第3章 人的資本とイノベーション 第4節

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第4節 まとめ

本章では、人的資本の質向上をいかに図るかという問題意識から、起業家と自営業者、企業における高度人材のマネジメント、労働市場の機能とイノベーションシステムとの関係について分析した。要点をまとめると以下のようになる。

(起業の低調さの背景には経済構造に根差した部分も)

我が国では起業家が少ないといわれるが、実際、国際比較可能なデータからも、そのことが確認できる。政府はこれまで開業手続きの簡素化など様々な対応を進めてきたが、それにもかかわらず依然として起業は低水準である。その背景として、起業に必要なスキルの不足など対応策が明確なものもあるが、労働市場の流動性の低さ、ベンチャーキャピタルの利用可能性、さらには起業機会の認識といった経済構造に根差した要因も指摘できる。こうした構造的要因に手をつけず開業のハードルだけを下げると、事業の「質」が低下する懸念があることに注意が必要である。

我が国の開業率は2000年代に入って一進一退となっているが、廃業率が開業率を上回っているのが近年の特徴である。人口動態が変化するなかで開業者の高齢化が懸念されるが、現状ではそうした高齢化がそれほど進んでいるわけではない。また、高齢者の場合、製造業などでの開業が相対的に多く、新規性、ベンチャー性が意外に高く、むしろイノベーションの芽として期待される面もある。これは他方では、企業が人材を抱え込み、高齢になるまで独自のアイデアを活かす機会が得られない状況を反映した面もある。

開業事業所の4割弱は自営業であり、その経営環境の安定が重要である。しかし、我が国の自営業率は、他の主要先進国と比べても急速に低下している。高齢化は自営業率の押上げに働くが、各年齢での雇用者ヘのシフトがそれ以上に進んでいる。一般に、自営業者か雇用者かの選択は、両者の相対的なメリットが影響する。例えば、各国の雇用保護の強さなど構造的な要因も重要である。また、我が国のデータからは、雇用者として高賃金が得られる地域では自営業者が選択されにくいことが分かる。

なお、起業予備軍を含む副業者の実態についても概観した。農業を除くと副業実施者は減っていない。副業は所得補てん目的が一般的であるが、将来の独立のために副業をしている者は、年齢が若く、本業、副業とも労働時間が長めで、生産性も高い。他方で、製造業や情報通信を中心に、独立希望がありながら副業ができていない者も少なくない。

(終身雇用を維持する企業でも高度人材確保へ向けた動き)

企業内でのイノベーションをけん引する人材として、専門性の高い人材と経営幹部の候補となるコア人材の二つが挙げられる(両者は重なる部分もある)。しかし、専門性を限定した採用やコア社員の早期選抜はそれほど普及しておらず、特に大企業ではその傾向が強い。他方、入社後の教育になると、専門性重視や一部社員の選抜がある程度は進んでいる。こうした取組のうち、専門性を重視した採用や教育、コア人材を選抜した教育は、どちらかというと終身雇用慣行となじみにくい。ただし、専門性重視は新卒者の定着率向上に有効であるという側面もある。また、終身雇用を維持している企業で、今後、選抜教育を積極化させる意向が強い点が注目される。

高い専門性が求められる分野の典型が研究開発であるが、中小企業を中心に人材の確保がボトルネックとなっている。実際、2000年代において、規模の小さい企業では、中堅層での賃金カーブがフラット化するとともに、研究者が定着しないという問題を抱えている。一方、供給側では、大学院修士課程(工学系)への進学率が高まっており、卒業者の就職率も比較的安定している。博士課程への進学率は低下しているが、研究開発費比率の高い企業ではニーズが強い。知的集約型の企業で専門性を重視した採用方針へと転換しつつあることが示唆される。

人材面でのボトルネックが指摘される、もう一つの分野が、グローバル化への対応である。これには、既存社員の教育と外国人の登用が考えられる。実際、海外進出に積極的な企業では、教育訓練予算を増加した企業の割合が高い。また、現状では少数だが、近い将来の課題として外国人幹部の確保を挙げる海外進出企業は少なくない。我が国企業では、外国人幹部の場合も、まず候補者として採用し、内部昇進で登用する方針が主流である。その点からも、日本の大学院を卒業した外国人は、重要な人材供給源であるといえよう。

(特定国のモデルの模倣ではないイノベーションシステムの進化が必要)

起業家や自営業、企業内の高度人材を巡る課題を検討したが、労働者一般の有効な活用が図られることも重要である。近年では、高齢化や非正規化などを背景に労働市場にかかる負荷が高まっている。そうしたなかで、景気悪化を経て長期失業者が増えており、中高年を中心にスキルの毀損が懸念される。一般に、労働市場の流動性が低い国では失業に占める長期失業の比率は高く、積極的労働政策などによる対応が必要となる。また、税・社会保障負担や最低賃金の在り方は労働市場と密接な関係があり、その設定に当たっては雇用への影響に注意が必要である。

最後に、先進各国のイノベーションシステムの特徴を、労働市場を含む要素供給の仕組みとの関係に注目しつつ分類した。その結果、「市場の柔軟性」と「大企業の主導性」が分類軸として浮かび上がった。我が国は、市場の柔軟性がやや乏しく、大企業の主導性が強めであり、大陸欧州諸国と同じグループに属する。しかし、少なくとも2000年代については、生産性上昇率において「北欧型」や「アメリカ型」が優れ、「日本・大陸欧州型」が劣るという単純な図式は描けない。イノベーションのさらなる追求のためには、特定国のモデルの模倣は意味がなく、現行システムを独自に進化させる必要がある。

研究開発については、高い投資水準の維持と効率性改善が課題である。教育水準の低下を防ぎ、直接金融のルートや自己資金が確保されている限り、投資水準の維持は可能である。起業の促進には柔軟な労働市場が必要となるが、企業によるコア人材の抱え込みが続く可能性もある。そこで、補完的ルートとして、M&Aの活性化で起業の低調さを補い、組織内の人的資本を大きく毀損せずに資源の円滑な再配分を実現することが考えられる。起業に加えもう一つの鍵が対内直接投資の拡大であるが、FTA等の締結による効果を含め、留学生の採用を含めた外国の高度人材の活用が課題となろう。

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