第1章 世界経済の減速と金融政策の課題(第2節)
第2節 金融政策の動向と課題
第1節で確認したように、19年後半は、米中間の貿易摩擦等による不確実性の高まりを背景に、世界的な財貿易の縮小や生産・投資活動の停滞が生じ、世界経済が減速に至った時期であった。景気下振れリスクの増大と実際の経済活動の軟化は、世界的に金融政策を緩和方向へと向かわせた。10月以降は貿易摩擦の緩和に向けた動きもあり、景況感等の経済指標には一部改善の動きもみられるようになっている。
19年7月末、FRBが世界金融危機後の08年12月以来10年7か月ぶりに利下げを実施したことを皮切りに、先進国・新興国を問わず、多くの国において相次いで政策金利の引下げが行われた。10年代におけるG20諸国・地域の金融政策動向をみると、18年4月以降の利上げ局面から19年の利下げ局面への転換は、過去の世界経済の減速局面と比べても顕著であり、かつ利下げを実施した国・地域の数も多く、世界的に金融緩和の動きが広がった時期であったことが分かる(第1-2-1図)。
アメリカやユーロ圏については、世界金融危機や欧州債務危機を経て、政策金利の引下げ余地が少なくなっているほか、いわゆる量的緩和により中央銀行のバランスシートが大幅に拡大した状態が続く中で、緩和局面を迎えていることに留意が必要である。さらに、低金利・低インフレ率が継続するなど、経済構造にも変化があったとみられており1、こうした状況下における金融政策の手段や枠組みの在り方についての検討も進められている。中国では、世界金融危機後の景気対策を受けて積み上がった過剰債務の問題もあり、特に小規模・零細企業について資金調達環境の改善が求められている。また、経済規模の拡大に伴い、国際金融資本市場における存在感は増しているものの、金融市場が未だ十分に成熟しておらず、金融政策の波及経路が十分に確保されていないという問題も抱えている。
本節では、米国、ユーロ圏、中国における金融政策の最近の動きを振り返るとともに、現行の政策手段・枠組みを概観し、各中央銀行が抱える課題について議論する。
1.アメリカ
(1)最近の動き
(バランスシートの早期縮小停止)
FRBでは、17年10月以降、満期を迎えた保有債券の再投資額を徐々に削減する形でバランスシートの縮小を進めてきた。しかしながら、18年後半以降の米中貿易摩擦に関する緊張の高まりや、中国や欧州を始めとする世界経済の減速懸念が意識される中で、18年12月のFOMC会合において利上げが行われるとともに、会合後のパウエル議長の記者会見においてバランスシートの縮小ペースの変更について否定的な見解が示されたことは、金融市場に動揺を与える結果となった2。こうした状況を受けて、19年1月のFOMC会合では、政策金利であるFF金利(フェデラル・ファンド・レート)の誘導目標範囲を据え置く3一方、バランスシートの縮小ペース見直しへの言及がなされた。また、19年3月のFOMC会合で公表された「バランスシート正常化の原理と計画4」においては、19年5月以降、バランスシート削減の上限額を、米国債については月300億ドルから150億ドル、MBS等については月200億ドルから150億ドルへと変更するなど、縮小ペースの減速とともに、19年9月末に縮小を停止する方針が示された。さらに、その後の世界経済の状況変化を踏まえ、19年7月のFOMC会合において、08年12月以来10年7か月ぶりに利下げを実施するとともに、バランスシートの縮小停止時期を当初予定していた9月末から2か月前倒し、7月末へと変更した。一方、9月のFOMC会合では、会合後のパウエル議長の記者会見において、バランスシートの自然な拡大を当初の想定よりも早い時期に再開する可能性も言及された。
9月中旬に生じた短期金利の急騰(後述)を受けて、パウエル議長は、19年10月8日に開催された講演において「準備預金を供給する手段の恒久的な追加を公表する予定」である旨を表明、10月11日、FRBは短期国債(T-Bill)を購入する声明を公表した。ただし、当該資産購入は「適切な準備預金の維持」を目的とするものであり、「金融危機後に実施された大規模資産購入プログラムと混同されるべきではない」旨が強調された。購入対象も短期国債に限定するなど、長期金利の引下げを目的としたかつての長期国債の購入とは異なるもの、と位置づけられている。なお、パウエル議長は、短期国債の購入について20年第2四半期末まで継続し、準備預金が安定的に十分な水準に達した場合、短期国債購入を減額する方針を表明している5(第1-2-2図)。
(政策金利の引下げ)
FRBは、15年12月以来、FF金利の誘導目標範囲の引上げを行っており、18年も4回にわたり計1.00%ポイントの利上げを行った。19年1月以降6月まで、FF金利の誘導目標範囲を2.25%から2.50%で据え置いた後は、19年7月、9月、10月のFOMC会合において、それぞれ0.25%ポイントずつ3会合連続で引下げを行った。その後、19年12月、20年1月は据置きとしたことから、20年1月時点のFF金利の誘導目標は1.50%から1.75%の範囲となっている(第1-2-3図)。
FF金利の引下げが行われる一方で、金融政策に係る見通しやスタンスも変化している。19年6月のFOMC会合における参加者の政策金利見通しによると、19年中は据置き、20年は1回の利下げ回数が見込まれていた6。利下げを行った19年7月、9月のFOMC会合の声明文では、6月会合において指摘した「先行きの不確実性7」が「依然として存在している」とされ、6月会合に引き続き「成長を持続させるために適切に行動する(will act as appropriate)」との文言が盛り込まれた。19年7月及び9月会合で利下げが行われた結果、9月の政策金利見通しは20年中の政策金利据置きを示唆するものとなった。10月会合では利下げを行ったうえで、声明文では、7月及び9月において市場から利下げの示唆と捉えられていた「適切に行動する」との文言が削除され、代わりに「FF金利の誘導目標範囲の適切な道筋を見極める」との文言が追加されたことで、市場では利下げの休止の示唆と捉えられた。さらに、12月の会合では「先行きの不確実性が依然として存在する」との文言を削除するとともに現在の金融政策スタンスを「適切」と評価し、政策金利を据置きとした。また、同日公表された政策金利見通しも引き続き20年中の政策金利の据置きを示唆8、20年1月の会合でも政策金利は据え置かれた。
利下げに転じた19年7月のFOMC会合後の記者会見において、パウエル議長は、利下げの理由として、(1) 世界経済の減速と貿易政策の不確実性の高まりによる景気下振れリスクへの備え、(2) (1)の要因がアメリカ経済に与えている影響の相殺、(3) 物価上昇率目標である2%への早期の回帰の促進9、の3点を挙げている。同記者会見では、7月会合での利下げを「下振れリスクへの保険」と表現するとともに、「循環の半ばでの調整(mid-cycle adjustment)」とし、長期にわたる利下げサイクルの始まりではない旨が強調された。9月及び10月のFOMC会合後の記者会見では、良好な雇用・所得環境と消費者信頼感に支えられた消費の強さに言及した一方、製造業を中心とした企業投資と輸出の弱さを指摘し、7月に引き続き、利下げの理由を「米国経済を強く保ち、現在進行形のリスクに対する保険とするため」とした。なお、10月、12月及び20年1月のFOMC会合後の記者会見では、パウエル議長は、今後の金融政策運営に関して「経済見通しの再評価が必要な事象が起これば、我々は当然それに応じて対応する」と発言しており、状況次第では今後利下げを行う可能性は排除しない姿勢を示している。
(FOMC参加者の経済見通し)
後述するように、FRBには、雇用の最大化と物価の安定化という目標10が法定されている。雇用情勢は堅調であり、アメリカの雇用者数は増勢が鈍化しているものの増加が続き、失業率は歴史的低水準となっている。一方、物価情勢については、PCE総合及びPCEコアデフレーターがともに19年1月以降低下し、FRBが目標とする2%をやや下回って推移している(第1-2-4図)。
19年12月会合時点のFOMC参加者による経済見通しの中央値を確認すると、20年の実質経済成長率は2.0%と、長期見通しの1.9%を引き続き上回る成長となることが見込まれている。また、失業率は、20年から22年にかけて3.5%~3.7%と、長期の見通しの4.1%を大幅に下回って推移することが見込まれている。一方、PCE総合及びPCEコアデフレーターの見通しにおいては、それぞれ20年は1.9%、21年、22年は2.0%で推移するとされている(第1-2-5表)。
(短期金利の急騰と資金供給)
19年9月中旬以降、アメリカの短期金融市場において、金利が急騰する場面がしばしばみられ、16日にはFF金利が誘導目標範囲の上限を超える事態に至った。このため、ニューヨーク連邦準備銀行(以下、ニューヨーク連銀という。)は9月17日以降連日、短期金融市場への資金供給対応を緊急措置として行った11。しかしながら、その後も短期金利の上昇圧力が高止まりしていることを受け、FOMCは10月、20年第2四半期まで資金供給対応を継続することを決定した。
このような短期金利の急上昇の原因としては、法人税納税期限や入札国債の受渡日が重なったことによる銀行システム内の資金の減少といった一時的要因に加え、17年10月以降FRBが進めてきたバランスシートの縮小に伴う準備預金残高の減少のほか、規制強化に伴う金融機関における資金需要の高まり、世界金融危機以降に実施された量的緩和政策がもたらした銀行間貸借取引の減少等の構造的な要因も指摘されている。短期金融市場は、金融機関同士が資金を融通する場であり、中央銀行にとっては金融政策の効果を波及させる重要な政策波及経路としての役割を担っている。今回の市場の混乱を受け、FRBによる短期金利のコントロールの在り方についての議論も高まっている。
19年9月16日、ニューヨーク短期金融市場において、銀行間の資金需給がひっ迫したことで、レポ金利(金融機関が国債等を担保に短期資金を貸借する金利)に加え、FRBの操作目標金利でもあるFF金利(銀行間貸借市場における無担保翌日物の金利)といった短期金利が急騰した(第1-2-6図)。FF金利は、8月中は2.1%台で推移していたが、9月16日に当時の誘導目標範囲の上限である2.25%12を超える取引が相次ぎ、翌17日には5%前後の取引も発生した。また、レポ市場においては、翌日物レポ金利は9月の前半まで2%台前半で推移していたが、16日に2.7%まで上昇し、一部のレポ取引では17日に10%を超える水準に達した。これを受け、17日、ニューヨーク連銀はFF金利を誘導目標範囲内に収めるための一時的かつ技術的な調整として、レポ取引による約532億ドルの資金供給を実施し、レポ市場を起点とした短期金利急騰の抑制を図った13。
その直後に開催された9月17、18日のFOMC会合では、FF金利の誘導目標範囲を0.25%引き下げ1.75~2.00%とするとともに、超過準備付利金利及びリバースレポ・オペ金利14について、FF金利の誘導目標範囲の引下げ幅よりも大きい0.3%の引下げを行って1.7%とした。これは、FF金利の上限との差を拡大させて、金利上昇圧力の抑制を図る措置であった。しかしながら、その後も短期金利の上昇圧力は収まらなかったことから、ニューヨーク連銀は積極的な資金供給を実施した15。さらに、19年10月11日にはFRBが声明を公表し、レポ取引を通じた資金供給を20年1月まで継続するとともに、20年第2四半期まで短期国債を購入することで、市中銀行の準備預金残高を最低でも9月上旬の水準(約1.5兆ドル)に保つことを表明した16。19年12月のFOMC会合では、レポ取引を通じた資金供給を20年1月半ばから減額する可能性が示されたが、20年1月14日、ニューヨーク連銀は翌日物による1,200億ドルの資金供給を連日、ターム物(2週間物)による300~350億ドルの資金供給を週に2回程度、2月13日まで実施する方針を示した。
こうした一連の対応を経て、20年1月のFOMC会合後の記者会見においてパウエル議長は、短期国債の購入については、20年第2四半期中に準備預金が安定的に十分な水準に近づいた場合には、購入額を減額する方針を示したほか、レポ取引による資金供給についても、20年4月まで継続するとしつつ、徐々に規模を縮小する方針を示した。同会合においてはまた、FF金利の上限との差を拡大させていた超過準備付利金利及びリバースレポ・オペ金利を0.05%ポイント引き上げ、政策金利上限との差を9月以前と同じ水準17に戻すことが決定された(第1-2-7表)。
短期金利が急騰した背景については様々な議論がある18が、多く指摘されているのは、短期金融市場における一時的な要因による資金需要の高まりである。パウエル議長は10月8日の講演で、9月の短期金利の急騰の原因について、「法人税支払いと国債の購入19が、金融市場の流動性に強い圧力を引き起こした」と発言し、FRBが金融機関に対し十分な資金供給を行うことの必要性を強調した。
このような一時的要因に加え、構造的な要因も指摘されている。具体的には、FRBが15年12月から利上げを開始して以降、準備預金残高が減少していたことに加え、17年10月から19年7月にかけて行ったバランスシートの縮小によって同残高の減少ペースが加速した結果、19年9月時点で11年以来の低水準となっていた20ことが背景として挙げられている(第1-2-8図)。このほか、近年の金融規制強化(流動性規制21やリヴィングウィル22など)により、市中銀行が他行に準備預金を貸し出すインセンティブが低下し、短期金融市場の流動性が低下したことも影響しているとの指摘もある。
