第1章 欧米主要国における賃金の伸び悩み(第1節)
第1節 欧米主要国における失業率及び賃金の動向
はじめに、欧米主要国・地域における失業率及び賃金の動向を複数の指標を用いて確認していく。
(アメリカにおける失業率及び賃金の動向)
アメリカ経済は、2008年の世界金融危機後、09年6月を景気の谷に拡張局面入りし1、長期にわたる回復が続いている。失業率についても09年10月の10.0%を最近のピークに徐々に低下していき、17年後半には4%台前半に達している。これは、過去の拡張局面と比べても遜色ない水準といえる(第1-1-1図)。
このように失業率が歴史的にみても低水準となり、労働需給の引き締まりが見込まれるにもかかわらず、名目賃金の伸びは、過去の拡張局面と比べて緩やかなものにとどまっている。名目賃金の動向をみる上で最も標準的な指標である、アメリカ労働省が公表する時間当たり賃金(Average Hourly Earnings)について、65年以降の長期データが利用可能な非管理労働者ベース2でみると、過去の拡張局面では、前年比3~4%程度の伸びであったが、現在の回復局面では同2.5%程度にとどまっている(第1-1-2図)。07年からデータが存在する全従業員ベースの賃金の伸びをみても、前年比3%に満たない結果となっている(第1-1-2図)。
この時間当たり賃金には、残業代や定期的に支払われるボーナス等は含まれるが、企業負担による社会保険料や有給休暇等のその他の雇用者の利益は除外されており、雇主からみた雇用コストは賃金よりも大きい。アメリカ労働省が公表する雇用コスト指数(Employment Cost Index)は、賃金・俸給にそうした福利厚生費を加えた時間当たりの雇用コストを示す。この推移を確認すると、16年半ばごろから基調として上向いてきているものの、17年7~9月期は前年比2.5%程度の伸びにとどまっており、リーマン・ショック前の景気拡張局面で3%台前半の推移となっていたことと比べ、依然伸び悩んでいる(第1-1-3図)。
また、雇用コスト指数は、時間当たりのコストを示すが、労働時間の増減を加味した雇用者の総報酬についても確認してみる。アメリカ商務省が公表する雇用者報酬(Compensation of Employees)は、一国の生産活動により産み出された付加価値のうち雇用者の受取分を表し、賃金・俸給に雇用者の年金・保険基金や政府の社会保障に対する雇主負担分が加えられている。この雇用者報酬の推移をみても、17年以降、前年比2%台後半から3%台前半で推移しており、過去の拡張局面では5~8%程度にまで上昇したことと比べ、鈍い動きとなっている(第1-1-4図)。
このような賃金上昇率低迷の一因として、労働市場における構成変化の影響が指摘されている。例えば、Daly et al.(2016)は、賃金上昇率の低迷について、ベビーブーマーの退職による高賃金労働者比率の低下や景気回復期における低賃金労働者比率の拡大といった労働市場における構成変化の影響を指摘している。アメリカにおけるベビーブーマーは、一般に46年から64年生まれの年齢層を指し、世界金融危機ごろから退職期を迎えている。雇用者全体に占める比率が高く、比較的高賃金であるベビーブーマーの退職は、平均賃金を押し下げる方向に働く。また、景気回復期にはまず低賃金の雇用が拡大する一方、景気後退期には低賃金の雇用から先に失われていくことが知られている3。このため、景気回復期には低賃金労働者の比率が高まることから、平均賃金は上がりにくく、逆に景気後退期には高賃金労働者の比率が高まることから、平均賃金は下がりにくい。こうした構成変化の影響を除外した賃金指標である賃金上昇追跡調査(Wage Growth Tracker)の動向を確認する4。賃金上昇追跡調査は、アトランタ連邦準備銀行が、アメリカ商務省の人口動態調査5を基に作成した賃金指標であり、同一個人の該当月と12か月前の回答を突き合せ、各個人の時間当たりの名目賃金・俸給の伸びを計算し、その中央値を示したものである。フルタイム労働者とパートタイム労働者6別に賃金指数の伸びを確認すると、双方ともに世界金融危機前の水準に達しておらず、賃金の伸びはかつてほどの勢いがない様子がうかがえる(第1-1-5図)。
(ヨーロッパにおける賃金及び失業率の動向)
