平成2年

年次世界経済報告 本編

拡がる市場経済,深まる相互依存

平成2年11月27日

経済企画庁


[次節] [目次] [年次リスト]

第3章 ソ連・東欧経済の現状と経済改革

第1節 ソ連・東欧経済の現状

1. ソ連経済

ソ連経済は,ブレジネフ政権(1964~82年)後半の70年代半ば以降80年代に入って停滞色を強め,85年3月に成立したゴルバチョフ政権によるペレストロイカ(改革,立て直し)も十分な経済的成果をもたらさず,経済はむしろ悪化したとさえ言われるようになっている。この傾向は特に88年以降顕著となり,90年には生産が前年比でマイナスに落ち込むのが確実という事態に陥っており,これは革命直後の混乱期や戦時を除いた平時では初めてのことである(第3-1-1図)。しかも,米CIAやソ連の改革派経済学者アガンベギャシにょれば,ソ連経済はかなり前から公式統計よりも数%低い伸び率で推移してきたことが示されており,これは,公式統計に隠れたインフレがあるためとみられている。近年のソ連経済のマクロ指標の動向は第1章第1節に譲り,本項では最近の経済不振の現状・問題点をみていく。さらに第2節でその経済不振をもたらした中央指令・官僚統制による計画経済システムをみた後,第3節で計画経済システムに対するこれまでの改革と今後の改革の見通しについて述べるとともに,改革に対する国民の見方についてアンケート調査から分析を行う。

(1)1989~90年の政治情勢の激変

1989年は,ソ連・東欧圏において従来の社会主義体制とは決定的に異なる新しい政治・経済体制の再構築が開始され,これまで各種の対立要因が根強く存在していた東西関係が本格的な対話と協調の時代に移行し始めた年である。

ソ連における政治改革は,すでに88年6月の第19回全ソ党協議会を契機に活発化していたが,その背景には,85年にソ連で開始されたペレストロイカが十分な経済的成果を達成しておらず,経済改革を成功に導くには,硬直化した政治システムを改革することが不可欠との考えが強まっていたからである。89年3月には共産圏初の複数候補者制・秘密投票による「人民代議員大会」の選挙が行われ,モスクワ市長やレニングラード州党第1書記といった共産党幹部が落選するなど,政治改革の効果が表れた。ただし,連邦中央の人民代議員大会や最高会議においては,急進改革派や非共産勢力が伸びてきているとはいえ,依然として共産党勢力は根強い。しかし,以前のような政府・共産党の政策を単に承認するだけの議会から,レーニンがロシア革命(1917年)当初に唱えた「すべての権力をソビエト(議会)へ」とする原則に基づいた議会制民主主義の議会へと次第に移行しつつある。

89年秋以降,東欧で共産主義政権が相次いで倒れるという状況を受け,90年2月の拡大党中央委員会総会において共産党の一党独裁の放棄が決定された。3月には強大な権力を有する大統領制(第3-1-2図)が創設されてゴルバチョフ初代大統領(共産党書記長兼任)が誕生した。このような政治基盤の確立を背景に,ゴルバチョフ大統領の強力な権限とリーダー・シップの下で,連邦中央による上からの経済ペレストロイカの急進化が図られるものと期待された。しかし,急進改革派のエリッイン・ロシア共和国最高会議議長の主導により,6月にロシア共和国の「国家主権宣言」が行われ,さらに9月には市場経済への短期間で急進的な移行を目指す「500日計画」(本章第3節で詳述)がロシア共和国最高会議で独自に採択されるなど,経済改革の主導権を取るべくエリツィン議長等の急進改革派とロシア共和国等の共和国レベルが,中央に対して激しいアプローチを展開している。