(2)金融政策の枠組み
(政策目標)
FRBは、雇用の最大化と物価の安定化という法定された目標に照らして金融政策運営を行っている。FRBの政策目標について、連邦準備制度改革法(Federal Reserve Reform Act of 1977)は「最大の雇用水準、物価の安定、適度な長期金利水準の維持を通じて、生産の潜在成長率を達成するような貨幣、及び信用の長期増加率を維持する」と定めている。このうち、「適度な長期金利水準の維持」は、「最大の雇用水準」及び「物価の安定」が達成されればおのずと達成されるとの考え23から、FRBはこれらの達成を目標とした金融政策を行っているとされている。物価の安定化については、具体的に、PCEデフレーター24の前年比が2%で推移することが最も望ましいとしている25。
(標準的金融政策手段)
FRBの金融政策は、政策金利であるFF金利(フェデラル・ファンド・レート)の誘導目標範囲26を定め、預金取扱金融機関が各地区連銀に持つ預金の需給を調整することを通じて、金融市場に影響を与え、実体経済の活動水準を調整することを大枠としている。FF金利とは、市中銀行の地区連銀への預金を原則無担保で貸借する銀行間貸借市場であるFF市場(フェデラル・ファンド市場)における翌日物の金利を指す。FRBでは(i)恒久的公開市場操作、(ii)一時的公開市場操作及びその他の準備預金管理手段、(iii)連銀貸出、によりFF金利のコントロールを行っている。
(i)恒久的公開市場操作
公開市場操作(OMOs:Open Market Operations)は、FRBの金融政策運営の主要な手段である。公開市場操作の実施に当たっては、FOMCが公開市場操作の短期的目標を定めた指令書を発行し、ニューヨーク連銀が指令書に基づいて実際の売買を行う。ニューヨーク連銀の売買の相手方となる民間金融機関はプライマリー・ディーラー27と呼ばれる。公開市場操作は、その取引の目的と特徴に応じて恒久的公開市場操作と一時的公開市場操作に分類される。
恒久的公開市場操作は、FRBのポートフォリオであるシステム公開市場勘定(SOMA:System Open Market Account)の運用に係るアウトライトオペ(買切り・売切り)を指し、主に銀行システム内の準備預金水準の管理のために行われる。オペの対象となる資産は、国債の他、政府支援機関(GSE:Government Sponsored Enterprise)28債、MBS(GSE発行)等が含まれる。
(ii)一時的公開市場操作及びその他の準備預金管理手段
一時的公開市場操作は、レポ取引やリバースレポ取引等の条件付オペを主体とし、一時的な準備預金需要への対応のために行われることが多い。取引の対象は、恒久的公開市場操作と同様である。FRBは一時的公開市場操作により、短期金利の操作性を高めている。
一時的公開市場操作以外の準備預金管理手段として、ターム物預金ファシリティ(Term Deposit Facility)と債券貸出プログラム(Securities Lending Program)がある。ターム物預金ファシリティとは、FRBが預金取扱金融機関から金利付きでターム物預金を預かる制度であり、同預金は預金取扱金融機関の準備預金を取り崩す形で行われる。したがって、ターム物預金ファシリティは、準備預金残高の調整を円滑に行うための流動性吸収手段として位置付けられ、特に量的引締めの際に準備預金の量を減少させるための手段として用いられる。一方、債券貸出プログラムとは、特定の国債に対する需要増に対処するため、翌日を期限として債券を貸し出す制度である。09年以降、住宅ローン関連のGSE債も貸出の対象としている。
(iii)連銀貸出
連銀貸出(Discount Window Lending)は、FRBが預金取扱金融機関と銀行システムに資金を提供することで、流動性不足を緩和するためのシステムである。FRBは、幅広い資産を連銀貸出の担保として認めており、正常債権や投資適格債券、質の高い証券化商品等が含まれる。預金取扱金融機関は、以下に述べる3種類の連銀貸出を利用することができる。
第一はプライマリー貸出(primary credit)と呼ばれる、健全な金融機関を対象とした貸出制度である。貸出期間は翌日物が大半を占めており、プライマリー貸出金利と呼ばれる金利は、FF金利の誘導目標水準より0.5%高い水準に設定される。
第二はセカンダリー貸出(secondary credit)と呼ばれる、健全性に問題がありプライマリー貸出に適さない金融機関を対象とした貸出制度である。セカンダリー貸出を受ける金融機関は、貸出を行う地区連銀によるモニタリングを受けることが定められている。貸出期間は、プライマリー貸出と同様、翌日物が大半を占め、金利は、プライマリー貸出金利より0.5%高い水準で設定される。
第三は季節性貸出(seasonal credit)と呼ばれる、資金需給に年間を通して明らかな季節性がある金融機関を対象とした貸出制度である。農業関連や観光業関連の比較的規模の小さな銀行等が主な対象であり、貸出期間は、プライマリー貸出やセカンダリー貸出と比較して長く、9か月以内とされている。金利は、FF金利と3か月物譲渡性預金29金利の平均から算出される変動金利で設定される。
(非標準的金融政策手段)
FRBは上述の4つの手段のうち公開市場操作を主な手段として金融政策運営を行っていた。しかし、世界金融危機後にFF金利の誘導目標を0.00~0.25%に引き下げ、実効下限制約(ELB:Effective Lower Bound)30に直面したため、新たに非標準的金融政策手段を採用するに至った(第1-2-9表)。
(i)大規模資産購入
大規模資産購入(LSAP:Large Scale Asset Purchases)とは、FRBが長期国債やGSE発行の長期債を市場から購入することにより、ポートフォリオ・リバランス効果を通じて長期金利に低下圧力をかけ、住宅市場を支え、景気回復を促す手段である。ポートフォリオ・リバランス効果とは、中央銀行の金融政策が、民間セクターの投資ポートフォリオを変更させることを通じて、実体経済に影響を及ぼす波及効果のことを指し、ここでは、FRBによる国債やMBSの購入がそれらの資産の利回りを低下させることで、民間セクターがより高い利回りを求めて社債等の他の資産に資金を振り分けることにより、市場全体の長期金利に低下圧力をかけ、幅広い資産価格の上昇を促すことを意味する。
(ii)フォワード・ガイダンスと市場との対話の強化
フォワード・ガイダンスとは、中央銀行が将来の金融政策の在り方に関する情報を市場に伝え、個人や企業の消費や投資行動に影響を与えることで、金融市場や経済の状況を調整するための金融政策手段である。FRBは08年12月以降、金融緩和手段としてフォワード・ガイダンスを利用するようになり、FOMC会合後に公表する声明文において、将来のFF金利に関する文言や、資産購入に関する文言を盛り込んでいる。また、12年1月以降、FOMC参加者の経済見通し(SEP:Summary of Economic Projections)を四半期で公表し、その中で参加者の政策金利見通し(中央値)としてドット・プロット(dot plot)を示すなど、金融政策の透明性を高め、長期的な金利の見通しを安定的に収れんさせることを図っている。
(3)金融政策の課題
(短期金融市場への対応)
前述のとおり、19年9月の短期金利の急騰については一時的要因によるところも大きいものの、FRBのバランスシート縮小によって準備預金残高が減少していたことが基本的な背景として指摘される。FRBも、今般の短期国債購入の理由について、声明文において「準備預金を十分に供給するため」としており、短期金利のコントロールの維持には、十分な準備預金の水準の維持が重要であるとの認識がうかがえる。
世界金融危機以前のFRBは「希少な準備(scarce reserves)」レジーム下にあり、準備預金の需要に対する供給をコントロールすることでFF金利を操作していた(第1-2-10図)。金融機関における準備預金が十分にない状況下では、FF金利が低下するにつれ借入需要が増加するため、需要曲線は右下がりとなるが、この需要曲線が右下がりとなっている部分と供給曲線が交わる点でFF金利の水準が決定される。したがって、FRBは、準備預金の供給水準を調整することで、需要との均衡点を操作し、FF金利水準の誘導を行っていた。なお、需要曲線は線形ではなく、プライマリー貸出金利、超過準備31付利金利(IOER:Interest rate on excess reserves)を上限、下限として32それぞれの付近で平坦化すると考えられている。FRBでは、ECBのように操作目標金利にコリドーと呼ばれる明確な上限と下限を有していないが(本節2.ユーロ圏の金融政策 を参照)、事実上、FF金利はおおむね両金利の間で推移していた(第1-2-11図)33。
しかし、07年夏以降、サブプライム住宅ローン問題の深刻化を契機にFRBの金融政策運営は大きく変化した。FRBは07年9月以降FF金利の引下げを開始し、08年12月までに計10回、4.50~4.75%ポイント引き下げ34、誘導目標範囲を0.00~0.25%とした。FF金利の引下げ余地が限られる中、08年9月にはリーマン・ショックも加わり、金融資本市場全体の危機へと発展したことから、FRBは新たに大規模資産購入やフォワード・ガイダンス等の非標準的金融政策による金融緩和を行うようになった。FRBの大規模資産購入によって、市中銀行の準備預金残高が大幅に増加した結果、従前行っていた準備預金供給水準の変更によるFFレートの操作は困難になった。このため08年10月、FRBは超過準備への付利を開始し35、操作目標金利の下限を設けてFF金利を誘導する「フロア・システム」と呼ばれる操作方法に移行した。
FRBへの準備預金が豊富な状況(「潤沢な準備」レジーム(ample reserve regime))下においては、準備預金の供給曲線は需要曲線が平坦化した部分で交わるため、準備預金の供給水準を変化させてもFF金利水準を誘導することはできない。その代わりに、超過準備付利金利の水準を変化させることで、FF金利水準の誘導を図る仕組みがフロア・システムである(前掲第1-2-10図)。FF金利が超過準備付利金利よりも低い場合、市中銀行は利ざやの獲得を狙ってFF市場で借入を行い、FRBへ預金する取引を行うため、資金需要が高まりFF金利は上昇する。逆に、FF金利が超過準備付利金利よりも高い場合、市中銀行はFRBへの預金は行わずにFF市場で貸出を行うため、資金供給が増えFF金利が低下する。したがって、金利裁定が正常に機能する状況においては、超過準備付利金利とFF金利は理論的に一致すると考えられる。
しかしながら、FF金利は一貫して超過準備付利金利を下回って推移している36(第1-2-12図)。これは主に、超過準備付利金利の対象が預金取扱金融機関の準備預金に限定されているためと考えられている。短期金融市場においては、連邦住宅貸付銀行(FHLB:Federal Home Loan Banks)をはじめとするGSEやマネー・マーケット・ミューチュアル・ファンド(MMMF)が大量の余剰資金を抱え、短期金融市場の主要な資金供給者としての役割を果たしているが、これらの金融機関は非預金取扱金融機関であり準備預金への付利の対象とならないため、裁定取引のメカニズムから除外されることとなる37。
FF金利が超過準備付利金利を下回って推移する状況を受け、FRBは政策金利のコントロールの補完的手段としてリバースレポ・オペ金利に着目してきた。レポ市場は、超過準備付利金利の対象とならないGSEや、準備預金を持たないMMMF、プライマリー・ディーラー等、幅広い市場参加者を持ち、FF市場と比較して非常に大きな市場規模を持つ(第1-2-13図)。FRBが実施する翌日物リバースレポ取引38は、国債の担保付きで実質無リスクであることから、その金利を下回る水準では市場において資金を運用するインセンティブが働かない。したがって、FRBのリバースレポ・オペ金利は、その市場規模もあいまって短期金融市場の下限を画する効果が期待できる。13年7月のFOMC会合では、広範な市場参加者を対象とする固定金利の翌日物リバースレポ取引を活用して下限を形成する可能性について検討がなされ、13年9月から試験的に運用を開始し、13年末にかけて運用規模を急拡大させた(第1-2-14図)。FRBは、リバースレポ・オペ金利を超過準備付利金利の下張り床(サブフロア)とする「フロア及びサブフロア・システム(a floor system with a subfloor)」の下、FF金利を超過準備付利金利とリバースレポ・オペ金利の間におおむね収まるような形で誘導している39(前掲第1-2-12図)。
しかしながら、前述のとおり、19年9月中旬にはFF金利が誘導目標範囲上限を超える事態が生じ(前掲第1-2-6図)、FRBはレポ取引や短期国債購入による資金供給を実施することとなった。「潤沢な準備」レジームにおいて、フロア及びサブフロア・システムが有効に機能するためには、準備預金需要の増加がFF金利の上昇につながることがないよう、準備預金水準を「十分な量」(=準備預金の需要曲線が平坦化する水準)に保つ必要があるが、17年10月以降に実施されたFRBのバランスシート縮小等により、準備預金水準が「十分な量」から減少していた可能性がある。準備預金水準の「十分な量」について、パウエル議長は12月のFOMC会合後の記者会見において、19年9月上旬と同水準の1.5兆ドルを下回らない水準を目安として挙げた40。ただし、準備預金は年間を通じて上下に大きく振れることに触れ、1.5兆ドルという目安は最低水準であることを併せて述べた。
