平成7年
年次世界経済報告
国際金融の新展開が求める健全な経済運営
平成7年12月15日
経済企画庁
第1章 世界経済の現況
1994年中,欧州主要通貨や円に対して,下落していたドルは,メキシコ通貨危機,欧州通貨不安を契機として,95年初めから4月にかけて更に急落した。
通貨別には,ドルは対マルクで1.345マルク(3月8日),対円で79.75円(4月19日)の戦後最安値を記録した。その後,ドルは7月初めまでおおむね横ばいで推移した後,ドル安修曝正の動きが見られる。本節では,95年前半のドル安や欧州通貨の動向について観察し,その要因を考察する。さらにアジアの通貨に対するドル安の影響について考察する。また90年代以降,連動の見られる主要国の長期金利の動向について分析するとともに,先進主要国・アジアNIEsの株価,国際商品市況の推移についても概観する。
95年前半のドルの急落について,ドルの下落幅を見ると,94年では,1年を通してドルはマルクに対し11.2%,円に対し11.6%下落したのに対し,95年1月から4か月の間に,マルクに対し11.4%,円に対し16.4%と大幅に下落した。アメリカの貿易ウェイトで加重平均した名目ドル実効レート(モルガン銀行発表の指標)は,94年中,ドルがカナダ・ドルに対して6.7%増価するなどしたために,5.6%の下落にとどまった。しかし,95年1月から4月にかけて,ドルはカナダ・ドルに対しても,3.6%減価するなどしたために,ドルの名目実効レートは4ヵ月余りの間に8.5%の大幅な下落となった(第1-5-1図)。
為替市場における需給に影響を及ぼす要因には様々なものがあるため,為替相場の変動要因を特定することは困難であるが,95年前半のドル急落の要因としては,例えば以下の様なものが挙げられる。第1に,94年末からのメキシコ通貨危機によって,投資家がメキシコ・ペソはもちろんドルから円やマルクヘ資産を移したことが挙げられる。このようなドル資産からの資本逃避に基づくドル安は,通貨危機によるメキシコ経済の低迷から,アメリカのメキシコ向け輸出などへの悪影響が懸念されたことによっても生じた。メキシコ通貨危機の影響によるアメリカの経常収支の悪化は,拡大基調の累積経常収支赤字をさらに増大させるとの連想につながり,そのことがドル保有リスクを高め,ドル売り圧力を招いたと考えられる。こうした動きを,アメリカの財政赤字の拡大懸念が更に促進させた。財政赤字が拡大すれば,アメリカの国内貯蓄率の更なる低下を招くことから,経常収支赤字の拡大,そして累積経常収支赤字の増大を引き起こし,ドル売りの材料となると考えられた。実際,財政収支均衡を義務づける憲法修正条項が95年3月に否決された時などには,ドル安が加速した。
ドル急落の第2の要因として,資本移動に影響を与える各国金利差の動きが挙げられる。94年末から95年2月初めにかけて,アメリカとドイツや日本との金利差が縮小,その後,しばらくの間,金利差が縮小していくとの予想が存在したといわれる。アメリカで94年11月,95年2月に金利が引き上げられて以来,利上げ打ち止め感,インフレ懸念の後退が生じ,94年11月からアメリカの長期金利は下落に転じた。一方,①94年後半から95年年初にかけてドイツの景気が拡大したこと,②日本の景気が回復基調に転じたと見られたことから,94年年末から95年2月にかけてドイツ,日本の両国においては,金利引下げ観測が後退した。そのため,アメリカとドイツ,日本との金利差が縮小するとみられ,ドル資産保有のインセンティブが弱まり,市場においてドル売りの材料とされた。
ドル急落の第3の要因としては,上記要因以外のドル資産に対する需要の減少が挙げられる。90年代に入ってから日本の機関投資家の円投型外国証券投資(円で外貨を購入し,その外貨で海外の証券を購入すること)が非常に低調であったが,95年に入って,円投型の対外証券投資が更に低迷した。これには,日本の機関投資家,特に生命保険会社などの金融機関の保有株式の含み益が急減したことが背景にある。95年初めから6月までに日本の株価は26.2%下落し,92年の最安値を更新したことを受けて,日本の機関投資家の為替リスクなどのリスクを受容する余力が更に低下し,外国証券投資に一段と消極的になった。その他にも,アジア諸国などの中央銀行が対外資産の目減りを避けるために,外貨準備高のドルのシェアを低め,円などのシェアを高めようと資金をシフトさせたといわれたことも,市場のドル売りを促す影響を持った。
