平成4年
年次世界経済報告
世界経済の新たな協調と秩序に向けて
経済企画庁
第1章 世界経済の現況とその特徴
92年9月に生じた欧州通貨危機においては,イタリア・リラ,イギリス・ポンド,スペイン・ペセタ,フランス・フランなど欧州通貨の多くが,外国為替市場で激しく売り込まれ,各国中央銀行の大規模な協調介入などにもかかわらず,ERM(為替レートメカニズム)におけるリラの切下げ(第1次リアラインメント[為替相場の再調整」)とイタリア通貨当局による市場介入の一時中止,ポンドのERM一時離脱,ペセタの切下げ(第2次リアラインメント)を引き起こした。また,フィンランドでは,マルカのECU連動を維持できなくなったため,これを放棄し,スウェーデンでも,クローナのECU連動を死守するため,中央銀行の限界貸出金利を,一時期500%に引き上げるなどの動きがみられた(付表1-15)。
ERMがその重要な一部であるEMS(欧州通貨制度)は,79年3月に発足し,過去11回のリアラインメントを経験している。主要通貨の対ECUレートの長期推移を見ると,今回の通貨危機は,リラの切下げ幅自体で見るかぎり,80年代前半のものに比べ,特別に大きいものではない(第1-3-1図)。しかし,ある通貨がERMを離脱したのは,今回が初めてであり,また,今回,市場レートの下落幅は,対マルク中心レートからのかい離幅でみると,わずか1週間(9月14日~21日)でリラ,ポンドとも約10%に達している(第1-3-2図)。こうした点から見ると,今回の通貨危機が,EMS史上最大級のものであったという評価は,必ずしも誇張ではない。
今回の通貨危機の直接的な契機となったのは,マーストリヒト条約批准を問うフランスの国民投票で,反対票が賛成票を上回るのではないかという,心理的な要素である(付表1-16)。しかし,その背後には,次のような要因が,複合的に存在していたことが指摘できる。第1は,いうまでもなく,ドイツ統一のコストがEC経済にのしかかったことである。ドイツ統一のコストは,ドイツの高金利となって現れ,折からのアメリカにおける低金利という状況のなかで,マルクの独歩高を発生させた。このようなドイツの高金利,マルクの独歩高という状況において,ERM(参加国通貨の変動幅を一定範囲にとどめる固定的な通貨制度)を採用するEC各国は,ドイツに追随する高金利政策を採らざるを得なくなっていた。第2は,ERMのような通貨制度では,ひとたび市場で特定通貨に対する割高感が生じると,大量の資本移転を伴いやすいことである(ECでは,資本移動の自由化が進展していたため,その動きが一層顕著であった)。第3は,こうした特定通貨の割高感が表面化した基本的な背景として,EC各国間の経済ファンダメンタルズの格差が,いくつかの国においては,依然として大きいという問題が存在していることである。第4は,第1節でみたように,EC経済が総じて景気停滞局面にあり,実体経済の回復力が弱かったことである。
以下においては,これらの要因のうち,第1と第3の点について詳細にみてみよう。
ドイツの高金利は今回の通貨危機の背景の一つとなっているが,こうしたドイツの金融引締め政策の背景には,ドイツ統一コストの影響が大きく影を落としている。
統一の影響により,ドイツではマネーサプライ,の高い伸び等を背景としたインフレ圧力が高まりを示している。このため景気の停滞にもかかわらず金融政策は強く引締められている。
西独地域の消費者物価は,91年以降前年同月比で3~4%台の高い上昇率が続いている。この間の動きをみると,91年央には鉱油税の増税等の影響により4%台の上昇率となり,92年7月以降は前述の間接税引上げの効果が一巡したこともあって3%台の上昇率となっている(第1-3-3図)。こうした高いインフレ率の背景には,名目賃金上昇率の高まりといったコスト要因が主に寄与している。そこで,名目賃金上昇率の推移についてみると,統一前後のブームを反映して90年以降急上昇した後,92年に入ってからも5%台の高い伸びが続いている(第1-3-3図)。さらに,高いインフレ率や91年7月の増税等を背景に税引き後の実質手取り賃金の91年の伸び率がマイナス0.4%にとどまったこと等から,92年の春闘では労働者側の姿勢は先鋭化し,公務・運輸労組が18年ぶりの本格的なストライキを実施するなど労使の間で激しい攻防がみられた。その結果,92年の賃金は,おおむね5.4~5.8%の引上げで妥結されたが,これは92年の政府見通しによるインフレ率(3.5%)を約2%上回るものであり,景気が停滞期にある中で生産性の伸びが鈍化することを考慮するとインフレ圧力は残る結果となった。
また,マネーサプライ(M3)の動向についてみると,M3の対前年第4四半期対比年率の伸びは,91年末に急速に高まり,91年11月にはドイツ連銀の目標圏である3~5%を上回り,5.1%となった。その後,92年に入ってからもドイツ連銀の目標圏の3.5~5.5%を大きく上回る8~9%台の高い伸びが続いている(第1-3-3図)。こうしたマネーサプライの伸びの高まりは,主に東独地域での投資需要に対応して企業の資金借入需要が高まったことに起因している。東独地域での投資に対しては,投資補助金(投資金額の23%まで),特別減価償却(5年間で50%)等の直接的な助成を行っているほか,ERP特別財産,復興金融金庫等を通じた低利での融資を行っているため,金融引き締め下にもかかわらず十分な資金供給がなされている。これらの助成措置による金融支援額は,90年12月末に契約額107億マルク(うち既実行分31億マルク)だったものが,91年12月末には同624億マルク(同380億マルク),92年6月末には同870億マルク(同580億マルク)に達している。このため,ドイツ連銀によれば,M3増加の最大の要因となっている銀行部門の民間非金融部門への貸出しのうち,その約4分の1が91年には直接あるいは間接的に東独地域の復興に関連したものであったとしている。