(金融政策枠組みの見直し)
18年11月にFRBは、アメリカ経済の構造変化を踏まえ、金融政策の戦略、手段、コミュニケーションについての幅広い見直しを行う、と発表した。19年2月以降、全国の地区連銀で「Fed Listens」と呼ばれるイベントが開催され、学術界のみならず、産業界や労働者の代表等からも意見が聴取され、19年10月までに全14回41が開催された。
同イベントが開催された背景には、現在の経済が金融危機より数十年前の「旧常態(old normal)」から「新常態(new normal)」に変化した、というFRBの認識がある。「新常態」とは、低金利、低物価上昇率、低成長率に特徴づけられる経済状態を指す42。クラリダ副議長は19年11月の講演で、イベント開催の動機として、アメリカや世界の経済が、現在の金融政策の枠組みの基礎となった金融危機以前の状態から大きく変化したことを挙げた。具体的には、アメリカを始め世界的に自然利子率が低下しており、景気後退時に中央銀行の政策金利が実効下限制約に直面する可能性がより高まっている点や、物価上昇率と雇用の動学的関係が変化し、短期フィリップス曲線がここ数十年でフラット化した点を指摘した。
自然利子率とは、金融政策のスタンスが緩和的でも引締め的でもなくなる理論上の短期実質金利の水準を指し、その下では完全雇用と物価安定が維持される。中央銀行は、金融政策スタンスが緩和的か引締め的かの判断を自然利子率との比較によって行うため、その水準や動向は金融政策を決定するに当たって重要な要素の一つとなる。しかし、近年、アメリカの自然利子率は、人口構造やリスクテイク行動の変化、生産性上昇率の低下等43を背景に、2000年代後半以降大幅に低下していると指摘されている(前掲第1-2-15図)。中央銀行が金融政策を緩和的に変更する場合、政策金利を引き下げることにより実質金利を自然利子率以下にする必要があるが、自然利子率が低下している状態においては、政策金利が実効下限制約に直面するリスクがより高くなる。したがって、自然利子率の低下は、将来景気後退に直面した際の中央銀行の金融の緩和余地を狭めることとなる。
一方、失業率と名目賃金上昇率(もしくは物価上昇率)との関係を表すフィリップス曲線については、近年、先進国における失業率と名目賃金上昇率の関係の希薄化が指摘されており、アメリカにおいても、失業率の改善に対して賃金の上昇が緩慢になっている状況が観察される(第1-2-16図)。こうした現象は「フィリップス曲線のフラット化」と呼ばれ、インフレ期待の安定化、労働者の賃金交渉力の低下、グローバル化や規制緩和による市場競争激化等が要因として指摘されている44。需給ギャップに対する物価上昇率の感応度の低下は、物価上昇率が低い現在のような状況下では、積極的な金融緩和政策を採りやすいというメリットがあるものの、物価上昇率が持続的に高まる局面では金融引締め策が景気後退につながりやすいというデメリットとなる。したがって、フィリップス曲線がフラット化した状況では、期待物価上昇率を目標である2%付近で安定させることがより一層重要となる。
クラリダ副議長は「Fed Listens」における議論の対象について、(i)現行の金融政策運営を、過去に物価上昇率目標に満たなかった分を取り戻す戦略を考慮するといった形で見直すべきか、(ii)既存の金融政策の手段は、雇用の最大化と物価の安定化を達成し維持する上で適当であるか、あるいは政策手段を追加すべきか、(iii)FOMCの市場とのコミュニケーションはどのように改善できるか、という3つの問題を提起した。これらの問題に関し、FOMCでは、19年7月以降の会合において「Fed Listens」で得られた知見を基に議論を進めているところである。
(i)「埋め合わせ戦略」の要否
(i)については、過去の物価上昇目標の未達分(超過分)を将来の物価上昇の目標値の超過分(未達分)で相殺する「埋め合わせ戦略(“ makeup” strategy)」が検討されている。仮に名目金利が実効下限制約に直面し、物価上昇率が目標に届かない状況が続いたとしても、埋め合わせ戦略の採用により、期待物価上昇率を安定させる効果が期待できる。この埋め合わせ戦略の具体例として挙げられる手段としては、平均物価上昇率目標(average inflation targeting)と物価水準目標(price-level targeting)とがある。
平均物価上昇率目標は、一定期間における物価上昇率の平均値を目標とするものであり、目標とする物価上昇率に対する未達分(超過分)を一定期間内の超過分(未達分)で埋め合わせることができる。一方、物価水準目標は、基準となる物価水準の年から、例えば年2%の上昇率で定められる適切な物価水準の道筋を目標とするものであり、平均物価上昇率目標と同様、未達分(超過分)は超過分(未達分)で埋め合わせることができる。平均物価上昇率目標では一定期間における未達分(超過分)のみが埋め合わせの対象となるのに対し、物価水準目標では、基準となる物価水準の年以降の全ての期間が埋め合わせの対象となるため、基準となる物価水準の定め方が極めて重要となる。
物価上昇率が目標に届かない状況下で埋め合わせ戦略が有効に機能するためには、長期にわたる金融緩和の実施に関する強力なコミットメントが前提となるが、市場参加者から信認を得ることが容易ではないという問題がある。例えば、労働市場が堅調となり、物価上昇率が目標を上回る場合や、長期にわたる金融緩和が企業や家計の過度のリスクテイク行動を招き、金融市場の安定性を損なう可能性が高まっているような場合に、当局が金融緩和を継続することは困難と考えられる。さらに、厳格なルールに基づく埋め合わせ戦略は、現行制度と比較して金融政策の柔軟性を損なうという問題があるほか、物価安定の目標を達成する上で限定的な効果しか得られない可能性もあることから、更なる検証が必要とされた4546。
(ii)非標準的現行の金融政策手段の適否と追加
(ii)については、これまで実施してきたフォワード・ガイダンスとバランスシート政策についての効果検証とともに、実効下限制約下における追加的な緩和措置について検討が行われている47。まず、フォワード・ガイダンスとバランスシート政策は、実効下限制約下において金融緩和をもたらし、経済活動を支え、労働市場の改善と2%近傍の物価上昇率の達成を実現した、と評価している。さらに、インフレリスクや金融市場の安定性を損なうリスク等はFRBが想定していたほど現実化しなかったことから、非標準的今後経済状況が悪化した際に積極的にこれらを活用するとしている。
非標準的金融政策手段の追加については、FRBが採用していない政策ツールとして、イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)やマイナス金利の導入についての議論が行われている。長期金利の操作については、個人や企業の支出に対し、より直接的に影響を与えることができる点や、市場参加者からの信認を獲得できた場合には、より少ない量の資産購入により量的緩和と同等の緩和効果を得ることが期待できるといった点が利点とされた。一方で、適切な操作水準や操作を止める時期を決定することが難しい点、バランスシート規模やポートフォリオの満期構成の大幅な変動を招く可能性、また、公的債務管理政策との関係が疑われる可能性等が欠点として指摘されている。
マイナス金利の導入については、アメリカにおいては魅力的な手段ではないとして,少なくとも現下の経済状況においては日本銀行やECBに追随しない旨が明確に結論づけられている。その理由として、いくつかの海外の中央銀行において効果を発揮しているものの、金融機関や企業、家計への影響が不透明であることや、アメリカの金融システムは、マイナス金利を導入し成功した国や地域と異なっているため、マイナス金利の副作用をより強く受ける可能性があることが挙げられている。このほか、アメリカの法制度上、FRBが銀行に対してマイナスの預金金利を課すことが認められるか否かについて明確でないといった指摘48もある。
(iii)コミュニケーションの改善
(iii)については、FOMCの現在と過去におけるコミュニケーションの評価や、有効なコミュニケーション手法を追加するための検討が行われている。
フォワード・ガイダンスのあり方については、FOMCが悲観的な経済見通しを持っていると受け止められた場合に、企業や家計の経済行動を抑制するリスクなどが議論されている。また、フォワード・ガイダンスには質的(qualitative:緩和期間については具体的示唆を行わない)、日付ベース(date-based:緩和縮小を開始し得る日付を示す)、結果ベース(outcome-based:緩和縮小を開始し得る時期を特定のマクロ経済の結果の達成と結びつける)の3つの形態があるとした上で、それぞれの利点や欠点についても議論されている。例えば、フォワード・ガイダンスを結果ベースとすることについては、将来の金融政策手段の行使と経済状況に明確な関連性を示すことで、経済の安定化を促進するとともに、金融政策の予見性を高め説明責任を果たしやすいという利点がある一方、質的あるいは日付ベースのフォワード・ガイダンスと比較すると、仕組みが複雑で説明が難しく、市場に対する政策効果が弱まるおそれがあるといった指摘等がなされている。このほか、FOMC参加者の経済見通し(SEP)についても、参加者の見通しを市場に対し正確に伝えるための形式の修正49に関する議論がなされている。
IMFでは、こうしたFRBの取組について、持続的な市場の信認確保と金融政策策定の伝達にあたって極めて重要なものと評価している50。その上で、四半期ごとの経済見通しに関する詳細なレポートの公表や、操作目標金利のFF金利から他の短期金利への変更、更には操作目標金利の誘導目標の設定を範囲(range)ではなく、以前採用していた水準(point)に戻すこと等を提言している。
FOMCでは、引き続き「Fed Listens」で得られた知見に基づき、金融政策の戦略・手段・コミュニケーションの見直し、さらには12年1月に策定された「長期的目標と金融政策戦略に関する声明(Statement on Longer-Run Goals and Monetary Policy Strategy)」51の見直しについても検討を行う予定であり、20年半ばを目途に検討の結果を公表するとしている。
コラム1-2:短期金融市場をめぐる議論
(1)短期金利急騰の背景
国際決済銀行(BIS)は、19年12月に公表した四半期報告書においてアメリカの短期金利急騰の背景について議論を行い、(i)大手4銀行の資産構成の変化、(ii)ヘッジファンド等によるレポ市場での資金調達、(iii)市場仲介機能の衰退、の3つの要因を指摘している。
(i)大手4銀行の資産構成の変化については、レポ市場において主要な資金供給元となっていた大手4銀行が保有する流動資産における国債の割合を増加させていたことが指摘されている。大手銀行は、従来レポ市場において資金の借り手側であったが、18年中盤以降、米国債が増発され、レポ金利が超過準備付利金利を上回って推移するようになったことを受け、レポ市場における資金の借り手側から貸し手側へと回るようになった。この傾向は特にアメリカの大手4銀行において顕著であり、19年6月末時点で、大手4銀行のレポ市場におけるネットの資金供給量は約3,000億ドルに達していたとされている。しかしながら近年、大手4銀行の保有する流動資産に占める準備預金の割合が低下する一方で国債の割合が大幅に上昇しており、資金供給能力の低下につながったとされている。
(ii)ヘッジファンド等によるレポ市場での資金調達については、ヘッジファンド等のレバレッジを利用する金融機関において、現物債券とデリバティブの裁定取引を行う資金を得るため、レポ取引を介した資金調達が拡大していたことで、レポ市場における資金需要が特に高まっていた点が指摘されている。また、MMFを始めとする資金の供給者が、カウンターパーティーリスク(取引相手の破綻リスク)のエクスポージャー(注1)を減らすため、資金供給量を抑制していたことが、レポ市場における流動性の低下を招き、短期金利急騰の一因となった可能性も指摘されている。
(iii)銀行の市場仲介機能の衰退については、世界金融危機後の量的緩和により、長期間にわたってFRBにより銀行システム内に多額の資金が供給され、準備預金借入のインセンティブが低下したことで銀行間貸借取引が減少した点が指摘されている。その結果、銀行職員の経験不足やマーケットメーカーの減少、内部手続きの遅滞等が生じ、銀行の市場仲介機能を担うための能力が失われた可能性があるとされている。
短期金利急騰の背景については様々な議論があり、多くの要素が複合的に影響したとみられているものの、今回の混乱を経て、FRBは短期金融市場の安定化のために新たな対策を講じる必要があるとの議論が高まっている(注2)。
(2)FRBが取り得る対策に関する議論
ニューヨーク連銀で執行副総裁を務めた経験のあるブライアン・サック氏と元FRB金融課のジョセフ・ギャ二オン氏は、ピーターソン国際経済研究所のブログにおいて、今般の短期金融市場の混乱について「相場の急変動はより広範な市場機能を脅かし、さらには経済にも打撃を及ぼしかねない」との見方を示した。その上で、金融政策の枠組みの強化が必要であるとし、現行の金融市場調節方式を肯定しつつも、いくつかの提言を行っている。
