ、我が国では価格変化が0%である品目の割合が顕著に高いなど企業の「価格据え置き慣行」が1990年代後半以降続いていること、その背景には趨勢的な物価上昇率の低さと、そうした状況が続く中で消費者の値上げに対する許容度が他の先進国と比べて著しく低いことを指摘している。同様に、Aoki et al. (2019)も、消費者が販売価格の動きをみて支出先を変化させる傾向が強い下では、企業は製品価格を上昇させると競争他社に顧客を奪われ売上減少幅が大きくなることを予測するため、価格の引上げに躊躇しやすいことを指摘している。我が国では、物価が上昇しない環境が長期間にわたって継続する中、各企業にとっては価格を引き上げない行動を採用することが最適行動となっていた可能性が示唆される。

一方で、足下では、我が国でも世界的な原材料価格の上昇等を受けて40年ぶりとなる物価上昇を経験する中で、消費者意識や企業の価格設定行動に変化もみられる。第1章や内閣府 (2023)41でも述べたとおり、2022年以降は企業の価格転嫁が徐々に進展する中で物価上昇品目には広がりがみられており、また、消費者の予想物価上昇率も高い水準で推移している。こうした動きについて、渡辺 (2023)は、5か国の消費者向けアンケート調査の結果を用いて、我が国消費者の値上げ許容度や物価上昇を予測する割合が2022年に入ってから他の先進国と遜色ない水準になっていることを示している。また、日本銀行「全国企業短期経済観測調査」の調査票情報を用いた分析を行った池田ほか (2022)は、過去にほとんど販売価格を変化させることがなかった「販売価格判断の変更に慎重な企業」42においても、今次の局面では販売価格判断DIが顕著に上昇していることを示している。

また、こうした物価面での変化に加えて、人手不足による労働需給のひっ迫等も背景に、2023年の春闘では30年ぶりとなる賃上げ率が示されている。こうした物価・賃金を取り巻く状況が、長期間続いたデフレの下で醸成された人々や企業の慣行的な行動を変革するきっかけとなれば、我が国企業のマークアップ率が諸外国に比べて低位かつ長期にわたり安定的に推移してきた状況にも変化が生じ得ると考えられる。

2 マークアップ率と企業行動

マークアップ率が高い企業ほど利益率が高い

ここまで我が国企業のマークアップ率の動向をみてきたが、本項ではミクロ分析の観点から、企業のどのような取組がマークアップ率に影響を及ぼしているかについて考察する。

まず、マークアップ率と企業利益との関係を確認してみよう。冒頭で述べたとおり、マークアップ率は単位当たりの生産にかかる限界費用に対する販売価格比率であるため、企業利益とは密接な関係がある。実際、企業の営業利益率及び経常利益率43をマークアップ率の五分位階級別にみると、マークアップ率が高くなるほど利益率が高くなっている。特に、第V分位(上位20%:マークアップ率の平均は1.29倍)の企業の利益率は、第I分位(下位20%:同0.95倍)の企業に比して営業利益で7倍超、経常利益で6倍弱であるなど、両者には大きな差がある。企業の稼ぐ力を高めていくという観点からも、マークアップ率の確保又は向上が重要であることが示唆される。(第3-2-6図)。

研究開発や人的資本など、無形資産への投資はマークアップ率とプラスの関係性

企業がマークアップ率を高めるためには、単にコストを適切に販売価格に転嫁することのみならず、競争他社に比べた製品の差別化・付加価値の向上やコストを抑えるための生産効率化などの取組が重要である。こうした取組には様々なものが考えられるが、以下では研究開発やソフトウェア、従業員の能力開発、広告宣伝などを通じたブランド化といった無形資産への投資に着目し、それらの取組とマークアップ率との関係をみていく。

マークアップ率の五分位階級別に各種無形資産への投資状況をみると、マークアップ分位が上位の企業では下位の企業に比べていずれの指標でも高い数値を示している(第3-2-7図)。それぞれについて詳しくみていくと、売上高に比した研究開発費比率はマークアップ分位が上位にいくにつれて高まっており、マークアップ率が高い企業は自社の製品を差別化して付加価値を高めるべく、研究開発投資を積極的に行っていることを示唆している。従業員一人当たりのソフトウェア資産についても、第III分位から第V分位までの企業間では大きな差はないが、これらの分位と第I分位とを比べると明確な差があり、マークアップ率の高い企業の方がデータを活用した生産プロセスの効率化や最適化に資するソフトウェアの資本装備率が高いことを示している。また、人への投資である従業員に対する研修費用などの能力開発費もマークアップ分位が上位にいくにつれて高まっており、人的資本の蓄積に対する取組度合いの違いが表れている。ブランド資産の構築に資する広告宣伝費についても、第V分位の数値が極めて高いといった違いはあるものの同様の傾向である。