このようなドルの急落を懸念し,先進主要国は95年4月の主要先進7か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)において,ドルの下落に対する「秩序ある反転(orderlyreversal)」について合意した。しかし,しばらくは目立ったドル反転の動きは見られなかったが,7月になって,ドルは回復に向かった。通貨別に上昇率を比較すると,8月末現在,6月末から対円で14.9%,対マルクで6.2%上昇しており,対円でのドルの急速な回復が目立っている。その後9月中旬まで,ドルは上昇を続けた後,横ばいで推移している。10月末現在では,1ドル=100円前後,1.4マルク台前半で推移している。
95年7月以降のドルの回復については,ファンダメンタルズから離した95年前半のドル安からの「秩序ある反転(orderly reversal)」過程にあると考えられる。この為替相場の流れを後押しした要因として,①日米欧の効果的なドル買い協調介入もあって,市場のドル下落予想が後退したこと,②ドイツ,日本において,マルク高・円高の景気への悪影響の懸念から利下げ観測が台頭したこと,が挙げられる。このほか,③95年5月以降,アメリカにおいて議会が中心となって財政均衡化への取り組みが進展してきたことや,④8月上旬に日本政府が機関投資家などによる海外投融資の促進などを柱とする円高是正策を打ち出したことも,市場のドル買いを促す効果を持ったものと考えられる。
94年以降のマルクに対する他の欧州主要通貨の動きを見ると,94年中は,ドイツの公定歩合の引下げ( 2月,4月,5月)やヨーロッパ内でのインブレ率の収斂もあって,ほぼ安定した動きを見せていた。しかし,95年に入ると,①メキシコ通貨危機を契機とするドル安,②イギリス,イタリア,スペインの政局やフランス大統領選挙見通しの不透明感,を受けて投資家がマルク買いに動き,欧州の主要通貨はマルクに対し,急落した。この結果,95年3月6日にスペインとポルトガルがERM(為替相場メカニズム)加盟通貨との中心相場をそれぞれ7%,3.5%切り下げた。また,フランス,ベルギー,デンマーク,アイルランドは,自国通貨防衛のために金利を引き上げた。3月末にはドイツが公定歩合を引き下げたため,欧州通貨はマルクに対しても若干上昇し,その後,9月中旬まで安定的に推移した。しかし,ドイツ蔵相の通貨統合に否定的な発言を契機として9月下旬から10月にかけて再び,欧州通貨は対マルクなどで下落した(第1-5-2図)。
95年2~3月の欧州主要通貨の対マルク・レート急落の背景としては,欧州経済通貨統合実現についての不透明感が高まったことが挙げられる。97年ないし99年の欧州経済通貨統合第3段階に参加するためには,一定の収斂条件が課されている(第3段階の内容や収斂条件については第1章第3節を参照)。しかし,95年初の時点において上記の収斂条件を満たす国がほとんど存在しないことから,将来における欧州経済通貨統合実現に対する懸念が更に強まり,弱い通貨(スペイン・ペセタなど)に対して売り圧力が増大し,信認の強いマルクに資金がシフトした。また,イタリア,スペインなどでの政局とフランス次期大統領の欧州政策の不透明感も,マルクに対する欧州主要通貨の下落を加速した。
85年のプラザ合意以降,一時期(88年初~89年10月)を除いて継続してきた円高・ドル安の動きは,93年前半,94年前半に続き,95年前半にも加速した。
こうした円高・ドル安の動きの中で,アジア諸国の通貨はどのような動きを示してきたのであろうか。
以下では,まず,95年前半の急速な円高・ドル安局面におけるアジア通貨の動向を,①85年のプラザ合意時の円高局面と,②90~94年の中期的な円高局面について比較・検討し,今回の円高局面でのアジア通貨の動きの特徴を明らかにする。