このような政治改革の進展に対し,この間,経済改革は十分な成果を挙げることができず,以下のような数々の経済問題が表面化してきた。

(2)経済の現状と問題点

ソ連経済は,70年代後半から次第に生産の低下傾向を示してきた。工業総生産(前年比)は,60卑代の8%台,70年代前半の7%台という高い伸びを経て,70年代後半以降80年代はおおむね4%前後で推移していたが,89年に1.7%へと低下した後,90年1~9月期には前年同期比0.9%減とマイナスに落ち込んでいる。ソ連の工業は,伝統的に′軍事・重工業優先政策をとってきたため,消費財生産部門の資本ストックは十分でなく,現在の消費財不足をもたらす一因となっている。農業総生産の伸びは工業に比べて更に緩慢で,大規模な農業投資にもかかわらず,60年代以降増減を繰り返しつつ60~89年の30年間の年平均で2.1%の伸びに止まっている(同期間の工業総生産は年平均6.1%)。このため,アメリカ,カナダ等から穀物輸入を行って生産不足を補ってきた。こうした工業生産の近年の不振と農業生産の慢性的な停滞が,現在の物不足をもたらしている。

(物不足とインフレ)

ソ連では88年頃から物不足が叫ばれるようになり,石鹸,洗剤,カミソリ刃,鉛筆,ノート等の日用品・学用品や肉製品,乳製品,砂糖,コーヒー等の基礎食料品,といった日常生活に不可欠の商品の不足が顕著となり,テレビ,ラジオ,冷蔵庫,洗濯機,電気掃除機,自動車等の贅沢品とされる耐久消費財は非常に入手が困難となっている。90年夏には,これまで一応は供給が確保されてきたパン,タバコまでが不足した(他方では,収穫に人手が足りないほど農産物の予想外の豊作が伝えられている)。また,消費財・食料品全般にインフレが生じている。この要因としては,企業が88年1月から独立採算制となり,安易に利益を上げるために,利幅の薄い消費財の生産を止めたり,従来の商品を少し変えただけで新製品として価格を上げたりしたことから,生産量は増えないままに価格が上昇したということが挙げられよう。また,物不足は次に述べるような流通システムの不備によるところも大きい。さらに,共和国の経済主権の高まりにより,これまで中央指令の下で配分されていた国内の物流に滞りが生じていることも影響している。すなわち,生産は十分行われているにもかかわらず,生産物が消費者に必要十分な量だけ行きわたらず,物不足と過剰在庫が併存する上うな状況が生じている。加えて,生産者が高値で売れる自由市場やヤミ市場へ商品を出荷したために,国営商店の品不足に拍車を掛けることとなったことも要因として挙げられる。

(流通の問題)

広大な領土を有するソ連では,鉄道輸送が主となるが,鉄道インフラの老朽化と貨車の回転の悪さから物流に支障が出ている。貨車の不足は,企業が貨車を倉庫代わりにして貨物を引取りに来ない(それに対する制裁金は安く,企業はできるだけ多くのストックを確保しておきたいために倉庫で保有できる分以上の調達を行うため),といったことも影響している。トラック輸送も,道路のインフラが未整備のためまだ不十分であり,鉄道輸送を代替する能力はない。流通のボトル・ネックは従来より指摘されているが,早急にインフラの整備を行うと同時に,上からの指令による物材配分の非効率を縮小し,流通企業の民営化や民間流通業者の育成等により効率的な流通システムを構築する必要があろう。

(財政赤字と過剰なマネーサプライ)

