平成8年

年次世界経済報告

構造改革がもたらす活力ある経済

平成8年12月13日

経済企画庁


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むすび

国際金融の動乱のうちに始まった95年の世界経済は当初予想を下回る拡大テンポの鈍化がみられたが,96年には先進国の多くで回復を明確にしている。しかし,アジア,特に東アジア諸国においてはこれまでの投資ブームからの調整局面を迎え,一方,ASEAN内部でも輸出の減少などから経済の拡大テンポにバラツキが見られている。こうした各国の動向は,域内の貿易を通じてお互いに影響を及ぼしあいアジア全体としての成長率を多少鈍化させるものと考えられる。成長率が鈍化したといっても先進諸国に比べれば十分に高い成長率を保っており,潜在的な需要の大きさなどを考えると,今後ともこの地域が「世界の成長センター」として機能していくであろうことは間違いない。

第2章ではヨーロッパを中心に財政赤字削減の動き,公的部門の役割の見直しについて検討した。ヨーロッパ諸国はきたるべき通貨統合に備え,マーストリヒト条約における財政の収斂条件を満足させるため,財政赤字の削減に向けての努力を続けている。財政赤字の削減は通貨統合に向けてのヨーロッパだけの短期的な問題ではなく,21世紀での急速な高齢化を控えた先進諸国おける中長期的な共通の課題でもある。

70年代以降の先進諸国の財政赤字の拡大は,これまで平和時にはみられなかった現象であり,その原因をほとんど歳出面に求めることができる。また,歳出増加の主要因は社会資本ストックの供給にあるのではなく,移転支出の増加に求められる。公的投資の増加によるインフラの整備は経済全体の生産基盤の整備であり,生産性の向上に寄与し,将来世代においても整備されたインフラが活用でき便益も十分に受けることができる,という議論も少なくない。しかし,一部の国を除いて歳出の増加は,公的投資の拡大によるインフラ整備を原因とするものでない。過度な移転支出の増加による財政赤字の拡大は将来世代へ負担を残す可能性がある。

社会保障制度の変更を行わず高齢化社会を迎えることは移転支出の増加から財政赤字の幅を更に拡大させる。赤字増加はそのファイナンス自体を困難とし,政府にたいする信任そのものも揺らがしかねない。また,高齢化の進展や経済の状況に応じた社会保障制度の改革を行わないことは,将来世代の公的負担を非常に高いものとし,経済活動の停滞をもたらすおそれがある。そのため,先進各国では財政赤字削減を,歳出の削減,公的企業の民営化,規制撤廃・改革による民間部門の自主性の確保,社会保障制度の改革などにより達成しようとしている。言い換えるならば,こうした財政赤字削減の方向は,政府の役割を必要最小限なものに,民間部門で供給できない最小限のサービスだけに限り供給することにより財政赤字の削減を図り,民間部門の自主性を最大限に活用し市場メカニズムを通じる競争により経済システムの効率化の実現を目指すものといえる。

規制改革などにより市場メカニズムを活用していくということは市場参加者の自己責任を増すことである。規制により保護された市場の存在はその市場の参加者にレントを発生させる。規制改革により新規参入が可能になったとしても,新たな参加者に自己責任によるリスクを求めないのであれば,既得権者がら新しい参加者へのレントの移し変えに過ぎなくなる。規制改革による便益は,最終需要者である消費者に広く配分されることが望ましい。そのためには情報の開示や競争条件の整備など市場のルール,フレーム・ワークを整備し,新たなレントの発生を防ぐことが政府の重要な役割となる。このような環境整備があって初めて市場機能が十分に発揮される。

先行して規制の撤廃や改革,民営化を行うことにより公的部門の経済活動への関与を削減してきたアメリカ,イギリスについてみると,物価の安定と雇用面での好影響が共に実現され,財政赤字の削減も進んでいる。大陸ヨーロッパ諸国では手厚い社会保障制度や職能制度などから経済構造の変化に伴う労働の産業間移動がスムーズに行われず失業率は高水準となっており,また,経済活動に対する公的規制など,公的関与が大きいことが経済活動の効率性を損なっている。

第3章ではアメリカ経済を実例に労働市場において市場メカニズムを活用した場合の効果をみた。そこでは,労働という希少資源が賃金という価格の動きにより市場メカニズムを通じ効率的に配分されている。マクロ的に見た雇用量の大幅な増加は,景気の拡大が6年にもわたって継続するという好条件に支えられた面も否定できないが,市場効率化の成果ということができる。急速な技術革新,新興経済地域との活発な財の取引により産業構造はサービス経済部門の比重が従来に増して高まり,労働需要構造も大きく変化してきた。硬直的な労働市場の下にあったならばこうした変化はミスマッチを増加させ,雇用の拡大はそれ程進まず,構造的な失業問題に直面したであろうことは想像に固くない。市場メカニズムを活用した効率的な労働市場によりスムーズに資源配分が行われた結果が,インフレと併存しない低い失業率を達成したといえる。

