第3章 人的資本とイノベーション 第3節
第3節 人材の有効活用と経済システム
第1節では、我が国における起業の低調さや自営業者の減少の背景について、労働市場の特性や雇用者との相対的関係に注目しながら検討した。続く第2節では、企業の内部労働市場に焦点を当てて、高度人材の確保というニーズと、コア人材の終身雇用に代表される企業の雇用慣行との関係などを分析した。ここでは、以上の議論で繰り返し参照されてきた、労働市場の柔軟性について、やや異なる角度から検討を加える。まず、高度人材に限らず、労働者一般の有効活用という観点から、労働市場の機能について改めて検証する。また、税・社会保障負担や最低賃金が労働市場に及ぼす効果について考える。最後に、第2章で扱ったテーマを含む課題として、労働市場等を含めたナショナルイノベーションシステムの在り方について議論する。
1 労働市場の効率性
コア人材を中心として長期雇用慣行が根強く残る一方で、雇用の非正規化は着実に進んでいる。その意味で、我が国の労働市場も一部で流動化しており、二重性を備えているともいえる。外部労働市場への依存の高まりは、摩擦的失業を増やす方向に働く。その一方で、長期雇用慣行が残る部分では、いったん失業した場合にそれが長期化しやすいという特徴も残るはずである。以上は仮説であるが、実際にそうなっているのかどうかを順次検証しよう。
(1)職探しとマッチング
労働市場のマッチング機能に負荷をかける要因として、非正規雇用の増加などによる雇用の流動化、再就職を目指す高齢者の増加などが挙げられる。一方で、求職者が積極的に求人紹介を受けることで、職探しの効率性が高まることも考えられる。さらに、知識経済化が進むなかで、賃金による需給調整機能が低下している可能性もある。こうした点について、順次検討する。
(離職率の高まり、雇用者の高齢化や非正規化が構造的失業に影響)
失業をもたらす要因は、大きく需要不足から生まれる需要要因、企業が求める人材と求職者の能力のかい離や求める待遇とのかい離などから生じる構造的要因、さらには求職側、求人側のお互いの情報が不完全なために生じる摩擦的要因の3つに分かれる。ここでは後者の二つを広義の構造的要因(ミスマッチ要因)とし、構造的失業をもたらすと考える。
近年の労働市場を取り巻く環境を見ると、離職率の上昇、雇用の非正規化や高齢化などが進んでいるが(第3-3-1図(1))、こうした動きは構造的失業を増加させる方向に働くと考えられる。その結果、景気が持ち直しに転じた場合でも、失業率が以前の水準に戻りにくくなる。ここでは、離職率等の動きから、構造的失業率を推計することで、これらの要因がミスマッチの拡大をもたらしてきたことを確認しよう。欠員があるのに失業が生じている、という状態がミスマッチであり、こうした部分が多いと構造的失業率が高くなる。したがって、構造的失業率は、失業率が欠員率に等しい場合の失業率として推計される。さらに、このような構造的失業率は不変ではあり得ず、前述のような様々な要因で変化することになる。
推計は3通りの方法で行った(第3-3-1図(2))。推計1は、ハローワークを通じた求人・求職活動を捉えた「職業安定業務統計」の欠員率を用いた上で、構造的失業率が離職率と高齢雇用者比率の動きに沿って変化すると仮定したものである。推計2は、欠員率のデータは上記と同じで、構造的失業率が離職率と非正規雇用比率の動きに沿って変化するとした場合である。一方、推計3は、推計1と同じ考え方の下で、事業所に対する調査である「雇用動向調査」の欠員率23を用いたものである。いずれの結果でも、構造的失業率はおおむね3%前後で推移しており、大きな違いはないことが分かる。また、2000年前後に顕著に高まっている点も共通するが、これは、もととなった離職率、高齢雇用者比率、非正規雇用比率ともにその時期に上昇していることを反映している。
- 「職業安定業務統計」の欠員率は、過去30年間、おおむね2%から4%の範囲内で推移している。一方、「雇用動向調査」による欠員率は、バブル期に大きく上昇した後は水準が低下し、1%前後で推移している。前者では民営職業紹介所やインターネットを通じた求人・求職活動が捉えられない一方、後者には求人に苦慮することが多い5人未満事業者や新設事業所等の求人が含まれないことなどが両者の差の原因と考えられる。
(雇用情勢の悪化が職探しの努力を強めたが、必ずしも就職には結びつかず)
以上のような諸要因を背景に、構造的失業率が高止まりしているのが現状であるが、こうしたなかで労働市場のマッチング機能を向上するにはどうすべきであろうか。まず考えられるのは、求職者が職探しの効率性を高めるよう努力することである。ハローワークを例にとると、求職者がコンピューター端末から情報を入手し、それを窓口に持参して紹介を受ける回数を増やせば、自然と就職に結び付く確率も高まると見込まれる。こうした努力の度合いは、求職者一人当たりの職業紹介件数(以下、「紹介件数」という)によって捉えることができる。
それでは、紹介件数は実際に増加しているのだろうか(第3-3-2図(1))。2000年代のデータからは、紹介件数は途中やや停滞する局面もあったが、すう勢的には増加しており、2000年度の求職者1人1か月平均0.23回が、2010年度には0.48回となっている。したがって、ハローワークに来る求職者は、職探しの努力を強めていると考えられる。それでは、こうした努力の強まりは、労働市場の需給の悪化を受けたものであろうか。有効求人倍率で労働需給の状況を振り返ると、需給の悪化が職探しの努力を強めている印象を受ける。この点について、都道府県別のパネルデータを用いて統計的に調べると、2000年代前半については両者が無関係、後半には有効求人倍率が低下すると紹介件数が増えるという関係が検出された(第3-3-2図(2))。したがって、リーマンショックに伴う急激な雇用情勢の悪化を含む2000年代後半には、そうした環境の変化が求職者の努力を引き出した面があると考えられる。一方、前半にそうした関係が見られなかったことを踏まえると、求職者の自発的な意識の変化、ハローワークの業務効率改善など別の要因がすう勢的な紹介件数の増加をもたらした面も否定できない。