こうしたインフレ,マネーサプライの高い伸びに対してドイツ連銀は引締め政策で対応しているが,短期金利の引締めはインフレ期待の低下等を通じて長期金利の大幅な上昇を抑え,結果として統一コストのファイナンスを容易にするという役割も同時に果たしている。
そこで財政赤字拡大の影響が最も大きいと思われる長期金利の動向をみると,名目長期金利(公債利回り)は,統一前の90年初頭の8%台前半から90年後半以降9%台に上昇した後,92年初には8%台前半に戻している。また,現在のドイツと財政赤字の拡大,金融の引き締めという点で極めて似た状況にあった80年代前半のアメリカと比べてみると,財政赤字の拡大規模は両者ともにGNP比で4%程度とほとんど同規模の拡大であったが,実質長期金利はアメリカが最高4%ポイント上昇しているのに対して,ドイツの場合,最高でも1%の上昇にとどまっている上,上昇期間も約1年間と短期間に終わっている(第1-3-4図)。このため,ドイツでは,金融政策の引き締めは将来のインフレ期待を低下させるとともに,マルクの通貨価値の安定を通じて外資の流入をスムーズにし,巨額の財政赤字による長期金利の上昇をうまく回避するのに役立っていると言えよう。
しかし,他方では,前述したようにドイツの引締め政策は周辺国,特にERM参加国に高金利を波及させる結果となって,欧州の景気にマイナスの影響を及ぼすとともに,ERM内におけるマルクの独歩高という緊張をもたらし,遂にはERMの通貨の再調整にまで至る原因の一つとなった。このため,ドイツにとっては,金融政策の負担を軽減し周辺国に及ぼす影響を最小限のものにとどめるために,統一コストを抑制することで財政赤字を削減することが何よりも重要と考えられる。そこで,以下では,巨額の財政赤字の原因となっている統一コストの大きさ,東独経済の実態について詳しくみてみよう。
東独地域の経済は,90年の通貨・経済統合の直後から急速な悪化をみせており,東独地域の復興のために西独地域から公的資金を中心に巨額の資金移転が行われている。
90年7月の通貨・経済統合により,旧東西両ドイツは経済的な面での統一を達成したが,東独地域の経済は,実勢を大幅に上回る通貨交換レートにより競争力を急速に失ったことに加え,それまでの主要な輸出市場であった旧コメコン市場が崩壊したため,大幅な生産の低下と失業の増大に見舞われた。このため,悪化した東独経済を救済し,西独地域並みの水準に引き上げるために,①生産設備の更新,②インフラストラクチャーの整備,③増大した失業者に対する所得移転等の分野で莫大な資金が必要とされている。OECDによれば,東独地域の生産設備の更新には約1兆マルク,インフラストラクチャーの更新には約2兆4,000億マルクが必要と言われている。このようなドイツ統一のプロセスは,後に述べる「統一相手」を持たない中・東欧諸国の場合とは異なったプロセスであった。
こうした東独地域の経済復興に伴う資金需要の高まりに対し,主に公的資金を中心として西独地域から巨額の資金が東独地域へと移転されている。まず,公的資金の移転額についてみると,連邦政府,州・市町村,ドイツ統一基金等を合わせた資金移転額は,ネットで91年1,390億マルク,92年1,800億マルクになると見込まれており,それぞれ統一ドイツの名目GNPの5%,6%の大きさに達している(付表1-17)。
このうち,連邦政府の東独関連支出の内訳をみると,社会保障関係費が40%弱と最も大きな割合を占め,次に運輸関連費が15%程度を占めている(第1-3-5図)。また,連邦支出のうち,東独への投資に対する補助金に91年で60億マルク,投資に対する税金の減免措置に150億マルクが充てられている。連邦政府以外の資金移転についてみると,ドイツ統一基金による移転がネットで91年310億マルク,92年240億マルクと大きな割合を占めるとともに,ERP特別財産による移転額も91年210億マルク,92年250億マルクと大きな割合を占めている。このうち,ドイツ統一基金による移転は,主に旧東独政府の財政赤字の補填や東独地域の州・地方政府の財源に充てられており,94年までの5年間で計1,150億マルクが交付されることとなっている。なお,財源については,200億マルクを政府が拠出し,残りの950億マルクが起債によって調達されることとなっている。また,ERPによる移転は,主に中小企業に対する低利での貸出しに向けられ,復興金融金庫の融資と並んで中小企業の投資を援助することが目的となっており,東独経済を復興する上で重要な役割を担っている。
こうした東独地域への公的移転支出の使途を目的別にみると,91年,92年ともに支出のほぼ半分が消費目的で使われており,投資目的には約4分の1が使われているに過ぎないと言われている。これは,統一後,大幅に経済レベルが低下する中で,公的資金の多くが所得移転に充てられているためであり,統一後の数年の間はやむを得ない面があると言える。しかし,東独地域の経済が自律的な発展をするためには,今後,徐々に投資目的の支出の割合を高めていくことが重要である。
次に民間部門の東独地域への資金の移転についてみてみよう。ドイツのIFO経済研究所の調査によると,西独企業の東独地域への投資は91年に140億マルク,92年に250億マルクが見込まれている(付表1-18)。これは,公的資金の移転額と比べると相対的に低水準にとどまっていると言える。東独地域での民間企業の投資が,これまで政府の手厚い援助措置にもかかわらず大きく進展しなかった理由としては,①東独地域でのインフラストラクチャーの整備状況が極めて悪かったこと,②所有権問題の解決に時間がかかること,③環境対策に多大な費用がかかること等があげられる。しかし,今後については,IFOの調査にあるように92年に大幅な増加が見込まれており,今後徐々に盛り上がることが予想される。