89年のソ連の財政赤字は920億ルーブル(公定レートで1ルーブルは約1゛.6ドル)で,同年のGNP9,241億ルーブルの約10%(アメリカは89年度約3%)に相当する巨額なものとなっている。こうした財政赤字の背景には,過大な軍事支出と価格差補助金が挙げられる。ソ連の公表によれば,89年の軍事費は779億ルーブルで,これは89年GNPの約8%に相当する(アメリカは89年度約6%)。ソ連政府は,こうした財政赤字がかなり以前から存在し,その赤字は通貨の増発で賄われてきたことを認めている。また,国営企業の独立採算制への移右に伴って企業に賃金決定権が与えられたが,企業が生産効率とは関係なく高い賃金引上げを行ったことも企業の収支を悪化させ,補助金の増大を通じてマネーサプライを増加させる一因となっている。90年夏には紙幣の過剰な印刷のためにインクが足りなくなるといった事態も生じている。こうした膨大なマネーサプライは,その正確な金額は公表されていないものの,国民の貯蓄残高をみると(第3-1-1表),90年9月末で3,588億ルーブルに上っており,この他に約1,000億ルーブル稈度が国民の手元にあるともいわれる。このような国民の過剰な通貨保有は,ルーブルの信認を失わせるとともに,潜在的なインフレ圧力となっている。

(石油の国際価格低下の影響)

ソ連は世界1の産油国であり(日量約1,200万バーレルの産出),石油はソ連の全輸出の3割,対西側輸出の6割を占める主要な外貨獲得手段である。産油国としてのソ連は,第1次・第2次石油危機の石油価格高騰時には外貨収入の増加を得たものの,79年のアフガニスタン侵攻に対する西側の経済制裁や86年の石油の国際価格低下の影響から,次第に外貨不足に陥った。原油・石油製品輸出による外貨収入は推計で,80年142億ドル,85年127億ドル,86年79億ドルと次第に減少したため,貿易収支の黒字を維持する伝統的な政策もあって,この間特に西側からの穀物輸入(80年49億ドル,85年58億ドル,86年29億ドル,87年24億ドル)が削減された。

(民衆の貧困と労働者のスト)

物不足とインフレの影響を最も受けるのは,年金生活者等の低所得者層である。職場に勤めている者は,職場の売店や予約購入を通じて必要な商品をある程度確保することができるが,こうしたツテのない者は品不足の国営商店に行列し,それでも足りないものは価格の高いコルホーズ市場(自由市場)等で調達しなければならないため,非常に生活が苦しい。ソ連の1か月の公式最低賃金は78ルーブルであり,仮にこれを貧困ラインとすると,これに満たない者が88年で4,100万人とされ(1億人を超え,るとの見方もある),インフレはこれらの人々を直撃している。

物不足は,労働条件の厳しい炭鉱労働者の不満を招き(収入は一般労働者の数倍であるものの,炭塵を洗う石鹸もなく,厳しい労働にもかかわらず食料供給が十分でない等),89年には炭鉱ストが頻発した。この影響は,発電,製鉄,輸送等にも及び,ソ連の生産の大幅低下を招く一因となった。

(3)ソ連の共和国別経済状況

(民族問題とソ連経済)

ソ連は,全世界の6分の1を占める領土に約2億9千万人の人口を有し,その人口を構成する民族が100を超える多民族国家であり,15の共和国により構成される連邦国家である。15の連邦構成共和国の中には,さらに民族的な自治共和国,自治州,民族管区等が設けられているものがある(付図3-1)。15の連邦構成共和国あ中で最大のロシア共和国は,全ソ連邦の領土の76%,全人口の51%を擁し,共和国人口の83%はロシア人である。ロシア人は,非ロシア人を主とする他の14共和国にも積極的に進出しており,全ソ連邦の人に占める割合は50.7%(89年)で,中央及び地方の政治,経済を始めとするあらゆる分野において主要な地位を占めてきた。従来のソ連は,ロシア人を中心とし,ロシア共和国の経済資源を中心として運営されてきたといえる。

しかし,ペレストロイカ政策の手段としてのグラスノスチ(情報公開)の下で政治的意見の表明が自由になると,それまで不自然に抑圧されてきた非ロシア人の間で民族運動が88年頃から急速に活発化してきた。バルト3国(エストニア,ラトビア,リトアニア)の独立運動といった対ロシア人闘争や,アルメニア対アゼルバイジャン紛争といった非ロシア人の間の民族対立など,ほとんど全ての共和国で民族問題が勃発している。また,ロジア人,白ロシア人,ウクライナ人等のソ連ヨーロッパ部の東スラブ系民族の人口増加率が低下している(70年以降年率1%以下)のに比べ,中央アジアのイスラム教を信奉するトルコ系諸民族の人口増加率は高い(同3%程度)ことから,これら諸民族の失業が増大している。こうした経済状況への不満や教育・文化水準向上への政策が十分でないことへの不満も民族問題の原因となっている。

