第1章 第5節
イノベーションをめぐる課題
前述のとおり、中国が中所得国の罠に陥ることなく持続的な成長を実現するためには、イノベーションを通じた生産性の向上が不可欠となっている。本節では、中国におけるイノベーション政策とその成果、今後の課題を概観する。
1.中国のイノベーション政策
第二期胡錦濤政権(2006~11年)は、投資や輸出に頼った従来の経済成長モデルから、イノベーション主導の経済成長モデルへの転換に着手した。これまで中国では、活発な投資活動により一人当たりの資本ストックを増加させ、安価な労働力や先進国の先行技術を利用することで高い資本リターンを得て高い成長を生み出してきた。しかし、所得水準の上昇に伴って安価な労働力が払底してくると、資本リターンはさほど増えなくなった。このため、技術進歩による付加価値の上昇による投資リターンの確保が重要となっている1。また、輸出は、特に01年のWTO加盟後、経済成長の一因となったものの、多くが加工貿易によるものであり、中国が独自に生み出す付加価値は小さかった。このため、他のアジア諸国と比べて人件費が高騰するにつれ、技術力の向上によって商品の国際競争力を強化する必要性が高まってきた。
こうした中、国務院は06年2月に科学技術・イノベーション政策の長期的な基本方針として、「国家中長期科学技術発展計画綱要(06~20年)」(綱要)を発表した。綱要では、R&D投資のGDP比を06年の1.4%から10年には2.0%、20年には2.5%へ引き上げること、特許の年間取得件数と引用される国際科学論文数で世界トップ5位になるといった数値目標が掲げられた。
イノベーションには人材資源や教育政策の果たす役割が大きいことも意識されており、「国家中長期人材発展計画綱要(10~20年)」(10年6月公表)ではR&D要員の増加等が目標に掲げられている。
また、中期的な計画として、国の社会経済発展に関する5か年計画でも科学技術分野について言及されている。第12次5か年計画(11~15年)では、主要目標の一つとして科学技術教育水準の向上が掲げられている。
加えて、中国政府は、15年5月に製造業の高度化をめざす10年間の行動計画「中国製造2025」を発表した。これは、2049年(建国100周年)までを3つの段階に分け、その第一段階として2025年までに労働集約型の「製造大国」から世界の「製造強国」2の仲間入りを果たそうというものであり、発展させるべき10分野の重点産業と、発展計画指標(数値目標)が設定されている(第1-5-1表)。なお、第二段階(25~35年)で中国の製造業全体を世界の製造強国の中程度のレベルまで引き上げ、第三段階(35~49年)で世界をリードするトップクラスの製造強国になるとの目標が掲げられている。
さらに、第13次5か年計画(16~20年)の草案においても、イノベーションを国家発展の全面的中核に据えるとされ、今後5年間の発展を導く理念として高い位置付けが与えられている。
2.中国のイノベーションをめぐる現状
(1)インプット
こうした政策の効果もあって、まずはイノベーションのインプットが増大している。R&D投資は、10年までにGDP比2.0%にするという目標は達成できなかったものの、13年にはGDP比2.1%となった(第1-5-2図)。ただし、R&D投資を分野別にみると、11年には開発研究が83.5%だったのに対し、基礎研究は4.7%にとどまっていた3。
また、世界のトップR&D企業4のうち、中国企業のシェアは11年の1.4%から14年には8.0%に上昇し、フランスやドイツ、英国を上回っている(第1-5-3図)。なお、トップR&D企業にランクした中国企業のうち上位50社における資本構成をみると、74%が国有企業5であった。
研究開発を担う人材も豊富になってきている。中国の大学進学率は04年の19.0%から14年には37.5%と上昇しており、うち理系学部の修士及び博士課程の在籍者も同期間に15.1%増加して92.6万人となった。これに伴い研究者数も増加している(第1-5-4図)。また、留学生数も年々増加しており、例えばアメリカへの中国人留学生数は、05~06年度にはアメリカ全体の留学生の11.1%だったが、14~15年度には31.2%を占めた。なお、同期間に、韓国は10.5%から6.5%に、日本は6.9%から2.0%にそれぞれシェアが低下した6。
高等教育を受けた人材が増加する一方、中国では頭脳流出が進むとの懸念も指摘されているが、同一年の帰国人数と出国人数の比率は02年を底に上昇傾向にあり、14年には79.3%となった。海外から帰国した人材は、中国企業の海外進出に当たり、海外で構築したネットワークを通じて資金や最新の技術等へアクセスするために重要な役割を果たしているとも指摘されている7。
(2)アウトプット
R&Dへの投資や人的なインプットが増加したことによって、その果実であるアウトプットについても増加がみられる。
まず、中国の論文数は増加しており、世界の論文数に占めるTop10%補正論文数9の割合も上昇している(第1-5-5図)。一方で各国が発表する総論文数に占めるTop10%補正論文数の割合は主要国の中では低水準にとどまっており、論文の平均的な質はまだ高くないとみられる(第1-5-6図)。分野別にみると、化学や工学が多く、基礎生命科学や臨床医学は少なくなっている(第1-5-7図)。
