第1章 物価安定下の世界経済 |
第3節 物価安定下の金融政策
2.主要国の金融政策の特徴
(2)期待形成に働きかける金融政策運営の重要性
● なぜ期待に働きかけることが重要なのか
市場金利は、市場の期待形成の変化から大きな影響を受ける。一方で、中央銀行が調節できるのは政策金利である短期金利であり、経済主体の消費や投資行動、さらには物価に及ぼす影響の大きい長期金利、株価や為替に対しては間接的な影響となる(25)。長期金利等の指標は、数か月から数年先の将来の政策金利の方向性に対する期待によって変動する。
したがって、将来の短期金利パスについての市場の期待形成に働きかけることが金融政策運営の上で重要となる。
● 金融政策運営の先行きについてのコミットメント
今、極端な例として、何らかの要因により、中央銀行が今期金利を引き上げ、その要因や来期以降の道筋について何も情報を提供しないとする。その場合、市場や国民は、引上げの背景がインフレ懸念なのか景気過熱なのか、あるいは今後再び金利を引き上げるのかそれとも据え置くのか、据え置いた後また引き上げるのか下げるのかなど、不確実性及び情報の非対称性のある中で個々に判断し、自らの期待及び最適化行動を修正していくことになる。しかし、実際には既にみたように中央銀行の透明性は向上し、政策決定の根拠等は公表されるようになっている。
ここで、さらに、中央銀行が現在のみならず将来の金融政策運営の道筋について十分コミットメント(約束)できれば、市場が個々に将来の予測を立てる必要性が低下し、市場の期待を中央銀行の目標値の近傍に安定的に保つことができるようになる。その結果、経済を安定化することができると考えられる。また中央銀行が市場の信認を維持し続けるためには、実際に公表した道筋に沿い政策を実施する必要がある。しかし、何ら制約を設けずに今期のみの金利について裁量的な決定を行う場合、国民が予期しないタイミングで金利を引き下げることにより、総需要を刺激し失業率を一時的に引き下げる、ということが可能となり、その場合、最適水準よりも高いインフレを招くという懸念(動学的非整合性の問題(26))を生じさせてしまう。最近の金融政策運営では、コミットメントをある程度意識したものとなっている。例えば、先にみたように、FRBは、最近の金利引上げ局面において、「金融緩和の慎重な取りやめ」「ある程度のさらなる引締め」といった表現を用いることにより、先行きの金利についての道筋を示している。ECBはそこまで明確でないものの、「金融政策は緩和的」「物価安定にかかるリスクは上向き」といった説明によりある程度の方向性を示している。BOEはインフレーション・ターゲティングを採用しており、コミットメントという点からは最も明確といえよう。
コラム:「新しいケインズ経済学」による最適金融政策分析について 期待に働きかける金融政策の重要性については、最近の「新しいケインズ経済学」に基づく最適金融政策のモデルにより理論的にも説明される。「新しいケインズ経済学」の特徴は、価格粘着性を仮定する点でケインズ経済学、あるいはIS―LM分析と共通しているが、ミクロ的基礎が定式化され、期待の役割が厳密に扱われている。 「新しいケインズ経済学」に基づく最適金融政策分析を考えるモデルでは、期待を考慮した総需要曲線(IS曲線)及び総供給曲線(フィリップス曲線)を仮定する。さらに、IS−LM分析では金融政策はマネーサプライを調節することによりLM曲線をシフトさせ短期金利を操作したのに対し、本モデルでは中央銀行は物価上昇率とGDPギャップの安定を政策目標とし、社会的損失関数の最小化を図る主体と仮定する。この場合、社会的損失関数は、物価上昇率の二乗とGDPギャップの二乗の加重平均に近似できるとされる(図1)。また、家計や企業は各々先行きの経済情勢を合理的に予想しつつ効用または利潤の最大化を図ると考えると、導出されるIS曲線、フィリップス曲線はともに将来のGDPギャップや期待インフレ率に依存して決まることになる。なお、合理的期待により、予想される財政・金融政策変更は経済主体の行動に影響を与えない。 このフレームの下では、中央銀行は短期金利を調節することによりIS曲線を左右にシフトさせ、社会的損失を最小化する(図2)。しかし、例えば、図2の状況下で仮に価格ショックが発生してフィリップス曲線が上方シフトした場合、インフレを抑制するために短期金利を調節しIS曲線をシフトさせればGDPギャップが犠牲となり損失の増大は避けられない。しかし、中央銀行が利上げと同時に将来の金利(引上げ維持)にもコミットし、市場の信認を得た場合は、期待インフレ率の低下を通じてフィリップス曲線のシフト幅をある程度相殺でき、損失の増大を軽減することが可能となる。 |