このように、各種無形資産への投資とマークアップ率には一定の関係がある可能性がうかがえる。一方で、上記の結果には業種や売上げのシェア、年ごとの変動など様々な要因も影響していると考えられるため、それらをコントロールした上で、研究開発、ソフトウェア、人的資本、ブランド資産への投資(ストックの増加)がマークアップ率にどの程度影響を与えるのかを分析した44。結果をみると、いずれの投資も統計的に有意にマークアップ率に対してプラスの関係を有していることが確認できる(第3-2-8図)。業種別にみると、総じてマークアップ率が低い非製造業において係数が高くなっており、今後の取組によってマークアップ率を高める余地が大きいことがうかがえる45。投資の類型別には、いずれの投資もマークアップ率に対してプラスの関係を有しているが、研究開発は特に非製造業において係数が高い。

このように、各種の無形資産への投資は、製品差別化や生産効率化、付加価値の向上につながることでマークアップ率の向上につながるものと考えられる。科学技術・イノベーションやDXなど、政府が大胆な投資を喚起すべき重点分野と位置付けている各種の投資や、リ・スキリングなどをはじめとする人への投資は、そうした取組の結果として、企業のマークアップ率を向上させ、稼ぐ力を高めることにもつながると考えられる。

輸出の実施など企業の海外展開もマークアップ率とプラスの関係

次に、輸出とマークアップ率の関係性をみていく。両者の関係性については、Kato (2014)が我が国の製造業企業の輸出の有無と生産性及びマークアップ率の関係性を分析した結果、輸出が生産性とマークアップ率の上昇にプレミアムを与えていることを示している。こうした先行研究の結果も踏まえ、製造業のマークアップ率を輸出の有無別にみると、2001年度以降、輸出企業の方が非輸出企業に比べて高いマークアップ率を有していることが確認できる(第3-2-9図(1))。

ここで、無形資産への投資と同様に、業種や売上シェア等をコントロールした上で輸出の有無とマークアップ率との関係を分析すると、輸出の実施は製造業・非製造業ともに統計的に有意にマークアップ率に対してプラスの関係を有することが確認できる。輸出の実施が生産性の向上につながっている可能性があるほか、国内市場では企業の価格据置き行動が根付く一方、相対的に高いインフレ率の下で海外市場ではマークアップ率を確保しやすい環境にあった可能性などが考えられる。内閣府 (2023)では、2010年代以降、企業が輸出財の高付加価値化によって市場支配力を高め、その結果、我が国輸出金額増加の主因が数量要因から価格要因へと変化してきたことを示しているが、輸出実施によるマークアップ率へのプレミアムはそうした企業行動とも関係があるものと考えられる。

また、海外展開という観点から、海外関係会社への投融資残高の有無とマークアップ率との関係をみてみると、輸出と同様の結果が確認できる(第3-2-9図(2))。我が国では、アジアを中心としたグローバル・バリューチェーンが構築されており、各国・地域が各々の特性を活かした生産工程に特化し、生産物を中間財として輸出入することで国際的な付加価値ネットワークが形成されているが、こうした中で、海外子会社への投融資はコストの低下による生産効率化を通じてマークアップ率にも影響しているものと考えられる。また、海外関係会社を通じた現地ニーズの把握などのマーケティングの成果が販売価格にもつながっている可能性も考えられる。

このように、輸出の実施などをはじめとする企業の海外展開は、生産効率や付加価値の向上を通じてマークアップ率を押し上げる効果を有するものと考えられる。政府が実施する「新規輸出1万者支援プログラム」といった新規輸出の促進策は、いまだ輸出を実施していない企業の売上げや販路の拡大といった観点だけではなく、マークアップ率の向上という面からも効果を期待できるものと考えられる。

企業の前向きな設備投資の拡大には、一定程度のマークアップ率の確保が重要

ここまで、無形資産への投資や輸出の有無などがマークアップ率にどの程度影響を与えるかをみてきたが、以下ではマークアップ率が企業の設備投資や賃金などに与える影響について考察する。