また、中国は、11年以降、特許申請件数で世界一となっている(第1-5-8図)。特許の国際申請が多い企業をみると、中国企業は08年に初めて世界一となり、以降、常に上位を維持している(第1-5-9図)。ただし、特許の申請数自体は急増しているものの、許諾される比率は必ずしも高くない。申請が許諾された比率は11~13年の平均で30.4%にとどまった10。また、特許収入(受取)はほとんど増えておらず、特許の多くは国内の利用にとどまっているとみられる(第1-5-10図)。さらに、特許申請件数の急増は地方政府で採られた様々な促進策が大きな役割を果たしたとも指摘されており11、特許申請件数が生産性の向上に直接的につながっている訳ではないとの指摘もある12。
(3)資金調達
中国ではとりわけ民間企業が研究開発資金を獲得することに困難が伴うと言われる。前述のイノベーションインデックスについて、市場洗練度を構成する要素のうち、「信用の獲得の容易さ」や「投資家保護の容易さ」はそれぞれ65位、114位と、全体順位に比較してかなり低くなっており、「国際競争力レポート2015-16」においても、「金融へのアクセス」は中国でビジネスを行う上で困難となる要因の第2位に挙げられている13。
中国における資金調達は銀行貸出が主となっているが、銀行は経営の安定している国有企業への貸出を優先させる傾向にあり、中小企業が資金を獲得するのは難しいとの指摘もある。最近では、14年11月以降6回にわたって利下げが行われているものの、社債のスプレッドは拡大傾向にあり、格付けの低い企業の資金調達環境は改善していない(第1-5-11図)。
このような中、中国では、インターネットを通じたP2Pレンディング(peer-to-peer lending)やクラウドファンディング等を利用した資金調達が発展してきている。
(4)知的財産の保護
知的財産が十分に保護されていないことが、特に外国企業のR&D投資やライセンス生産の意欲を減退させている点も重要である。
一般的には、特許の保護の強化は、先進国から途上国への直接投資を通じた技術移転を推進するといわれている14。
中国では1984年に特許法、91年に著作権法、2001年に商標法が制定されるなど、知的財産権保護の法的環境は整ってきているものの、知的財産権に対する国民の意識の遅れ15等から知的財産権の侵害が未だに多発している。例えば、日本の特許庁の資料によると、13年度に海外において模倣被害を受けた国・地域では中国が67.0%と突出して高くなっている16。米中ビジネス協議会の調査(15年)では、4割弱の回答者(35%)が前年と比較して中国の知的財産保護がやや改善したと評価しているものの、3分の1以上近くの回答者(37%)が知的財産の執行に懸念があるため、中国におけるR&D活動を制限しているとしている17(第1-5-12図)。
3.今後の課題
インプット、アウトプット双方において進展がみられたことから、The Global Innovation Index 201518では、中国は世界143か国中29位となり、12年の34位から順位が上昇した(第1-5-13図(1))。なお、アウトプット指標のうち、「創造的アウトプット」が「知識と技術のアウトプット」よりも著しく低くなっているのは、前者の構成要素に「ジェネリックドメイン数の人口比」や「国コードドメイン数の人口比」、「ウィキペディアの毎月の編集数の15~69歳人口比」等から構成される「オンラインの創造性」が入っていることが大きく寄与していると考えられる(中国は104位)。
また、日本やアメリカと比較すると、中国はとりわけ「制度環境」や「市場洗練度」で大きく後れを取っている(第1-5-13(2)表)。
2010年以降の「イノベーション企業ランキング・トップ50」をみると、中国の企業が4社ランクインしているが、14年は全てを民間企業が占めた(第1-5-14表)。また、15年の世界ブランドインデックスによると、中国企業は上位100社に2社がランクインしている19。
このように、中国におけるイノベーションの状況は全体としては改善してきているものの、イノベーションインデックスが示すとおり、先進国の水準には到達していない。また、インプットの増加に伴いアウトプットも量的には増加しているものの、質的には依然として発展の余地がある。
今後も取り組むべき課題としては、知的財産の保護の強化、ベンチャー企業の資金調達を容易にすること、国有企業改革等が挙げられる。
知財の保護については、引き続き執行体制の確保と人々の知財に対する意識を高めていくことが必要である。
資金調達については、P2Pやクラウドファンディングに規制が存在しないため、詐欺等の問題も生じている。15年7月には中国人民銀行等が「インターネット金融の健全な発展の促進に関する指導意見」を発表するなど、取り締まり強化の動きもみられる。適切な規制の下でP2Pレンディングがベンチャー企業の資金調達に利用されるようになることが必要である。また、金利の自由化が進んできていることから、今後、銀行が企業の選別を進め、リスクを取りながら有望なベンチャー企業への貸出を増やしていくことが重要である。