こうした資金移転の結果,東独地域では名目GNPが91年1,978億マルクであったにもかかわらず,最終域内支出(東独地域内での消費,投資の合計額)はこれを上回る3,612億マルクとなった。これは,東独地域ではGNPを大幅に上回る財が購入されたことを意味しており,GNPと最終域内支出との差額である1,634億マルクは,西独をはじめとした域外からの資金によって賄われたことになる。
東独地域への巨額の公的資金の移転は,政府部門赤字の大幅な拡大をもたらしている(第1-3-6図)。そこで,連邦政府,州・地方政府,社会保障基金を含む政府部門全体の借入金額についてみると,90年には300億マルクだったものが91年には1,095億マルク,92年には1,100~1,200億マルクへと大きく拡大することが見込まれている。これを統一ドイツの名目GNPと比較すると,約4%程度の大きさに達している。
その内訳をみると,連邦政府の赤字は91年7月の増税等もあり,91年の520億マルクから92年に405億マルクへと減少することが見込まれている。州・地方政府については,西独地域では91年,92年とも80億マルク程度の赤字が見込まれているが,東独地域では大幅な拡大が見込まれており,92年には200億マルクに達すると予想される。また,旧東独政府及び東独地域の州・地方政府の財政赤字を補填しているドイツ統一基金の借入は,91年310億マルク,92年240億マルクが予定されている。
上記の政府部門の赤字に加えて,さらに旧東独の国営企業の民営化を行っているトロイハントアンシュタルト(信託公社)の赤字額は91年200億マルク,92年300億マルクと見込まれており,ドイツ国鉄及び郵便による東独での投資を主とした新規借人も増加することが見込まれている。これらの債務を政府部門赤字と合わせると,全体では91年1,350億マルク,92年1,750億マルクに達すると見込まれている。これは東独地域への公的部門の移転額にほぼ匹敵する大きさとなっており,ドイツの財政赤字は深刻化することが懸念される。
こうした財政赤字の拡大に対して,政府は91年7月,所得税・法人税への7.5%の付加税(1年限り),鉱油税等の引上げを実施した。これによる増税規模は,91年174億マルク,92年267億マルクの計441億マルクとなっている。また,92年7月1日の閣議で1よ,財政赤字の拡大を背景として歳出を厳しく抑制した93年度予算案と今後4年間の「中期財政計画」が承認された。93年度予算案では,国防費や補助金,環境対策費等を中心に歳出削減を行い,全体の歳出の伸びを前年比2.5%に抑え,連邦政府の財政赤字(純借入)額を380億マルク(前年差25億マルク減)へと低下させることを見込んでいる。また,中期財政計画では,今後4年間にわたり歳出の伸びを抑制することにより,連邦政府の財政赤字額を96年に220億マルクまで減少させることを見込んでいる(付表1-19)。
以上のように財政赤字削減のための努力もみられるが,現時点では財政赤字の拡大はむしろ外国からの資本の流入によりファイナンスされている部分が大きい。そこで,ドイツ統一後の資本収支の動向についてみると,第1節でみたように90年の900億マルクの大幅出超から91年には195億マルクの入超に転じている。この間の資本収支の変化幅は1,095億マルクに上り,91年の政府部門赤字額(1,095億マルク)に匹敵する大きさとなっている。特に外国からのドイツへの証券投資は,90年203億マルクから91年604億マルクへと約400億マルク増加し,そのうち公債への投資は90年と比べ315億マルク増加し471億マルクとなっている(第1-3-7図)。また,国別に証券投資の動向をみると,EC諸国のドイツへの証券投資は,90年から91年にかけて310億マルク入超幅が増加しており,中でもイギリスの証券投資は250億マルク入超幅が増加している。
以上のことから,ドイツの急激に拡大した財政赤字は,EC諸国を中心とした国外からの公債投資や国外ドイツ資本の還流によって賄われている部分が大きい。特にEC域内においては,EC金融統合によって資本の移動が自由化されているため,ドイツへの資本流入が円滑に行われ,ドイツの財政赤字のファイナンスを比較的容易にしていると考えられる。
東独地域では,莫大な西独地域からの資金移転を受けて,91年半ばには統一時からの急速な経済の悪化はひとまず底を打ったものの,92年に入ってからも明確な回復の兆しはまだみえていない。DIW(ベルリン経済研究所)の推計による東独地域のGNPの動向をみると,90年央から91年央にかけて約40%の急低下をみせた後,徐々に回復し,前年同期比の成長率は92年第1四半期には統一後初めてプラスに転じた(第1-3-8図)。これをGNPの需要項目別の寄与度でみると,統一直後の西独地域からの輸入の大幅な増加により大きくマイナスに寄与していた外需(輸出等-輸入等)の寄与度が,91年後半からかなり減少している一方で,固定投資の寄与度が確実に増してきていることがわかる。
しかし,生産,受注の動向をみると,91年春頃に底を打った後91年後半にはやや増加傾向がみられたが,92年に入ってからは低迷が続いており,依然として明確な回復には繋がっていない。ただし,現在唯一好調と言えるのは建設部門であり,建設受注は91年の間に顕著な回復をみせた後,92年に入ってからも好調が続いている。
以上のように,東独経済は建設業を除いて低迷が続いているが,その背景には賃金の高騰による生産費用構造の崩壊がある。そこで,東独地域の賃金水準と生産性の関係をDIWの推計データを使ってみてみよう(第1-3-9図)。東独地域の一人当たり雇用者所得は,賃金の急激な上昇により90年第1四半期から92年第2四半期の間に82%上昇し,この間に西独地域との格差は90年第1四半期の42%から92年第2四半期には66%まで縮小してきている。他方,東独地域の生産性は,91年央以降回復傾向にあるものの,92年第2四半期でも西独地域の40%弱にとどまっている。この結果,東独地域の単位労働コストは大きく上昇し,西独地域との水準の格差は最大で2倍近くに達している。このように賃金が生産性の水準を超えて高い伸びとなっているのは,労働協約によって94年前後にほぼ西独地域の賃金水準にキャッチアップすることが決められているためである。しかし,こうしたキャッチアップに伴う賃金の上昇は,①既存の企業の生産コストを押上げることにより,その経営を圧迫する,②域外の投資家にとって東独地域への投資の魅力を滅退させる,③民間賃金とリンクしている政府の雇用対策費を増大させる等の問題を抱えており,東独地域の経済的な回復を遅らせることが懸念される。
