平成3年
年次世界経済白書 本編
再編進む世界経済,高まる資金需要
経済企画庁
第2章 ソ連の再編成と東欧の経済改革
91年に入ってからソ連経済は一段と悪化している。計画経済も市場経済も機能しない状態にあり,政治的混乱が経済不振に拍車を掛けている。実質GNP(国民総生産,注1)は,90年に前年比2%減となり,公式統計上では戦後初めてマイナス成長に陥ったが,91年に入ってからは低下幅が更に拡大し,1~9月期前年同期比で12%減となっている。更に91年年間の見通しとしては,10月のIMF・世銀合同総会にヤブリンスキー・ソ連国民経済運営委員会副議長が提出した報告書(「全体主義システムの遺産を克服するソ連経済」)では,前年比13%減となることが示されている(第2-1-1図)。
部門別にみると,工業総生産は91年1~9月期には前年同期比6.4%減(90年は前年比1.2%減),農業総生産は1~9月期で同10%減(同2.3%減)といずれも生産の低下が深刻化している。工業では石油は1~9月期前年同期比で10%減,石炭は同11%減,肉製品は同12%減となっている。農業でも人手不足に加え,農業用機械や燃料,肥料,家畜用飼料の供給が不足していることから,今年度の生産不振が見込まれている。特に穀物生産は,90年秋の天候不順による播種面積の減少と91年春の干ばつの影響から,91年1~9月期には1億6,000万トン(前年同期比25%減)と大幅に減少している。西側の予測でも,91/92穀物年度(91年7月~翌6月)には前年度の2億3,500万トンから1億9,000万トン(アメリカ農務省予測)あるいは1億8,000万トン(国際小麦理事会予測)へと大幅な減少が見込まれている。
物価動向をみると,91年1月に工業品卸売価格が引上げられ,同年4月に小売価格の引上げ及び一部自由化が行われた結果,物価の上昇が加速している(第2-1-2図)。すなわち,工業品卸売価格は91年1~3月期に前年同期比で83%の大幅な上昇となり,更に6月には前年同月比で122%の上昇,9月には同164%の上昇となっている。また,総合小売物価指数は1~3月期に前年同期比で23.8%の上昇となった後,4~6月期には同90.0%の大幅な上昇となり,更に9月には前年同月比で103%の上昇となっている。他方,労働者・職員の家計の1人当たり平均収入は,90年に前年比13%の上昇となった後,91年1~6月期には前年同期比で36%の上昇となり,更に8月には前年同月比で91%と上昇が加速している。
国家予算(連邦予算と共和国予算の合計)はここ数年,大幅な赤字基調が続いてきた。これは,国家予算の中でも特に連邦予算の赤字が大幅に拡大してきたためである(第2-1-3図)。共和国の主権が高まる中,91年がらは,従来一括して中央で統制されてきた連邦予算と共和国予算が分離され,各共和国政府が独自に共和国予算について権限を有することとなった。連邦予算の赤字傾向は91年に入ってさらに強まり,91年1~8月で765億ルーブルの赤字となった。これは91年の年間赤字見積額267億ルーブルを既に大幅に超過するとともに,前年同期の赤字339億ルーブルの2倍以上となっている。連邦予算の赤字は91年末までに1,200億ルーブルに達する,とのソ連側の見通しも公表されている。91年に連邦財政赤字が拡大している要因としては,連邦予算の歳出が軍事支出や補助金支出等で依然として削減が進んでいないことに加え,歳入面においても経済の悪化による大幅な税収減,税制の変更に伴う徴税の混乱,連邦と共和国の財源を巡る争い(共和国からの納付が,当初合意された額の半分以下にとどまっている)等が挙げられる。他方,共和国予算は,89年,90年にはやや黒字となっていたが,91年には赤字が拡大しているものとみられる。例えば,全共和国財政の6割程度の規模を有するロシア共和国では,91年1~8月期で266億ルーブルの財政赤字になっていると伝えられており(ラザレフ・同共和国蔵相),全共和国の合計の予算は91年末までに1,200億ルーブル程度の赤字になると予測されている。
このような財政赤字は,主に連邦の中央銀行(ゴスバンク)の通貨増発によってまかなわれている。このため,マネー・サプライの残高が急増しており,M?(現金通貨と流動預金の合計)は91年9月末には前年末比で30.8%増加して6,722億ルーブル(90年GNPの約7割)となっている(付表2-1)。