マークアップ率と設備投資については、Diez et al. (2018)が米国企業についての分析結果として、資本ストックに対する設備投資の比率(以下、「I/K比率」)がマークアップ率に対して逆U字(上に凸)の関係にあることを示している。すなわち、マークアップ率が一定程度の水準に達するまでは、マークアップ率の上昇とともにI/K比率も上昇するが、マークアップ率が一定以上になると、逆にI/K比率は低下する。この関係性は、第一に、I/K比率を高めるためには一定程度のマークアップ率の確保が前提であること、第二に、マークアップ率が一定の水準を超えて他社との競争上の優位性が高まりすぎると、追加投資から得られるレントが低下して設備投資へのインセンティブが失われることを示唆している。後者の点からは、市場における適切な競争性の確保もまた重要であることがうかがえる。

本稿では、Diez et al. (2018)の分析手法を参考に、我が国企業のマークアップ率とI/K比率の関係について推計を行った46。結果をみると、我が国企業についても、I/K比率はマークアップ率に対して上に凸の関係性であることが確認できる(第3-2-10図)。全産業ベースの平均でみると、マークアップ率が1.5倍程度となるまではマークアップ率の上昇とともにI/K比率も上昇し、マークアップ率がそれ以上に上昇した場合、I/K比率は横ばいに近いながらも緩やかに低下している47

ここで我が国企業のマークアップ率の分布を改めて整理すると、先述したとおり、我が国企業のマークアップ率は1.0倍の近傍に集中しており、1.5倍以上のマークアップ率を有する企業は全体の4%にも満たない48。このため、本推計結果は、我が国企業にはマークアップ率の向上とともに設備投資が拡大する余地が十分に残されていることを示唆している。

第1章や内閣府 (2023)でも指摘しているように、キャッシュフローに比した設備投資の比率が10年以上過去最低の水準で推移するなど、我が国企業の投資姿勢は長きにわたって慎重であり続けてきた。その背景には、物価上昇率が低い状況が続く下での実質金利の高止まりや、低成長の下で十分に収益性の見込める投資機会を見出せなかったこと等、様々な要因が考えられるが、今回の推計結果は、企業が価格設定力を失い、マークアップ率が上昇することなく低位で安定してきたこともその一つであることを示唆している。設備投資の拡大という観点からも、適切な価格転嫁をはじめとしたマークアップ率の確保とその向上に向けた取組が重要である。

マークアップ率の上昇は生産性対比でみた賃金水準とプラスの関係

最後に、賃金とマークアップ率の関係をみてみよう。我が国経済にとって長年にわたって解決すべき課題であり続けているデフレ脱却を確実なものとし、物価と賃金の持続的で安定的な上昇を目指していくためには、マークアップ率の確保と賃金上昇が密接に結びつくことが重要である。

両者の関係性については、青木ほか (2023)が個別企業の財務ビッグデータを活用した分析を行っており、賃金に対する労働の限界生産物収入の比率である「賃金マークダウン」が製品価格のマークアップ率と水準・変化双方で負の相関関係にあることを示している。すなわち、製品市場において価格支配力が弱くマークアップ率が低い企業ほど、生産性対比でみた賃金を抑制する傾向がある。Mertens (2022)は、こうした関係性について、マークアップ率が高い企業では得られた利潤を従業員とシェアする特徴があるというレント・シェアリングの理論と整合的であることを指摘しているが、そうした特徴は我が国企業にも当てはまる可能性がある。

本稿でも、こうした先行研究を参考に、マークアップ率と生産性対比での賃金との関係性について推計を行った49。我が国企業の生産性対比でみた賃金の水準をマークアップ率の五分位階級別にみると、マークアップ分位が上位にいくほど賃金が高くなっており、先行研究による分析結果とも整合的な結果となっている50第3-2-11図(1))。第I分位の企業では生産性対比の賃金が他の分位に比べて特に低いが、これは価格設定力の低さを賃金抑制によってカバーして収益性を確保していることを意味している。

また、企業規模等をコントロールした上で、マークアップ率の上昇と生産性比での賃金水準との関係性についても分析を行った。その結果、業種にかかわらず、マークアップ率の上昇は生産性比での賃金水準に対してプラスの関係を有していることが確認できる(第3-2-11図(2))。

こうした結果を踏まえると、政府が目標とするデフレ脱却と「賃金と物価の好循環」を実現する上では、マークアップ率の向上が重要であることがうかがえる。このため、政府としては、企業が原材料価格等のコストや賃金の上昇に対する適切な価格転嫁を行うことができるような環境整備等に万全を尽くすとともに、製品の差別化や生産効率の向上を通じた付加価値又は生産性の向上を促進すべく、無形資産への投資や輸出の拡大等を後押ししていくことが重要であると考えられる。


