(1)危機発生の背景と経緯
●「英国病」による行き詰まり
第二次世界大戦後、英国政府は、「大きな政府」を標榜し、ケインジアン経済学に基づく総需要管理政策、「ゆりかごから墓場まで」といわれた手厚い福祉政策、主要産業の国営化等の政策を行ってきた。これらの政策は、戦後から60年代まで、2大政党両党による歴代政権を通じて、政策合意となっていた。
しかしながら、70年代、こうした経済政策運営に行き詰まりがみられるようになり、構造問題が顕在化、経済状況は悪化した(第2-2-1表)。
英国産業の国際競争力は低下傾向にあったが、その背景には、手厚い福祉によって労働者の労働意欲が減退し、生産性が低下したことが挙げられる。また、労働組合の反発等により、政府は高福祉政策の改革を進められず、生産性上昇率に見合わない高い賃金の伸びが継続した。
●石油ショック発生
73年、石油ショックが発生し、原油価格上昇を要因としたコストの上昇により、60年代後半から現れていたインフレ傾向に拍車がかかった。74年、75年には、消費者物価上昇率が10%を超えて加速する中、実質経済成長率が2年連続のマイナスとなるなど、スタグフレーションに陥った(第2-2-2図)。原油価格の上昇によるコスト負担から生産が落ち込む一方、輸入額が拡大し、経常収支は赤字となった。
また、石油ショック発生以前から、失業給付等を中心に歳出は増加傾向にあったため、72年度には財政収支は赤字となり(第2-2-3図)、73年の石油ショックの影響により失業給付等は更に増加した。国債発行が増え、金利も上昇したことにより国債費が増加し、74年度の歳出は70年度に比べ28%増加した。
●市場の政策不信によるポンド暴落
財政収支赤字が続いていたことに加え、石油ショック発生後の経済混乱に対しても、政府は有効な対策を打ち出すことができなかったため、ポンドは減価し、76年3月、対米ドルで初めて2ドルを割り込んだ。その後もポンドの減価は止まらず、同年11月には1.6ドルを下回り、75年3月の2.53ドル台から、35%以上の減価となった(第2-2-4図)。
76年を通じたポンドの減価に対する通貨防衛(ポンド買い介入)のため、外貨準備が枯渇した政府は、同年12月、IMFに39億ドルの緊急支援を申請した。IMFは、英国政府からの緊急支援要請に応じる条件として、財政赤字の縮小等、財政規律の目標と計画案の策定を要請し、政府は受け入れた。
(2)危機発生後の影響
●政策への影響~キャラハン政権による大幅な政策転換
IMFからの要求を受けて、政府は、政策の大幅な転換を余儀なくされ、政府支出と財政赤字の削減を伴う緊縮型の予算を発表した。また、構造改革とインフレ抑制のため、国営企業の賃上げ制限にも着手した。
これらの改革に対し、労働党内の対立、労働組合からの反発もあり、キャラハン労働党政権は、79年の総選挙に敗北した。しかし、IMFの要請を受けて行ったキャラハン政権の政策転換は、次の政権を担ったサッチャー保守党政権による戦後体制の抜本的な改革への布石となった。
●経済への影響
IMFからの融資により、外貨準備の減少傾向に歯止めがかかったことを市場は評価し、ポンドの減価基調が反転し、その後数年間、増価基調が続いた(前掲第2-2-4図)。
実体経済をみると、76年末までのポンドの減価により、輸出は回復し、73年以降大幅な赤字を続けていた経常収支は、80年から83年まで黒字が継続した(前掲第2-2-2図)。
政府は、財政赤字削減のため、社会保障費、公務員給与の削減を発表し、また、前述のように、国営企業の賃上げ制限にも着手したため、国中でストライキが多発し、交通、通信を始めとする社会インフラが十分に供給されず、国民の経済活動が停滞する「不満の冬(Winter of Discontent)」となった。
(3)危機の教訓
●構造問題の先送り
英国の、戦後から続けられてきた「ゆりかごから墓場まで」といわれた手厚い福祉政策等の構造転換に対しては、国民の反対が根強く、70年代の歴代政権が構造改革に取り組んだものの、抜本的な改革を行うことができず、結局、危機に至った。石油ショックによる経済困難は先進国共通の事象であったが、英国の場合はこうした構造問題から危機が深刻化、IMFの支援に至った。英国の経験は、問題の先送りを続けていれば、先進国であっても危機は起こり得ることを示している。
英国において石油ショックの発生がその後の財政状況の深刻化につながったように、マクロ・ショックの発生により状況が急激に悪化する可能性がある。また、根深い構造問題を抱えていては、ショックに対して適切・迅速な対応が取れず、事態の更なる悪化を招くおそれもあるといえよう。