円がドルに対して大幅に増価(94年末~95年6月末で17.0%の増価)した95年前半におけるアジア通貨の動向を,中南米のブラジルとメキシコの通貨動向と比較してみよう。ここでは,アジア通貨として,アジアNIEs,ASEAN,中国,インドの通貨をとりあげている(第1-5-3図)。95年前半の半年間にアジア通貨は,円に対して10~20%程度と大幅に減価した。一方,ドルに対しては,減価した通貨(インドネシア,フィリピン)もあるものの,ほぼ横ばい(香港(対ドル・ペッグ),インド)もしくは2~7%程度増価(マレイシア,韓国,シンガポール,中国,台湾,タイ)した通貨が多く,総じてみると対ドルではやや強含みの動きとなった。
この間中南米通貨は,アジア通貨とは対照的に,円に対してもドルに対しても大幅に減価した。
94年末に発生したメキシコ通貨危機の影響は,95年1月中旬にアジア通貨にも及んだが,その影響は軽微で,動揺は短期間のうちに収束した。1月中旬にタイ・バーツ,フィリピン・ペソ,香港ドル,インドネシア・ルピアなどを中心にアジア通貨が売られ,多くのアジア諸国の通貨は,ドルに対し通貨危機発生前と比較して,一時的に0.1~4%程度減価した(ただし,中国,シンガポール,インドの為替レートは全く変化しなかった)。タイやフィリピンなどASEAN諸国では,中央銀行によって,金利の引上げが行われたことに加えて,ドル売り市場介入が行われたものと推測される。にもかかわらず,結局はアジア各国・地域の総合的に見て良好な経済ファンダメンタルズが適切に評価されるようになったため,アジア通貨の売り圧力は短期間のうちに収まった。
円に対しては大幅減価,ドルに対しては強含みという,95年前半のアジア通貨の動向は,これまでの円高局面でも見られた現象であろうか。95年前半のアジア通貨の動きを,85年のプラザ合意直後の急速な円高局面,及び90年代前半(90~94年,以下同じ)の中期的な円高局面におけるアジア通貨の動きと比較してみよう(前掲第1-5-3図)。
まず,85年のプラザ合意直後の半年間(85年9月~86年3月)の円高局面でのアジア通貨の動きを見ると,円に対して大幅に減価するとともに,ドルに対しても弱含みで推移した。韓国・ウォンがわずかに増価(0.7%)した以外は,フィリピン・ペソが9.5%減価しているのを始め,アジア通貨は一様にドルに対して減価している。
円・ドル間の変化率は,85年9月以降の半年間と95年前半ではほぼ同じ(85年9月末~86年3月末は17.2%の円安,95年前半は17.0%の円安)なので,裏返せば,今回の方がアジア通貨の円に対する減価率は小さいことになる。85年と95年前半のアジア通貨の対円相場の減価率を比較すると,例えば,マレイシア・リンギ21.6%→10.7%,韓国ウォン16.6%→12.1%,シンガポール・ドル18.8%→13.4%,中国元23.7%→13.7%となっている。
次に,90年代に入ってからのアジア通貨の動きを見てみよう。90~94年の間において,円はドルに対して4.2%増価した。こうしたドル・円の展開の中で,アジア通貨は,円に対しては1~9%程度減価している。ドルに対しては,シンガポール・ドル(2.7%増価),マレイシア・リンギ(0.6%増価)が強含んでいるものの,他のアジア通貨はほとんど変化がないか,あるいは減価している。
このように,95年前半の円高・ドル安局面では,アジア通貨が円に対して大幅減価したとともに,ドルに対しては強含みで推移した。こうしなアジア通貨の対ドル強含みの動きは,95年前半の円高・ドル安局面での特徴的な動きである。
アジア通貨の為替制度は,国によって異なる(第1-5-4表)。しかし,アジア通貨の対円・対ドルでの動向は,通貨当局の政策的意図の他に,物価上昇率の格差,経常収支と資本収支の動向に影響されると考えられる。物価上昇率が相対的に高い国,経常収支が赤字の国の通貨には減価圧力が,資本流入が大幅な国の通貨には増価圧力が働くと考えられるからだ。