なお、2000年代の紹介件数の増加は、企業側の求人の充足率とは関係が見られなかった24。一般に、紹介件数を増やせば、求職者にとっては自分の条件にあう企業を見つけやすくなるため、就職成功の確率が高まり、企業の充足率は上昇することが期待される。しかし、結果的にそうならなかったのは、一方で前述のようなミスマッチを強める要因が寄与したことが考えられよう。
- 一人当たりの紹介件数と充足率の関係について、(2)と同様、都道府県別パネルデータを用いた回帰分析を行ったところ、2001~2005年、2005~2010年のいずれの期間においても有意な結果は得られなかった。
(高度な職種では賃金による需給調整が機能しにくい)
就職成功確率を高めようとする場合、前述のように紹介件数を増加させることも考えられるが、求職者の受入可能な最低の賃金水準(「留保賃金」)を現実的なものにすることも必要と思われる。留保賃金を直接観測することは難しいので、ここでは、「職業安定業務統計」の「希望賃金」に着目しよう。希望賃金は、留保賃金にある程度連動すると推測され、その水準が労働市場の需給状況や本人の能力等を勘案して高すぎる場合、求職活動が就職に結びつきにくくなると想定される。その度合いについて、職種や年齢による特徴を調べてみよう(第3-3-3図)。
一般に、希望賃金は職種では専門的・技術的職業などで高いが、問題は、希望賃金の変化が就職件数に及ぼす影響(弾性値)の職種による違いである。そこで専門的・技術的職業や管理的職業を「高度職種」、その他の職業を「一般職種」に分類し、グループごとに弾性値を推計した。その結果、いずれのグループについても弾力性はマイナス、すなわち、希望賃金が低くなればなるほど就職件数は増加することが確認された。ただし、その関係は高度職種より一般職種で強く、求職者の希望賃金の引下げが就職に結びつきやすい。これは専門的能力の必要性が相対的に低い一般職種においては賃金が求人側の大きな要素であるためと考えられる。
年齢別では、希望賃金は20歳代で最も低く、40歳代、50歳代で高くなる。もっとも、60歳代を除けば初任給の方が希望賃金をおおむね1割程度上回っており、希望賃金の設定水準自体に各年代で大きな差や問題などは確認できない。上記と同様の弾性値を、34歳以下の若年層とそれ以上という形で年齢別に分けて推計すると、若年、その他ともに就職件数と希望賃金では負の相関が検出できるが、若年層において弾性値(の絶対値)が大きい。これも、若年層においては求職側の専門能力が相対的に低いことから、賃金が就職決定のより重要な要素になっているためと考えられる。
以上の分析を踏まえると、今後、知識経済化が進むなかで、高度な能力が求められる職業が増加すれば、希望賃金の切り下げによる就職先の確保がより難しくなると予想される。そうした状況で、労働市場のマッチング機能を高めていくためには、求人側が求職者の能力を適切に把握できるようなきめ細かい対応が重要になろう。
(2)長期失業の構造
人材の有効活用という観点では、長期失業の存在は看過できない問題である。失業の原因が景気の悪化であれ、自発的な離職であれ、いったん失業した後にその状態が長期化すれば、人的資本が毀損し、雇用可能性(employability)を失うおそれがある。そうなれば、潜在的な成長力にとっても大きな損失となる。以下では、我が国における長期失業の要因や特性を明らかにする。
(長期失業者比率は高止まりの後、大幅に上昇)
長期失業者とは、1年以上失業状態にある失業者を指す。近年におけるその推移を振り返ると、基本的には失業率全体の動きに沿って動いている(第3-3-4図(1))。2003年に一度ピークに達した後、景気改善に伴って減少していたが、リーマンショック後に急増して2010年には2003年の水準を若干上回った。しかし、失業者に占める長期失業者の割合(以下、「長期失業者比率」)の動きはこれとは異なり、2000年代初めに上昇した後、高止まりしている。2009年には、景気の急速な悪化で短期失業者が増え、長期失業者比率は一時的に大きく低下したが、1年が経過した2010年にはその失業が長期に転じ、逆に急上昇している25。
長期失業者にはどのような属性、理由の者が多いのだろうか。前回の長期失業増加のピークである2003年と、同様に厳しい状況となった2010年を対比しつつ、その内訳を調べてみよう(第3-3-4図(2))。
年齢構成では、25~34歳が最も多く、しかも2010年にはその割合が増えている。また、35~44歳は2003年にはそれほど目立たない年齢層であったが、2010年には大きくウエイトを高めている。2003年時点でも多かった25~34歳の長期失業者の一部が、2010年には年齢を重ねて35~44歳層の増加に寄与している可能性もある。続柄別では、もともと多かった世帯主の「子又は子の配偶者」の割合がさらに高まっている。これらの人々は親からの生活資金の援助が期待できるため、失業状態から抜け出す誘因が弱い面もあろう。失業理由では、「希望する種類・内容の仕事がない」が最も多い。もっとも、2010年には「条件にこだわらないが仕事がない」が増加しており、リーマンショック後の景気悪化を受けた需要不足要因が重要となっている。
- 2011年1-3月期(岩手県、宮城県及び福島県を除く)においても、長期失業者比率は依然として高い水準である(約40%)。
(長期失業者は雇用需要回復の影響を受けにくい傾向)
このように、最近では仕事に就けない理由として需要不足要因を挙げる長期失業者が増えているが、雇用情勢が改善すれば長期失業者はその他の失業者と同様に減少するのだろうか。ここでは労働需要の強さを有効求人倍率で捉え、有効求人倍率と長期失業者の関係を確認する(第3-3-5図)。
都道府県データを用いて2002年から2007年にかけての有効求人倍率の変化と長期無業率26並びに無業率27の関係を見ると、有効求人倍率の増加とともに無業率、長期無業率とも下落する傾向にある。しかし、長期無業率の方が無業率に比べて有効求人倍率の回復に対する改善の幅が小さくなっている。これは長期無業の状態に陥ると職業スキルが低下し、短期の無業者に比べ職を探すのが難しいために、労働需要が回復してもその恩恵が長期無業者には届きにくいことを示唆している。