第一の提言は、常設の固定金利レポ・ファシリティ(standing repo facility)の創設である。常設の固定金利レポ・ファシリティとは、FRBが、国債を担保としてあらかじめ定められた金利で金融機関の求めに応じ必要な資金貸出を行う制度を指す。各種金融規制強化(注3)に伴い、市中銀行は国債や準備預金等の流動性資産を常により多く保有することが求められるようになっている。ただし、国債は準備預金と比較すると流動性リスクや金利変動リスクを抱えることから、流動性規制を満たすための資産としては、国債よりも準備預金が好まれる。このため、市中銀行では、準備預金のうち貸出に回せる分が減少しており、これがFF市場における資金供給不足の要因となっている。そこで、常設の固定金利レポ・ファシリティを設置し国債と現金の交換を必要に応じ可能とすることによって、市中銀行は流動性資産として国債を保有しつつ準備預金の保有量を減らすことができ、準備預金需要の高まりによる金利の急騰を防ぐことができる、としている(注4)。サック氏らは「直近(9月)の出来事の最も重要な教訓は、十分な準備預金を有する体制においても、市場金利に上昇圧力をかける予期せぬ事象が起こり得るということである」とし、市中銀行を含めた市場参加者が超過準備付利金利よりも若干高い金利で借りることのできる常設の固定金利レポ・ファシリティを設置することで、FRBが予期しない事象に対しても機動的な対応が可能となり、金融政策運営の強化にもつながるとしている(注5)(注6)。
第二の提言は、市中銀行がFRBに預ける準備預金の水準の引上げである。サック氏らは「準備預金の必要最低水準は概念的に曖昧で、予測することはそもそも不可能であり、しかもその水準は時が経つにつれて変動しやすい」とした上で、FRBが高い水準の準備預金を保有する(注7)こと自体は、大きなコストではなく、FRBが必要な準備預金の最低水準の予測をしなくて済むよう、常に潤沢な準備預金を保有すべきであるとしている。
第三の提言は、操作目標金利(政策金利)の変更である。サック氏らは、FF市場はレポ市場と比較して規模が小さく、近年ますますその傾向が強くなっているため、FF金利を操作目標とする金融政策運営は危険かつ不十分であるとした。レポ金利を操作する重要性は高まっているとし、レポ金利を操作目標金利とすることも考慮に入れるべき、としている。
第四の提言は、リバースレポ・オペ金利と超過準備付利金利を誘導目標下限と一致させることである。サック氏らは、9月のFOMC会合においてリバースレポ・オペ金利がFF金利の誘導目標範囲下限よりも低く設定されたことについては理解できないとした上で、利上げの時期に備えて、短期金利の下限を強固なものとするべきである、としている。
(注1)リスクにさらされている金額、残高。
(注2)アメリカ財務省の金融安定監視評議会(FSOC:Financial Stability Oversight Council)は、19年12月に公表した年次報告書において、今般のレポ市場の混乱をアメリカの金融システムに対する潜在的リスクとして受け止め、原因を追究するためデータを収集しレポ取引を精査するよう金融規制当局に対し要請したとしている。
(注3)例えば、流動性規制においては適格流動性資産(HQLA:High Quality Liquid Assets)の一定割合以上の保有が要求される。HQLAとは、ストレス時においても容易かつ即座に、全くもしくはほとんど減価することなく換金できる資産を指す。適格流動資産は国債も含むが、準備預金と比較して流動性リスク、金利変動リスクを抱えるため、流動性規制を満たすための資産として国債よりも準備預金が好まれる。
(注4)この他にも、常設の固定金利レポ・ファシリティの設置については様々な利点が期待されている。例えば Andolfatto(2019)は、健全な市中銀行が、連銀の貸出制度を利用したという不名誉を被ることなく必要な資金を調達できること、既存のリバースレポ・ファシリティとの併用により短期金利を更に強力にコントロール可能となること、準備預金の十分とされる水準を予測する必要がなくなること、準備預金に対する金利の支払いを最小化できること、を利点として挙げている
(注5)IMFは19年の対米IV条協議報告書において、一時的な準備預金への需要の高まりによる短期金利の急上昇を抑えるため、短期金利の上限を画する常設の固定金利レポ・ファシリティの導入の検討を推奨している。
(注6)19年10月のFOMCでは、常設レポ・ファシリティの導入に関する議論が行われ、多くの参加者が導入に前向きな姿勢を示した。議事録によれば、レポによる資金供給手段として、穏当な規模の頻繁なオペレーションと、常設の固定金利レポ・ファシリティを検討し、FF金利のコントロールに関する両者の有用性を評価した。ただし、導入にあたっては、金融機関が過剰な流動性リスクを抱え込むモラルハザードの問題や、スティグマ(制度の利用が金融機関の資金調達能力に対する悪評につながる)問題、価格や適格担保の設定、カウンターパーティーの選定等、解決すべき課題が残るとの見解が示されている。
(注7)サック氏らは、国債購入により、この2四半期で250億ドル準備預金の水準を引き上げることを提言している。
2.ユーロ圏
(1)最近の動き
(政策パッケージによる金融緩和)
18年後半に引き続き、19年以降のユーロ圏の経済指標はECB52の想定を超えて更に弱いものとなり、見通しも一段の悪化が見込まれたことを受けて、3月、6月の政策理事会決定53から更に緩和的な政策が採られることとなった。7月の政策理事会では、主要政策金利は据え置いたものの、フォワード・ガイダンスを修正し、主要政策金利の据え置き水準を「現行水準」から「現行水準もしくはそれを下回る水準」に変更した(後掲第1-2-21表)。あわせて、18年末以降、物価上昇率が2%(前年比)を大きく下回る状況が続いていることを踏まえ、インフレ目標の対称性(symmetry)54へのコミットメントを初めて明記し、物価安定の目標の達成のためには一時的に物価上昇率が2%を超えることも辞さないという姿勢を示した。また、政策手段に関して、フォワード・ガイダンスの強化方法、マイナス金利の副作用を軽減するための預金ファシリティ金利における階層化の導入、新たな資産購入を実施する場合の規模と購入資産の組合せについて検討することも決定した。
9月の政策理事会では以下を含む金融緩和政策が包括的なパッケージとして打ち出された55。(1)主要政策金利に関し、10月31日以降、預金ファシリティ金利を-0.40%から-0.50%に引き下げるとともに、フォワード・ガイダンスを強化し、主要政策金利を現行、もしくはそれを下回る水準に維持する時期として、前回政策理事会まで示されていた「20年前半を通じて」という時間軸条件を削除する一方、「持続的に基調となるインフレの動きに織り込まれるまで」という状態条件とした。(2)18年12月に終了した資産購入に関し、19年11月1日から月200億ユーロのペースで再開し、緩和的な政策を強化する上で必要と判断される限り維持し、最初の利上げの直前で終了するとした(ユーロシステムにおけるバランスシート56の推移は第1-2-17図57を参照)。(3)3月の政策理事会で再導入が決定された貸出条件付長期資金供給オペ(TLTRO-III:Targeted Longer Term Refinancing Operation-III)の金利については、当初予定していた政策金利・預金ファシリティ金利への+0.1%上乗せを行わないこととし、満期についても当初予定の2年から3年に延長するとした(後掲第1-2-20表参照)。(4)19年10月からマイナス金利の副作用を軽減するため超過準備の一部にマイナス金利の適用を免除する層を設置し、0.00%と-0.50%の金利が付加される2層の階層構造とした58。これらの施策を包括的にパッケージとして実施することで、その相乗効果により、短期のみならず長期的にも適切な政策効果を発揮することができるとした59。
なお、11年11月の就任以来、ECBの非標準的な金融政策を指揮してきたドラギ総裁が19年10月末に退任し、11月からラガルド・元国際通貨基金(IMF)専務理事が新総裁として就任した。ラガルド総裁となって初となる12月の政策理事会では政策は据え置きとされ、経済情勢に対する認識として景気の下方リスクが幾分減少し、コア物価上昇率が緩やかに上昇する兆しがみられるとの判断が示された。また、20年1月から同年末にかけて金融政策戦略の見直しを実施する旨も明らかにされ、20年1月の政策理事会において同見直しの開始が正式に決定された60。弱い景気や物価動向の下でますます緩和余地が乏しくなりつつある中、ラガルド新総裁の下でどのような舵取りが行われるか、今後の金融政策運営が注目される。
(2)金融政策の枠組み61
(政策目標)
ECBの金融政策における主要な目的(primary objective)は物価の安定であるとマーストリヒト条約に定められており、具体的には消費者物価指数(HICP:Harmonized Index of Consumer Prices)の前年比が中期的に2%を下回りかつ2%近傍に維持することを目指している。
また、将来の物価変動リスクを評価するアプローチとして、経済分析と貨幣分析による2本柱アプローチ(Two-pillar approach)を採用し、実体経済面と金融面の両面から物価変動リスクの評価を実施している。経済分析では、GDPや雇用、貿易、資産価格等の実体経済や資本市場の動向に関連する指標を分析・評価し、貨幣分析では、貨幣や与信量の動向に関する分析を行っている。特に貨幣分析に関し、ECBではマネーサプライの指標であるM362の増加率の参照値(reference value)を前年比+4.5%に設定している63。
(誘導目標)
ECBは発足以来、短期金利であるユーロ圏無担保翌日物平均金利(EONIA:Euro Overnight Index Average)64を事実上の操作目標金利とし、そのコントロールを企図してきた65。EONIAをコントロールする中心的な手段は公開市場操作であるが、金利変動の抑制という観点からは、市中銀行がユーロシステムから資金を借り入れる仕組みである限界貸出ファシリティと市中銀行がユーロシステムに余剰資金を預け入れる仕組みである預金ファシリティが利用される。具体的には、EONIAは、限界貸出ファシリティに適用される金利である限界貸出ファシリティ金利を上限、預金ファシリティに適用される金利である預金ファシリティ金利を下限とするコリドーの間の政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)近傍で推移するのが常態である(第1-2-18図)。もし短期金融市場で資金需要が生じEONIAが高騰すると、EONIAは限界貸出ファシリティ金利に近づくが、限界貸出ファシリティ金利を超えようとすると、短期金融市場で調達するよりも貸出ファシリティを利用する方が調達金利を低く抑えられるため、市場参加者は短期金融市場での資金調達を避けるようになる。そのため、EONIAの上限は限界貸出ファシリティ金利となる。他方、短期金融市場で資金供給が増加すると、EONIAが下落し、預金ファシリティ金利に近づくが、預金ファシリティ金利以下に下落した場合には、預金ファシリティで運用した方が運用金利は高くなるため、市場参加者は短期金融市場での運用から預金ファシリティに運用を切り替える。そのため、預金ファシリティ金利がEONIAの下限となる。
上述したようにEONIAは政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)の近傍で推移するのが常態であったが、世界金融危機や欧州債務危機を受けて非標準的な金融政策手段が採用されると、政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)を恒常的に下回るようになり、下限である預金ファシリティ金利とほぼ同じ水準で推移するようになっている(第1-2-18図)。これは、資産購入プログラム等により市中銀行の過剰流動性66が増加したためEONIAに下押し圧力がかかり続ける一方、下限である預金ファシリティ金利以下には下がらないことによるものである67。この結果、預金ファシリティ金利がEONIAに与える影響力はかつてないほど大きくなり68、第1-2-18図をみても19年9月に預金ファシリティ金利を-0.4%から-0.5%に引き下げた際、EONIAも預金ファシリティ金利と同様に下落していることが確認できる。
(標準的金融政策手段)
ECBにおける金融政策の標準的な運営方法は短期金利、特に満期1日の翌日物金利のコントロールにあり、以下に述べる公開市場操作、常設ファシリティ、準備預金制度の3つのフレームワークを通じて実施される。
(i)公開市場操作
公開市場操作は、ユーロシステムが国債等の適格担保(eligible assets)に応じて銀行に資金を供給する仕組みである。ユーロシステムは、貸出期間が終了すると、担保を銀行に返却し、供給した資金を吸収する。定期的に実施されている公開市場操作には、貸出期間の長さに応じて、主要リファイナンス・オペ(MRO:Main Refinancing Operations)と長期リファイナンス・オペ(LTRO:Long-Term Refinancing Operations)がある69。