(34)従業者50人以上かつ資本金又は出資金3,000万円以上の会社(単体ベース)が対象。
(35)推計式など詳細は付注3-4を参照。なお、マークアップ率の推計において重要となるのは生産関数を正確に推計することであり、特に外部から観察できない個別企業の生産性の影響をどのように織り込むかについては、先行研究においていくつかの手法が提案されている。我が国企業のマークアップ率を計測したNakamura and Ohashi(2019)では、Levinsohn and Petrin(2003)において提唱された、生産性の代理変数として中間投入を用いる手法が利用されており、本稿でも同様の手法にて推計を行っている。
(36)青木ほか(2023)は、我が国企業のマークアップ率が低下傾向にあることを示しているが、本稿の推計結果との違いをもたらしている要因の一つには、推計の対象とする企業のカバレッジがあると考えられる。具体的には、先述のとおり、本稿が従業者50名以上かつ資本金又は出資金3,000万円以上の企業が対象である「経済産業省企業活動基本調査」を基にしているのに対し、青木ほか(2023)では信用保証協会や金融機関等から収集した財務情報を集約したデータベースである「Credit Risk Database」などを用いて、より規模の小さい企業まで含めた推計を行っている。
(37)日本銀行「全国企業短期経済観測調査」の定義に基づき分類。素材業種は、繊維、木材・木製品、紙・パルプ、化学、石油・石炭製品、窯業・土石製品、鉄鋼、非鉄金属。加工業種は、食料品、金属製品、一般機械、電気機械、輸送用機械、精密機械、その他製造業。
(38)経済産業省ほか(2023)によると、2015年産業連関表に基づく中間投入額に占める輸入品の割合は、加工業種では15.2%であるのに対し、素材業種では27.9%。
(39)例えば、De Loecker et al. (2020)の推計結果をみると、米国企業の平均マークアップ率は、2000年から2010年までは1.4半ば程度で安定的に推移していたが、その後は急速に上昇し、推計期間の最終年である2016年には1.6を上回っている。その間、マークアップ率の中央値には大きな変化がみられない一方、90パーセンタイル値では顕著に上昇しており、平均マークアップ率の上昇の大半は、一部の企業によってもたらされたことが指摘されている。
(40)齋藤ほか(2012)は、1990年代半ばから2000年代半ばにかけて、マークアップ率がインフレ率を年率で▲1%程度押し下げてきたとの分析結果を示している(動学的一般均衡モデルを用いた分析)。また、個別企業の財務データベースを複数組み合わせてマークアップ率を推計した青木ほか(2023)は、マークアップ率の推計値をインフレ率に換算すると15年間の累積で▲25%程度となっていることを示している。
(41)内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2023)
(42)1991年から2019年までの約95%以上の期間において、販売価格判断を「もちあい」と回答した先であり、これらの企業では、過去の原材料コスト上昇局面でも販売価格判断DIにはほとんど変化がみられなかった。
(43)営業利益は、売上高から売上原価と販売管理費を除いたものであり、企業の本業の事業における利益を示す。経常利益は、営業利益に本業以外で得た営業外の収益を加え、営業外費用を除いたものであり、企業が通常の事業活動によって得た利益を示す。それぞれの利益を売上高との対比でみたものを営業利益率、経常利益率という。
(44)推計式など詳細は付注3-5を参照。
(45)業種別にみた場合には、製造業と非製造業とで、マークアップ率の違いや投資の実施度合いの違いによる影響が表れている可能性があることに留意。
(46)推計式など詳細は付注3-6を参照。
(47)Diez et al. (2018)による米国企業の分析結果と比べると、設備投資比率とマークアップ率との逆U字の関係性がそれほど明確ではないが、これは我が国には米国のように極端にマークアップ率の高い企業が存在しないこと等に起因するものと考えられる。
(48)米国企業では、De Loecker et al. (2020)の推計結果によれば、75パーセンタイル値のマークアップ率が1.5を上回っている。こうした結果と比較すると、我が国では高いマークアップ率を有する企業が少ないことが明らかである。
(49)推計式など詳細は付注3-7を参照。
(50)青木ほか(2023)では「賃金マークダウン」として賃金に対する労働の限界生産物収入の比をとっている(値が高いほど生産性対比でみた賃金が抑制されていることを意味する)が、本稿では賃金水準が生産性対比でどの程度かに焦点を当てるため、その逆数をとっている。
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