以上のような生産費用構造の崩壊により,東独地域の生産は90年から91年初にかけて大きく低下した後も,依然として明確な回復には至っておらず,雇用者数は大幅に減少し,90年第1四半期の936万人から92年第2四半期には567万人まで低下している。このため,東独地域の労働市場には依然として目立った改善はみられていない。失業者と操短労働者を合わせた実質的な失業者は,91年4月に286万人とピークに達した後,92年7月には153万人まで低下したが,これは見かけ上の改善であって,実際には政府の失業対策事業や早期退職等によって緩和されているに過ぎない。そこで,政府の雇用プログラムをみると,92年6月において,政府の雇用創出プログラムには39万人,職業訓練には51万人が参加し,早期退職手当の受給者は50万人に達している(第1-3-10図)。このため何らかの形で政府の保護の下にある者の数は合計で140万人に上っており,92年の雇用関連予算は450億マルクが計上されている。特に,政府による雇用措置によって多数の労働者が雇用されている状態が長く続けば,ドイツ政府の財政負担は極めて重いものとなり,財政再建を遅らせる可能性がある。
また,ドイツ信託公社によって行われている旧東独企業の民営化については,92年9月末時点で約1万社が民営化され,残りの約3,400社が信託公社の管轄下にある。その売却先をみると,約半数がドイツ国内の企業に,約5%が国外の企業に売却されており,残りは元の所有権者に返還されたり経営者が直接買い取ったりしている。また,民営化の過程では,信託公社は労働者の雇用を確保することを最優先にしているが,それでも89年には400万人いた従業員は大きく削減され,91年末に信託公社の管轄下にある者は150万人,民営化によって雇用された者は100万人となっている。しかし,雇用の確保を優先する信託公社の方針は,反面で企業の合理化を行う上で相反しており,東独地域の民営化事業には大きな矛盾が生じている。
今回の通貨危機で特徴的にみられたことは,ERM(為替レート・メカニズム)内でポジションの弱い通貨から順に次々と売り圧力が高まっていったことである。このように各国の通貨に対する信任の程度に関して格差が生じた背景には,通貨統合によってEC各国間の経済のファンダメンタルズの格差が表面化することに対する不安が高まったことが挙げられる。通貨統合は,単一通貨の導入により各国の交易条件を固定化することで,国や地域間の生産性格差という構造問題を浮き彫りにする。第1-3-1表はEC各国の生産性,賃金水準,単位労働コストをEC平均を100とした指数で示したものであるが,これをみると,労働生産性ではドイツ,フランス,イタリアといった高生産性地域とギリシャ,ポルトガルといった低生産性地域との間で3~4倍の格差が存在していることがわかる。他方,輸出競争力の一つの指標となる単位労働コストをみると,高生産性国の間でもドイツ,フランスとERM一時離脱等に追い込まれたイギリス,イタリアの間ではかなりの差が生じていることがわかる。これは,イギリス,イタリアの賃金水準が生産性を超えた高い水準にあるためである。
このうち,イタリアについては,主に高い賃金上昇率が単位労働コストの上昇要因として働いている。そこで,各国のECU建て賃金指数(EC平均=100)の推移をみると,ドイツでは80年から91年にかけてERM内の相対的な賃金水準は12%低下しているのに対して,イタリアでは同期間に相対的な賃金水準は34%も上昇し,今やECで最も高い水準に達している(第1-3-11図)。これは,イタリアでは,それまで通貨を切り下げることによって低位にあった賃金水準が,79年のERM発足以降,為替調整の回数が少なくなるにつれて高い国内賃金の上昇率を直接反映するようになり,相対的に過大評価されるようになったためである。第1-3-12図は,ドイツ,フランス,イタリアの国内価格賃金とECU建て賃金の推移をみたものである。これをみると,ドイツではマルクがECUに対して切上がっているため,ECU建ての賃金は国内価格賃金を常に上回っているものの,元の賃金上昇率が低いために総じてECU建て賃金も低い伸びとなっている。また,フランスでは,80年代央以降,国内価格賃金は低い伸びに抑えられるとともに,ECU建て賃金と国内価格賃金はほぼリンクして推移している。これに対して,イタリアの場合は,80年代後半までECUに対してリラが切下げられていたために,高い国内価格賃金の上昇はECU建てではやや上昇率が緩和されていたが,80年代後半以降,ECUとリラがほぼリンクするようになると,ECU建て賃金も国内の高い賃金上昇を直接反映するようになっている。このため,ECU建てでみたイタリアの賃金水準は極めて高い水準に達し,単位労働コストも上昇している。このことは,イタリアの国際競争力を低下させることで通貨の過大評価につながり,リラには切下げ圧力がかかることになる。
他方,イギリスの場合は,ERMに加入した90年以降,景気後退に陥ったことで生産性の水準が相対的に低下したことが,単位労働コストの上昇につながっている。第1-3-13図をみると,イギリスの相対的な賃金水準は88年にがけての景気の好調さを受けて高まった後,90年には大きく低下しているが,生産性は景気後退によって89年から低下を始めており,加えて低下幅も賃金よりも大きくなっている。このため,単位労働コストは89年から90年にがけて大きく上昇し,その後通貨調整がなされながったためにイギリスの国際競争力は低下し,ポンドの過大評価につながった。