次に、長期失業率と有効求人倍率、並びに失業率と有効求人倍率を年齢別に分析することで、失業率、長期失業率の労働需要に対する弾性値(以下、「需給感応度」という。)を推計しよう。まず年齢計では有効求人倍率が0.1%ポイント改善すると失業率は0.2%ポイント程度改善するが、長期失業率は0.05%ポイント程度しか改善せず、上記の都道府県別の散布図で得られた関係を支持する結果となっている。年齢別では、失業率の需給感応度は45歳以上の中高年齢層で顕著に高い一方、長期失業率の需給感応度はどの層でも同じように低い。すなわち、中高年齢層では2つの感応度が大きくかい離している。中高年齢層は失業しても過去のスキルの蓄積があるため前職と同じ職種を中心に再就職先を見つけやすいが、長期失業に陥るとスキルが毀損し、労働市場における優位性を失うと考えられる。早期の就業へ向けた政策資源の戦略的投入が求められよう。
- 無業者とは普段仕事をしていない者であり、ここで用いている長期無業率とは、求職活動を行っており求職期間が1年以上の無業者を15歳以上人口で除して算出。
- ここで用いている無業率とは、求職活動を行っている無業者を15歳以上人口で除して算出。
(我が国の高めの長期失業者比率は労働市場の流動性の低さを反映)
景気が改善すれば循環的失業者が減少し、それに伴って長期失業者も減少する可能性が高いが、失業者のうち長期失業者が占める割合は各国の労働市場の構造に根差した部分も少なくない。そこで、我が国における長期失業者の割合を他のOECD諸国と対比しつつ、労働市場の構造的特徴を示す指標と関連付けてみよう(第3-3-6図)。
OECD諸国の中では、我が国の長期失業率は比較的低い水準であるが、これは、短期も含めた失業率が低水準にあることを踏まえると、当然ともいえる。一方、長期失業者比率では、我が国は中位よりやや高めである。第3-3-6図(1)では2008年の全年齢ベースと解雇規制の強さ、同図(2)では2009年の25~54歳の長期失業者比率と就業年数をプロットしている。前述のとおり、我が国の長期失業者比率はこの時点で3割強であったが、25~54歳に限ると3割弱となっている。各国の分布を見ると、長期失業者比率は国によって大きな差があることが分かる。
長期失業は一度失業のプールに入ると脱出が難しい場合に増加するため、労働市場の流動性が低い国ではその比率が高いと予想される。その度合いを示す指標の一つとして、解雇規制の強さ(雇用保護指標、EPL)28をとると、長期失業者比率との間に弱い相関が見られる(第3-3-6図(1))。我が国の解雇規制の強さは中程度であるが、その割には長期失業者比率がやや高めとなっている。解雇規制が緩く、長期失業者比率も低いのがアメリカであるが、アメリカより長期失業者比率が低い国も少なくない点に注意が必要である。
労働市場の流動性に関連するもう一つの指標として、平均就業年数を考えてみよう(第3-3-6図(2))。その場合、長期失業者比率との相関はより明確になる。我が国は、平均就業年数が高いグループに属するが、その割には長期失業者比率がやや低めである。我が国と同程度の平均就業年数でも、ドイツやフランスは長期失業者比率がさらに高いが、これには失業給付の寛容さなどの要因が背景にあると考えられる。また、北欧諸国は総じて傾向線より下に位置するが、これらの国では積極的労働政策が奏功している可能性もあろう。
- なお、雇用保護指標は、雇用保護の強さについて、各国比較を行うため、一定の前提を置いて計算されたものであり、雇用保護に関する制度や実際の運用につき、考慮されていない要素があることに留意が必要である。具体的には、雇用保護に向けての企業の自主的な取組、労使の対応、これに対する政府の支援(助成金等)などは、評価の対象とされていない。
コラム3-3 求職意欲喪失者の動向
第3節ではミスマッチや長期失業を取り上げたが、仕事が見つからない状況が続くと求職者は職探しをあきらめて非労働力化してしまうことが考えられる。非労働力化すると完全失業者ではなくなるが、引き続き就業希望がある場合は広い意味での失業者として捉えることができる。このように、就業希望者であるが就職活動を諦めた者は、しばしば「求職意欲喪失者(ディスカレッジドワーカー)」と呼ばれる。
G7の求職意欲喪失者比率(2000年代平均)を比べると、我が国は2%程度であり、イタリアと並んで非常に高いことが分かる(コラム3-3図)。また、アメリカや英国などでは男女の比率の差がほとんどないものの、我が国では男性と比べて女性の比率が大幅に高い。女性は、就職希望を持ちながらも家事や育児などに追われて就職を諦めてしまった者が多いことが想定される。
その点を確認するため、求職意欲喪失者比率と非労働力人口比率の関係を調べると、女性の場合のみ正の相関が検出できた。男性の場合は、失業し就業希望がある場合は非労働力化せず職探しを続ける傾向があるものの、女性の場合は非労働力化していると考えられる。今後、生産年齢人口の減少が続くと予想される我が国にとって、女性の労働力の活用は重要なテーマであり、求職意欲喪失者への対応も考えていく必要があろう。
2 労働コストと雇用
外部労働市場における需給のマッチングは、コア人材や一部の高度な職種を別にすれば、賃金というシグナルに依存する部分が大きい。その意味で、人材の有効活用にとって賃金の柔軟性は重要である。しかし、税・社会保障負担が課されることで、企業の直面する労働コストと労働者の手取り賃金にかい離が生ずる。また、賃金の低廉な労働者については、最低賃金制度によって直接的に賃金水準が影響を受けることもある。こうした政策的な要因が、雇用にどのような影響を及ぼすのかを検討する。
(1)税・社会保険料と雇用
最初に、賃金に対する税・社会保障負担の大きさが、雇用に及ぼす影響を考える。ここで鍵となる概念が、第1節でも触れた「税・社会保障負担のくさび」である。これについては、主に「税・社会保障負担のくさび」の家計所得への影響を分析するためOECDにより国際比較データが公表されているが、今後、さらなる高齢化の進展が見込まれる我が国でも、十分注意が必要な論点である。
(日本の税・社会保険料のくさびは主要国のなかでは低いものの、水準は上昇傾向)
企業が労働者を一人雇う際、労働者に直接支払う賃金に社会保険料の事業主負担分を加えたものが費用となるが(「総労働コスト」)、労働者は賃金から所得税、社会保険料の被用者負担分(現金給付を控除したネットの概念)を除いた部分しか手に入らない。両者のギャップ、すなわち所得税と社会保険料(被用者と事業主の負担分の合計)が「税・社会保険料のくさび(taxwedge)」であり、その拡大は雇用を抑制する方向に働くことが懸念される。