ユーロ圏では、世界金融危機後の景気回復局面の後、09年秋からのギリシャ財政危機を契機とする欧州政府債務危機による景気後退期もあったものの、13年1~3月期を景気の谷に回復局面入りし7、現在も景気回復が続いている。次に、ヨーロッパの失業率の動向をみていく(第1-1-6図)。ユーロ圏全体、ドイツ、フランス、英国、いずれの国・地域においても、景気回復に伴い、近年、失業率は低下してきている。ユーロ圏全体及びフランスでは、依然として08年のリーマン・ショック直前の水準を上回るものの、着実にリーマン・ショック前の最低水準に近付いている。英国では、既にリーマン・ショック前の最低水準を下回り、ドイツでも、2000年代半ば以降低下し続け、現在は3%台半ばに達し、ともに歴史的にみても低い水準に至っている。
ユーロ圏全体、ドイツ、フランス及び英国の名目賃金(残業代等を含む)の伸び率をみていく。失業率が低下しているにもかかわらず、全般的に賃金の伸びは弱い。ユーロ圏全体の時間当たり賃金の上昇率は、2000年代前半ごろまでの景気回復局面では、約2%から4%の間で推移していたが、現在の回復局面では、1%から2%台前半にとどまっている。ユーロ圏のうちドイツでは、全般的に振れが大きいが、2000年代前半の景気回復局面ではおおむね1%から3%台の伸び率で推移し、世界金融危機後の景気回復局面でもおおむね1%前後から3%台の伸び率で推移しており、2000年代から賃金の伸びが落ちている様子はうかがえない。フランスの賃金上昇率は、2000年代前半にはおおむね2%から4%近辺であったが、今回の景気回復局面では11年以降、低下傾向にあり、14年半ば以降は1%台で推移している。英国では、08年から09年にかけての景気後退期を境に賃金上昇率が大幅に低下し、15年後半以降では2%近辺で推移している(第1-1-7図)。
賃金・俸給に社会保障負担等それ以外の労働コストを合わせた労働コスト指数(Labour Cost Index)でみても、ユーロ圏全体、フランス、英国では長期的にみて低下傾向にある一方で、ドイツの15年以降の伸びは、リーマン・ショック前よりも上昇している(第1-1-8図)。
先にみたとおり、ヨーロッパの失業率は全般的に低下しており、労働需給は引き締まってきていると考えられる。しかしながら、ドイツを除く国・地域では、賃金上昇率は高まっておらず、失業率からうかがえる労働市場のタイト化が必ずしも賃金上昇につながっていない。2000年代前半には失業率の低下が、賃金の伸びにつながっていたが、近年はそうした過去のパターンが当てはまっていない。ヨーロッパでもアメリカ同様、失業率が低下する一方、賃金が伸び悩む状況にある。
(欧米主要国のフィリップス・カーブ)
失業率と賃金上昇率をそれぞれ確認してきたが、ここで両者の関係についてみていきたい。第1-1-9図は、欧米主要国・地域について、失業率と賃金上昇率の関係を示すフィリップス・カーブをリーマン・ショック前後に分けて図示したものである。アメリカでは、リーマン・ショック後のフィリップス・カーブをみると、ほぼ水平になっている。ヨーロッパにおいても、ドイツ及び英国ではリーマン・ショック後にフィリップス・カーブがフラット化している。ただし、ドイツでは失業率が低下した一方で、賃金の伸びはリーマン・ショック前後で変化していない点で、両者がともに低下した英国とはフラット化の状況が異なる。また、ユーロ圏全体8及びフランスではフラット化はみられない。このことから、アメリカ、ドイツ及び英国では、過去と比べて失業率の低下に対して賃金が上がりにくくなっている可能性が示唆される。
(欧米主要国の労働分配率)
本節の最後に、労働分配率の動向を確認する。国民が生産活動により産み出した付加価値(国民所得)は資本と労働に分配される。これまで、労働への配分部分である賃金の動向をみてきたが、資本と労働の間の分配率に変化はないのだろうか。これを、アメリカ、ユーロ圏全体、ドイツ、フランス及び英国について、付加価値のうち労働者に分配された報酬の割合を示す労働分配率でみると、08年のリーマン・ショック前までは低下傾向にあったが、その後上昇し、アメリカを除くユーロ圏全体、ドイツ、フランス及び英国では、10年以降ほぼ横ばいとなっている。一方、アメリカでは09年以降、再度低下傾向となった後、近年ではほぼ横ばいとなっている(第1-1-10図)。