貿易規模は91年に入って急速に縮小している。この理由としては,ソ連貿易の6割を占めていたコメコン貿易の崩壊,ソ連の主要輸出品である石油の輸出不振(第2-1-4図),そして外貨の不足等が挙げられる。91年1~9月期の輸出総額は前年同期比で30.3%減,輸入総額は同45.2%減となっている(付表2-2)。
対外債務は,91年央で650億ドルに上っており,ここ数年で急速に膨張している (第2-1-5図)。これに対し,対外債権(BIS加盟銀行への預金)は,89年末に147億ドルであったが,90年以降大幅に取り崩した結果,91年3月末には64億ドルと89年末の半分以下となっている。また,金準備も大幅に減少しているといわれる。91年10月のIMF・世銀合同総会に出席したソ連のヤブリンスキー・国民経済運営委員会副議長やゲラシチェンコ・国立銀行総裁は,ソ連国内の金保有量を240トンと述べている。ただし,国立銀行(連邦の中央銀行)のバランス・シートでは375トン(90年末時点)となっており,更に従来の西側の推計ではこれらを大幅に上回るものもある。他方,独自こ金保有を始めている共和国もあるとみられていることから,ソ連全体の正確な金保有量は明確ではない。
こうしたマクロ経済の悪化は,国民の日常生活のレベルにも様々な影響を及ぼしている。
第1は物不足の深刻化である。ソ連の小売商品の流通は9割以上が国営の商業を通じて行われてきたが,国営商店では日用品,食料品の不足が深刻化している。供給されるべき品目リストのわずか数%の品目しか供給されなかったとする調査もあり,供給の絶対量の不足ばかりでなく種類も不足していることがみてとれる。他方,国営商店から姿を消した商品が,自由市場あるいは闇市場にはあるとされ,また,国民もある程度のストックを確保していると言われており,物不足の正確な実態はつかみにくい。さらに,生産されたものが国営商業のルートで消費者に販売される以前に,①価格の高い自由市場や闇市場へ横流しされる,②国営企業の製品をその企業の従業員に優先的に分配する,③国営企業が従業員のために必要な生活物資を他企業や農場から直接購入する,④国営商店の従業員が役得として事前に一部を確保してしまう,といったことが物不足に拍車を掛けている。
第2はインフレの高進である。安い公定価格の国営商店には物がなく,物のある自由市場や闇市場の価格は国営商店の数倍から十数倍にも達する。他方,賃金上昇率はインフレ率を下回っていることから,実質的な生活水準は低下している。ソ連国民の最下層の25%は貧困ライン以下にあり,次の30%の階層の国民も生活に余裕のない状態であるとされる。
こうした経済の現状を踏まえてソ連の国民世論調査センターが91年7月に実施したアンケート調査(回答者数は約3,000人)によれば,市場経済への移行に賛成の回答が65%(うち急進的移行に賛成が23%,漸進的移行に賛成が41%),移行に反対の回答が23%,わからないとの回答が12%であった。このように,市場経済への移行そのものについては約3分の2が賛成している。ただし移行の方法については,時間はかかっても痛みの少ない漸進的な方法を望む人の方が多い。
91年8月の保守派によるクーデターが失敗して以降,政治体制の変革は急速に進んだものの,経済は改善の兆しを見せていない。
現在のソ連の深刻な経済困難は,①旧システム下で生じた問題点が依然として未解決なために,市場経済が機能する際の障害になっていること,②ペレストロイカ政策による経済改革の過程で,いくつかの不適切な施策が新たな機能不全を引き起こしたこと,③連邦システム崩壊に伴う共和国間及び企業間の取引関係が悪化したこと,④旧コメコン市場の崩壊により貿易が著しく縮小したこと,などが複合的に重なってもたらされていると考えられる。以下においては,マクロ経済悪化の背景にあるこれらの問題点を順次採り上げる。
ソ連の大規模国営企業は1業種1社と言ってよい程の独占体制をとるものが多い。1社で数千人から数万人もの労働者を抱え,中には自社の労働者のために自前のコルホーズ農場や消費財生産工場を所有している大企業もある。このように,ある製品を生産している企業がソ連で1社だけという場合,その企業が何らかの理由で生産が停止すると,その影響は他の企業の操業停止につながり,これがまた別の企業の操業停止を招くというように,連鎖的にサプライ・リンク(供給の連続性)を切断していってしまうこととなり,ボトル・ネックが生じる。また,ソ連の領土は広大であるので,1業種1社制の下では流通経路が非常に長くなるという弱点も内在している。