民族問題の背景にある各地域の経済力をみるため,以下では共和国別に経済実態を比較してみることとする。

(15共和国別の経済実態の比較)

共和国別の経済水準をみると,バルト3国(エストニア,ラトビア,リトアニア)が最も高く,ロシア,白ロシア,ウクライナがこれに次ぎ,モルダビア及びカフカス地方(グルジア,アルメニア,アゼルバイジャン)や中央アジア地域の5共和国(カザフ,トルクメン,ウズベク,キルギス,タジク)が低い水準にある,とされる(ただし,ガザフ共和国北東部にはロシア人が多く,経涛水準は比較的高いため,同共和国の平均を押し上げている)。例えば,主要な食料品の年間消費量や,耐久消費財の保有状況もそのことを示している(第3-1-3図)。

ロシア共和国の経済水準は,全ソ連邦の平均と同程度か,場合によっては.下回ることもある。このことから,多数を占めるロシア人は,自らの犠牲のもとに膨大な資源・エネルギーを他の共和国に供給して支えてやっている,との意識が強い。そこで,各共和国相互の経済関係をみるため,エネルギーについてその依存関係を調べると,ロシア共和国が最大の供給国となっている(第3-1-4図)。独立を求めるバルト3国も,エネルギーの面ではソ連に頼らざるを得ない状況にある。また,共和国ごとに主要物資の他共和国への輸出・輸入の収支をみると,各共和国によって特徴がみられる(第3-1-2表)。ロシア共和国は石油,石炭等のエネルギーや化学,機械,木材,建築資材等の工業製品の大半を他の共和国に輸出し,鉄鋼,軽工業品,食品,農産物を輸入している。バルト3国は,軽工業品,食品等を輸出し,エネルギーや化学,機械等の工業製品を輸入している。白ロシアは機械,軽工業品,食品を輸出し,エネルギー,鉄鋼を輸入している。ウクライナは鉄鋼,機械,建築資材,食品,農産物を輸出し,エネルギーを輸入している。モルダビア及びカフカス地方では,アゼルバイジャンが石油,化学製品を特徴的に輸出している他は,主に軽工業品,食品,農産物(アルメニアを除く)を輸出し,エネルギー,鉄鋼,機械,木材,建築資材等を輸入している。中央アジア地域では,カザフが石炭,トルクメンが石油を特徴的に輸出している他は,主に軽工業品,一農産物を輸出し,エネルギーや鉄鋼,化学,機械,木材,建築資材等の工業製品を輸入している。いずれの共和国も,共和国間の相互依存関係が密接で,かつ,共和国ごとに輸出する物資が特化されているため,独自の経済単位として自立できる状況にはない。

こうした経済構造にもかかわらず,改革による中央から地方への分権化の過程において共和国の経済主権が高まり,各共和国が自国本位の経済政策を行うようになったことが,全国的な物流の停滞を引き起こしている。すなわち,各共相国は,自国が必要とする物資が十分に供給さ入ない場合,その供給先に対しては,自国が集中的に産出する物資の供給を削減することで対抗しようとするため,このことがソ連国内の物資の流通をさらに縮小させ,全国的な物不足と特定地域への物資の偏在に拍車をかける状況となっている。ソ連の各共和国間の相互依存は非常に高いものであるだけに,物流の縮小が生産に与える影響は非常に大きなものとなろう。

(共和国独立採算制から連邦体制の再編へ)