一方、民間企業が台頭してきているとはいえ、国有企業の存在は依然として大きく、競争原理がイノベーションを促進する環境が十分整っていない。国有企業と民間企業におけるイノベーションの効率性に関する分析によると、電気・通信機器、コンピュータ及びオフィス機器、医療機器等において、国有企業は民間企業に比べてイノベーションの効率性が低いとされている20。国有企業改革はこれまでも段階的に進められてきているが、一層の改革が必要である(前掲第1-1-34表)。
コラム1:経済連携の強化
経済のグローバル化が進展する中、近年各国で経済連携を深化させる動きがみられる。ここでは、アジア地域に関係の深いものとして、15年10月大筋合意に至ったTPP(環太平洋パートナーシップ協定)、AEC(ASEAN経済共同体))、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)を紹介する。なお、TPP、AEC、RCEPの規模は下記のとおりである(表)。
1.TPP(環太平洋パートナーシップ)協定
TPP協定とは、世界の成長センターであるアジア太平洋地域に一つの巨大な経済圏を創造し、関税だけでなく、サービス、投資、知的財産、電子商取引、国有企業等幅広い分野で21世紀型の自由で公平なルールを構築する試みである。
当初、交渉はP4(Pacific-4)協定(環太平洋戦略的経済連携協定)参加の4か国(シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイ)に加えて、アメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナムの8か国で開始された。その後、マレーシア、メキシコ、カナダ、日本が交渉に参加し、12か国となった。参加12か国が世界全体に占めるGDPのシェアは約40%、世界の全貿易総額の3分の1を占める。
TPP協定における関税撤廃率は、工業製品ではオーストラリア、メキシコを除く10か国で100%、農林水産品では日本を除く11か国で98%以上(ともに品目数ベース)と、物品関税の撤廃が進むこととなっている。投資分野では、投資先の国が、投資企業に対し技術移転等を要求することを禁止しており、また電子商取引分野では、デジタル・コンテンツへの関税賦課禁止等が盛り込まれている。
今後参加国の協定への署名、各国における締結に向けた手続きが進められることとなっている。
2.AEC(ASEAN経済共同体)
ASEAN(東南アジア諸国連合)では、90年代よりAFTA(ASEAN自由貿易地域)が構築され、関税削減等が進められていたが、さらに質の高い経済統合、人・物・資本・サービスの移動の自由化を目指すため、03年にAECの創設が合意された(注1)。07年11月には、15年末の設立までの工程表であるAECブループリントが採択され、(1)単一市場と生産拠点、(2)競争力のある経済圏、(3)公平な経済発展、(4)グローバル経済への統合という4つの戦略目標が掲げられた。
AECの中心であるモノの移動については、関税削減・撤廃がとりわけ進んでいる。先発6か国(ASEAN6)(注2)は10年にほぼすべて、後発の4か国でも、15年1月に一部例外を除いて関税を撤廃しており、全加盟国の撤廃割合は95.99%となっている。
一方、税関審査や輸入制限措置といった非関税障壁の規制緩和は遅れている。投資についても、製造業では加盟国の多くで外資出資比率の制限が撤廃されたものの、サービス分野では内国法の改正も必要となるため、自由化が遅れている。労働者の移動は、特定の業種で資格の相互承認協定が締結されているが、実施は滞っている。
目標達成時期の15年末を迎えるにあたり、AEC加盟国がこうした課題をいかに解決していくのかが注目されている(注3)。
3.RCEP(東アジア地域包括的経済連携)
RCEPは、11年にASEANが提案し、13年より交渉が開始された。参加国は、ASEAN10か国及びASEANとFTAを結んでいる日本、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、インドの計16か国である。15年8月、関税を撤廃する品目の割合を示す自由化率目標を協定が発効してから10年で80%とすることで合意し、10月より具体的な関税引下げの協議に入っている。
(注1)ASEANは、03年、経済(AEC)、政治・安全保障(APSC)、社会・文化(ASCC)の3つの共同体から構成されるASEAN共同体を創設することに合意した。当初の目標年次は2020年とされたが、経済のグローバル化の加速、中国やインド等周辺新興国の台頭といった情勢を踏まえ、07年1月の首脳会合において、15年までの共同体設立加速の宣言が署名された。
(注2)原加盟国であるタイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアにブルネイを加えた6か国。
(注3)ASEAN事務局は、統合に向けた具体的な計画を策定しているが、政策を遂行させる権限を持たないため、統合が加速するかどうかは政策を実行する各国政府の自主努力に委ねられている。