ソ連の機械・設備は第2次大戦後,大規模な新規・更新投資が行われ,50年代には生産力は大幅に高まり,経済成長も年率10%を超えた(前掲第2-1-1図)。これらの機械・設備も70年代には更新の時期を迎えることとなったが,当時の冷戦下の軍拡競争から軍事物資の生産量増大に資源を振り向けることが最優先され,機械・設備の更新投資は後回しにされた。このため,広範囲にわたる生産設備とインフラの老朽化が次第に目立つようになり,西側の技術革新の波にも乗り遅れるという結果になった。70年代に生じた2回の石油危機は,産油国であるソ連にとっては,むしろ外貨収入が増加するという大きな恩恵となったが,ソ連はこれを技術導入等に活用せず,軍事力の増強や同盟国支援等に用いた。更新投資の遅れは,特にエネルギーや輸送部門のインフラにおいて顕著であり,これら部門の機械・設備の老朽化による生産効率の低下は,他の産業への足かせともなっている。例えば,原油・石油製品パイプラインの稼働開始状況をみると,新規・増設・更新投資による稼働開始は81~85年に年平均3,400キロメートルであったが,86~89年には同1,800キロメートルとほぼ半減している。また,国民に対する情報統制政策がら通信インフラへの投資は意図的に抑制されてきたため,この部門の遅れも著しい。
従来より流通部門の限界が生産拡大への足かせとなってきたが,依然として改善は進んでいない。ソ連のような広大な地域では,鉄道輸送が中心となるが,設備が老朽化するにつれて維持管理・補修のための追加投資もかさみ,投資効率はますます低下している。トラック輸送も道路が未整備のため発達が遅れており,鉄道輸送を代替するには至っていない。
こうしたインフラの遅れに加え,これまでソ連の国内流通全体を管理・手配してきた中央指令システムが機能しなくなる一方,これに代わるべき卸売市場も未だ育成されておらず,更に,各共和国で物資の囲い込みが強化されるというように,流通を機能させるためのシステムの悪化から,物の流れが混乱する事態となっている。
生産活動における巨大な軍需産業の存在も,ソ連経済を停滞へと導き,再建を難しくしている原因の1つである。約400万(国内治安部隊等を除いた兵員数)の兵員を抱えるといわれるソ連の軍事支出は,90年で708億ルーブルであり,連邦予算の歳出総額の26.0%,GNPの7.1%に相当する多額なものとなっている。安い人件費や資材コスト等を調整した西側の推計では,この軍事支出の比率はGNPの15~25%と膨大なものになっている。また,ソ連では基礎研究の本準は高いが,これらの研究費は主に軍事部門向けが優先されており,民生用に応用されることが少ないのが現状である。過大な軍事費は,連邦財政赤字の拡大をもたらしているだけでなく,経済の民生部門を大きく圧迫しているので,軍事支出の圧縮は経済再建に不可欠となっている。
私的所有権をどこまで認めるかという問題は,搾取を許さないという社会主義イデオロギーの根本に関わる問題である。私的所有は次第に認められていく方向にあるが,現在のところ,個人が土地を大量に買って大地主,大農場主となることまでは認められていない模様である。ロシア共和国では,90年12月に,土地の私有を認める共和国法が採択されたが,土地を取得してから10年間は転売が禁止されており,自由な処分権はまだ認められていない状態にある。
この意味では西側でいう所有権とはやや意味が異なる。更に,外国人は土地を所有することができず,賃貸権のみが認められている。
企業の所有形態をみると,協同組合(コーペラチフ)や個人営業等のいわゆる「私営企業」は,小売・サービス業等の流通部門ではかなり増加してきているものの,生産部門は依然として国有である大規模国営企業がほとんどを担っている。この大規模国営企業の民営化については,企業をいくつかに分割して株式会社の形態に変更し,①共和国政府や関連企業,②当該企業の従業員,③一般市民,の順に株式所有を拡げていく方法が一部で開始されている(ただし,③の段階には未だ至っていない)。更に,企業分割の方法として,地域ごとの分割,工場ごとの分割,生産分野ごとの分割(例えば,軍需品生産部門と消費財生産部門の分割),採算部門と非採算部門の分割,といった様々な分割方法があることから,どのような分割を行えば最も合理的・効率的であるかという難しい選択が求められる。