民族運動の活発化とペレストロイカによる中央権力の分権化の流れを受けて,バルト3国では90年1月から共和国独立採算制が導入されており,91年より全ての共和国で導入される予定となっている。この共和国独立採算制は,共和国に一定の経済主権を与え,経済政策や共和国内にある経済資源の管理・運用を任せようとするものである。

非共産勢力が最高会議の過半数を占めるバルト3国では,完全な独立へ向けて更に急進的な手段に訴え,相次いでソビエト連邦からの独立を宣言した(リトアニア90年3月11日,エストニア3月30日,ラトビア5月4日)。また,ソ連で最大のロシア共和国は90年6月,急進改革派のエリツィン・最高会議議長の主導により,共和国の主権が連邦の主権に優位することを内容とする「国家主権宣言」を行った。こうした急進的な分権化の動きに対し,ゴルバチョフ大統領は新たな「連邦条約」に基づく「主権国家連合」を提唱した。「主権国家連合」とは「主権を有する諸国家の連合」を意味し,各共和国が諸民族の伝統,歴史,文化等に基づいた主権国家として自由な連合を形成するものであ,る。さらに,90年11月にはソ連を「主権共和国連邦」とする新たな連邦条約草案が公表された。同草案では国防,外交,連邦レベルのマクロ金融政策等を除き,共和国主権の連邦主権に対する優位を規定している。

このように,新たなソビエト連邦体制の再編へ向けての模索がなされており,15共和国全てが連邦の枠内に残った場合でも,主権を有する国家として従来より緩い連邦を形成する可能性が強い。

2. 東欧経済

東欧諸国は,戦後,共産圏に組み入れられ,ソ連型の中央指令統制経済による経済運営を続けてきたが,70年代後半がらその成長は鈍化しはじめた。これに対応して,各国で様々な改革が行われたが,十分な成果は挙が,らながった。

80年代初頭には,幾つがの国で対外債務危機が表面化し,成長はなお低迷を続けた。1985年のゴルバチョフ登場以来,ソ連の対外政策が変化し,これが,89年秋の東欧諸国における,政経両面にわたる大規模な変革にっながった。今回の改革では,中央計画体制の廃止,市場経済への移行を目標とする,抜本的な改革が進められている。

ここでは,まず,戦後からこれまでの東欧経済のパフォーマンスを概観し,その問題点として指摘されている,供給面の非効率性に焦点を当てる。

次に,東欧諸国の経済構造に大きな影響を与えた,CMEA(以下,コメコンと略す)についても,その成立から今日までを概観する。

(1)戦後の東欧経済

(成長の鈍化)

第3-1-5図をみると,東欧各国は,1950年から73年までの間,6カ国の単純平均で年率3.3%と中程度の成長を遂げた。特に伸びの高い3国(ブルガリア,ルーマニア,ユーゴスラビア)では平均成長率は年率4%を超えている。しかし,73年からの7年間については,ブルガリア,ポーランドで顕著な成長ρ鈍化が現れ始め,続く80年からの7年間では,全ての国の成長がはっきりと鈍化を示している。この間,6カ国平均成長率は,年率1.2%に低下している。このように,東欧諸国は社会主義体制へ移行後,70年代初頭まで比較的高い成長を示したが,それ以降は成長鈍化が続いていることが確認できる。続いて,第3-1-6図は,各国の工業生産伸び率の推移を示したものである。ここでも,総じて70年代後半以降,ブルガリア,チェコ・スロバキア,ハンガリー,ルーマニア等多くの国の成長が,低下し始めていること,80年代には全ての国で低下傾向が明確になっていることがわかる。

このように成長が推移した背景としては,以下のようなことが考えられる。

戦後初期の成長は,大幅に労働・資本投入を増加させていく「拡張的」な政策によってもたらされ,東欧諸国は,以後もそうした成長政策をとり続けた。

しかし,次節にみるように,要素利用の効率化が殆ど行われなかったため,要素面での制約が顕在化するとともに成長は鈍化し始めた。また,生産要素の数量的な増大に重点を置き,技術革新に消極的であったこと,中央指令・官僚統制の経済システムにより,資源配分構造が硬直牝していたため,70年代の石油危機以降の世界的な産業構造の変化に対応できなかったことなども,70年代以降の東欧諸国の成長を抑制したものと考えられる。