「税・社会保険料のくさび」は世帯類型や所得水準によって異なるので、一定の類型の世帯を想定し、所得は雇用者の平均とした上で、主要国における「くさび」の大きさ(総労働コストに占める割合)を比較しよう(第3-3-7図(1))。その結果は、国による違いが大きく、2割程度から4割程度の範囲に分布している。我が国は25%前後であり、アメリカ、カナダより高いが、欧州主要国と比べると低い。内訳では、「くさび」が大きい国では社会保険料の事業主負担のウエイトが高い傾向がある。我が国の特徴は、所得税が少なく、社会保険料の被用者負担(現金給付が控除されていることに注意)と事業主負担がほぼ半分ずつになっている点であるが、ドイツも同様の形となっている。一方、所得税のウエイトが高い国としては英国が挙げられる。
次に、主要国の「税・社会保険料のくさび」の変化を2000年と2009年の対比で見てみよう(第3-3-7図(2))。2000年代、主要国においては、アメリカやカナダのように大幅に低下しているところやフランス、ドイツ、英国のようにほとんどその水準が変わっていない国のいずれかであるなか、我が国だけが2000年代にその水準を大きく上げており、2000年を100とすると我が国の2009年の水準は110を上回る水準となっている。我が国においては、高齢化の進展に伴う社会保険料負担の増加に加え、定率減税の廃止29が行われたこと等が要因として考えられる。
- 2006年に定率減税の縮小、2007年に定率減税の廃止が行われた。
(「税・社会保険料のくさび」の拡大は失業率を上昇させる懸念)
前述したように、「税・社会保険料のくさび」の拡大は、企業にとっての労働コストを高めることで、雇用を抑制するおそれがある30。もっとも、マクロ的な雇用、あるいは失業の状況は、景気動向を始めとして様々な要因の影響を受ける。そうした点を勘案しつつ、ここでは、OECD諸国のデータによって「くさび」と失業率の関係を調べてみよう。
最初に、各国における「くさび」と失業率の関係をプロットしてみる(第3-3-8図(1))。失業率としては、OECDが公表している「調整失業率」から、GDPギャップの動きで説明される部分を除いたものを用いる。GDPギャップは景気動向を反映しているので、その要因を除いた失業率は、一種の構造的失業率である。結果は、予想されたように、「くさび」が大きくなるほど、こうして得られた失業率が高まるという関係になっている。
次に、その他の要因も含めて検討するため、パネルデータを用いた分析を行う。具体的には、「くさび」、GDPギャップに加え、労働組合組織率、積極的労働市場政策(ALMP)への支出のGDP比で失業率の説明を試みた(第3-3-8図(2))。労働組合組織率は、生産性以上に賃金水準を高めようとする圧力の大きさを示しており31、これが高い場合は雇用コストの上昇をもたらし、失業率にプラスに寄与することが想定される。また、ALMP支出のGDP比は、労働市場におけるマッチング成功率を高め、失業率にマイナスの影響があると想定される。分析の結果は、いずれも予想された方向に寄与しており、「税・社会保険料のくさび」の拡大は失業率を押し上げる方向に働くことが示唆された32。
- 詳しくは、OECD(2007)“OECD Employment Outlook 2007” を参照。
- 理論上の説明であり、実際には、労働組合が必ずしも生産性以上に賃金水準を高めようとするとは限らない。
- ここでは「くさび」の負担の側面に焦点を当てて分析を行ったが、社会保険料が雇用に与える影響を、より厳密に分析するに当たっては、社会保険制度が安定した雇用環境の整備や労働者の将来の生活の安定に資することなどを含め、様々な角度から総合的に検証することが重要である。
(我が国では法定福利費割合はパートの求人数に影響)
前記の分析は、「税・社会保険料のくさび」がOECD諸国間における失業率の構造的な違いに影響を及ぼしていることを示すものであるが、その結果から直ちに我が国での税・社会保険料の動向の雇用へのインプリケーションを導くことは難しい。実際、我が国におけるマクロの雇用者数、あるいは失業率の時系列的な変動は、景気動向で説明される部分が非常に大きく33、仮に所得税率や社会保険料の変化が影響を持つとしても、限界的な部分にとどまると考えられる。
こうした点を踏まえ、ここでは、社会保険料の動きとパート労働者の新規求人の関係に絞って分析をしてみよう。まず、(社)日本経済団体連合会「福利厚生費調査結果報告」を利用し、様々な社会保険料を含む概念である、「法定福利費」の推移を確認する(第3-3-9図(1))。それによれば、90年以降、法定外福利費の水準がほとんど変化しない一方で、法定福利費の水準が年々増加する傾向にあることが分かる。その結果、現金給与総額に対する法定福利費の割合(以下、「法定福利費割合」)も上昇が続いている。
それでは、法定福利費割合の上昇は、パート労働者の新規求人数にどのような影響を及ぼしているのだろうか(第3-3-9図(2))。分析に当たっては、法定福利費が(社)日本経済団体連合会加盟企業のデータであるため、従業員1000人以上の大企業による新規求人数を用いた。新規求人数は景気の影響を強く受けるため、前記の分析と同様に、GDPギャップの変動で説明できる部分を除いた上で、法定福利費割合との関係をプロットすると、予想どおり右上がりの関係が見いだされた。
なお、経常利益を含めてより詳細な分析を行っても、こうした関係が確認できる。一方、パートを含む新規求人数全体で同様の分析を行うとこうした関係は見いだされない。したがって、本分析からは法定福利費割合が上昇すると企業の求人を正社員からパートへシフトさせていることが示唆される34。その背景として、通常の就労者のおおむね3/4以上の労働時間のパート労働者以外は健康保険・厚生年金保険の被保険者とされていないことから、パート労働者の法定福利費が相対的に安いことも指摘できよう35。
- 第3-3-1図(2)「構造的失業率の推移」より、構造的失業率の変動は大きくないことが確認できる。
- ただし、法定福利費と雇用形態の関係を、より厳密に分析するためには、賃金水準や解雇規制などのパート労働者の雇用に影響を与える様々な要因を勘案し、さらに詳細な検証を行っていくことが重要である。