MROの満期は1週間であり、取引頻度は週に1回、取引形態はレポ取引70で実施される。また、MROで適用される金利が政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)であり、ECBが短期金利を誘導する際の目安としている。MROはECBが金融市場で金利を誘導する際の基本的な手段であるとともに、金融政策スタンスのシグナルを発信する上で中心的な役割を担っている。
LTROはMROよりも長期の資金供給を目的としており、通常は満期3か月、取引頻度は月に1回、取引形態はレポ取引で実施されている。ただし、世界金融危機後の流動性の著しい低下に伴い、08年10月以降は満期が1か月、6か月、12か月、36か月と多様化している。
(ii)常設ファシリティ
金融市場調節の中心的手段は公開市場操作であるが、前述したように短期金利の過度な変動を抑制する役割を担う仕組みが常設ファシリティである。常設ファシリティは市中銀行がユーロシステムと資金の貸借を行う政策手段であるが、上述した公開市場操作ではユーロシステム主導で資金供給額を決定するのに対して、常設ファシリティでは市中銀行が資金量を決定する点に違いがある。常設ファシリティは限界貸出ファシリティ(Marginal Lending Facility)と預金ファシリティ(Deposit Facility)の2つがある。
限界貸出ファシリティは、金融市場で資金調達が困難になった市中銀行がユーロシステムから資金を借り入れる仕組みである。翌日満期のレポ取引であり、6週間ごとにECBが設定し、適格担保の範囲内で利用でき、借入額に上限はない。なお、限界貸出ファシリティを通じた貸出に適用される金利が限界貸出ファシリティ金利である(現在は0.25%)。一方、預金ファシリティは、金融市場で借り手が見つからない場合に、市中銀行がユーロシステムに一時的に資金を預け入れる仕組みである。翌日満期で6週間ごとに設定され、取引形態は特に指定されていない。預金ファシリティを通じて預金された資金に適用される金利が預金ファシリティ金利である(現在は-0.50%71)。
(iii)準備預金制度
準備預金制度は、対象となる市中銀行に対し翌日物預金を含む準備対象債務の一定割合(現在は1%)を法定準備として、ユーロ加盟各国の中央銀行に開設されている当座預金に積み立てることを義務付ける制度である。ただし、法定準備は、定められた積立期間中72の毎営業日に積み立てておく必要はなく、積立期間を通じた平均残高として積み立てればよい73。法定準備を満たす準備預金に支払われる金利は積立期間中における政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)の平均値(現在は0.00%)、法定準備を超える超過準備にはゼロ%か預金ファシリティ金利のうち低い方の金利が支払われる(現在は-0.50%)。なお、準備預金制度の目的は、短期金利の安定化と銀行部門に構造的な流動性不足を創出することにあるとされる。
短期金利の安定化は、法定準備を積立期間の平均残高として積むことが求められていることにより実現される。つまり、積立期間中、毎営業日に法定準備を積み立てる必要はないため、市中銀行が各行のその時々の流動性需要や運用ニーズに従い、ユーロシステムに積み立てている当座預金を利用して市中銀行同士で必要な流動性を融通し合うことにより、短期金利が平準化される。また、市中銀行に法定準備の積立を課し、構造的な流動性不足を創出することで、公開市場操作や限界貸出ファシリティが機能する状況を作り出し、金融政策の波及経路を確保することが企図されている。
(非標準的金融政策手段)
08年秋の世界金融危機及びその後の欧州政府債務危機を背景に、金融市場で深刻な流動性不足が発生したことを受けて、ECBは標準的な金融政策手段を補完するとともに金融市場に幅広く流動性を供給することを目的に、様々な非標準的な金融政策手段(non-standard monetary policy measures)を実施した。ここでは、その代表的な金融政策手段について述べる。
(i)マイナス金利政策
ECBは、14年6月に預金ファシリティ金利を0.00%から-0.10%に引き下げたことにより初めて政策金利のマイナス化を実施した。その後、預金ファシリティ金利は4回引き下げられ、現在は-0.50%である(後掲第1-2-21表参照)。前述したように、預金ファシリティ金利は預金ファシリティへの預金に対して付利される金利(当該金利がマイナスの場合は市中銀行が利息を支払うこととなる。)であるが、預金ファシリティは他の運用先(例えば企業向け貸出)と比較して安全と考えられることから、銀行が法定準備を超える超過準備を預け入れる先として利用されている。ECBが預金ファシリティ金利をマイナス化した一つの狙いは、銀行の超過準備を減らし、その分企業向け貸出の増加を促したものと考えられる74。
(ii)資産購入プログラム
マイナス金利政策の実施後も消費者物価上昇率の低下傾向が続いたことから、ECBは15年1月に資産購入プログラム(APP :Asset Purchase Programme)75を導入し、いわゆる量的緩和の実施に踏み切った。APPはカバードボンド購入プログラム第3弾(CBPP3)76、資産担保証券購入プログラム(ABSPP)77、公的部門購入プログラム(PSPP)、企業部門購入プログラム(CSPP)78の4つのプログラムの総称である。購入規模は15年1月にAPPが導入された当時は月額600億ユーロであったが、16年3月には800億ユーロに増額された後、金融政策の正常化に向けて16年12月に600億ユーロ、17年10月に300億ユーロ、18年6月に150億ユーロへと減額し、バランスシートの拡大テンポを低下させていった。APPは18年12月に一旦終了し、満期により償還された元本の再投資のみ続けられていたが、ユーロ圏の経済状況が想定を超えて弱く、物価上昇率が継続的に目標に達していないことから、19年11月より再開されている。なお、19年9月現在、ユーロシステムがAPPを通じて購入した資産のうち約8割がPSPPによって購入した公債となっている(第1-2-19(1)図)
15年3月から実施された公的部門購入プログラム(PSPP:Public Sector Purchase Programme)はユーロシステムがユーロ加盟国の公債を購入するプログラム79であり、APPの中核を成す。購入対象となる公債の発行主体には、ユーロ加盟国の中央政府のほか、地方政府、ユーロ圏所在の政府機関、国際機関、多国籍開発銀行が含まれ、購入対象となる債券の満期は最低1年から最長30年まで認められている。また、ユーロシステムは、PSPP全体に占める各国の資産の割合を、EU加盟各国のECBへの出資比率(capital key shares)80に応じて決定することを原則とするほか、各発行体による発行残高の33%、各銘柄の発行残高の33%あるいは25%81を購入額の上限としている82(第1-2-19(2)図)。
(iii)フォワード・ガイダンスの導入
フォワード・ガイダンスは、ECBが将来的な金融政策スタンスに関する情報をあらかじめ公表することにより、金利や物価の見通しに関する市場の期待形成をコントロールすることを目的としている。ECBは13年7月にフォワード・ガイダンスを採用したが、その内容にはECBの主要政策金利に関する中期的な見通し(future path)のほか、後述する資産購入プログラムに関する見通しについても盛り込まれている。
(iv)貸出条件付長期資金供給オペ
貸出条件付長期資金供給オペ(TLTRO:Targeted Longer Term Refinancing Operation)はユーロシステムが市中銀行の貸出実績に応じて実施する長期流動性供給の手段である。欧州債務危機の際に実施された3年物LTROは資金調達が困難となった金融機関に対し無制限に資金供給を行うもの83であったが、より確実に実体経済への融資拡大につなげるため、TLTROにおいては、資金供給に当たり貸出に関する一定の条件が付されている(第1-2-20表)。第一弾となるTLTRO- Iは14年9月から16年6月まで、第二弾となるTLTRO- IIは16年6月から17年3月まで実施され、第三弾となるTLTRO- IIIは19年9月から21年3月まで実施する予定とされている。TLTROの適用対象となる銀行貸出は非金融法人と個人向けであり、住宅向け貸出は除外されている。適用金利は、政策金利(主要リファイナンス・オペ金利)と預金ファシリティ金利に連動する形で設計されている。また、満期について、TLTRO- IとTLTRO- IIは4年であるが、TLTRO- IIIは3年84に設定されている。
コラム1-3:非ユーロ圏のマイナス金利政策
ヨーロッパでは、欧州債務危機後の非ユーロ圏の中央銀行においてマイナス金利政策を採用する事例が複数みられた。これは、主に対ユーロでの通貨高、物価上昇率やインフレ期待の持続的な低下、銀行貸出の低迷等の追加的な緩和に迫られる状況が存在したためと考えられる。本コラムでは、これらの非ユーロ圏諸国(デンマーク、スウェーデン、スイス、ノルウェー)のマイナス金利政策を概観する(注)(図1、2)。
ヨーロッパで初めてマイナス金利政策を採用した国は、デンマークである。同国の中央銀行であるデンマーク国立銀行は、12年7月に譲渡性預金金利をー0.2%に引き下げてマイナス金利政策を採用した。その背景として、同国では、通貨デンマーククローネ(DKK)をユーロにペッグする為替相場制度を採用していることが挙げられる。同国経済はユーロ圏と景気サイクルが異なるため、ユーロ圏あるいは世界経済が不安定になると相対的に景気が良好な同国に大量の資金流入が発生し、ユーロとのペッグが維持できなくなる。このため、マイナス金利を導入することにより、資金流入圧力を抑制する必要があった。
スウェーデンの中央銀行であるリクスバンクは、15年2月に主要政策金利であるレポ金利を-0.10%に引き下げた。同国は、消費者物価上昇率の前年比に関し、2%を中心に上下1%の幅を許容するインフレ目標を設定しており、マイナス金利政策導入の目的を物価安定であるとしている。なお、リクスバンクはマイナス金利に加え、15年2月以降国債購入プログラムを採用していたが、19年以降は段階的に保有残高を減らし、29年にゼロにする予定としている。なお、19年12月にリクスバンクは家計債務の増加に対する懸念から、主要政策金利を20年1月にー0.25%から0.00%に引き上げ、マイナス金利政策を解除している。
スイスの中央銀行であるスイス国立銀行は、15年1月に対ユーロでのスイスフランの上限(1ユーロ=1.20スイスフラン)撤廃に併せ、法定準備の20倍を超える超過準備預金に-0.75%のマイナス金利を適用し、その後5年にわたりマイナス金利政策を採用している。スイス国立銀行では、物価の安定を金融政策の目標としており、インフレ目標値を2%に設定している。同国では諸外国よりも経済のパフォーマンスが安定的に良好であるため、上述のデンマークと同様、海外からの資金流入によりスイスフランが急騰しやすい。このため、世界的に低金利となる中、諸外国に比べ金利を更に低く設定する必要があるとしている。なお、19年11月1日からはマイナス金利の適用免除範囲が引き上げられている。
ノルウェーの中央銀行であるノルウェー銀行は、15年9月に準備預金金利を-0.25%に引き下げ、マイナス金利政策を導入した。ノルウェー銀行は物価の安定を目的としており、インフレ目標値を2.5%に設定している。同国は産油国であり、石油価格の動向により物価上昇率が左右されやすい。特に、14年から16年にかけての原油安による低インフレ対策のため、マイナス金利政策を導入した。ただし、18年9月以降、準備預金金利を引き上げ、19年4月以降マイナス金利政策は採られていない。
(注)以下の記述はJobst and Lin (2016)、翁(2017)、川野(2019)を参考にしている。
コラム1-4:イングランド銀行における金融政策の枠組み
第1章第2節でECBによる金融政策の枠組みや最近の動向について述べたが、以下ではイングランド銀行(BOE:Bank of England)における金融政策の枠組みについて、政策目標、主要な金融政策手段、金融市場調節に分けて解説するとともに、今後の課題について簡単に述べる(注1)。
(1)政策目標
BOE の主要な政策目標は物価の安定である。BOEは92年10月以降、インフレーション・ターゲティング政策を採用しており、消費者物価上昇率(総合)を目標値である2%(前年比)を中心に上下1%の範囲に収める必要がある(注2)。消費者物価上昇率(総合)が目標値の上下1%の範囲を超えた場合、財務大臣に公開書簡を送付し、目標範囲を逸脱した理由と消費者物価上昇率を2%に戻すための方策を説明しなければならない旨、イングランド銀行法によって定められている。
(2)主要な金融政策手段
上記の政策目標を達成するため、BOEは以下に述べる標準的及び非標準的金融政策手段を用いて政策運営にあたっている(注3)。
(i)標準的金融政策手段
BOEにおける標準的な金融政策の運営方法は、他の中央銀行と同様に政策金利の調整による短期金利、特に銀行間翌日物金利のコントロールであり、バンク・レートと呼ばれる、市中銀行の準備預金への付利金利(翌日物)が政策金利として用いられている。また、常設ファシリティ(Operational Standing Facility)として、BOEから市中銀行向けに翌日物のレポ取引で貸し出される貸出ファシリティと、市中銀行がBOEに翌日物で預け入れる預金ファシリティが設けられている(注4)。流動性供給手段としては、インデックス長期レポ・オペ(ILTR:Indexed Long-Term Repo)が週に一回のペースで実施されている(注5)。