(対外債務の拡大)

第3-1-7図は,東欧各国の交換可能通貨建て経常収支の推移を示したものである。東欧諸国の多くは,73年から西側に対する収支を悪化させ,ポーランドで特にそれが顕著に現れていることが分かる。70年代に入り,これらの国々は西側からの借款による,先進技術・資本財輸入を進め,輸出競争力を高めようとしたが,輸出による稼得能力を超えた,技術・資本財輸入を続けた結果,第一次オイルショックによる西側市場の冷え込みも手伝って,短期間で経常収支は累積赤字状態となった。ブルガリア等は輸入を引き締めて早期にこの戦略を中止したが,ポーランド,ハンガリー等は,輸出競争力を向上させれば問題は解決できるものど考えて技術導入を続けた。しかし,79年からの第二次オイルショックに際して西側諸国は緊縮政策を採り,実質金利が国際的に上昇したため,東欧諸国の対西側輸出は縮小し,利子負担は膨張した。81年にはポーランド,ルーマニアが債務支払い危機に陥り,西側からの短期資金が大量に引き上げられた。また,ポーランドの81年12月の戒厳令導入問題やソ連の79年のアフガニスタン侵攻に対する西側諸国の制裁措置によって,技術導入自体が困難となったため,この計画は放棄され,各国は投資部門を中心とした国内需要の引き締めと,輸入抑制によって,交換可能通貨黒字を捻出しようとしたが,利払いによる貿易外収支赤字の増加がそれを上回り,経常収支はルーマニアのような例外を除いて,赤字を続けた。85年以降,西側からの資金流入が復活すると,再び多額の借入が進み,プルガリア等も再び赤字に転じた。

こうした赤字状態の連続により,東欧諸国の対外債務は70年代に大幅に拡大した。第3-1-8図は,東欧諸国の債務残高/輸出比率(ともに交換可能通貨)の推移を示したものである。チェコ・スロバキアの債務は常に輸出金額の範囲内に収まっていたが,その他の国については,かなりの期間にわたって比率が1を超えており,債務の返済がその国の輸出収入の多くを海外へと移転させてしまったことが分かる。特に,プルガリア,ハンガリー,1ポーランドの3,カ国では,債務返済が経済成長を大きく阻害しているものと考えられる。ブルガリアは,77年から・84年まで比率が低下しつづけたが,85年から急速に上昇し,86年時点でハンガリーを抜いている。ハンガリーは,84年までは2を超えないレベルで推移していたが,85年から上昇,87年にピークとなり,以後緩やかに低下している。これに対してポーランドは,72年から上昇が続き,87年のピークでは輸出額の5倍を超える債務を抱えており,若干低下した88,89年でも,輸出の4倍を超えている。

(2)東欧経済の問題点一供給の非効率性

(供給の非効率性)

このような経済の不振を招いた要因の一つとして,「供給の非効率性」が指摘されている。第3-1-9図は,西側先進国(アメリカ,西ドイツ)とハンガリー,ポーランド,ユーゴスラビアの製造業の就業者1人当たりの産出額(名目,ドルベース)を比較したものである。これによると,75年時点で最も,接近している西ドイツーユーゴ間には,既に1万ドルの差があったが,86年には,同様の西ドイツーハンガリー間で,差は6万ドル近くに開いており,ポーランド,ユーゴはさらに2万ドル低いレベルにある。

