むすび
(アジア通貨・金融危機と世界経済)
この1年間の世界経済の動向は,アジア通貨・金融危機の深まりとその影響の世界大での広がりという点に集約することができよう。危機に見舞われた国では,経済は当初の大方の予想を越えて大幅に収縮し,生産はいまだ底を打っていない。雇用情勢も極めて悪化している。また,アジアの需要減退と為替減価は貿易面を通じて,他地域にデフレ圧力を加えた。特に,一次産品価格は大幅に低下した。こうした実物面での影響に加え,アジア通貨・金融危機以降,新興国市場一般の先行きに不透明感が広がり,一部の新興国では資本の流出,為替・金融市場の混乱が生じている。特に,経常収支赤字,財政赤字等マクロ経済上の不均衡の大きな国,輸出における一次産品依存度の高い国の為替・金融市場でそのような混乱が生ずる傾向が強い。こうした中で,資金が「質への逃避」を起こし,先進国の国債市場等に還流するという現象もみられている。
こうして,実物面のみならず,金融面からも世界的なデフレ圧力が強まりつつある。
(アメリカ経済インフレ懸念から景気後退懸念へ)
アメリカ経済は91年からの長期景気拡大局面にあり,しかもその間労働需要が強く,失業率が低下する中で,物価の安定が維持されてきた。こうした極めて好調な経済状況を説明するために,アメリカ経済の生産性は情報技術革新などによりこれまで以上に上昇し,インフレのない,また景気循環もない「ニュー・エコノミー」段階に達したという議論もなされてきた。このような議論については賛否両論あるが,ここ数年の状況をみるかぎり,ドル高,一次産品価格の低迷,医療費の抑制といった一時的好条件が低失業と物価安定の両立を支えてきたことも確かである。いずれにしても,労働市場を中心とした景気の過熱感は徐々に高まり,98年夏までの段階では金融政策のスタンスも引締め気昧で推移した。しかし,アジア通貨・金融危機が輸出,企業収益に悪影響を及ぼしつつあることなどから,8月中旬には金融政策のスタンスは中立に変更された。さらにその後,8月のロシアの通貨・金融危機に端を発する株価の急落,その後の中南米等一部新興国における通貨・金融市場の混乱,さらにはこうした新興国市場の混乱に伴い大きな損失を被ったとされるヘッジファンドの経営危機などから,景気の先行きに不透明感が一挙に広がり始めた。こうした中で,連邦準備制度理事会(FRB)は9月末にフェデラル・ファンド・レートの誘導目標水準切下げを行った。さらに,10月半ばにFRBが追加的利下げを発表している。また,市場では,更なる追加利下げ観測も台頭している。アメリカ経済の懸念は景気過熱から景気後退へと大きく変化したのである。
(通貨統合目前のヨーロッパ)
ヨーロッパでは,大陸ヨーロッパ諸国をはじめとして,景気は総じて拡大している。EUでは,99年1月から始まる経済通貨統合(EMU)第3段階への当初参加国(11ヵ国)が決定し,その最終準備が進みつつある。EMU第3段階移行後の金融政策を担う欧州中央銀行(ECB)が,物価安定という明確な目標に向かって政策運営を行い,ユーロを安定した信頼できる通貨とすることが国際社会全体の利益ともなる。ただし,ECBがインフレファイターとしての定評を確立しようとして過度に緊縮的な金融政策運営を行うとの見方も一部にあるが,世界的にデフレ懸念が強まりつつある中では,適切な金融緩和が期待される。また,EMUの成功のためには,各国の労働市場の柔軟化に向けた構造改革が非常に重要である。何故ならば,EMU第3段階移行後は,参加国間における景気局面の相違や非対称的な経済的ショックを吸収するために,各国独自の金融政策や域内の為替レート変動を用いることができなくなるから,またEU財政における加盟国間の財政移転も限定的なものにとどまっているからである。貨幣賃金の伸縮性や労働移動の円滑性がなければ,加盟国間の経済の調整は極めて困難になる。いずれにしても,経済的価値を越えた,統一欧州という理念に向けての壮大な実験でもあるEMUの帰趨が注目される。