(ii)非標準的金融政策手段
BOEでは、09年3月以降、世界金融危機の深刻化を受けて、短期債から長期債まで幅広い年限の英国国債を対象とした資産購入(量的緩和)を開始した。BOEの量的緩和の特徴としては、(ア)BOEの子会社である資産購入ファシリティ(APF:Asset Purchase Facility)(注6)を設立した上で、当該組織にBOEが融資する形で実施している点(注7)や、(イ)資産の購入に際しては、毎月あるいは年間の購入額を設定する方式ではなく、あらかじめ購入上限を設定し、上限を調整する方式を採用している(注8)点が挙げられる。なお、新たな国債の購入は12年10月に一旦停止していたが、16年6月のEU離脱をめぐる国民投票後に英国経済が減速したことを受けて16年8月に再開し、併せて一定の基準を満たす非金融法人企業の社債も購入することとした。現在、資産購入の上限は4,350億ポンド、社債の購入上限は100億ポンドである。なお、16年8月の政策金利引下げ時には、市中銀行及び住宅金融組合の企業や家計に対する貸出の促進を目的とした期間貸出スキーム(TFS:Term Funding Scheme)も導入された。TFSはBOEが市中銀行に対してバンク・レートに近い低水準の金利で適格担保と引き換えに貸し出すことにより、市中銀行の資金調達コストを削減し、貸出を促進させることを目的としたものであったが、18年2月に新規貸出は停止されている。
さらに、16年9月から、非金融法人企業の資金調達環境の改善を目的とした社債購入スキーム(CBPS:Corporate Bond Purchase Scheme)を導入している。同スキームは英国経済に顕著に貢献している企業の社債を対象とし、購入対象資産のバランスを考慮するため9部門(注9)に属する企業の社債を購入するものであり、現在、同スキームの上限は100億ポンドとなっている。
この他、13年8月にフォワード・ガイダンスを導入し、政策金利や資産購入の見通しを公表している。
(3)金融市場調節
量的緩和が実施される以前のBOEでは、準備平準化(reserves-averaging)システムと呼ばれる方式により金融市場調節が行われていた(注10)。同システムの下では、市中銀行はあらかじめ目標準備預金を申告し、準備預金に対して付利されるバンク・レート(注11)を受け取る一方、準備預金が目標から一定の範囲を超えてかい離する場合は金利を受け取れないとすることで、短期金利がバンク・レートの近傍で安定化する仕組みであった(注12)。しかしながら、09年3月の量的緩和の開始とともに市中銀行が大量の準備預金を保有するようになったため、フロア・システムと呼ばれる金融市場調節方式に移行した。
フロア・システムの下では、翌日物金利がバンク・レートを下回ると、市中銀行はバンク・レートよりも低い金利で資金を調達し、準備預金に預け入れれば利鞘を稼ぐことができるため、金融市場での資金調達が増加する。これにより翌日物金利が上昇するため、バンク・レートは翌日物金利の下限(フロア)を画す役割を果たす。準備預金が潤沢な状態では、翌日物金利はバンク・レートを大きく上回ることはないため、同レート付近で推移することになる(図1)(注13)。
実際に翌日物金利がバンク・レート付近で安定的に推移しているかを確認するため、翌日物金利の代表的な指標であるポンド翌日物平均金利(SONIA:Sterling OverNight Index Average)(注14)とバンク・レートのスプレッドをみると、09年3月にフロア・システムが導入されて以来、ゼロ近傍で推移しており、翌日物金利とバンク・レートのかい離は極めて小さくなっていることが分かる(図2)。
(4)今後の課題
BOEでは、将来的なバランスシートの縮小について、いわゆる「量的引締め(QT:Quantitative Tightening)」と呼称して、QTを実施する際の課題を検討している(注15)。上述のように、BOEでは、量的緩和による準備預金の急増を背景に金融市場調節方式にフロア・システムを採用している。しかし、同システムの下では、量的引締めによって、準備預金が「潤沢」な水準から「希少」な水準にまで減少すると、短期金利がバンク・レートからかい離して上昇しやすい状態となり、短期金利のコントロールが困難になるおそれがある(前掲図1)。
BOEでは、準備預金が「希少」な水準をわずかに上回る「好ましい最低準備預金範囲(PMRR: Preferred Minimum Range of Reserves)」を1,500~2,500億ポンドとする推計を行い、同推計値に銀行券等他の負債を加えて「定常状態のバランスシート規模」を2,750~3,750億ポンド(対GDP比12~18%)と試算しているが、こうした推計値には誤差や将来的な不確実性が伴うとしている。このため、現在のバランスシート(約6,000億ポンド弱)を縮小していく際には、追加的な準備預金需要に対して、バンク・レート金利水準での定期的なレポ・オペを通じた無制限の資金供給を行うという、フロア・システムを修正した金融市場調節を行う意向を示している(注16)。ただし、こうしたアプローチで対応する場合も、準備預金需要曲線の正確な把握や、短期金融市場参加者の行動を十分に考慮した制度設計といった諸課題に向けた取組が必要としている。
(注1)BOE (2019)、BOE (2018)、Whittaker (2012)、河村(2018)、斉藤(2017)他各種資料を参照。BOEの金融政策を巡る最近の動向については第2章第3節 ヨーロッパ経済 を参照。
(注2)消費者物価上昇率(総合)の目標値は英国財務省が毎年定める。政策目標を政府が定めるため、政策目標の独立性(goal independence)はないが、政策目標を達成するための手段の独立性(instrument independence)は確保されていると解されている。
(注3)BOEの金融政策に関する方針は年8回開催される金融政策委員会(MPC:Monetary Policy Committee)で決定される。なお、MPCは9名の委員で構成される。
(注4)常設ファシリティの貸出ファシリティに課される金利はバンク・レート(19年末現在は0.75%)+0.25%ポイント、預金ファシリティに付利される金利はバンク・レート-0.25%ポイントと設定されている。
(注5)その他の政策手段として、市中銀行がBOEから流動性の高い資産を借り入れる窓口貸出ファシリティ(Discount Window Facility)や緊急の流動性対応用に緊急期間レポファシリティ(Contingent Term Repo Facility)がある。
(注6)APFは09年1月に設立され、BOE及び総裁が株式を全額保有している。
(注7)将来的にAPFに損失が生じた場合、財政資金により補填されるとの取り決めが政府とBOEの間でなされた(斉藤(2017))。
(注8)資産購入残高が上限に達した場合、満期到来分を再投資するのみとし残高は減らさないこととされている。
(注9)通信、景気連動型消費財、生活必需品、電気、エネルギー、ガス、工業・交通、不動産・金融、水道の9部門。
(注10)準備平準化システムは06年5月に準備預金への付利開始とともに導入された。同システムの導入以前は、貸出ファシリティ金利及び預金ファシリティ金利をそれぞれ上限及び下限とするコリドー内でのレポ・オペによる短期金利操作が行われていた。
(注11)06年8月に従来のレポ・オペ適用金利(レポ金利)から改称。
(注12)準備預金需要曲線はバンク・レート近傍でほぼ水平となる。BOE(2018)を参照。
(注13)実際にはBOEの準備預金付利を受けることができない金融機関が存在するため、翌日物金利はバンク・レートよりも若干低い水準で推移する。
(注14)SONIAは金融機関相互で融通するポンド建て無担保翌日物資金の平均金利。BOEが算出・公表を行っている。
(注15)18年6月に開催された金融政策委員会ではバンク・レートが1.5%の近傍に達するまではバランスシートの縮小は実施しないとの意向を示している。
(注16)BOE (2019) を参照。FRBのように、フロア・システムを維持しながら準備預金がPMRRに達する前にバランスシートを縮小させるアプローチもあるとしつつ、FRBが19年9月に短期金利の急騰に直面した事例を紹介している。
(3)金融政策の課題
これまでみたように、ユーロ圏の経済状況が想定を超えて弱い動きが続く中、ECBはマイナス金利政策や資産購入プログラムを含む多様な非標準的な政策手段を用いて金融緩和政策を進めてきたが、以下では政策目標の達成に向けて今後ECBが直面すると考えられる課題を2点取り上げる。
(マイナス金利幅拡大への制約)
マイナス金利政策85について、一般的に期待される効果としては、銀行の貸出金利引下げ等企業の資金調達コスト低下を通じて投資の増加を促すことや、経済がデフレの危機にある際に、通貨安を通じて輸入物価や国内物価を上昇させることなどがある。ユーロシステムの場合、特に企業向け貸出の増加を促す効果が期待されるが、マイナス金利政策が長期化するにつれて、その副作用についての議論も多くみられるようになっている86。
マイナス金利政策の実施当初は政策効果がプラスとなり銀行貸出が増加したとしても、金利を引き下げ続けると逆に銀行貸出が低下する事態もあり得るとの見方がある87。通常、銀行は満期が短く流動性が高い預金で、満期が長い企業向け貸出を実施し、その預貸利鞘で収益を得ている。中央銀行が短期金利を引き下げた当初は、短期の預金金利は速やかに低下し始めるが、長期の貸出金利は預金金利ほど速やかには低下しないため、銀行の預貸利鞘は増加する。また、銀行が保有する資産の価格は短期金利の低下に伴い上昇するため追加的な収益も受けられる。しかし、政策金利を下げ続けると、貸出金利も徐々に低下していく一方、銀行は預金金利をゼロ%以下には下げにくいため88、結果として銀行の利鞘は縮小していく。以上の結果、銀行の収益が減少するため、企業向け貸出の伸びは低下し、最終的には減少に転じるものと考えられる。
Brunnermeier and Koby (2018)はこうした議論を理論的に分析し、政策効果がプラスからマイナスに転じる閾値となる政策金利をリバーサル・レートと呼んでいる。ECBのマイナス金利(預金ファシリティ金利)がリバーサル・レートに到達したかという点に関し、ラガルド新総裁は19年12月の政策理事会後の記者会見で、最新のデータで確認しても非金融部門向け及び家計部門向け銀行貸出が増加していることから、リバーサル・レートに達したとの見方を否定している。ユーロ圏の銀行の預貸利鞘と非金融機関向け新規貸出の伸びで確認すると、預貸利鞘89については、初めて預金ファシリティ金利にマイナス金利を採用した14年6月以降、企業向け預貸利鞘は縮小してはいるものの、近年はそのペースは緩やかになっている(第1-2-22図)。一方、家計向け預貸利鞘は14年6月以降おおむね横ばいで推移していたが、19年に入り縮小している。銀行の新規貸出額の前年比伸びをみると、14年6月以降急速に回復し、17年半ば以降は継続的にプラスとなり、18年後半以降は前年比2%前後でおおむね横ばいで推移している(第1-2-23図)。
現時点ではECBのマイナス金利はリバーサル・レートには到達していないと考えられるものの、19年9月に預金ファシリティ金利が-0.5%へ引き下げられたところであり、マイナス金利幅の拡大が銀行貸出に与える影響については引き続き注視する必要がある。
(資産購入プログラムへの中長期的な制約:ドイツ国債の不足)
資産購入プログラムを遂行する上で中長期的に大きな課題になる可能性があるものとして、市場で流通するドイツ国債の量的不足が挙げられる。その背景としては過去の資産購入プログラムを通じて既にユーロシステムがドイツ国債を大量に保有していることのほか、ドイツで財政健全化が進み、起債が減少していることがある。市場で流通するドイツ国債の不足を表す一つのおおまかな指標としては10年物ドイツ国債の利回りと同期間のOvernight Index Swap(OIS)90のスプレッドがある。ドイツ国債の利回りもOISも市場では安全資産利回り(risk-free interest rate)とみなされているため、経済や金融政策の見通し等、両指標に影響する共通要因が変化した際には、理論的には両指標はほぼ同方向に変動することから、上記のスプレッドもほぼ一定になると考えられる。しかし、実際には第1-2-24図で確認できるようにドイツ国債の利回りが需給のひっ迫によりOISと比較してより低下していることがみてとれる。これは、両指標に影響する共通要因ではなく、ドイツの国債市場のみに影響を与える特殊要因の存在を示唆するものであり、その有力候補が市場で流通するドイツ国債の量的不足であると考えられている91(Cœuré (2017))。そこで両指標のスプレッドの動向をみると、特に資産購入プログラムが開始された15年以降、スプレッドは急速に縮小し、マイナス圏内で推移している。