- 厚生労働省が実施した「平成18年パートタイム労働者総合実態調査」によれば、パート労働者を雇用する理由として「人件費が割安なため」を挙げた事業所のうち、特に割安だと思う内容として、法定福利費は、賃金、賞与、退職金に次ぎ、4番目に多かった。
(2)最低賃金の雇用への影響
最低賃金制度は、労働者の賃金の最低額を保障する仕組みであるが、それが実際の効果を持つ場合、雇用の構成や総量に対する影響も考えられる。さらに、最近では、一部に最低賃金の引上げに、スウェーデンのレーン・メイドナー・モデル(全国的な「連帯賃金」の設定による低生産性分野から高生産性分野への労働移動)のような効果を期待する向きもある。以下では、我が国の最低賃金の水準を評価した上で、雇用に及ぼす影響を検討する。
(国際的に見て我が国の相対的な最低賃金は低い水準)
我が国の地域別最低賃金(以下「最低賃金」)は、2011年6月時点での全国加重平均36は730円となっている。最低賃金の水準は、国の審議会が示す目安を基に、各地方で決める方式であるが37、近年、我が国の最低賃金が低いとの指摘がなされるなか、一部地域における生活保護との逆転を解消する観点などから、最低賃金法に基づき各県において引上げが行われてきている。それでは、我が国の最低賃金の水準は国際比較の観点ではどう評価できるのだろうか。最低賃金は実際の賃金との相対的な大きさに意味があるので、平均的な賃金との比(「カイツ指標」)に着目する。ただし、いわゆる最低賃金制度が存在しない国も少なくない。主要国ではドイツやイタリア、さらに北欧諸国などがこれに当たる。これらの国では労働協約で事実上の最低賃金が決められているが、ここでの国際比較の対象には含まれないことに注意が必要である。
2009年におけるOECD諸国のカイツ指標を見ると、フランス、ベルギーやオランダでは4割を超える一方、アメリカや日本は3割程度となっている(第3-3-10図(1))。我が国の水準は国際比較の結果からは低いことが確認される。全体的な傾向としては、上記のような大陸欧州諸国を中心に高めとなっており、アメリカ、アイルランド、英国といった英語圏諸国、ハンガリーやチェコなどの中東欧諸国では低めであるといえよう。
我が国の最低賃金を巡る議論でしばしば引き合いに出されるのが、アメリカにおける最低賃金引上げの動きである。この点を含め、いくつかの国で最低賃金が2000年代にどう変化したかを調べてみよう(第3-3-10図(2))。それによれば、確かにアメリカでは2007年以降、カイツ指標が急上昇しているが、それ以前においては長期間名目ベースで据え置かれたため、カイツ指標が下落していたことが分かる。また、この間、韓国では急テンポの上昇となったが、日本、フランス、英国でも緩やかな上昇を示している。我が国におけるカイツ指標の上昇には、最低賃金水準の上昇とともにデフレ状況から脱することができなかったことも影響していると考えられる。一般に、最低賃金は実際の賃金以上に下方硬直的となりがちなためである。
- 地域別最低賃金の全国加重平均(適用労働者ベース)。なお、我が国には産業別に設定される最低賃金もあるが、ここでは地域別最低賃金を取り上げる。
- 各都道府県労働局長が地方最低賃金審議会の調査審議を経て決定を行う。
(最低賃金の引上げは女性の非正規比率に影響)
最低賃金の水準が雇用に及ぼす影響は論争的なテーマであり、内外において様々な議論がなされてきた。標準的な考え方としては、労働市場が完全競争的で、仮に均衡賃金以上に最低賃金を設定すれば、需要の減少を招き、雇用量は減少する。一方、労働市場が完全競争的ではなく、買手が独占的に支配しているような場合、最低賃金の引上げは、雇用量を減少させることなく雇用者所得が増加するのみならず、雇用者余剰に対する労働者余剰が相対的にも増加するため、格差是正への貢献も期待される。
最低賃金の変更により直接的な影響があるとすれば、最低賃金に近い賃金で働いている雇用者と考えられる。そこで、女性の雇用者に占める非正規雇用者の割合(以下、「非正規比率」)に着目して、カイツ指標との関係を調べよう。手始めに、2007年時点での都道府県別データをプロットすると、カイツ指標が高いほど非正規比率が低いという関係が観察される(第3-3-11図(1))。こうした関係の存否について、長期にわたるパネルデータを用いて分析したところ、カイツ指標の上昇は非正規比率にマイナスに働くことが確かめられた(第3-3-11図(2))。このことから、最低賃金の水準が高まると、相対的に賃金の低い女性の非正規雇用が影響を受けることが分かる38。
一方、同様の分析を男性の非正規比率に適用しても、最低賃金の変化の影響は検出されなかった。さらに、人口に占める雇用者全体の比率についても影響を受けなかった。したがって、最低賃金の水準を引き上げても、雇用全体を削減するほどの影響は生じず、女性の非正規雇用が他の種類の雇用にシフトすると考えられる。もっとも、これは平均賃金と比べて十分に低い水準の最低賃金を前提とした結果であり、大幅な引上げがなされた場合には雇用全体が影響を受ける可能性もあることに注意が必要である。
- 川口・森(2009)において、最低賃金の上昇は中年既婚女性の雇用の減少をもたらすことが示されている。
(低賃金層の賃金底上げはサービス業の生産性上昇につながる可能性)
最低賃金水準の設定を巡る議論の一つに、マクロ的な労働生産性への影響に着目したものがある。すなわち、最低賃金を高めの水準に維持する国では、スキルの低い労働者を多く必要とする産業が衰退する一方、高賃金でスキルの高い労働者を集約的に使う産業が成長する。その結果、マクロ的な労働生産性が上昇するので、そのために最低賃金を引上げようという考え方である。第2章で見たように、製造業と比べ、非製造業は海外との競争が乏しく、生産性上昇へ向けた圧力が生じにくい。賃金水準への介入による高付加価値化への誘導は、その打開策として期待されているのであろう。
こうしたメカニズムが働く可能性について、OECD諸国のデータで調べてみよう。その際、データの不足を補うために、カイツ指標ではなく、労働者の所得10分位階級において、第1分位の最上位者の所得を所得の中央値で除した値(以下、「疑似カイツ指標」という)を利用する(第3-3-12図(1))。前述のように、最低賃金制度が存在しない国も少なくないが、そうした国では労働協約に基づく類似の仕組みが存在し、第1分位の所得を底上げする役割を担っている。「疑似カイツ指標」によって、このような国も含めた効果を捉えることができる。実際、最低賃金制度が存在する国の場合、カイツ指標が高ければ疑似カイツ指標も高い傾向があり、後者が前者の代わりとなり得ることを示している39。また、存在しない国ではスウェーデンやフィンランドなど北欧の国で疑似カイツ指標が高水準であることが分かる。