このため,これらの国では国内の賃金上昇が生産性と見合った上昇とならない限り,通貨調整を行わないでいるとECU建賃金の過大評価が生じることによって単位労働コストが上昇し,国際競争力の低下を通じて当該通貨に対する先行き切下げ期待が高まることとなる。
EC統合は,動学的経済効率性をできるだけ高めながら,同時に社会的な公平性を実現していくという,古くて新しい課題への歴史的なチャレンジである。動学的効率性を高めるために,ECでは,①取引コストの低下,②規模の経済性の発揮,を実現することを目標としている。取引コストを低下させる・手段としては,93年1月にスタートする市場統合により,人・物・資本・サービス(特に金融サービス)の域内移動を完全に自由化する計画であるほか,将来的に単一通貨を導入して,為替リスクを排除することを企図している。また,規模の経済性を発揮する手段としては,市場統合を通じて生産性の高い地域への経営資源(資本・労働・情報・技術)の集積を図り,産業競争力を強化するというシナリオを想定している。また,これらを促進するために競争政策を積極的に推進している。
この目標を実現するために,ERM(為替レート・メカニズム)は重要な役割を果たしてきた。前述したように,92年9月に起きた欧州通貨危機により,ERMの信頼性が大きく低下し,97年に向けた経済・通貨統合のプロセスは,仕切り直しとなる可能性もある。しかし,長期的な視野で見る限りでは,今回を除き過去11回のリアラインメント(為替相場の再調整)にもかかわらず,ERMは,信頼性を高めてきた実績をもっている。たとえば,欧州通貨の直先スプレッドの推移を見ると(第1-3-14図),標準変動幅(上下各2.25%)通貨,拡大変動幅(同6%)通貨ともに,89年末ごろから,おおよそ許容変動幅以内に収まっている(イタリア・リラを除く)。このことは,市場参加者が,最近ではERMという制度をある程度安定的なものとして認知しつつあったことを示している。こうしたERMの信頼性の向上は,ERM参加国において,インフレ率や金利などの低位収れんが進展したことによる。特に,ドイツがアンカーの役割を果たしてきたことが,大きく寄与した。
また,ERMの信頼性の向上に加え,80年代後半以降,域内市場統合白書の発表(85年)や,単一欧州議定書の発効(87年),経済・通貨統合に関するドロール・プランの発表(89年)などにより,EC統合が現実味を増してきたことから,ドイツ,フランス,イギリスへの資本流入額が急速に増加しており,これらの地域への資本の集積が進んだことをうかがわせている(付図1-12)。
こうした,統合へ向けての努力,実績は,十分評価できるものである。しかしながら,今後所期の経済・通貨統合を達成するためには,統合のための安定条件の整備,すなわちインフレ率・長期金利の収れんとともに,その背後にある①経済格差の縮小,②財政赤字の削減の2つが欠かせないことが,今回の通貨危機で改めて明らかとなった。この2点に関して,具体的な法的根拠を与えているのが,マーストリヒト条約である。マーストリヒト条約では,経済パフォーマンスを収れんさせるうえでの基準(インフレ,長期金利,通貨の安定,財政節度)を定めるとともに,経済(生産性)格差を縮小させるための財政援助を盛り込んでいる。また,「財政赤字条項」を設けて,過度の財政赤字を禁止している。財政援助については,さらに,EC中期予算計画(ドロールll・パッケージ,1993年-1997年)のなかで具体的に検討されている。
ここでは,以上の論点の分析を通じ,統合のための安定条件について考察する。
EC通貨統合によって単一通貨,単一金融政策を導入するためには,各国におけるインフレ等の初期条件の足並みを前もって揃えておく必要がある。そのためには,幾つかの経済条件で各国間の収束が必要とされる。そこで,91年末にマーストリヒトで開かれたEC首脳会議では通貨統合に当たって以下のような収束条件が示された。
(一)消費者物価上昇率が,1年以上にわたり,低い方から多くとも3カ国の平均プラス1.5%高以内であること。
(二)財政赤字額がGDPの3%以内であり,かつ,累積残高がGDPの60%以内であること。
(三)EMSの為替レート・メカニズム(ERM)に定められた変動幅を尊重し,最低2年間は自国の意図によって通貨の切下げを行っていないこと。
(四)長期金利の水準が,1年以上にわたり,物価の落ち着いている多くとも3カ国の平均プラス2%高以内であること。
そこで,各国の条件の達成状況についてみると(付表1-20),現在全ての条件を満たしているのはフランス,ルクセンブルクの2カ国だけであり,それに次いでデンマークが財政赤字の残高を除いてほとんど条件を達成している(ただし国民投票でマーストリヒト条約批准を否決)。また,フランスと並んでEC通貨統合の核となるドイツをみると,統一によって東独復興のための財政支出が拡大したため92年第1四半期時点ではインフレ,財政収支の2つの分野で条件を満たしていない。他方,巨額の財政赤字を抱えるイタリア,ベルギー,ギリシャ等の国では条件の達成が極めて困難な状況にある。
マーストリヒト条約の4つの収束条件は,同時に2つの目的を達成することを狙いとしている。一つは,域内各国間の経済パフォーマンスの相違を収束させることである。これは共通通貨の導入にあたっての必要条件と言えよう。他方,もう一つの目的は,各国の経済パフォーマンスの収れんを通して域内のインフレ,金利水準の低下を目指していることである。これは,EC通貨統合が最終的にはECの産業競争力の強化を目的としていることから,インフレの低下を通じた競争力の向上や金利の低下を通じた投資の活発化を狙ったものと言える。
では,次に4つの収束条件が,それぞれどのような相互関係に位置づけられるかについて考えてみよう。EC通貨統合は,一義的に言えば単一通貨を導入することで各国間の為替レートを永久に固定化することといえる。そこで基礎的な為替レートの決定に関して,以下のような関係式を仮定してみよう。