まず,85年以降の約10年間の物価動向を見ると,アジア諸国においては,85年以降,物価上昇率は高まる傾向にあり,シンガポール,マレイシア,台湾を除き,アメリカとのインフレ格差は大きくなっている。こうしたインフレ格差の動向は,アジア通貨を対ドルで中長期的に減価させる方向に働くと考えられる。
また,90~94年のアジア諸国の経常収支と資本収支を見ると,経常収支は,香港,台湾,シンガポールでは黒字となっており,通貨増価圧力として働いていたのに対し,それ以外のアジア諸国では赤字となっており,通貨減価圧力として働いていたと考えられる。一方,資本収支(データのとれない香港を除く)は,資本輸出国となっている台湾を除いて,他のアジア諸国では大幅な資本流入超となっており,資本取引の面では,台湾以外の国の通貨に増価圧力が働いていたと考えられる。
最後に,外貨準備の増減(香港を除く)について見ると,90~94年の期間を通じて,おおむねすべての国の通貨当局が,外貨準備を大幅に積み増しており,自国通貨の増価を政策的に防止していたことを意味するものと推測される。
以上の要因が作用した結果,90~94年の間に,シンガポールとマレイシアでは通貨が対ドルで強含み,タイ,香港,台湾の通貨は対ドルでほぼ横ばい,それ以外の国の通貨は対ドルで弱含んだものと考えられる。
95年前半の円高期においては,85年のプラザ合意直後,90年代前半の円高期に比べ,多くのアジア通貨がドルに対して増価している点が大きな特徴となっており,通貨当局において,市場の対ドル増価圧力をある程度容認してもよいとの判断が働いた側面があったものと解釈できよう。ただし,ドルに対して強含む動きは,90年代u降,シンガポール・ドルやマレイシア・リンギの場合には,既にみられていた。今回,シンガポール・ドルやマレイシア・リンギが,アジア通貨の中でもドルに対する増価率が高いのも,90年代以降の両通貨の動きを受けたものという側面があると考えられる。
95年前半のように急速に円高・ドル安が進行する中で,アジア通貨が対ドルで増価しなければ,対円では円高・ドル安の変化をそのまま受けて,大幅な減価となる。対円での減価率が大きければ,全輸入額に占める日本からの輸入のシェアが高いアジア諸国では(93年日本から22.1%,アメリカからは13.7%),インフレ圧力が一段と強まる。また,ASEAN諸国や中国では,円建て債務の負担が増加する。
今回の円高・ドル安が進行するなかで,アジア諸国の通貨当局としては,次の2つの相反する政策目標に直面したと考えられる。すなわち,①通貨増価圧力を受けるなかで,対ドルでの増価をある程度防いで,対米輸出競争力の維持を図る一方,②対円での減価幅を縮小し,対円での減価によるマイナスの影響を和らげる,ことである。こうした配慮などから,現実には,多くのアジア諸国の通貨当局は,アジア通貨が,対ドルで若干増価するのを許容し,対円で大幅に減価するのをある程度回避したものと考えられる。また,95年前半の局面においては,台湾,韓国,シンガポールを始めとする多くのアジア諸国で,対米貿易収支はかなりの黒字となっており,ドルに対する増価を受け入れる余地があった,あるいは受け入れざるを得なかったということが考えられる。
では,今回と同程度の急速な円高が進んだ85年の円高時に,アジア通貨がドルに対して増価しなかったのはなぜであろうか。85年当時もアジア諸国は,日本からの輸入が占める割合が高く(85年23.3%),対円減価によるインフレ圧力の強まりが見られた。しかし,当時アジア諸国は,対米輸出を軸とした高成長の過程にあり(アジアの総輸出額に占めるアメリカ向けシェア,80年16.7%→85年25.7%→94年22.3%),対日輸入物価上昇によるインフレ圧力の高まりよりも,対ドル増価による輸出競争力の低下を回避したかったものと考えられる。
アジア通貨は,ドルとの連動が依然として強いものの,対米輸出比率の低下,対日輸入比率の上昇などを背景に,ドルとのリンクを弱める傾向にある。