以上の準備の上で、サービス業と製造業の生産性格差40と疑似カイツ指標の関係を調べると、疑似カイツ指標が高い国、すなわち低賃金層の賃金が相対的に高めに維持されている国では、サービス業の相対的な生産性が高い傾向が見いだされる(第3-3-12図(2))。これは、必ずしも因果関係を示すものではないが、最低賃金水準の引上げによるマクロ的な労働生産性の向上という戦略の可能性を示しているともいえる。ただし、仮にそうした戦略が成り立つとしても、それが政策の割当てとして適切かどうかは疑問が残る。最低賃金制度は、極端な賃金格差の是正や労働力の質的向上などのミクロ的な政策目標に割り当て、マクロ的な労働生産性の向上は、自由な競争環境の整備などの政策を別途構ずることを基本とすべきであろう。
- ただし、日本に関しては、カイツ指標が国際的に低いにもかかわらず、疑似カイツ指標は中程度の高さとなっている。
- ここではサービス業と製造業の労働生産性格差から、実質GDP並びにGDPギャップの動きで説明される部分を除いたものを用いる。
3 イノベーションシステムと労働・資本市場
人的資本を蓄積し、それを最大限に活かしてイノベーションにつなげるには、各分野での個別の課題への対応だけでなく、経済全体がシステムとしてどう機能しているかを理解し、それとの整合性を保っていくことが重要である。こうした観点から、我が国のナショナルイノベーションシステムの特徴を、労働・資本市場等との関係に注目しつつ見いだし、求められる変化の方向について検討する。
(1)我が国のイノベーションシステムの特徴
第2章、第3章で取り上げた各分野の指標の中から、今後のイノベーションシステムを考えるに当たって重要と考えられるものを選び、それらの組み合わせからOECD主要国のイノベーションシステムを分類し、我が国の位置を確認する。また、2000年代において各国の位置がどう変化したか、また各位置はマクロの生産性とどう関係しているかを調べる。
(我が国は2000年時点で市場の柔軟性が乏しく大企業主導のイノベーションシステム)
前述のとおり、イノベーションには大きく分けて既存企業での研究開発、さらにはブランド力の強化などを通じた「創造的蓄積」と、企業の新規参入と退出による資源の再配置を通じた「創造的破壊」がある。また、こうした国内での動きに加え、グローバルな知識経済化が進む今日では、海外との間の競争や連携を通じたイノベーションが重要になっている。こうした3つの側面が、いわばイノベーションシステムの先端部分であるとすれば、これらを支えるのが人的資本や物的資本の効率的な供給体制であり、教育制度や労働市場、資本市場の機能が問われることになる。
そこで、こうした諸側面を捉える指標のうち国際比較が可能なものを収集し、それらを基に各国のイノベーションシステムをいくつかの特徴的なグループに分け、我が国がどこに位置するかを調べてみよう。具体的には、OECDのうち特に小規模な国などを除いた19か国を選び、研究開発、起業、グローバル化に加え、教育制度や労働市場、資本市場に関する指標から代表的なもの選んで主成分分析を行った(第3-3-13図(1))。指標としては、例えば、研究開発は民間企業による研究開発のGDP比、起業は起業活動従事者比率(他に仕事がなかったため起業した者を除く)、グローバル化は対内直接投資のGDP比41などである。結果を見ると、グループ分けの際の主要な軸として、第一に、労働市場での就業・失業確率の高低、直接金融やベンチャーキャピタルの利用可能性、製品市場の規制の度合いなどで特徴付けられる「市場の柔軟性」42が浮かび上がった。第二の主要な軸は、長期雇用の度合い、研究開発に強いか起業に強いかといった要因で特徴付けられる「大企業の主導性」43となった。
この2つの軸を基に、まず2000年時点での各国の位置を決めていくと、我が国は右上のやや低い場所にある。すなわち、第一の軸(横軸)では市場の柔軟性が乏しく、第二の軸(縦軸)では大企業主導のイノベーション体制という色彩が現れている。一方、アメリカは日本と対極にあり、市場の柔軟性に富み、起業家が主導するイノベーション体制といえる。これらの軸に、それ以外の要素も加味して各国を5つにグループ化すると、我が国はイタリアやポルトガルと同じグループとなった(第3-3-13図(2))。なお、アメリカは1か国だけ、フィンランドとスウェーデンは2か国だけのやや特異なグループとなっている。
- 厳密には、対内直接投資残高をGDPの平方根で除したもの。第2章で示したように、単純なGDP比は、GDPの大きい国ほど値が小さくなるため、対内直接投資のための環境の良好さを示す指標としては不都合である。
- 第3-3-13図(1)、第3-3-14図(1)においては、数値が上昇(グラフ上で右に移動)するほど「市場の柔軟性」が低く、数値が低くなる(グラフ上で左に移動)ほど「市場の柔軟性」が高くなる。
- 第3-3-13図(1)、第3-3-14図(1)においては、数値が上昇(グラフ上で上に移動)するほど大企業主導であり、数値が低くなる(グラフ上で下に移動)ほどが起業家主導である。
(2000年代には我が国を含め各国のシステムが収束した可能性)
各国のこうした位置付けは、2000年代にどう変化したのだろうか。グローバル化の進展が何らかの影響を及ぼしたのだろうか。ここでは、データの入手可能性を踏まえ、2007年時点の分析結果を基に変化を調べることとする(第3-3-14図)。
その結果、まず目を引くのは、多くの国が中心部に集まっていることである。これは、イノベーションシステムの在り方が、先進国の間で収束してきた可能性を示唆する。特に、右側にあった国の多くが左方向へ動いているケースが目立つが、グローバル化の進展に伴い、市場の柔軟性が高まったことを反映した面があろう。我が国はまさにその典型的な例であり、この間、製品市場の規制緩和や直接金融の発展などがあったことを示している。その一方で、我が国は縦方向にはほとんど動いておらず、大企業主導のシステムは変化しなかったといえそうである。反対に、アメリカやカナダでは右への動きを示しており、市場における柔軟性の高さが幾分修正された可能性がある。また、縦方向の動きではスウェーデン、フィンランドが大企業主導型のシステムを修正している様子がうかがえる。