(労働市場改革の重要性)
第2章で扱ったアジア通貨・金融危機,さらにはその後の世界経済の混乱の大きな背景は国境を越えた資本の自由な移動の急拡大であった。逆に国境を越えて動くことが少ないもう一つの生産要素が労働であり,この労働について扱ったのが第3章である。そして資本の自由な移動の急拡大は,一般論としては,労働市場改革の重要性,特に先進国におけるそれをますます高めるものである。資本はただ単に安価な労働力を求めて移動するわけではない。仮に賃金水準が低くでも,賃金外コストが高く,解雇制限が過剰な国や労働争議の頻発する国には資本は流入しないかもしれない。99年1月からの通貨統合後のEUに典型的にみられるように,資本の国境を越えての動きがますます活発化する中で,資本の流入を促し,雇用の増加を図るには,労働市場改革を今まで以上に積極的に進める必要がある。
近年における欧米の労働市場のパフォーマンスを比較すると,従来からその柔軟性を誇ってきたアメリカの他に,イギリスやオランダなどでも,雇用が増加し,失業率が低下している。一方,ドイツ,フランス,イタリアなどの大陸ヨーロッパ諸国では,景気の回復,拡大にもかかわらず,雇用の伸びは緩慢であり,二桁の失業率が続いている。こうした二極化が生じた要因は各国の労働市場政策の違いにあると考えられる。イギリスではサッチャー政権下で行われた市場原理に基づいた労働市場改革の成果が出てきており,オランダでは労使協調路線の下で,特にパートタイム労働の促進が労働市場の柔軟化に大きく寄与してきていると考えられる。他方,ドイツ,フランス,イタリアなどの大陸ヨーロッパ諸国では,雇用対策が概して近視眼的となり,痛みを伴う構造改革は遅れてきた。逆に,アメリカ,イギリスなどでは,市場メカニズムが機能している分,所得分配の不平等度が高いという問題点が指摘されている。こうしたことから,高雇用,低失業と所得分配の平等との両立を目指す「第三の道」と呼ばれる路線の萌芽も一部ヨーロッパ諸国ではみられ始めている。折しも,98年9月にはドイツの総選挙において社会民主党が第一党になり,EU諸国15ヵ国のうち13ヵ国において社会民主主義政党(あるいはそれに類似する政党)が政権を担うこととなった。こうしたなかで,ヨーロッパ諸国が高雇用,低失業と分配の平等との間にどのようなバランスを見いだしていくのか,より一般化して言えば,経済的な自由主義と社会民主主義とをどのようにバランスさせていくのか,注目されるところである。
(アメリカの労働市場)
目をアメリカに転ずると,91年以降の長期景気拡大の中で,これまでに1400万人程度の雇用が創出され,失業率も98年4,5月には4.3%と約28年ぶりの低水準となった。こうした高いパフォーマンスは,基本的には市場メカニズムを活用した効率的な労働市場によりスムーズに資源配分がなされた結果と考えられる。特に,今回の景気拡大局面においては,(1)早めの金融引締め措置の発動など金融政策の成果に加え,好条件に恵まれたこともあり,景気の拡大がインフレを招かず,景気拡大の長期化が可能となり,労働需要が長期にわたり拡大したこと,(2)製造業における大企業等のリストラによって生じた余剰労働力を中小企業や新規設立企業などの雇用創出が吸収したこと,(3)人材派遣業の成長などによって労働需要に見合った労働力の供給が円滑に行われたことなどの要因が大きく寄与したものと考えられる。しかし一方で,実質賃金の伸び悩みや所得格差の拡大などの諸課題には改善の兆しがみられていない。
(世界的なデフレ圧力の高まり)