(3)インフレーション・ターゲティングについて
物価安定という目標を達成するためには、政策当局の信頼を確保することが何よりも重要である。そのための一つの方法として、金融政策に明示的なノミナル・アンカー(27)を設定し政策の透明性を高め、期待インフレ率を低下させるとともに、コミットメントを明確化することにより政策当局の裁量の余地を小さくする考え方がある。
90年代に、ニュージーランド(90年)、カナダ(91年)、英国(92年)、スウェーデン(93年)等で物価上昇率について目標範囲(または目標値)を明示的に設定するインフレーション・ターゲティングが採用された。その後増加・拡大し、現在ではOECD加盟国で12か国、非加盟国で8か国が採用するに至っている(28)。
なお、インフレーション・ターゲティングは、金融政策の枠組みの一つであるが、その定義については、学術的には依然複数の定義があるものの(29)、たとえばIMFでは以下をインフレーション・ターゲティングの二つの特徴として明示している(30)。
1) 中央銀行は、唯一の目標としてインフレの値あるいはその幅(レンジ)についてコミットし、それに向けて金融政策を執行する。インフレが唯一の目標ということで、物価安定が金融政策の最重要目標であることがよく理解でき、目標数値が政策当局の考え方を伝播する一助になる。
2) 中長期のインフレ予想が金融政策の目標値となる。このため、インフレーション・ターゲティングは「インフレ予測ターゲット」である。現在の物価や雇用契約、物価スライド制度により短期のインフレは事前にある程度決まっているため、金融政策は将来のインフレ期待にのみ影響を与えることができる。中央銀行は新しい情報に対応して政策変更を行うことにより、将来のインフレ期待に影響を与え、目標値に近づけようとすることで、結果的に現在の物価上昇率を目標値に近づけることができる。
● インフレーション・ターゲティングの利点
インフレーション・ターゲティングの政策的意義としては、透明性の向上、中央銀行の説明責任の明確化、インフレ期待のアンカーを提供し、それが実体経済にも良い影響を及ぼす、と指摘されている(31)。
また、キング総裁は、英国の経験を踏まえたインフレーション・ターゲティングの利点として、透明性の向上や説明責任、インフレ期待の調整がより容易になることのほかに、独立性のある中央銀行の政治的合法性(legitimacy)を確立するので、特に不人気な決定を行う場合に有用であるとしている(32)。
●各国におけるインフレーション・ターゲティング導入の経緯
現在、インフレーション・ターゲティングを採用している国も、90年代以前はインフレ抑制のためにマネーサプライや為替レートを中間目標とした金融政策を採用していた。しかし、実際にはこれらの中間目標と物価上昇率の間の関係が曖昧だったため市場の信認を得ることができず、目標の達成が困難となっていたことが物価上昇率を明示的なノミナル・アンカーとするインフレーション・ターゲティングの導入の背景となったと考えられる(33)。
また、途上国におけるインフレーション・ターゲティング導入の背景には、アジア通貨危機やロシア通貨危機を経た後、法的に制度的枠組みを設けることで中央銀行の独立性を保証し、金融政策への信認を高めようという意図があったと指摘されている(34)。
● FRBにおけるインフレーション・ターゲティング導入をめぐる議論
FOMCでは、これまで数次に渡りインフレーション・ターゲティングについて議論している。95年1月の会合では、ブローダス(リッチモンド連銀)総裁がインフレーション目標(オブジェクティブ)を明示的に提示する方が、むしろ短期的にはより政策変更の自由度が高まること等を理由に賛成の意見を唱えている(35)。一方で、イエレン理事が、複数年に及ぶインフレーション・ターゲットの導入には反対するとし、その理由としてFRBは物価と雇用双方の安定を図ることが重要であり、景気安定のために物価上昇率が多少望ましい水準を上回ることも政策の選択肢となり得ること、多くの中央銀行は、実態として物価だけでなく景気も重視しており、インフレーション・ターゲティングの導入により中央銀行の信認が高まるという保証はないこと、等を挙げている。