以上のような変化にその他の要素も加え、改めてグループ分けをしよう。その結果、グループのメンバーに若干の入れ替わりがあるが、全体的な姿はそれほど変化していないことが分かる。アメリカ、北欧2か国が特異なグループを形成している点も同じである。ただし、我が国の所属は、イタリアやポルトガルのグループから、ドイツ、フランスなどの大陸欧州諸国が含まれるグループに移っている。このグループは、2つの軸の図でいえば第1象限ながら左寄りに位置し、市場の柔軟性が乏しいがそれほど極端ではない。前述のような我が国における規制緩和、直接金融化などの動きが、グループの所属替えにつながったと考えられる。
(近年の生産性上昇率の差はイノベーションシステムの違いでは説明できず)
ところで、各国のイノベーションシステムの違いは、経済のパフォーマンスと関係があるのだろうか。イノベーションを生み出す仕組みが優れていれば、外的ショックの影響をならして見た場合、マクロの生産性が上昇しやすいはずである。
マクロの生産性としては、全要素生産性(TFP)が基本ではあるが、推計方法によって差が大きくなることや、国際比較可能なデータが存在する国が限られていることから、マンアワーベースの労働生産性についても併せて参照しよう。ここでは、2000年と2007年のイノベーションシステムを論じているので、その時点の近くでの、ある程度の長さの期間の生産性上昇率を比較する。具体的には、97~2003年と、2004~2007年(労働生産性は2009年まで)の平均上昇率である。前記の2軸からなる平面図上に、面積が生産性上昇率の大きさに比例した円を描いた。生産性上昇率がマイナスの場合は円を白抜きにしてある(第3-3-15図)。
結果を見ると、全要素生産性、労働生産性のいずれの上昇率についても、図中の特定の象限に位置すれば高くなるという関係は見いだせない。例えば、全要素生産性の場合、我が国44と大陸欧州の主要国がある第1象限には、97~2003年にはマイナスの国が目立ったが、2004~2007年になると他の象限の諸国とそん色ない生産性上昇を示している。スウェーデン、フィンランドの北欧2か国は常にパフォーマンスが良好だが45、同じ象限にあるデンマークはそうではない。アメリカは安定的な生産性上昇率を示したが、第3象限には上昇率が低いかマイナスの国も同居している。
以上の検討から、少なくとも2000年代においては、国ごとの生産性上昇率の差がイノベーションシステムの違いによって説明できるわけではないことが分かった。イノベーションの活発化、効率化が果実を生むまでには時間がかかるため、10年間での評価だけでは十分でない可能性もあるが、「北欧型」や「アメリカ型」が優れ、「日本・大陸欧州型」が劣るといった単純な構図ではないといえよう。
- 97~2003年の日本のTFPは低下したが、労働性生産性は上昇している。両者のかい離は、この間、企業のリストラと労働時間短縮を背景に労働投入量が大きく減少し、資本装備率が上昇(資本も増加したが労働の減少幅が顕著)したために生じている。
- スウェーデン、フィンランドでは、IT関連製品が生産性上昇をけん引してきたが、結果として交易損失が拡大し、その分、実質所得が圧迫されていることに注意が必要である(第2章第2節3参照)。これは我が国と同様の構造であり、研究開発の成果が製品価格の下落を通じて海外の消費者の所得を高める形となっている。
(2)日本型イノベーションシステムの未来
我が国は、高齢化・人口減少による財政面への影響などを勘案すると、他の国以上に高めの生産性の上昇率を確保していく必要があり、イノベーションシステムの絶えざる改善が求められている。しかし、前記の分析を踏まえると、「北欧型」や「アメリカ型」といった特定国のモデルの理想化、模倣はあまり意味がない。我が国が取り組むべき課題は、現行システムを独自に進化させ、研究開発の効率性が高まり、起業や対内直接投資が活発化するような仕組みを見いだしていくことである。その際、ネックとなるのが制度の補完性である。この点を含めて日本型イノベーションシステムの将来像を考えてみよう。
(高い教育水準と直接金融手段の確保で研究開発の維持は可能)
民間企業による研究開発に関しては、我が国は以前から活発であり、今後とも一定の水準は維持しつつ、効率性の改善を進めていくことが課題である。その背景には、我が国の教育制度、労働市場や資本市場に民間企業の研究開発意欲を大きく削ぐような誘因が見当たらないことがある。実際、国際比較データによれば、後述するように起業や対内直接投資の際にネックとなり得る長期雇用慣行は、民間企業の研究開発にとって何ら不利益を及ぼさない。逆に、長期雇用慣行を修正しても、問題は生じない。むしろ重要なのは教育水準の高さや直接金融の発達である。
まず、高等教育卒業率が高いほど研究開発に必要な人材が潤沢に供給されるので、一般に、これが高い国ほど研究開発が活発である(第3-3-16図(1))。我が国はまさにそうした国の一つである。その一方で、博士課程の学生比率は研究開発とは関係しなかった。これまでは、我が国のように学部ないし修士課程の卒業者を採用し、企業内のOJTで研究開発人材を育成するというモデルに不都合がなかったといえよう。ただし、今後は、研究開発比率の高い一部の業種を中心に、博士のニーズも高まる可能性があることには注意が必要である。
次に、金融市場の構造に関しては、直接金融比率が高いほど民間の研究開発が活発であるという関係が見られる(第3-3-16図(2))。一般に、研究開発はリスクが高く、人件費比率が高いこともあって銀行貸付の対象にはなじみにくいことを反映した結果46であろう。我が国は間接金融主導といわれるが、大企業では直接金融、あるいは市場型間接金融の活用も有力な選択肢となっている。また、最近では企業が手元流動性を手厚く積んでおり、研究開発に対する資金的制約は強くないと考えられる。
以上から、第2章で指摘したような研究開発の効率性改善へ向けた課題を別にすれば、教育水準の低下を防ぎ、直接金融のルートや自己資金が確保されている限りにおいて、高水準の研究開発は維持可能と考えられる。