e=(r*-r)+f (p-p*)
ただし, e=為替レートの変化率, r*=外国金利, r=自国金利
P*=相手国物価上昇率,P=自国物価上昇率
このような関係式を仮定すると,通貨統合によって為替レートの変化率をゼロにするためには,外国と自国との金利格差,物価上昇率格差をなくさなければならないことがわかる。そこで,実際にこの関係式を各国のデータに当てはめてみると(第1-3-15図),特にフランス等ではドイツとのインフレ格差,金利格差が次第に縮小するにつれて,対マルク・レードは安定してきている様子がみられる。
では,インフレや金利の格差を縮小させていくためには,さらにどのような条件が必要とされるであろうか。まず,インフレに関して考えてみると,特殊な要因を除いてインフレの決定に際して最も大きな影響力を持つのが,単位労働コストの上昇であろう。単位労働コストとは,名目賃金上昇率から生産性の上昇分を差し引いたものである。従って,単位労働コストの上昇率の高い国では,賃金上昇率が生産性の上昇率を上回っていることになる。こうした賃金と生産性の間のかい離には,構造的なインフレ要因,すなわち労働市場における賃金決定方式の硬直性,財政政策面での拡張的な傾向等が影響している。そこで,インフレ率の収束のためには,その背後にある労働市場の硬直性を改善し,財政政策の節度を保つことが重要となる。
また,金利格差の収束に関しては,とりわけマーストリヒト条約の中では長期金利の収束が重視されている。これは,長期金利の水準が特に投資の決定に際して重要な鍵を握っており,これを低位収束させることは域内の投資の活発化にとって極めて重要であるためである。そこで,長期金利の水準を低位収束させるためには,主要な長期債務である財政赤字を削減することが最も重要である。特に,イタリア等の巨額の財政赤字を抱える国では,財政赤字の削減はEC経済・通貨統合の第3段階に参加するための最大の関門となっている。
① 生産性と賃金水準の調和
以上にみたように,インフレ率の収束のためには,賃金水準を生産性に見合ったものとすることで単位労働コストを抑制することが重要である。そこで,以下ではインフレ及び単位労働コストの上昇率の推移をみてみよう。
まず,現在までのインフレ率の推移をみると,近年各国間の収れんは著しく,ERM(為替レート・メカニズム)はこの面では大きな成果を上げていると考えられる。このようにインフレ率の収れんが進んだ背景としては,各国とも賃金の抑制等に努めたことにより単位労働コストの上昇率が未だ完全ではないもののかなり低下していることが挙げられる。インフレ率収束の背景となっているEC主要国の単位労働コストの推移をみると,2回の石油ショックをはさんで総じて高い水準で推移していたが,第2次オイル・ショックの後,80年代央にかけてどこの国も一斉に低下した。そこで,こうした単位労働コストの推移をその要因に分けてみてみると,国によって若干状況が異なることがわかる(第1-3-16図)。ドイツでは,このところ賃金の上昇とともに,雇用者数の増加が押上げ要因として大きく寄与したため,単位労働コストは上昇しているが,80年代を通してみれば総じて賃金上昇率が安定する中で単位労働コストは低い伸びであった。他方,フランスは最も単位労働コストの抑制に成功している国の一つであり,賃金上昇を厳しく抑えると同時に,好況期においても雇用を抑えてきたために,雇用者数の増加の寄与は他国と比べて相対的に小さなものにとどまっている。しかし,イタリアでは雇用の増加による生産性の低下は抑えられてきているものの,依然として賃金上昇率の水準は高く,これが相対的に高い単位労働コスト上昇の要因となっている。
このように,EC域内の単位労働コスト上昇率の格差は縮小しつつあるが,依然としてイタリア等の一部の国では収束が十分とは言えない。こうした格差の存在は,前述したように欧州通貨危機の背景の一つとなったと考えられる。
従って,現在でも格差が残っている国では,労働市場の硬直性を改善することで生産性と賃金水準の調和を図ることが重要である。
② 労働モビリティの拡大
EC通貨統合は,そもそも生産性の高い国に労働と資本を集約し,EC全体としての競争力を高める働きがある。その反面で問題となるのは,生産性の高い国と低い国の間で富の分配に格差が生じることである。
国別の賃金,労働生産性,単位労働コストの水準の格差は前項で述べた通りであるが,EC域内の生産性格差は国によって3~4倍の開きが生じている。また,資本の収益率についても各国別の格差をみると,ドイツ,フランス,オランダ,ベルギー等の高収益国とアイルランド,ギリシャ,ポルトガルの低収益国の間で大きな格差が存在している(第1-3-2表)。このため,EC通貨統合発足後には,高賃金を求めて高生産性国へ労働が移動するとともに,為替リスクが消失する中で域内の金利コストは均一化され,資本は高収益率の国へと集中することとなる。
以上のように,EC通貨統合が発足することにより高生産性,高収益国に向けてヒトも資本も移動していくこととなる。こうした経営資源の移動は,高生産性地域の競争力をより高めることでEC全体の競争力の向上に資するものであるが,反面では低生産性地域では大幅な雇用調整が必要となる。そこで,こうした調整のコストをできる限り抑えるためには,①低生産性地域から高生産地域への労働のモビリティを高めること及び②低生産性地域で賃金上昇を抑え,生産性に見合ったものとすることが重要となる。しかし,労働のモビリティについては,言語や社会慣習の相違が犬きいことから,その柔軟性は限られたものとなる可能性がある上,賃金の抑制に関しても,統一後の東独地域のように賃金水準が高生産性地域にキャッチアップしていくような事態が生ずれば,企業の生産費用構造は破壊され,大量の失業者が生じることになりかねない。従って,仮にこの2つの調整手段が有効に機能しないような場合には,EC予算による低生産性地域への資金移転は増大し,EC全体としても通貨統合のコストは高くつく可能性がある。