今後,アメリカに比べてインフレ率の高いアジア諸国の通貨は,中長期的にはドルに対して減価傾向で推移するものと考えられる。また,今回のように急速な円高・ドル安局面においては,対ドルで増価(ないし減価幅が縮小)し,逆に円安・ドル高局面においては,対ドルで減価(ないし減価幅が拡大)する動きを示すと考えられる。
(94年末にピークに達した長期金利)
94年以降の先進主要国の長期金利については,その動向に強い同時性が見られる。94年2月のアメリカの金融引締めへの転換に前後して,ほぼ同時に上昇を始めた各国の長期金利は,94年前半において急速に上昇した。94年後半においては各国の長期金利は緩やかに上昇を続け,94年末頃にピークを打ち,その後,95年中頃まで下落を続けた(第1-5-5図)。
各国別に長期金利の動向を見ると,アメリカの長期金利(30年物国債)では,93年10月に5%台後半の水準で底を打ち,緩やかに上昇を始めた。94年2月には,アメリカが金融引締め姿勢に転換したため,長期金利は,5月にかけて急速に上昇し,その後も緩やかに上昇を続け,11月には8%の水準に達した。これをピークに下落に転じ,95年6月下旬には,一時,6.5%を割り込む動きを示すなど,その後も6.5%から7%のレンジで取引された。95年10月に入ると,6.5%台を割り込んで推移している。11月上旬時点では,6%台前半で推移している。なお,7月の連邦公開市場委員会(FOMC)では,フェデラル・ファンド・レート(アメリカの銀行間市場金利)の誘導目標水準を0.25%ポイント引き下げた。
ドイツの長期金利(8~15年物国債)は,94年初めに5.5%台の水準で底を打ち,2月以降上昇を続け,年末には7%台後半に達した。95年に入ると,長期金利は下落し,95年6月上旬には6.5%を割り込んだ。その後は6%台後半で推移したものの,消費者物価が落ち着いてきたことから8月半ば以降,下落を始め,8月下旬には政策金利の引下げもあり,9月から10月にかけて6.5%台で推移している。
日本の長期金利(10年物国債)では,94年初めに3%を割り込んだ水準から上昇に転じ,94年8月以降,4%台後半で推移していた。しかし95年2月から7月にかけてほぼ下落基調で推移し,7月7日には,史上最安値の2.505%(終値)をつけた。その後,上昇に転じ,3%台まで上昇したものの,9月には,公定歩合などの引下げを受けて下落し,11月上旬まで2%台後半で推移している。
以下では,94年,95年前半の各国の長期金利の変動要因と,長期金利の連動性が高まった理由を検討する。
94年以降の各国における長期金利の変動を説明する要因の一つとしては,各国の景気局面の変化を挙げることができる。つまり,94年の長期金利の上昇については,景気拡大や景気回復の動きに伴って,①実質金利が上昇したこと(アメリカ,ドイツ,日本),②インフレ懸念の台頭で期待インフレ率が上昇したこと(アメリカ),が挙げられる。逆に,95年前半の長期金利の下落については各国における景気減速傾向から,①実質金利が下落したこと(アメリカ,ドイツ,日本)や,②インフレ懸念の後退で期待インフレ率が低下したこと(アメリカ),が挙げられる。
94年6月~95年6月のアメリカの長短金利構造(イールド・カーブ)の推移を検討することによって,市場の景況感の変化を裏付けることができる(第1-5-6図)。94年後半にフェデラル・ファンド・レートの誘導目標水準が計1.25%ポイント引き上げられたために,94年12月時点のイールド・カーブは94年6月時点に比較して上方ヘシフトしている。しかし,長期金利のシフト幅は短期金利のシフト幅に比べ,小幅にとどまり,イールド・カーブがフラット化し始めていた。市場では利上げが最終局面に達していると想定し始めていたものと考えられる。その後,95年6月時点のイールド・カーブでは95年2月の0.5%ポイントの利上げの実施を受けて,長短金利ともにフラットな状態にまで変化している。このイールド・カーブの変化は,この間のインフレ懸念の後退と,景気減速感が急速に浸透していった様子を示しているといえる。