なお,91年10月18日に調印された経済共同体条約においては,第9条で経済発展の基盤は「私的所有,と企業活動の自由及び競争」であると規定されており,私有財産制と自由競争の原理を正面から認めたという点で,社会主義体制を放棄して市場経済体制を全面的に採用したといえよう。
ソ連ではすべての人に労働の権利が保証され,失業者は存在しないことが建前となってきた。しかし実態をみると,プロピースカ(国内パスポート)制により居住区以外での就職が困難である等,国民に自由な職業選択の権利がないばかりか,むしろ労働は社会主義国家建設のための国民の義務とされ,職を勝手に放棄することは刑事罰の対象とされた。このため,需給調整の場としての労働市場は存在せず,労働の移動は極めて硬直的であった。
しかし,経済改革で国営企業が国からの保護を受けられなくなると経営が苦しくなり,企業は労働者を解雇したりレイ・オフを行う必要に迫られるようになり,最近では実際に解雇による失業者が発生している。マクロ的には,重厚長大型製造業から,発展しつつある第3次産業へと労働の産業間移動が行われなければならないが,需給調整の場としての労働市場が従来のソ連には存在しなかったためにこれが不可能となっていた。その結果,一度職を失うとなかなか再就職ができずに長期間失業状態に陥ることとなり,労働者の不安が増大していた。
このような状況を打開するため,91年1月には「雇用法」が成立し,職業安定所の設立,労働者の再教育,失業手当給付等が規定された。また,ロシア共和国では91年7月1日から職業安定所を設立して職の斡旋と失業手当の給付(平均賃金の半分程度)を開始している。しかし,労働市場の硬直性に対する改革はようやく緒についたところであり,今後は大量の失業者が出現する懸念もある。
ソ連には資金過不足を調整する金融・資本市場が従来より存在しなかった。
これは,以前のソ連国立銀行(中央銀行と商業銀行の機能を兼務)が,政府の指令に基づいて政府機関や国営企業等の口座間の振替え業務を行うに過ぎず,独自の金融仲介機能を有していなかったことによる。90年12月に中央銀行法と商業銀行法が成立し,91年1月から国立銀行は中央銀行機能のみを有することとなり,他方では新たな商業銀行が多数設立されている。同中央銀行法によれば,連邦中央の金融政策は,連邦中央銀行総裁及び副総裁と選ばれた10名の共和国中央銀行総裁で構成される中央評議会が行うこととなっているが,連邦体制の崩壊と共和国主権の高まりによって,未だ機能していない。
商業銀行システムは,通信インフラの未整備もあってオンライン化にはほど遠く,現在のところは商業銀行は個別の貸金業的なものにとどまっている。
ソ連経済の不振は,旧システム時代からの問題点という「負の遺産」ばかりでなく,ペレストロイカ政策そのものによって引き起こされた面も大きい。これは,ペレストロイカによる改革の動きが,旧システムの構造のかなりの部分をそのままにして行われたので,かえって混乱が助長されたからである。更に改革が旧システムの構造の変革にまで及ぼうとしたとき,自らの権力基盤の解体にまで進みかねないとの危機感をつのらせた保守派勢力は,改革を公然と妨害するようになった。
89年11月のゴルバチョフ論文「社会主義の理念と革命的ペレストロイカ」によって市場経済への移行が唱えられて以降,様々な改革案が策定されてきた。これらの改革案は,(1)政府主導の漸進的な市場経済への移行,(2)急進改革派による短期間での全面的な市場経済への移行,の2つに大別することができる (付図2-1)。すなわち,前者は,連邦中央集権,公的所有の原則の下で,共産党や産軍複合体等の保守派・特権階級の権限を温存しつつ,その指導の下で段階的な経済の自由化と将来的な市場経済化を図ることを基本とするものであった。一方,後者は,共和国主権,私的所有の原則の下で,共産党による中央指令・官僚統制を除去しつつ,全面的・急進的な市場経済化を目指すものであった。こうした改革手法の対立により論争ばかりが繰り返され,経済改革への現実的な取り組みが遅れたことが,経済混乱をより深刻化させることにもつながった。
ただし,こうした保守派と急進改革派との改革手法の対立とそれに伴う経済の停滞が続く中で,試行錯誤的とはいえ市場経済へ向けての実務的な法的枠組みを整備する措置もとられてきた (付表2-3)。これらの措置の有効性,実施順序,実施のタイミング等については,必ずしも適切ではないとみられるものもあるが,総じて市場経済への移行のためには避けて通れない措置であり,その推進を図ってきたこれまでの改革の姿勢には評価されるべきものがある。