また、これらの議論を踏まえ、グリーンスパン議長(当時)は、インフレーション・ターゲティングは興味深い考え方であり、長期的な物価安定指標をアンカーとして持つことは重要とする一方で、多くの人が短期的なフィリップス曲線(物価上昇率と失業のトレードオフ)の存在を信じている中で、それを否定し、物価安定が長期的目標として極めて重要と発言することは誤解を招く、としている。
96年7月には、ターゲットを示すことで市場の過度な反応を警戒できるとの意見が出され、複数のFRB高官がコア消費者物価上昇率2%と発言した。05年2月にも議論され、「長期的な物価安定目標を数値化することはいくつかの利益をもたらす」との発言もあったものの、結論は保留とされた。なお、イエレン(サンフランシスコ連銀)総裁は、最近では、「長期的に望ましい物価上昇率を数値で示すことは市場との対話を深化させる上で有益」とする一方で、「インフレーション・ターゲティングは、長期の目標であり、雇用を軽視しているのではないことを明確にする必要」と発言している(36)。
●ECBにおけるインフレーション・ターゲティング導入をめぐる議論
ECBは議事録が公開されていないため、インフレーション・ターゲティングが議論されたか否かは必ずしも明らかではないが、イッシング専務理事は、ECBの金融政策運営について、(1)物価安定が第一目標であること、を明らかにした上で、(2)中央銀行が物価に影響を及ぼすことができるのは「長くかつ不確実なラグ」を伴うため、物価上昇率の短期的な舵取りをするのは期待過剰であり、政策運営に対し柔軟性を持たせていること、(3)金融政策を総合的な観点から判断するために、物価変動に関する短期的分析に加え、マネーサプライや資産市場に関する長期的分析も不可欠であることから、「2本の柱(物価上昇率とマネーサプライ)」戦略は重要な役割を担っている、としている(37)。
また、トリシェ総裁は、ECBの政策運営について、物価安定を数値で示してはいるものの、いわゆるインフレーション・ターゲティングとは一線を画す(かつFOMCとも異なる)、独自の金融政策枠組であると主張している。インフレーション・ターゲティングの問題点として、特に資産価格の高騰が全体の物価水準に影響を与えるような事態に対して対応しきれない可能性があることを指摘し、資産価格の変調を的確に把握するためにも、金融政策は流動性の動向を十分考慮した上でとられるべきであるとしている(38)。
●インフレーション・ターゲティング導入に当たっての留意点−諸外国の経験を踏まえて
FRBやECBでの議論を踏まえると、FRBでは、インフレーション・ターゲティングを導入した場合、法律で政策目的として規定されている雇用の最大化をどう整理すべきかが論点の一つとなっている。一方、ECBでは、資産価格が変動した場合に自由度が制限されることを懸念しているようである。
また、インフレーション・ターゲティングを有効に機能させるには、BOEの例でみたように、中央銀行の政策目標を政府(あるいは国民の代表である担当大臣等)の経済政策目的との整合性が保たれるように設定した上で、中央銀行が、自らの裁量の下政策目標を達成するインセンティブを常に持つような、国民から信認の得られる枠組みを設定することが重要である。
Goodfriend (2005)は、良い金融政策のために中央銀行が独立性を持つのは必要条件ではあるが、十分ではないと指摘し、その一因として、中央銀行には政治家、政府から様々な(金利引下げ)圧力があることを指摘している。解決策は、中央銀行の独立性に、枠組み−中央銀行が説明責任を負えるような明確な目標−を伴うようにすることであり、枠組みとしては、かつては、金本位制、最近では、固定為替レート、低インフレへのコミットメントあるいはインフレーション・ターゲットがあるとしている。
日本銀行でも、以前よりインフレーション・ターゲティングについて各種レポートが公表され、金融政策決定会合でも議論されている。また、06年3月には「中長期的な物価安定の理解」として望ましい物価上昇率の数値的水準(0〜2%)が示されたところである。ただし、日本にインフレーション・ターゲティングの議論を応用する場合に考えるべき点としては、ゼロ金利制約下で実質的に操作目標が期待管理しかないことに注意する必要があるとの議論があることには留意する必要があろう(39)。