また同じくドイツ,日本のイールド・カーブの推移を検討してみると,まず,ドイツのイールド・カーブでは,94年後半において景気拡大が強まるとの期待を反映し,94年12月時点のイールド・カーブは94年6月時点のイールド・カーブに比較し,勾配がやや急となっていた。95年6月のイールド・カーブでは94年12月時点に比べ,下方ヘシフトし,勾配も若干,緩やかとなった。
日本の場合,94年6月から12月にかけて,中長期金利が若干上昇し,12月時点のイールド・カーブは6月時点に比較し,勾配がやや急となった。その後,95年4月の公定歩合0.75%ポイントの引き下げを受けて,95年7月時点のイールド・カーブは94年12月時点に比べ,1%ポイント下方ヘシフトした。特に中長期金利は短期金利よりシフト幅が大きく,3か月物から1年物の金利においては逆イールドを形成した。これは,引き続き,先行の景気不透明感から金利引下げが実施される可能性が高い,との市場の予測を反映していたものと思われる。
ドイツ,日本のイールド・カーブは,アメリカのものと比べると,94年半ばから95年半ばを通じて1年以上の期間において順イールドを形成し,その傾きの変化も大きいものではなかった。時期によって多少の景況観の変化が見られたものの,本格的な景気回復・拡大期待が将来に先延ばしされ続けていたことを示すものと考えられる。95年前半に市場では,ドイツ・日本両国の金融緩和やマルク高・円高の進展による景気回復基調の足踏みなどにより,短期金利が下落するとともに長期金利も下落したと思われる。
長期金利の動向は,各国の景気動向のほかに,国際的な資本移動によっても影響を受ける。94年から各国の長期金利が同時に上昇した要因の一つには,アメリカの機関投資家がドイツの債券を始めとして,各国の債券を大量に売却したことも挙げられる。アメリカの92年9月以降の低金利政策の下で,より有利な資産の運用先を求めていたアメリカの機関投資家は,ロンドン市場を介して,主にドイツの債券など海外の証券投資を行った。例えば,93年には,先進国からドイツへの証券投資の流入額は2,150億マルクに及び,90年の15倍の規模となった(第1-5-7図)。しかし,94年2月のアメリカの金融引締め政策への転換と金利上昇から,ヨーロッパ各国でも金利が上昇するとの連想が市場で高まり,ドイツを始めとする各国では資金の引揚げが生じて金利上昇圧力となった。また,アメリカの債券を保有していた機関投資家は,金利が上昇したことに伴う債券価格の下落による損失(キャピタル・ロス)を補填するために,ドイツの債券を始めとする海外の証券を売却したことから,各国の長期金利の上昇圧力となった。実際に,94年の先進国からドイツへの証券投資は,356億マルクに急減している。
95年については,一部の欧州通貨が不安定な変動を示したため,相対的に安定していたマルクへの選好が高まり,先進国からドイツへの証券投資は少しずつ増加している。このことが,ドイツの95年に入ってからの長期金利の低下に寄与していると考えられる。
なお,90年代前半における海外からの日本への証券投資に関しては,80年代後半から90年代初頭にかけての時期と比べて,規模が縮小している。こうした対内証券投資の縮小の背景として,①日本の債券がヨーロッパの債券に比較して,利回りが低かったこと,②欧米の機関投資家は94年から規制緩和を背景に拡大したユーロ円債への投資に向かったこと,などが挙げられる。
90年代に入って,国際的な資本移動・分散投資の活発化から実質金利差に着目した裁定取引が盛んに行われるようになり,それが各国の長期金利の連関性を高めてきているものとみられる。アメリカ・ドイツ,アメリカ・日本,ドイツ・イギリスの長期金利の相関係数をとってみても,80年代後半においてそれぞれ0.54,0.68,0.60であったものが,90年代に入るとそれぞれ0.91,0.85,0.94にまで上昇している(第1-5-8図)。また,世界の資本移動においても,銀行部門による資本移動のシェアが低下し,証券投資による資本移動のシェアが高まっている。
このような資本移動の背景の一つとして,機関投資家の成長が挙げられる。