この効率的な労働市場を通じる資源配分は,生産者にとっては労働の限界生産性に等しい実質賃金での雇用の確保という観点からは望ましいものであっても,個々の労働供給者にとってはその保有する技能・能力による賃金水準となり,労働者間に賃金格差の拡大が生じる。新しい技術,能力の獲得が瞬時に行い得るのであれば,また,企業内訓練で行い得るのであれば個々の労働者にとっても悪いことではない。しかし,個々の労働者はより高い賃金の獲得機会を求めるためには,自己責任の下で労働の質の向上を図らなければならず,時間とコストを必要とする。しかし,労働供給者の質の向上への努力は大きく,これが全体として見た場合,労働需要との間でのミスマッチを少なくしている要因の一つでもある。伸縮的な労働市場を活用した効率的な生産活動が,大幅な雇用増,失業率の低下をもたらしたが,その副産物が賃金格差の拡大であった。

労働の質の向上は人的資本への投資を増やすことにより実現可能であるが,問題はその実現には時間を要することである。場合によっては一世代を必要とし,同一世代では賃金格差が是正される可能性は低い。アメリカでは労働者が賃金格差の拡大に対して不満を抱いており,イギリスにおいても,支持率の上昇している労働党が最低賃金制度の再導入を主張するなど,労働者の不満を反映した動きがみられる。

将来の高齢化社会を控え,累増している財政赤字を削減し,高い失業率など構造的な問題から脱却するため,市場メカニズムを活用して効率的な経済活動を実現していくことは先進諸国では広く共通認識となっている。80年代後半からの新興経済地域の急速な発展は,世界的に貿易財の生産能力の増加となり,欧米経済に見られた非製造業分野への産業構造の転換が促進され,また,同時に情報通信分野などにおける技術革新の進展がこうした動きを更に速めている。産業構造の変化に伴うマクロ的な調整コストをどのような形態で負担するかは国よって大きく異なっている。特に市場メカニズムの活用の状況,社会制度などの違いにより労働市場およびその周辺にその差違を端的に見ることができる。

市場メカニズムの活用が進み,効率的な労働力の配分の進んでいるアメリカ,イギリスでは失業率は低下し,物価の安定も実現しているが賃金格差は拡大している。手厚い社会保障制度が存在し,様々な社会的な制度から労働市場の効率性が阻害されている大陸欧州では物価の安定は実現し賃金格差は小さいが,失業率は高い水準となっている。また,独自の雇用慣行を持っ日本では物価の安定はもちろん,賃金格差も小さく失業率も上昇してきたとはいえ欧米に比べ水準は低くなっている。しかし,市場を通じる人的資源の配分が行われにくい面もあることから個々の企業は雇用の過剰感を抱えており,その調整が必要とされているほか,非貿易財部門では労働生産性が低く,貿易財部門との賃金コストに大きな差を生じ,現行の為替水準で見た場合のサービス価格を国際価格から見て高いものとしている。いずれの場合にも,産業構造の変化による調整コストが異なった形態で表れている。

先進諸国に共通なことはインフレが安定化してきていることであり,これには新興経済地域の発展による貿易財部門での世界的な供給力の充実がその要因の一つとして指摘できる。この動きは今後とも更に進展し,また,現在進められている規格基準の国際的な統一化により,財・サービスの貿易による国際間の相互連関が強められ,技術革新が速いスピードで継続すると考えられることから,先進諸国の産業構造転換は一層進んでいくものと考えられる。

今後とも先進諸国において産業構造の転換は避けることはできないのであれば,雇用などに表れ易い調整コストを小さなものとすることが求められる。そのためには,規制や制度を見直し,民間部門の自主性の発揮できる環境を作り出し市場メカニズムを通じる調整を活用することでより効率的な経済システムを構築することが必要とされる。こうした改革の方向は,スタートの時期は違うものの,アメリカ,ヨーロッパにおいて共通している。同時にそうした改革は,短期的には労働者に負担をかけやすく,既得権益者の抵抗が強いことから困難な途であることは想像に固くない。しかし,それは中長期的には活力ある効率的な経済社会を実現する途であり,将来世代への負担を軽減し,望ましい経済システムを残すためにも避けることができないものである。効率的な経済システムへの移行が進んだ場合においても,賃金格差などの社会問題につながりかねない副産物を伴う可能性が高いことを忘れてはならない。


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