③ 通貨統合を支えるEC財政の重要性
EC統合によって高生産性国への集積を図る過程で生じる低生産性国の雇用調整に対しては,EC予算による財政移転が極めて重要な役割を担っている。
そこで,以下ではEC財政の概略について述べることとする。
EC財政の支出項目をみると(付図1-13),大半が農業補助(農業指導・保証基金)と地域開発援助(構造基金)で占められる。また,国別に受取金額と拠出金額をみると(第1-3-17図),ドイツ・フランスなど5か国では,拠出が受取を上回っている反面,スペイン・ギリシャなど他の7か国では,受取のほうが多い。これらは,EC統合の目標のひとつである公平性(地域格差是正)を実現するために,EC財政が,農業と地域開発を中心とした所得再分配機能を果たしていることを表している。このことは,拠出から受取を引いたネットの(純)拠出額を,各国の財政支出比でみると,いっそう明らかとなる(第1-3-18図)。ギリシャやアイルランドでは,ECからの純受取額が財政支出の10%以上に達しており,EC加盟国であることのメリットは,非常に大きい。この事実は,両国が,マーストリヒト条約の批准を早々にしかも大差で可決した重要な根拠となっている。
EC財政支出項目のうち,特に経済格差是正の色彩の強い項目は,構造基金である。構造基金は,①農業指導・保証基金(指導分野),②社会基金,③地域開発基金からなり,このうち,③地域開発基金の受取額を国別にみてみると(付図1-14),スペイン,ギリシャ,ポルトガル,イタリアなど,経済パフォ一マンスの収れんの遅れている国で,受取額が大きくなっている。これは,通貨統合へ向かう過程で欠かせない経済(生産性)格差の縮小を実現するため,ECレベルでの財政的援助が行われていることを示している。こうした意味で,EC財政は,EC通貨統合を支える重要な役割を果たしている。
現在,ECでは,1993年~97年の5年間に適用される予算案(ドロールll・パッケージ)が審議されている。この予算案の特徴は,通貨統合への最終準備を念頭に置き,マーストリヒト条約に盛り込まれた「格差是正基金」の創設を含む構造基金の大幅な増額が計画されている点にある(第1-3-19図)。また,これに対応するため,予算の上限規定を現在のEC各国のGNP合計の1.2%から1.37%に拡大するよう求めている。
ここで,後進地域の開発・構造調整を支援する構造基金「第1目的」についてみると,基金の対象国・地域のうち,ギリシャ,ポルトガル,アイルランド,スペインについては,新設の格差是正基金(4か国のみを対象)を含め,97年までに金額を2倍に増額する内容となっている。また,他の対象地域(イタリア,フランス,イギリスのそれぞれ一部地域)についても,1.67倍に増額することが提案されている(付表1-21)。こうしたことからもわかるように,ドロールll・パッケージでは,経済パフォーマンスの収れんが遅れており,経済(生産性)格差の低い地域に対して,重点的に資金を配分することにより,ERMを堅持し,通貨統合を成功に導くことに主眼が置かれている。
したがって,通貨統合を成功させるためには,今回の通貨危機で明らかになった経済格差を縮小させていくことが重要であり,そのために提案されているドロールll・パッケージ゜の持つ意義は,決して小さくない。
通貨統合にあたっては,各国の財政赤字の水準が収束している必要がある。
これは,巨額の財政赤字は潜在的なインフレ圧力をもたらすものであるとともに,GNPに比して過大な累積赤字残高は長期金利の高どまりをもたらし,域内金利の低下とその平準化を阻む可能性があるからである。こうした懸念は,現在のドイツの財政赤字の拡大や,イタリアの巨額の財政赤字がERM内におけるイタリア・リヘラの大幅な下落とその後のERMでの市場介入の一時中止の背景となったことにより現実のものとして現れてきている。
財政赤字の削減はインフレ圧力を低下させるだけでなく,民間貯蓄の増強にも繋がることから域内の金利を低下させ,民間投資を増加させるクラウド・イン効果がある。そこで,財政赤字の特に大きい国について,巨額の財政赤字がその国の貯蓄・投資(IS)バランスにどのような影響を与えているかをみてみよう(第1-3-3表)。イタリアでは,70~74年平均と85~89年平均を比べると,政府部門赤字の対GNP比は5%ポイント上昇したのに対し,家計貯蓄が約1%ポイント低下し,民間資本形成の対GNP比は約6%ポイント低下している。また,ベルギーについてもイタリアと同様に70~74年平均と85~89年平均を比べると,政府部門赤字が4.5%ポイント増加し,民間資本形成が4.2%ポイント低下している。このように,財政赤字残高の大きい国では,結果的に財政赤字の拡大は民間資本形成の制約条件となっていることから,これらの国では財政赤字の削減に取り組むことは民間資本形成の増強に資する可能性が高い。従って,EC通貨統合に当たって財政赤字を削減することは,EC域内の貯蓄を高め金利を低下させることで資本形成を促進し,供給面での競争力を向上させることにも資することになる。
また,財政については他の条件と異なり,通貨統合後においても財政赤字に関して厳格な条件がつけられている。マーストリヒト条約では,第3段階への移行条件とは別に,財政赤字に関する条項を設けて過度の財政赤字を禁止している。この条項の求める条件は,基本的に第3段階移行の条件と同じで,財政赤字が対GNP比3%以内,赤字残高が対GNP60%以内というものであるが,特徴的なのはこれに違反した場合には状況に応じて4つの罰則が適用されることである。このように財政赤字に関して厳格な条項が決められている背景には,通貨統合後においては金融政策における各国の裁量が喪失される結果,景気対策に関して財政支出拡大に対するインセンティブが働き易いことが考えられる。従って,財政赤字について,マーストリヒト条約におけるような何らかの枠を決めておくことは,通貨統合のシステムの安定性を保つ上でも極めて有効な措置であると考えられる。