80年代以降,世界各国の金融市場・金融制度の自由化や規制緩和,そして情報通信技術の発達を背景に,金融のグローバル化が進展した。その結果,保険会社,年金基金,投資信託などの機関投資家が成長してきた。これらの機関投資家は強力な情報収集・分析能力をもとに個人などから調達してきた巨額な資金を国内だけでなく,海外の証券に投資してリスク分散させている。
実際,93年の主要先進国の機関投資家の総資産は,80年の総資産の4倍以上となっており(第1-5-9図),13兆ドル近くにのぼる。また,これらの機関投資家の外債保有高を見ると,年金基金を中心に増加傾向にあり,外債投資額が拡大を続けているものと考えられる。特に,90年代に入ってから,資産規模で他国を上回るアメリカの機関投資家,その中でも年金基金や投資信託が,アメリヵ国内の低金利政策,銀行窓口での投信販売の定着,ドイツ統一に伴うドイツ国内での多額の債券発行,そして中南米などでの国営企業の分割・民営化に伴う株式の発行を契機として,海外への証券投資を拡大させた。
機関投資家の海外への証券投資の特徴として,一般に,金利選好性の高さのほかにリスクに対する反応の高さも挙げられる。そのために近年,海外への証券投資が高まっているにもかかわらず,依然として自国資産への選好性が強いといわれている。この原因について,取引費用,為替リスク,海外の市場の仕組み・税制が不透明のほかミ先進諸国の海外への証券投資に対する規制などが挙げられる。
1994年中,先進主要国の株価は,全体として,横ばいないし若干下落基調で推移した。95年に入ると,アメリカの株価が上昇基調に転じた。アメリカでは,95年2月にダウ平均が4,000ドル台を越え,7月まで戦後最高値を毎月更新した。その後,8月に若干低下したが,9月半ばには再び最高値を更新し,4,800ドル台を越えた。10月には,横ばい推移となったが,11月に再び最高値をつけた(第1-5-10図)。
94年に先進主要国の株価が弱含んだ要因については,①アメリカでは,94年2月からの金融引締めとそれに伴う金利の急上昇が,企業収益の悪化を引き起こすと懸念されたこと,②ヨーロッパでも,景気回復の強まりを背景に金利低下期待が後退したこと,③90年以降,ヨーロッパの債券や株式に流れていたアメリカの投資信託資金が,ヨーロッパ株式・債券市場の低迷を受けてアメリカに還流したこと,などが挙げられる。
95年のアメリカの株価上昇基調は,基本的には,①アメリカ企業のリストラクチャリングに基づいた好調な企業収益や,②景気減速に伴う金利低下と一層の金利低下期待を受けたものである。また,③ドル安に基づく輸出企業の収益増への期待,④メキシコ通貨危機を受けてアメリカ内外の投資家のアメリカの証券投資信託への回帰,企業の自社株買いや企業買収(M&A)による株式購入(95年上半期のM&A額は1,644億ドルと史上最高を示す)などを受けて,株式市場の需給がタイト化していることも株価上昇の要因と考えられる。
95年に入ってからの他の主要先進国の株価動向については,ドイツにおいては,95年初めからのマルク高を受けての企業収益の悪化懸念から,94年に続いて95年前半も株価は低迷していたが,マルク高が落ち着いた5月以降,9月時点まで上昇に向かっている。その後11月上旬時点まで若干,弱含んで推移している。イギリスでは,95年3月に入って欧州通貨情勢の安定などから株価は上昇に転じ,9月には,景気減速感に伴う利下げ期待などから株価は最高値を更新している。その後,11月にも最高値をつけた。
日本においては,94年前半は,外国人投資家が大幅に買い越したこと,企業業績の回復が期待されたことなどから,株価は堅調に推移したが,後半は,円高の企業業績に与える影響が懸念されたことなどから,伸び悩んだ。95年に入り,円高とそれに伴う企業業績の悪化懸念及び金融機関の不良債権問題などから下落し,7月には,日経平均株価は,一時92年の最安値を下回った。しかし,その後は,累次の経済対策の取り組みのほか,金利の低下や為替相場の円高是正を背景に株価も上昇に転じ,9月時点までおおむね上昇基調を継続している。10月には,ほぼ横ばいで推移している。