次に,第3-1-10図は,資本ストックと生産の関係をみるために,製造業の産出係数(名目付加価値額/粗固定資本)一を,ハンガリー,アメリカ,西ドイツについて,比較したものである。これによると,ハンガリーの産出係数は,先進二国の半分ないし3分のl以下に止まっている上,80年代には70年代よりさらに低下している。86年には付加価値額と同額の資本が投入されている。このような投資効率の悪さが一層の資本投入を招いている可能性がある。

エネルギーについてはどうであろうか。第3-1-11図は,国民経済全体の,一次エネルギー消費量(石炭換算)のIGNP原単位の推移を示したものである。70年から87年にかけての,エネルギー価格の変化に応じたエネルギー梢費原単位の減少幅は,,東欧全体で7.2%と,先進国に比べて極めて小幅なものに止まっており,各国とも70年のレベルから殆ど変化していない。また,ユーゴスラビア,ハンガリーのような比較的効率の良い国に比べ,ポーランド,チェユ・スロバキアのような工業国は一段高いレベルにあり,ブルガリア,ルーマニアのような,戦後から工業化を始めた国はそれよりも高いレベルで推移していることがみてとれる。このように,東欧諸国では,工業化のスピードを速,めているプルガリア,ルーマニアを例外とすれば,エネルギー価格の上昇による投入量の調整が,ほとんど行われていないということが出来よう。

以上から,東欧諸国では,生産増強を企図して要素投入を増加させ続けたものの,そうした要素の効率的な活用は行われながった。言い換えれば,生産主体である国営企業は,効率化やコスト削減への努力を殆ど行なわず,生産目標を達成するために要素投入を一加させ続けた。しがし,このことがかえって,生産性上昇を図ることを阻害し,中期的な生産の停滞を招いた一因であるということができよう。

このような国営企業の行動は,社会主義国国営企業が金融面で国に過度に依存している状態にあり,予算制約が働いていないためとみられ机ハンガリーの経済学者,コルナイ・ヤーノシュは,こうした要因を「ソフトな予算制約」と呼んでいる。インフレが昂進し,実質金利がマイナスであったため,こうした傾向に拍車がかけられた。第3-1-12図は,東欧諸国のうち,ポーランド,ハンガリ,ー,ユーゴスラビアについて,名目金利と物価上昇率の関係をみたものである。これによると,市場化への改革にいち早く着手したハンガリーでは,88年を除いて,名目貸出金利は物価上昇率を上回っており,実質金利はプラスで推移しているが,他の二国では,歩なくとも70年代末がら87年まで,金利が実質的にマイナスになっていたことが確認できる。つまり,この期間,金融は過度に緩和された状態にあり,企業は金融コストを無視して,借り続けることができた。

続いて第3-1-13図は,ハンガリーの主要産業に分配された補助金額(価格補助金を含む)が,粗利益(付加価値-間接税+補助金)や製造コスト(原材料,賃金,資本等の全コスト)に対してどの程度の大きさであったかを,70年,88年について示したものである。まず,粗利益にたいする比率をみると,工業全体で,補助金が粗利益の5割に達していることか分かる。これは,補助金の削減・撤廃が企業の収益に重大な影響を及ぼすことを示している。鉱業,冶金,食品の3業種は平均を超えており,食品は88年でも粗利益全体を上回る補助金を受け取っている。つまり,食品産業は赤字体質のまま88年まで存続し続けたことになる。このことは,製造コストに対する比率からもみてとることができ,食品は16%に上っている。また,鉱業,冶金といった投入財業種の比率も高くなっている。これらの部門では,こうした多額の補助金によって,卸売価格を低く抑えていたと考えられる。

こうした金融面での手厚い保護と,赤字を続けても倒産しないという安心感は,企業のコスト意識を希薄にし,非効率的な生産を助長する。また,生産目標達成のため,企業の生産要素に対する需要は,コストの効率を度外視した過大なものとなり,必要以上の生産財の生産や,家計への消費財供給の不足等をもたらしたと考えられる。