このようなマーストリヒト条約の収束条件を満たしていく過程における調整は,主に,緊縮的な財政・金融政策運営を伴うものであることから,今後数年にわたって欧州経済にデフレ効果を及ぼすことが考えられる。
OCEDによると,財政収支の条件を満たすために必要な財政支出の毎年の伸び率は,ギリシャが3.4%減,イタリアが1.3%減となっており,さらに財政赤字残高の条件を満たすためには,イタリアが7.7%減,ベルギーが6.6%減,ギリシャが6.1%減となることが必要とされている(第1-3-20図)。
こうした財政支出削減に伴う影響については,第3段階移行(早ければ97年1月,渇くとも99年1月)の条件のうち,財政赤字残高を除くインフレ,金利,為替,各年の財政収支の条件を全ての国が満たした場合,欧州経済にどのような影響を与えるかについて,OCEDがモデルを使った試算を行っている。
そこで,この試算の結果について主要なポイントをまとめると以下のようになる。
(a)EC全体の金利,為替に与える影響については,通貨統合の達成されるまでの間は,インフレ抑制のための引締め政策により域内の金利は上昇し,為替レートも域外通貨に対して増価圧力がかかる。しかし,通貨統合後には財政赤字の縮小を反映して金利は低下し,為替も域外通貨に対し減価する。
(b)各国に与える影響については,大幅な財政赤字削減が求められる国では,域内金利の低下は財政赤字削減による需要の減少を相殺することはできない。他方,すでに条件を達成している国では,金利の低下と実質為替レートの減価による輸出の増加の効果が周辺国の景気停滞の効果を相殺して経済的な影響は中立的なものとなる。また,財政の緊縮化によって多くの国で失業は増大し,失業率はイタリアで2%,スペインで1.5%上昇する。だだし,デンマーク,アイルランド,フランス,イギリスではほとんど影響はみられない。
(c)財政赤字残高の大きい国では,毎年の財政赤字の削減額は大きくても,財政赤字の残高にはあまり影響を及ぼさない。イタリアの残高は減少せず,ベルギー,オランダ,アイルランドでは残高は増加する。この結果,これらの国では財政赤字残高の収束条件は達成できない。
このため,今後通貨統合の第3段階への移行に向けて,加盟各国は財政・金融政策を緊縮的に運営していった場合,当分の間,欧州においてはデフレ圧力が強まり,経済成長は緩やかなものにとどまる可能性がある。しかし,ここで注意しなければならないのは,通貨統合自体が景気に悪影響を及ぼす訳ではなく,巨額の財政赤字という構造問題を抱えていることこそが,大幅な調整が必要となる根源になっているということである。仮に通貨統合がなかった場合でも,財政赤字残高の大きい国ではいずれ抜本的な財政赤字削減のための改革を行わなければならないという点を考慮する必要がある。
今回の欧州通貨危機は,①各国の経済パフォーマンス(とりわけ財政赤字)や単位労働コストに格差が依然大きく存在していること,及び②ドイツ統一コストが欧州経済全体に予想以上の大きな負担を及ぼしていることの2点についてEC統合の抱える構造的な問題を顕在化させたと,言える。これはEC統合を急ぐあまり,経済実体の収束の遅れやドイツ統一コストに対する対応策について明確な方針を示してこなかったEC各国に対する市場の回答であると言える。
こうした今回の通貨危機から,ERMのシステムの安定化を図り,今後通貨統合を推進していくために必要な条件として次の3点を指摘できる。
第1は,財政赤字削減等の一層の構造改革への努力を行うことである。ドイツでは,財政赤字の削減のために歳出の削減を行うとともに,統一のコストを今後最小限に抑制していくことが重要である。そのためには,①東独地域の賃金上昇を生産性の向上に合わせて進める,②西独地域についても,統一コストの負担を賃金に上乗せすることなく負担する。③ドイツ政府も中期財政計画で示されたような歳出削減努力を行うとともに,連邦政府以外の政府部門でも同様な赤字削減努力を今後数年間にわたって行うことが重要である。また,イタリアの場合は,巨額の財政赤字が構造的なインフレ体質の背景となっており,先に発表された93年度予算における93兆リラに上る財政赤字削減計画を早急に実施することが望まれる。
第2は,労働市場の硬直性を改善し,生産性に見合った賃金の決定が必要とされることである。従って,イタリアのように,インフレ圧力を背景に高い賃金上昇が構造的な問題となっている国では,まず何よりも賃金決定のシステムを改善することで賃金の柔軟性を取り戻すことが重要となる。また,ポルトガル等の低生産性国については,生産性の低さはそれら各国に固有の経済構造から生ずるものである以上急速な引上げは困難であることから,生産性上昇に見合った水準に賃金上昇を抑制することが極めて重要となる。
第3は,景気を含めた経済パフォーマンスの収束が極めて重要であるということである。今回,EC主要国の中でいち早く景気後退に陥ったイギリスのように,景気循環サイクルが他のEC諸国と大きくかい離した場合にも,生産性の低下を通じて通貨の過大評価が生じることにも注意する必要がある。このため,EC域内の地域間における景気格差が極力小さなものとなるようにすることも,EC通貨統合後の政策運営上,重要な条件となると考えられる。
今回の通貨危機は,必ずしもEC統合自体に対する否定を意味するものではない。実際に,ERMによってこれまで各国のインフレは低下し,ドイツとの金利差も確実に縮小すると同時に,市場統合は取引コストの低下を通して域内のヒト,モノ,カネの流れを活性化させている。しかし,通貨統合へ向かう過程で今回の通貨危機が発生したこともまた事実であり,この事実を謙虚に受け止めることも重要である。従って,今後は,構造問題の解決と歩調を合わせながら,中長期的な視点からそれぞれの経済構造に見合った形でEC統合を進めていくことがECにとっては重要であると考えられる。