アジアNIEsの株式市場は,80年代後半以降,急速に発展している(第1-5-11図)。90年代に入って,特に香港とシンガポールの株式市場が活況を呈した。これらの地域の株価の上昇は高い経済成長に基づくが,92年から93年にかけての株価上昇の加速は,アメリカを中心とする先進国の機関投資家が,アジア各国への株式投資を拡大したことによるところが大きい。
しかし,94年に入ると,アメリカの金利の上昇などから,アジア株式市場から先進国へ資金の還流がみられ,香港,シンガポールにおいては,株価は軟調に推移した。しかし,95年になると,香港では,アメリカの金利の低下を受けて先進国から資金が再び流入し,3月以降10月時点まで,株価がおおむね回復の兆しを示している。シンガポールでも,先進国からの資金流入が回復してきているが,景気が減速傾向にあることから10月時点まで株価はほぼ横ばいで推移している。
一方,韓国,台湾では,90年代に入って,株価は低迷していたが,93年頃から徐々に回復に転じ,景気拡大が続く中で,94年も株価は堅調に推移した。94年の先進諸国の資金引揚げについては影響をほとんど受けず,94年中,株価は堅調に推移した。その後,韓国では94年末から95年前半にかけて調整局面に入ったが,95年7月になってから外国人の株式購入に関する規制緩和や税制改革を受けて上昇に転じている。しかし,10月下旬に株価は若干弱含みに推移している。また台湾においても,金融不安や対中関係の悪化から95年4月から7月にかけて株価が下落したものの,8月に海外投資家の株式上限規制の緩和などの発表をうけて10月時点現在,持ち直している。
韓国,台湾では,依然として次のような厳しい株式投資規制を設けている。
韓国では,外国人投資家の株式投資を95年6月まで,銘柄別に発行株式総数の12%,7月以降15%に制限しており,台湾では,外国の機関投資家のみに株式の購入を認め,しかも8月まで発行株式総数の12%,9月から15%に制限している。このため,韓国と台湾の株価は香港・シンガポールの株価と異なって,先進国の資本の動きに左右される側面が小さく,90年代に入ってから,特に94年には,韓国と台湾の株価には対照的な動きとなるケースが見られた。
なお,94年年末からのメキシコ通貨危機,95年2月のベアリング証券の事実上の倒産について,アジアの株価への影響は一時的なものにとどまった。
93年に入り上昇局面を迎えた国際商品価格は,94年にはアメリカ経済の拡大持続や中国を始めとするアジア諸国の高い経済成長による需要の増加を背景として一段と上昇基調を強めた。94年後半から上昇基調は緩やかなものとなったが,95年に入ってからも高水準で推移している(第1-5-12図)。
21品目の主要な商品先物価格から算出されるCRB商品先物指数(1987年価格=100)を見ると,月平均で94年6月以降95年9月現在まで継続して230台と高水準を付けているが,このような高水準は直近では90年10月以来のことである。95年に入ってからも高水準で推移している背景には,非鉄金属価格の一段高での推移や,中国の需要増加や産地の悪天候による供給懸念から,穀物価格が上昇していることなどが挙げられる。
90年代に入ってからの原油価格の動向を概観すると,湾岸戦争を背景として90年10月には一時41ドル台(1バレル当たりの北海ブレント・スポット価格)まで暴騰したが,91年1月には一時20ドルを割る水準まで下落した。原油価格を月平均で見ると,91年では19~23ドル台,92年では18~21ドル台,93年では13~18ドル台,94年では13~17ドル台と年々基調を下げながら推移した。特に,93年後半以降原油価格の軟化傾向が顕著となったが,この背景には,先進国の景気回復の遅れから石油需要の伸びが鈍化しことに加え,石油輸出国機構(OPEC:OrganizationofPetroleumExportingCountries)の生産枠を超えた生産,非OPEC諸国の原油増産などから,需給が緩和していたことが挙げられる。95年に入ってから9月までの原油価格の動きを見ると,中東情勢の緊迫から4月には一時19ドル台まで上昇する局面もあったが,月平均では15~18ドル台の落ち着いた動きとなっている。