1998年前半までの段階では,日本を含む東アジア経済では総じて景気は低迷していたものの,欧米では景気は総じて拡大しており,世界全体としてみた場合,デフレ圧力はそれほど大きなものではなかった。むしろ,アメリカ,イギリスなどでは景気の過熱が懸念され,金融政策も引締め気味に推移した。しかし,アジア通貨・金融危機の影響は実物面及び金融面から世界経済全体に重大な影響を与えた。そうしたなか,8月中旬にはロシアで金融危機が発生し,その影響もあって8月末にはアメリカで株価の急落が生じた。その後,中南米などの新興国通貨・金融市場の混乱が一層強まり,その結果これらの市場で損失を被った先進国の金融機関の経営問題も生じている。こうした状況に対応して,アメリカ,カナダ,イギリスなどで9月から10月にかけて金利引下げが行われた。こうして,98年後半にはデフレはアジアのみならず世界経済全体の懸念となった。
(国際的資本移動の重要性)
世界各国間の経済状況あるいは景気の伝播経路は,従来貿易面を通ずるそれが最も強いと考えられてきた。例えば,経済的規模の大きい国の景気後退は,その国の輸入需要の減少を通じて,世界各国の景気に影響を与える。しかし,アジア通貨・金融危機及びその後の新興国通貨・金融市場の混乱などをみると,それと並んで,あるいはそれ以上に,資本移動を通じた伝播が重要になってきていると考えざるを得ない。国際的な資本取引はモノやサービスの貿易よりも急速に拡大してきており,その重要性を増しつつある。貿易面あるいは実物面の結びつきは,データも比較的豊富であることから,実体が相当程度把握されているが,資本の流出入については,データも不十分であり,実体の把握も遅れている。したがって,ある経済的ショックが生起した場合に,その実物面での影響は比較的予測し易いのに対して,資本移動を通ずる影響は予測が困難である。また,実物面での変化は概して徐々に生じるのに対して,大幅な資本移動は一瞬のうちに起こり得る。したがって,国際的な資本移動の変化は,思いもよらない地域で,思いもよらない大きさの影響を,一瞬のうちに引き起こす可能性がある。このように,世界的資本市場の統合が急速に進展するなかで,資本移動を通じた世界経済の相互依存関係の深まりは,21世紀を目前に新たな段階に達したと評価することができよう。
(アジア通貨・金融危機の教訓)
このように今回のアジア通貨・金融危機後,国際的資本移動の重要性が急速にクローズアップされてきている。これに加え,今回の危機は,それが世界の成長センターと目されていたアジアで発生したこと,大方の予想以上の広がりと深まりをみせ,世界経済全体に極めて大きな影響を与えたこともあり,国際的な資本移動に対する規制の在り方,国際金融機関の在り方,国際通貨体制の在り方,各国の経済政策の在り方などについて以下のような様々な問題提起がなされている。
- 危機後のIMFの処方箋は正しかったのか。危機の深刻化を防げなかったのは何故か。マクロ安定化政策が緊縮的過ぎることはなかったか。逆に,緊縮的政策なくして,経済は安定化し,回復したのか。危機の真っ只中に経済構造調整まで要求することが妥当であったのか。
- 資本自由化についてはどのように考えるべきか。国内における金融システム基盤等が脆弱な途上国においては順序良くかつ慎重に資本の自由化を進めるべきである点についてはほぼコンセンサスができていると考えられるが,国内金融システム基盤などが整った国において,例えばチリのような形で,資本流出入を規制することの是非についてどのように評価するべきか。
- 巨額の資本が瞬時に国境を越えて動き回る今日の世界経済において,発展途上国が固定相場制をとることはますます難しくなってきており,現実的な選択肢ではなくなりつつあるのではないか。通貨の過大評価や過小評価を防ぐ伸縮性を保ちつつ,過度の変動をも防ぐような,途上国にとって望ましい弾力的な為替制度とは何か。
- 創設以来半世紀以上たつ世銀・IMFを中心とする国際金融機関についても,見直しの時期にきているのではないか。
こうした問題提起については,既にG7,IMF,世界銀行などの場で各国間の話合いが開始されており,また本文でも一部議論の整理を行ったところである。今後,世界各国は,互いに協力しながら,これらの問題提起に対する答えを探りつつ,21世紀の資本主義像を模索していくことになろう。