前述したように、ECBは買い入れる各国の資産の割合を、EU加盟各国のECBへの出資比率に応じて決定することを原則とするほか、各発行体による発行残高の33%、各銘柄の発行残高の33%あるいは25%を購入上限としている92。ECBは19年9月の政策理事会で、同年11月から月200億ユーロのペースで資産を買い取ることを決定したが、早晩ドイツ国債の買い入れが限界に達するとみられている。今後も資産購入プログラムを安定的に継続する方法としては、出資比率に基づくルールを変更し、現在、最大の買取り枠を割り当てられているドイツ国債の購入を減らし、その他のEU加盟国、例えば南欧諸国の国債の購入割合を引き上げることや、発行残高に基づく上限を、例えば50%まで引き上げることによって資産の買取りを増加させることなどが考えられる。ただし、こうしたルールの変更は加盟各国の財政規律を緩める可能性があるため、多くの議論が必要になると思われる。
(金融政策戦略の見直し)
20年1月に開催された政策理事会では、19年12月の政策理事会で予告されていたように、金融政策戦略の見直しの開始が正式に決定され、同日その詳細についても公表された。このタイミングで大幅な見直しを行う背景として、生産性の伸びの鈍化、高齢化、金融危機の影響等による経済成長トレンドの低下といったユーロ圏及び世界経済における大幅な構造変化が金利の低下をもたらし、標準的な政策手段による金融緩和の余地が小さくなってきたことが挙げられている。また、低い物価上昇率への対処方法は歴史的に問題となってきた高い物価上昇率への対処方法とは異なること、環境の持続可能性に対する脅威、急速に進むデジタル化、国際化の進展、金融構造の変化により、物価の変動を始めとする金融政策運営をめぐる環境が大きく変化したことも挙げられている。
具体的な検討課題として、物価安定の定量的表現(quantitative formulation)、金融政策手段、経済・金融分析手法、市場との対話方法のほか、金融の安定、雇用、環境の持続性が含まれるとされており、結論は20年末が予定されている93。また、本見直しに当たっては、欧州議会や学識者を含む全ての関係者の参加の下、徹底的な分析と柔軟な思考に基づいて予断を持たず行うこととしている。
なお、金融政策手段の見直しに際しては、この10年余り採られてきた非標準的金融政策の効果及び潜在的な副作用の検証も行うこととされている。特に近年、消費者物価上昇率(総合)がECBの目標を大幅に下回る状況が続く中(後掲第2-3-20図参照)、物価安定の定量的表現の検証を通じて現在のインフレ参照値の設定に関しどのような見解が示されるか94、また、非標準的金融政策手段の検証において、上述のような量的緩和が銀行収益や貸出に与える影響、資産購入プログラムを継続する上でのドイツ国債の不足といった課題に対し、どのような見解が示されるかが注目される。
3.中国
(1)最近の動き
中国では、景気の減速が一層鮮明となる中、景気下支えのため、金融政策も18年半ば以降の緩和的なスタンスを維持している95。中国人民銀行は、18年に続き、19年入り後も、預金準備率の引下げを始め、様々な手段を講じている。過去に過剰債務問題等を生じた経験を踏まえ、「ばらまき」は行わないとの方針の下、特に、小規模・零細企業や民営企業96の資金繰り難の緩和の必要性が強調されており、それらに配慮した政策が採られている。
(預金準備率の引下げ)
預金準備率は、18年に続き97、19年も1月及び9月にそれぞれ1%ポイントと0.5%ポイントの引下げ、さらに20年1月に0.5%ポイントの引下げが実施された98。これに加えて、5月に、一部農村商業銀行(所在地の県内のみで営業している、または他県にも出先機関を設けているが資産規模が100億元未満の農村商業銀行)の預金準備率を引き下げ、農村信用社と同じ8%の預金準備率を適用することを決定した(5、6、7月の3回に分けて実施)。また、10、11月には、一部都市商業銀行(省レベル行政区域内のみで営業する都市商業銀行)を対象とした計1%ポイントの引下げも実施された。こうした対象を絞った引下げは、中国政府が重視する小規模・零細企業や民営企業の資金繰り難の緩和を主眼としている。
なお、預金準備率については、従来から大型銀行とその他の中・小型金融機関向けで異なる水準が設けられており、また、一部の小型金融機関向けには特例的に低い水準が設けられていたが、19年5月以降、大型銀行向け、中型金融機関向け、小型金融機関向け99の三種に集約された(第1-2-25図)。さらに、一定の条件を満たした場合に以下の二つの優遇措置も設けられている。まず、大型銀行及び中型金融機関は、小規模・零細企業100・農家・貧困層等への貸出(「包摂金融貸出」)が一定割合に達した場合101に、追加的に0.5%ポイントまたは1.5%ポイントの預金準備率の優遇が受けられる。また、県内で営業している銀行については、新たに増加した預金の一定比率を地元の貸出にあてた場合に、追加的に1%ポイントの優遇が受けられることとなっている。
(基準金利の役割変化とローンプライムレートの見直し)
中国では、主要な政策金利として、国務院からの委任を受けて中国人民銀行が貸出基準金利及び預金基準金利(金融機関が貸出及び預金金利を定める際の基準となる法定金利)を決定している。同金利の調整は、かつては主要な金融政策手段であったが、15年10月の引下げを最後に調整は実施されていない。この背景として、規制金利から市場ベースの金利設定メカニズムへの移行が図られていることがある。かつて各金融機関の貸出金利及び預金金利は上限、下限ともに規制されていたが、04年10月に貸出金利の上限及び預金金利の下限が撤廃され、13年7月に貸出金利の下限、15年10月に預金金利の上限が撤廃され、金利は自由化された(第1-2-26表)。ただし、中国人民銀行は、預金金利上限撤廃の際、今後も一定期間、市場の需給によって決定される金利形成メカニズムが確立されるまで、金融機関の金利設定の参考のため、預金基準金利及び貸出基準金利の公表を継続することとし、現在も引き続き公表している。
金利自由化が進められる中、13年10月に、日米等主要国の経験をもとに、旧ローンプライムレート(LPR: Loan Prime Rate)の公表が開始された。この旧LPRは、商業銀行(導入当初は9行、17年から10行)の優良顧客向けの最優遇貸出金利を基に算出される金利であり、将来的には貸出基準金利に替わる金融機関の金利決定の新たな参考指標とするべく導入された。しかしながら、導入後の動きをみると、実際には貸出基準金利と大きく変わらない水準で推移していた(第1-2-27図)。
このため、中国人民銀行は、金利設定における市場の役割を強化し、金利の波及の効果を高め、実体経済の借入コストの引下げを図ることを目的とし、19年8月17日に、ローンプライムレート(LPR)102の形成メカニズムを見直すことを発表した。中国人民銀行は、LPR見直しの背景として、貸出金利の上限及び下限規制は既に撤廃されているものの、貸出基準金利は廃止されていないために、貸出基準金利と市場金利が併存する「二重金利」の状態となっていること、また、大半の銀行が貸出にあたって貸出基準金利を参照し、一部の銀行では協調して貸出基準金利の0.9倍を暗黙の下限として設定しており、こうした慣習が残っていることが、市場金利の実体経済への波及を阻害していることを指摘した。
実際に、各種金融緩和手段が採られる中、銀行間金利は低下しているものの、金融機関の貸出金利は大きな変化がみられていない(第1-2-28図)。また、金融機関の貸出の内訳をみると、貸出基準金利以上の金利による貸出の割合は、金利が自由化された直後の16年よりも高まっており、19年においても8割強を占めている(第1-2-29図)。
(新LPRの概要)
今回のLPRの見直しでは、算出方法について、以下のような見直しが図られた。
(1)毎月20日の午前9時に、人民銀行傘下の機関である全国銀行間取引センター103が、報告値の最高値と最小値を除いた算術平均値を算出(以前は、日次の公表で、加重平均値を算出)。
(2)報告銀行は、公開市場操作金利(主に、平均的な限界資金調達コストを反映している中期貸出ファシリティ(MLF: Medium-term Lending Facility)(後述)の金利(1年物))を参照し、資金調達コスト、市場の需給、リスクプレミアム等を反映した金利を報告する(以前は、定めはないものの、主に貸出基準金利が参照されていた)。
(3)これまでの1年物に加え、住宅ローン等の長期融資の参照指標として5年物を公表する。
(4)報告銀行を10行から18行に拡大する。これまでの全国規模の銀行(国有商業銀行と大手の株式制商業銀行)に、都市商業銀行、農村商業銀行、外資系銀行、民営銀行が追加された。
さらに、各銀行は、新規融資について、新LPRを参照して金利を設定しなければならないとし、いかなる形でも協調行為を通じて、暗黙の金利下限を設けてはならないことが明記された。また、マクロプルーデンス評価システム104に、新LPRの活用状況を取り入れることで、実効性を担保することとされた。
この見直しに伴い公表された新LPRは、1年物は19年8月に4.25%となり、旧LPRの4.31%、貸出基準金利の4.35%から小幅ながら低下し、その後9月も4.2%に低下した。(前掲第1-2-28図)。さらに、11月5日に参照金利となっているMLF金利(1年物)について16年2月以来となる引下げが実施され、新LPRも11月に4.15%に低下した105。
他方、中国人民銀行は、LPRの見直しにあわせて、8月25日に、新規の住宅ローン金利についての公告を公表し、「住宅は住むためのものであり、投機の対象ではない」との原則の下で、住宅ローン金利の基本的な安定を維持するとしている。具体的には、10月8日以降、新規の住宅ローンの金利は、直近1か月の新LPRを基に設定するものとするが、1軒目の住宅購入の場合は新LPRを下回ってはならず、2軒目の購入では新LPR+0.6%ポイントを下回ってはならないとするなど、住宅ローン金利の低下に歯止めをかけるものとなっている。
(2)金融政策の枠組み
今回のLPRの見直しは、貸出金利の低下による景気の下支えというだけでなく、近年、中国が進めてきた金利の市場化、現代的な金融枠組みへの転換の過程における取組の一つである。以下では、金融政策における目標と現在採られている主要な金融政策手段についてみていく。
(政策目標)
中国人民銀行における政策目標は、「通貨価値の安定を維持し、それをもって経済成長を促進する」とされている。なお、中国人民銀行は、中央銀行であるが、国務院の一組織であり、国務院の指導の下で、金融政策を策定し、執行するとされている。金融政策の中間目標は、M2及び社会融資総量残高の増加率となっており、毎年3月に開催される全国人民代表大会において目標が示されている。17年までは具体的な数値目標が示されていたが(17年はM2及び社会融資総量残高の増加率がそれぞれ12%前後)、18年以降は数値目標が示されなくなり、例えば、19年では、「M2・社会融資規模の伸び率と名目GDP成長率が釣り合うようにする」とされている。また、近年、量によるコントロールから金利によるコントロールへの移行が目指されている106。
(金融政策手段)
金融政策手段としては、上述した預金準備率や金利政策のほかに、公開市場操作を通じた流動性調節、MLFや常設貸出ファシリティ(SLF: Standing Lending Facility)を通じた市場への流動性供給、中央銀行貸出(再貸出)・再割引といった複数の金融政策手段が用いられている。
(i)公開市場操作
銀行システムの流動性の調整のための日常的な手段として、公開市場操作が用いられている。1998年にプライマリーディーラー制度が導入され、主な手段としては、リバースレポ取引(資金供給オペ)やレポ取引(資金吸収オペ)107の他、中央銀行手形の発行108、公開市場短期流動性調整ツール(SLO: Short-term Liquidity Operations)109等がある。なお、16年2月18日以降、公開市場操作の頻度を、それまでの週2回から毎営業日に実施できるようにするなど、機動性を高めており、現在は、リバースレポ取引110が主に行われている111。
リバースレポ・オペ金利(7日物)の動向をみると、16年以降では、4回引上げを実施しているが、そのうち、3回はアメリカのFF金利引上げと同じ月に実施されている(第1-2-30図)。19年11月18日には、15年10月以来となる引下げ(2.55%から2.50%)を実施し、12月18日にも、リバースレポ・オペ金利(14日物)について2.7%から2.65%への引下げを実施している。また、新型コロナウイルスの感染拡大が金融資本市場の動揺を招くことが懸念された春節明けの2月3日には、リバースレポ・オペ金利を0.1%ポイント引き下げた上で(7日物を2.50%から2.40%、14日物を2.65%から2.55%)大規模な資金供給オペを実施するなど、公開市場操作は短期資金の調整ツールとして大きな役割を果たすようになっている。
(ii)MLF、SLF等
公開市場操作のほか、MLF、SLF等112が流動性供給ツールとして活用されている。SLFは、中国人民銀行が金融機関からの要請に応じて、有担保で短期の流動性を供給する制度(13年初導入)で、期間は、現在、翌日、7日、1か月がある。MLFは、中国人民銀行がマクロプルーデンス政策上の条件を満たした商業銀行や政策銀行に対して、中期の資金を国債や中央銀行手形等を担保に貸し出す制度(14年9月導入)で、期間は、3か月、6か月、1年があるが、現在は1年物が主体とされている。また、中国人民銀行は、MLF金利を中期の政策金利としての役割を果たすものと位置付けており、上述のとおり、新LPRの算出の参照金利ともなっている。MLF金利(1年物)は、19年11月5日に、16年2月以来となる引下げ(3.3%から3.25%)が実施された(前掲第1-2-27図)。
