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第1章 長期金利上昇の要因と物価連動債の役割

第3節 金融政策における期待形成と物価連動債

 第1節において述べたように、長期金利の上昇は、現在及び将来の経済の見方の好転を反映させたものである場合、自然なことであるといえる。ただし、実体経済の基礎的条件からかけ離れ、急速に上昇する場合等には、景気に対してマイナスの影響を及ぼす可能性がある。Fedや日銀等の中央銀行は、金融緩和を継続し、こうした金利上昇リスクに対処している。その際、長期金利は主に期待によって変動するため、市場で形成される期待への働きかけが重要である。

●金融政策運営における期待形成の重要性
 Fedでは、デフレ懸念を十分認識し、長期国債購入等の非伝統的手段も念頭において、長期金利の低位安定を目指す金融政策運営が行われている。しかし、第1節で述べたように、2003年6月のFOMCの声明は市場の困惑を招き、金利動向の急変の一つの原因となった。その背景は、前月の5月にFedがインフレと経済成長のリスクに対する評価方法を変更したことから既に始まっていた。
 Fedは5月のFOMC声明でリスクの評価方法を変更した。従来は、物価安定と持続可能な成長の実現という金融政策の目標に関し、インフレと経済成長のリスクの大きさの比較を行い、総合判断を示していた。それに替えてインフレリスクと成長リスクの両面についてそれぞれ判断を示すという手法を導入した。インフレリスクとは、インフレ率の上昇が起こるリスクと「望ましくない」ディスインフレが起こるリスクを比較したものである。成長リスクとは、経済が持続可能な成長よりも高い成長となるリスクと低い成長となるリスクを比較したものである。5月のFOMC声明では、成長リスクについて上方リスクと下方リスクが同程度とする一方、物価リスクについてはインフレが高まるよりも望ましくないディスインフレが起こるリスクがわずかながら上回っていると判断している。この結果、市場でデフレ懸念が高まり、長期金利は急低下した。他方で、インフレリスクと成長リスクを別々に判断し、成長リスクが中立であるのにディスインフレのリスクが強いという判断については、Fedの金融政策運営の意図が市場に伝わりにくいとの批判もみられた。

●重要な市場との対話
 このことについて、Fedのバーナンケ理事は、「5月6日の声明発表の教訓は、中央銀行のコミュニケーション能力が非常に重要であることが明白になったことである。物価リスクがもはやインフレリスクのみを指すわけではなく、短期名目金利が歴史的な低水準にある世界において、金融政策が成功するか否かは、他のいかなる要因以上に、中央銀行がその計画と目標をいかにうまく伝えていくことができるかどうかにかかっている。」と述べ(7月23日講演)、市場との対話を深め適切な期待形成を図ることが金融政策の有効性を高めていく上で重要だと指摘している。
 期待への働きかけの手段として有効なのは、中央銀行が政策のコミットメント(確約)(13)を示すということである。それが外部からも分かりやすい形で示されれば、期待に働きかけるということが可能となる。このためには中央銀行が、今後の経済の先行き見通しを示し、それに応じた金融政策の選択肢を示すことが望ましい。Fedのコーン理事も、中央銀行が経済の見通しを示すことは、金融政策の透明性を高め、市場参加者の期待形成を容易にするとしている(Kohn and Sack [2003])。
 コミットメントを示すに先立って、現在の市場の期待を的確に把握することも重要となる。市場で形成される期待を表すものとして、最も一般的なのは期待インフレ率(将来のインフレ率の予測)である。期待インフレ率の把握手法には種々のものがあるが、以下では物価連動債を用いた期待インフレ率の把握と、それを用いた金融政策運営について説明する。
 期待インフレ率は通常債と物価連動債の利回りの差として計測される。ただし、これは計測に用いられる債券の満期までの期間を視野に入れたものであり、月次で公表される消費者物価上昇率がそのまま反映されるわけではない。

●イギリス:インフレターゲットを用いた金融政策
 イギリスでは、92年から採用されたインフレターゲットが、金融政策への信認を高めたといわれる。これは、ターゲットとなっているインフレ率が市場から信頼されているか否かで判断される。すなわち、ターゲットとなっているインフレ率が実現可能であると信頼されていれば、期待インフレ率はターゲットの近傍で推移する。他方、信頼が不十分であれば期待インフレ率はターゲットからかい離する。その際、市場の期待インフレ率をいかに把握するかが問題となるが、イングランド銀行(BOE)では、通常債と物価連動債の利回りの差として求められる期待インフレ率を参照している。キング総裁は、インフレターゲットの導入により、特に97年以降、インフレ率だけでなく、期待インフレ率の低下(第1-3-1図)とインフレリスクプレミアムの減少が認められたとしている(King[2002] なお、発表当時は総裁ではない)。
 なお、BOEがターゲットにしているのはインフレ率(正確には住宅金利を除いた小売物価上昇率)であり、期待インフレ率は参考にされているのみであるが、期待インフレ率がインフレターゲットの目標値である2.5%を上回るタイミングで金融引締め策がとられ、それを下回るタイミングで金融緩和策がとられているように推察される(第1-3-2図)。

●アメリカ:期待インフレ率と金融政策運営
 Fedは、インフレターゲットを採用しておらず、期待インフレ率を金融政策運営の参考とするとの表明も行っていない。また、グリーンスパン議長は機械的な金融政策運営には否定的な見解を示している。しかしながらFedの研究論文(Sack [2002])によれば、物価連動債は期待インフレ率に関するタイムリーな情報を提供し、その情報が金融政策決定に大きな示唆を与えることが示されている。すなわち、99年4月以降、Fedは、通常債利回りと物価連動債利回りとの差によって求められる期待インフレ率が、2%を基準にどのように推移するかが金融政策の運営に関する重要な尺度になっているとしている。フェデラル・ファンド・レートの誘導目標水準と期待インフレ率の推移をみると、期待インフレ率が2%を上回るタイミングで金融引締め策がとられ、それを下回るタイミングで金融緩和策がとられていることが推察される(第1-3-3図)。また、期待インフレ率と実際のインフレ率の推移を調べると、国民へのアンケートによって得られる期待インフレ率がCPI総合の上昇率の動きに近く、変動が小さい一方で、物価連動債利回りによって導出される期待インフレ率は、基調的な物価動向を示すPCEコア(14)の上昇率の動きに近いといえる(第1-3-4図)。


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