一方,ペレストロイカによる経済改革の施策は,旧システムの構造をそのままにして行われたため,次のような当初予見されなかったいくつかの歪んだ副作用を生み出した。
国営大企業は,独占的生産体制のままで経営自主権が与えられたため,販売価格が安く設定された国家発注の製品の生産を縮小し,デザインや商標を少し変えたものを新製品として価格を引上げて(新製品は企業が価格を設定できる),国家発注外のルートで販売した。この結果,日用品,として安く供給されていた商品が国営商店から姿を消し,自由市場や闇市場では高価な商品が並ぶようになった。
国営企業の経営陣は,従来は共産党のノメンクラツーラ(指名名簿)制によって指名されていたが,企業の経営自主権の獲得に伴って従業員の選挙で選出されることとなった。このため,経営陣は従業員の賃金引上げ要求を無視することができず,賃金上昇率を生産性上昇率の範囲内にとどめるという原則を考慮せずに,無原則に賃金引上げを行った。こうしたコスト上昇は,企業の赤字拡大や製品価格の引上げにつながった。
沈滞した国営企業を活性化するため,競争的な勢力として協同組合(コーペラチフ)や個人営業の推進が図られた。しかし,ソ連には従来から卸売市場が存在せず,依然として官僚が物資の調達・配分の権限を握ったままであり,営業許可権や徴税権も地方行政機関が有していた。このため,協同組合や個人営業の経営者は,事業の設立から日常の営業に至るまで官僚べのコネ・賄賂や闇市場に頼るしか方法がなかった。こうしたコストの増大は販売価格の上昇につながった。また,一部の協同組合や個人営業の従事者は,安価な国営商店から物を買い占めて自由市場や闇市場へ高く売る投機行為を行い,ソ連では不法とされる投機利益を手にしたことで一般労働者との所得格差が拡大した。このような事態が重なって,協同組合や個人営業に対する消費者の不信が高まり,強い反発を招くこととなった。なお,こうした経済活動の進展に伴って,闇市場の規模が急拡大し,犯罪組織 (注2)が横行したことに対して厳しい批判が行われている。
ソ連の工業を生産財と消費財の二大生産部門に分てみると,生産財部門のシェアが7割以上を占める。この生産財部門における生産のうち,約6割が何らかの形で軍需生産に関与していると言われている。88年から軍需産業の民需転換を図って消費財を増産するという方針が示された。しかし,もともと消費財を生産するための機械・設備の資本ストックは不足しており,そのための新規投資も十分でなく,従来の生産財部門を中心とする産業構造はそのままに維持された。また,消費者の好みに合わせて魅力的な商品を開発するという経営上のノウ・ハウは欠如していた。このため,軍事物資を作るのと同様の高いコストで買い手のつかない消費財を作るという非効率が生じることとなった。
ここ数年の国家財政の赤字傾向は,第2節で詳しくみるように主に連邦歳入の低下によるところが大きい (前掲第2-1-3図)。これは,86~87年には,反アルコール・キャンペーンによる綱紀粛正が行われ,酒税収入が減少したことによりもたらされた面が大きかった。88年以降については,反アルコール・キャンペーンの緩和により酒税収入は回復したものの,企業の自主権拡大政策の下で企業利潤からの納付が大幅に減少したことが,新たな財政赤字拡大の原因になっている。いずれもペレストロイカ政策が歳入の減少という予期せぬ別の結果を招いたものである。他方,歳出面では,新思考外交に基づく軍縮政策にもかかわらず軍事支出の削減が不十分であり,また,国営企業の赤字補助金や農産物の価格差補助金の削減が進まなかったことも財政赤字の原因となった。財政赤字は,連邦の中央銀行の通貨増発でまかなわれたため,マネー・サプライが急速に膨らみ,その後の激しいインフレをもたらすこととなった。
ソ連で政治の民主化が進展するのに伴い,各共和国の主権が強化され,中央指令による連邦の経済システムは次第に機能しなくなっていった。このことは,前に述べた旧システムの構造的・制度的問題やペレストロイカ政策の問題による経済不振に加え,ソ連経済の悪化に更に拍車を掛けることとなった。