さらに、19年からは、小・零細企業や民営企業への貸出を支援することを目的に、目標型中期貸出ファシリティ(TMLF: Targeted Medium-Term Lending Facility)が導入されている。大型商業銀行、株式制商業銀行、大型都市商業銀行を対象に、申請に基づいて小規模・零細企業や民営企業向けの融資状況等に応じて資金の供給を行う制度であり、金利は、MLFより0.15%優遇された3.15%とされ、期間は1年であるが2回の延長が可能で、最大3年となっている。貸出残高をみると、MLFは、18年以降、預金準備率引下げによる流動性供給が行われているため、やや減少しているが、19年8月時点で3.4兆元と高水準となっている。また、TMLFは、導入後着実に残高を伸ばし、19年7~9月期時点で0.8兆元まで増加している(第1-2-31図)。
(iii)中央銀行再貸出・再割引
中央銀行再貸出・再割引113は、かつては主要な金融政策手段の一つであったが、現在は、三農(農業、農村、農民)や小規模・零細企業向けなどの特定分野の支援に限定して用いられている。19年9月時点の残高は、再貸出が6,200億元超、再割引が4,400億元超と規模としては比較的小さい。ただし、18年6月以降、小規模・零細企業や民営企業の支援のため、再貸出・再割引枠の拡大が複数回にわたり実施され、小規模・零細企業向け再貸出や再割引残高は18年後半から大きく増加している(第1-2-32図)。
(iv) 金利コリドー・システムの形成
上記の金融政策ツールに加え、中国人民銀行は、金利の調整能力を高め、金融政策の金融市場や実体経済への波及メカニズムを向上するため、近年、上限をSLF金利、下限を超過準備の付利金利とする金利コリドーの形成に取り組んでおり114、短期金利の安定を図ることとしている。将来的に操作目標金利とする短期金利については、まだ明確には定められていないが、DR007と呼ばれる銀行間7日物レポ加重平均金利が、「取引量が多く市場金利全体に影響力がある」「コリドーにおける重要な金利」であり、「金融政策が特別の注意を払う市場流動性を測る指標の一つ」とされている115ことから、有力な候補とみられている(第1-2-33図)。
(3)金融政策の課題
(金融緩和と金利自由化)
(1)で述べたように、中国人民銀行は現在の経済情勢に鑑み、金融緩和を進める中で、並行して金利自由化の取組を続けている。19年にはLPRの見直しにより、金利自由化に向けて一歩前進したとみられるものの、完全な金利自由化の実現には今後も時間を要するものとみられる。新LPRが初めて公表された8月20日の記者会見において、中国人民銀行は、新LPRに基づいて銀行が貸出金利を裁量的に引き下げるようになることで銀行の利鞘と収益が高まり、長期的に銀行の競争力向上や健全な経営にも貢献すると、新LPRの役割への期待を示したものの、預金基準金利については今後も存続をさせる意向を示した。貸出基準金利と預金基準金利は長らく金融政策の主要な手段として用いられてきたことから、これらを参照する銀行側の慣習が変わるには時間を要する可能性がある。実際、第1-2-28図でみたように、新LPRの公表開始後も貸出金利に大きな変化はみられていない。金利の自由化に向けた取組は本来長期的な課題であるものの、経済が緩やかに減速する中で、金融政策の波及メカニズムを高めることも短期的に求められる課題となっている。
(中央銀行の独立性)
(2)で述べたように、中国人民銀行は、国務院の一組織と位置付けられ、国務院の指導の下で、金融政策を制定し、執行するとされている。また、総裁をはじめ主要人事や予算も政府により決定される等、制度上独立性が担保されていない。IMF116は、中国人民銀行がこれまで市場とのコミュニケーションの向上を進めてきた点を評価しつつも、こうした制度設計により、近年の他の中央銀行のようにコミュニケーションを金融政策ツールとして用いるに至っていないことを指摘している。具体的には、中国人民銀行が国務院に金融政策の変更を申請するに際して他の関係省庁との間で合意を得る必要があることから、重要な金融政策の決定内容及び公表のタイミングが不明確となり、フォワードガイダンスを提供できる範囲が限定されることなどを挙げている。また、制度設計の変更には時間を要するとしても、短期的に可能な取組として、英文によるタイムリーな情報提供や、中央銀行の経済見通し作成能力の向上とより深い分析の公表、定期的な記者会見の開催等を提言しており、こうした取組が、中国の金融資本市場の国際的な評価を向上させ、人民元の国際化にもつながること、金融政策の予見可能性を高めて政策効果の向上をもたらすこと、さらには中国人民銀行の金融政策運営上の独立性を高めることにも貢献する、としている。
(デジタル通貨の導入)
世界各国の中央銀行において、デジタル通貨の発行に対する関心が高まっている中で、19年は、中国人民銀行においてもデジタル通貨に関する言及がみられた。中国人民銀行総裁は、9月24日の記者会見において、中国人民銀行では、14年からデジタル通貨に関する研究を進めていること、デジタル通貨は、現金の一部を代替するものであること、デジタル通貨を管理する枠組は中央銀行と商業銀行からなる二層のシステムとし、現在の通貨供給の経路とシステムは変えないこと、ブロックチェーンや現在の電子決済システムに基づく新技術を用いることを検討していること、などを明らかにした。ただし、導入に向けたタイムスケジュールはまだ決まっておらず、研究、試験、試行、評価やリスク防止など対応すべき事項は多く、特に、クロスボーダーでの使用について、マネーロンダリングやテロ資金対策、タックスヘイブン対策など多くの監督規制への対応が必要になる、とも述べている117。
さらに、10月24日には、習主席がブロックチェーン技術の重要性について言及したほか118、同月26日に「暗号法」119が成立し、20年1月から施行されるなど、ブロックチェーンの推進と、デジタル通貨の発行に向けた環境整備が急速に進められているものとみられている。また、20年初に示された中国人民銀行の20年の重点業務の中にも、法定デジタル通貨の研究開発を引き続き着実に推進することが含まれており、デジタル通貨の導入に向けた取組が着実に進められていることがうかがわれる。
コラム1-5:アジア各国・地域の経済及び金融政策動向
18年は、アメリカの政策金利引上げを背景に、アルゼンチンやトルコで通貨の大幅な下落がみられ、アジア各国・地域でも、両国と比較すれば小幅であったものの、インドネシアやインドを中心に通貨安が生じた。このため、これらの国では政策金利の引上げを余儀なくされた局面もあったが、19年に入り、アメリカが政策金利引下げに転じたこと、また、米中貿易摩擦や中国経済減速の影響が広がってきたことなどから、アジアでも、政策金利引下げの動きが相次いでいる。本コラムでは19年のアジア各国・地域(韓国、台湾、インドネシア、タイ、インド)における経済動向及び金融政策を概観するとともに、各国の金融政策枠組みについてみていく。
(1)経済動向
アジア各国・地域では、18年後半頃から実質経済成長率は鈍化している(図1)。特に輸出依存度の高い韓国、台湾、タイ(注1)では、中国経済の減速やITサイクルの一巡を背景に、主要相手国である中国向け、主要品目である半導体・電子部品を中心に輸出が減少している。また、輸出減少に伴い、韓国では半導体を中心に設備投資が大幅に減少、タイでも設備投資の伸びが低下するなど、景気の下押しにつながっている。
他方、台湾では、中国の輸出の代替として、19年初め頃からアメリカ向けの情報通信機器の輸出が大きく増加し、景気を下支えている。また、米中貿易摩擦を機に、19年から中国に進出している台湾企業の回帰を促す政策(注2)を実施しているが、当初の通年目標額を4月までに達成し、目標額を上方修正するなど順調に進んでおり、これも輸出や設備投資を後押ししている。インドネシア、インドでは、輸出依存度が低く(注3)、韓国、台湾、タイと比較すれば景気全体への影響は小さいものの、輸出は鈍化している。内需の動向をみると、インドネシアでは19年後半からやや鈍化がみられる。インドでは、19年を通じて投資、消費ともに大きく鈍化しており、景気全体としても弱い動きとなっている。
(2)金融政策動向
アジア各国・地域では、19年に入り政策金利引下げが相次いでいる(図2)。
韓国では、7月18日の金融政策決定会合において、輸出、投資を中心とした景気の減速を背景に3年1か月ぶりに政策金利を0.25%ポイント引き下げ、さらに10月16日にも同率の引下げを実施し、政策金利は過去最低水準に並ぶ1.25%となった。韓国銀行による19年の経済成長率見通しも、1月時点の前年比2.6%から11月には同2.0%まで引き下げられた。金融政策のスタンスは、「緩和的」が維持されている。
インドネシアでは、7月15日の金融政策決定会合において、1年10か月ぶりに政策金利を引き下げ、その後も経済成長の勢いを守る予防的な措置として、8月22日、9月19日、10月24日と4会合連続で0.25%ポイントずつの引下げを実施した。インドネシア銀行による19年の経済成長率見通しも、1月時点の前年比5~5.4%から11月には5.1%前後に引き下げられた。
タイでは、輸出の減速とそれに伴う国内需要の減速等を背景に、19年8月7日に、4年4か月ぶりに政策金利を0.25%ポイント引き下げ、さらに11月6日にも同率の引下げを実施し、政策金利は過去最低の水準に並ぶ1.25%となった。タイ銀行による19年の経済成長率見通しも、3月時点の前年比3.2%から12月には2.5%に引き下げられた。金融政策のスタンスは、「緩和的」が維持されている。
インドでは、19年2月7日に1年半ぶりに政策金利を引き下げ、以降、4月4日、6月6日、8月7日、10月14日と5会合連続で引下げを実施し、政策金利は計1.35%ポイント引き下げられた。景気の鈍化が顕著になる中、6月会合では、金融政策のスタンスも「中立」から「緩和的」に変更された。ただし、12月会合では、物価上昇への懸念(後述)や、金融緩和や景気対策の効果の見極めのため、6会合ぶりに政策金利を据え置いた(経済対策の詳細はコラム2-2参照)。インド準備銀行による19年度の経済成長率見通しは、2月時点の前年比7.4%から12月には同5.0%まで引き下げられた。
他方、台湾では、19年4~6月期以降、景気に緩やかな回復がみられる中、19年12月まで14会合連続で政策金利は1.375%で据え置かれている。9月及び12月の理事監事連席会議(=金融政策決定会合に相当)では、企業が台湾での生産比率を高め、輸出が回復していることを背景に、19年の経済成長率見通しを連続で引き上げた。
(3)金融政策の枠組みと物価等動向
アジア各国・地域の中央銀行は、金融政策の目標として物価の安定や経済成長等を掲げている(表3)。韓国、インドネシア、タイでは、97年のアジア通貨危機後、為替制度を変動相場制に移行するとともに、インフレターゲットが導入されており、インドにおいても、16年からインフレターゲットが導入されている。各国でターゲットとしている消費者物価上昇率(総合)の最近の動向をみると、インドを除き、概ね落ち着いて推移している。韓国、タイでは、目標を下回っており、特に韓国では9月には統計開始以来初の前年比マイナスとなった(図4)。インドネシアでは、目標圏内で推移している。インドでは、19年夏頃まではやや高まりつつも目標圏の中央値以下で推移してきたが、食品価格の上昇(注4)により8月に目標の中央値である前年比4%となった後、12月には同7.4%と目標の上限を超えた。なお、台湾では、通貨供給量(M2)の増加率を金融政策の中間目標としており、最近の動向をみると、目標値圏内で推移している。
なお、政策金利として、韓国、インドネシア、タイ、インドでは、レポ・オペ金利またはリバースレポ・オペ金利(各国中央銀行が流動性調節のため、買い戻し条件付き国債等の売買(レポ取引)を行う際に用いられる金利)を採用している。また、いずれの国も、同金利にコリドー(上限と下限)を設け、公開市場操作を用いて、その範囲で短期金利が推移するよう誘導している(注5)。台湾では、政策金利は、再割引率(「重貼現率」(=discount rate))を用いている。再割引率は、金融機関に資金不足がある場合、中央銀行が適格な手形の再割引により、資金を融通する際に用いられる基準金利である。
(注1)通関輸出額の対GDP比(18年)は、韓国35.1%、台湾54.9%、タイ50.7%。
(注2)台湾では、19年1月から「歓迎台商回台投資行動方案」(中国大陸で事業を行う台湾企業の台湾への回帰投資を促進するプログラム)が施行されており、一定条件を満たした企業への優遇措置(低利率の融資や土地の確保、労働力確保の支援等)を行っている。
(注3)通関輸出額の対GDP比(18年)は、インドネシア17.3%、インド11.9%。
(注4)雨季が例年より長引き季節外れの大雨となった影響で、野菜価格が大幅に上昇(12月前年比60.5%)したことがある。
(注5)韓国、インドネシア、タイでは、上限が貸出ファシリティ金利、下限が預金ファシリティ金利。インドでは、上限が限界常設ファシリティ(MSF:Marginal Standing Facility)金利、下限がリバースレポ・オペ金利。