- 逆に直接金融比率が高いと、株主からの収益確保に対するプレッシャーが、その有力な手段であるR&D投資の増加につながるという側面もあろう。
(起業の低調さはM&Aの促進で補完)
その次が、起業活動である。我が国では、大企業を中心とした伝統的な終身雇用、年功賃金が変化しつつあるのも事実である。しかし、それは非正規雇用の拡大、中途採用や業績連動賃金の部分的な導入を通じたものが中心であり、一定のコア人材を長期雇用の形で保持しようとする姿勢の企業は依然多い。大企業が潜在能力の高い人材を新卒として採用し、終始内部に抱え込むため、こうした人材による起業の機会が狭められてきたことは否めない。新卒一括採用はまた、スキル形成における学校教育の役割を低下させてきたとの指摘がある。その結果、卒業時点で突出したスキルを持つ人材が輩出されず、若い起業家の成功も少なかったという見方もできる。
それでは、国際比較データではどうか。起業従事者シェアに影響を及ぼす要因の一つとして、第1節では失業者の就職確率を取り上げ、その確率が高い国ほど起業が盛んであることを述べた。この場合、就職確率の高さは、起業に失敗してもやり直しができる社会であることを意味した。ここでは、平均就業年数(男性)との関係を確認すると、予想されたように、平均就業年数が長いほど起業が低調なことが分かる(第3-3-17図(1))。労働市場の柔軟性が乏しい場合、失敗してもやり直しにくいだけでなく、能力のある人材が起業を選択しない可能性を示唆している。
グローバルな知識経済化の進展に伴い、専門人材や外国人の活用が重要となっており、そのためには中途採用や転職がある程度は増えざるをえないと見られる。その過程で、有能な起業家が生まれやすくなることも考えられる。しかし一方で、新卒一括採用が続いている状況で、新卒採用からの撤退は潜在能力の高い人材の獲得機会の放棄を意味する。そのため、少なくとも経営幹部となるコア人材については、大企業による抱え込みが続くというシナリオの蓋然性は高い。
そこで、雇用の緩やかな流動化を補完するルートとして、M&Aを通じたイノベーションの促進が考えられる。M&Aは起業の出口の一つでもあるが、大企業を中心として既存企業の組織の組み換えが主流である。そのようなM&Aは、売買の対象となる組織の人材を含めた無形資産を大きく毀損せずに資源の再配分を実現する。現在、リーマンショック後の景気悪化や震災の影響もあって我が国における国内企業どうしのM&Aは低調であるが(海外企業による国内企業の買収も同様)、その活性化策を構ずることが起業の低調さを補う打開策の一つであろう(第3-3-17図(2))。
(対内直接投資への人材面のネックは外国人の受入れなどで対応)
それでは、対内直接投資はどうか。第2章で明らかになったように、我が国への対内直接投資は国際的に見て低水準にある。その背景についても種々の分析を行ったが、ここでは、外国企業が我が国を投資先として選択しない理由として上位に挙げられる、高度人材の不足について考えよう。
外国企業にとって、我が国に高度人材がいないとすれば、次のような理由が考えられる。第一は、語学力の不足である。これは、第2章のグラビティモデルで分析したように、二国間の投資関係には言語の共通性がプラスの効果を持つのが当然であり、ある程度やむを得ない面もある。第二は、前述のように、能力の高い人材を企業が抱え込むために、そういう人材を市場で調達することが難しいことである。そこで、就業年数の長さと対内直接投資との関係をプロットすると、明確な相関は見られなかった(第3-3-18図(1))。ただし、我が国とアメリカや英国が対極的な位置にあり、制度の補完性が何らかの影響を及ぼしている可能性も否定できない。第三は、教育水準が高い人材の不足である。前述のように、我が国では高等教育卒業率は高い。しかし、その先の大学院への進学率は低く、そのことが高度人材の不足をもたらし投資を阻害している可能性がある。そこで博士課程の学生比率でこの点を調べると、まったく相関は見られなかった(第3-3-18図(2))。
このような検討を踏まえると、対内直接投資の促進に当たって第二の点がネックとなっている可能性は否定できないが、基本は第一の点であろう。そうであれば、外国人の高度人材を受入れることが解決の早道である。第2節で見たように、日本への留学生を中心に既存の日本企業も外国人の受入意欲を高めているが、こうした動きを含め、外国人の受入自体が労働市場の柔軟化に資する可能性もある。
コラム3-4 伝統的な分類軸による経済システムの類型化
本文では、イノベーションシステムに注目して先進国を分類したが、ここでは伝統的な枠組47に基づき、製品市場、雇用制度、社会保障、教育、金融の5つの制度部門に関する指標から21か国の経済システムを分類し、2000年代における変化を調べよう(コラム3-4図)。
2000年時点では、先進国を5つに分類できる。第一はアメリカを含み、最も市場化が進展しているグループである。社会保障の規模は相対的に小さい一方、直接金融の比重が大きい。第二は、北欧諸国3か国で、当然ながら社会保障の規模が大きい。第三のグループは大陸欧州諸国が中心で、製品市場や労働市場の規制が強く、社会保障に関しては第一、第二の中間にある。第四は、日本単独のグループである。製品市場等の規制は比較的弱めで第一に近いが、直接金融の規模が小さいため、独自の区分となった。第五のグループは英国を含み、総じて市場化が進展しているものの、経済の金融化が進んでおり、第一とは別に分類された。
2007年時点での分類では、各グループの構成国に若干の変化は見られるものの、大枠は2000年からそれほど変化していない。しかし、我が国は所属が変わり、大陸欧州諸国と同グループとなった。この背景には、我が国における直接金融の発展があると考えられる。また、銀行貸出が減少したため、以前は近かった英国等との距離が遠のいた。なお、大陸欧州諸国の製品市場規制が大きく緩和されたことも、我が国がこれらの国と同じグループとなった一因である。
伝統的な分類の枠組では、我が国の経済システムは、終身雇用、年功賃金、銀行中心の金融システムなどから、国際的に特殊なものとして説明されることが多い。しかし、2000年代を通じて、その特殊性が薄れてきている可能性が示唆される。
- 詳しくは、Amable(2003)を参照。