連邦中央の統率力が弱まって行く中で,各共和国は共和国法を優先させて連邦の法律や連邦の大統領令を無視し,自国内の物資を戦略的に囲い込む行動に出ている。91年9月には,ウクライナが農産物の共和国外への持出しを禁止し,グルジア,モルドバも共和国内の生産物を外に持出すことを禁止した。ソ連では共和国ごとに生産物が特化しているため,こうした行動は特定物資の特定地域への偏在に拍車を掛け,ソ連全体の物流の停滞につながっている。
ソ連では,重工業部門における基幹産業の大部分は,連邦中央の所管省が一元的に管轄してきたが,これを各共和国が分割して所有することになると,新たな問題が生じる。例えば,採掘した石油,天然ガスは,パイプラインによって国内あるいは東欧・西欧諸国等に輸送されているが,仮に各共和国がその輸送を独自の経済的判断により停止させたり,高額の通過税を賦課することになると,供給の不安定性や価格の高騰を招き,国家のエネルギー政策や外貨獲得政策にまで影響が及ぶこととなる。送電,鉄道輸送等の面でも同様の問題が生じる可能性があり,このような場合には,共和国の主権強化が経済全体に対してはマイナスの影響を及ぼすこととなる。
現在のソ連では,中央指令・官僚続制システムが崩壊し,企業に指令が行われなくなる一方,指令システムに代わるべき市場も形成されていない。このため,企業間取引が混乱している。
国営企業には,88年1月から国営企業法によって経営自主権が与えられたが,これは同時に,資金の自己調達と独立採算制による厳しい経営責任が課されることを意味した。しかし,企業経営者には市場経済に関する知識・経験がなく,仕入先の確保,需要見込や販売先の開拓,資金繰りといった企業経営の基本的事項さえ適切に行うことができなかった。こうした経営能力の問題に加え,企業を取り巻く経済環境も整備されていなかった。例えば,これまで国家原材料・設備調達委員会が行ってきた企業間の物資の調達・配分に関する中央指令が無くなったにもかかわらず,原材料や資本財の卸売市場は形成されておらず,資金繰りや設備投資のための金融・資本市場も発達していなかった。このため,各企業は自ら仕入・販売の相手先を開拓する必要に迫られたが,そうした経営ノウ・ハウは持っていなかったため,企業間の取引が混乱することとなった。
他方,連邦の中央指令を拒否する共和国政権も,中央指令に代わる有効な政策を持っておらず,市場経済を機能させることにも成功していない。むしろ,共和国政権により物資囲い込み政策がとられたため,従来の企業間取引が複数の共和国にまたがる場合には,企業はその影響を強く受けることとなり,更なる物流の停滞を招いた。
ソ連の主たる輸出品は,石油と天然ガスであるが,特に西側へのこれら品目の輸出は,ハード・カレンシーを獲得する上で,重要な役割を担っている。しかし,1986年に石油の国際価格が下落したことから,ソ連は,ハード・カレンシーによる輸出収入の減少に直面した。そこでソ連は,石油の輸出数量をコメコンから西側ヘシフトし,必要な額のハードカレンシーを確保しようとした。ソ連のコメコンへの石油輸出数量が減少したことによって,コメコンに対する輸出金額もその分減少し,同時にコメコンからの輸入もそれに応じて縮小した。こうしたソ連側の動きによって,コメコン貿易は急速に縮小し,91年にコメコンが解体されるに至る重要な原因の1つとなった (第2-1-1表)。
これまでソ連の貿易総額の6割を占めてきたコメコン貿易は,91年1~6月期には前年同期比で一挙に半滅しており,今後その減少分を西側との貿易で回復することは容易ではない。その理由として,第1に,ソ連の主要な外貨獲得手段であった西側への石油輸出が,国内生産の不振から大幅に減少していること,第2に,対外累積債務の元利払いが増加し,他方で金・外貨準備も大幅に取り崩しているためにソ連の外貨事情が相当厳しくなっていること,が挙げられる。
旧コメコン諸国間における貿易は91年1月から「国際価格化・ハードカレンシー決済化・企業間貿易化」(本章第3節で詳述)に移行した。しかし,外貨準備が少なく,通貨の交換性回復が不完全な旧コメコン諸国が,一気に国際価格によるハードカレンシー決済に移行したことは,経済政策として無理があったとみられる。また,個々の企業は外貨準備をほとんど持たず,企業間貿易の経験も少ないため,旧コメコン内の外国企業間の貿易は,外貨を必要としないバーター取引が中心となってきている。しかし,こうした状況が続けば,ソ連の貿易は縮小均衡から脱出することができず,ソ連経済に対して今後とも大きな影響を与えることが懸念される.