(3)コメコン

コメコンは,当初,OEEC(1948年4月発足,OECDの前身)への対抗組織として1949年に結成されたが,60年代から域内経済協力に取り組み始め,80年代末まで,東欧諸゜国の貿易の過半を占める市場であり続けた。しがし,89年秋の変革後,各国とも域内取引を急速に減少させている。

(制度上の問題点)

コメコン域内貿易の性格は,1960年代に導入された諸制度によって,決定づけられた。ここでは,そうした制度に注目し,その問題点を指摘する。

まず,1962年には,その後のコメコン貿易に大きな影響を与えた「社会主義国際分業の基本原則」が採択された。それまで,先進工業国であるチェコ・スロバキア,東ドイツは,最少生産費の原則に沿った効率的な域内分業を行うべきとして,域内先進国の重機械工業等への特化と,他国の他産業への専門化を主張していたが,ルーマニア等は,域内の経済格差を一層拡げるものとして,これに反対しでいた。「基本原則」は,効率原則と格差平準化の双方に配慮したものであったが,実際には,効率を,犠牲にして,産業部門・製品グループ内で各国の生産分担を決めた。例えば,それまでチェコ,ポーランドが行っていた,バス,トラック,小型トラクター等の生産を停止し,新たに,ハンガリーがバス,トレーラー,ダンプカーを,ブルガリアがトラクター,コンバインを分担し,域内での専門生産由となることが,「基本原則」によって勧告された。

こうした競争によらない市場(生産分野)配分は,技術開発や品質向上への意欲を弱め,西側先進国との技術格差を拡げる要因となった。

また,1963年には,,域内での多角的決済を可能とする共通通貨として,「振替ルーブル」の導入が決定された,1振替ルーブル(も金0.987412gと同等とされ,その決済機関として,国際経済協力銀行(通称コメコン銀行)が設立された。この制度は,域内輸出入の代金決済を,国際経済協力銀行の帳簿上の債権・債務として処理するもので,具体的な貨幣の受払を伴わない。これによって,原則として加盟国は多国間で収支を均衡させてもよいことと友り,また,信用を介在させて多年度で収支を均衡させることも可能となった。しがし,実際の域内取引では,物量でのバランスを重視した,2国間協定にーよる貿易が主流であり続けたため,多国間決済は敬遠されがちであり,振替ルーブルの多角決済機能は殆ど生かされなかった。

(域内貿易の最近の状況)

コメコン内の貿易は,ソ連が東欧諸国に石油を輸出し,東欧諸国が代わりに機械等の製品を輸出するというパターンで,ソ連・東欧間の貿易収支は,常に均衡しているというのが,85年ごろまでの姿であった。しがし,86年以降,石油価格が低下したことを機に,域内貿易は大きく変化した。第3-1-14図①で,ソ連の対東欧貿易の推移をみると,86年以降の石油価格の低下は,87年以降ソ連の対東欧輸出を減少させるとともに,対東欧輸入の伸びも緩やがとなった。この結果,ソ連の対東欧収支の赤字が拡大した。

ハンガリーについて,域内輸出入の動向をみると,域内輸入がソ連がらの輸入減を主因に減少し,これと歩調を合わせて域内輸出も減少している。ただ,輸出の減り方の方が緩やかであるため,ハンガリーの域内貿易収支は黒字が拡大している。他の東欧諸国も88年以降押し並べて対ソ連貿易収支は黒字となっている。このように,ソ連の主要輸出商品である,石油価格の低下は,ソ連の対東欧輸出を減らし,このこどは,東欧が石油代金を支払うための対ソ連輸出の必要性を減じたため,ソ連の対東欧輸入の伸びは大きく鈍化した。この結果,域内貿易が縮小するとともに,ソ連の対東欧貿易収支は赤字となった。

このコメコン内の貿易縮小に対して,対西側貿易は,ソ連,ハンガリーとも拡大している(第3-1-14図②)。特に,88,89年とソ連の対西側輸出が伸び悩む中で,対西側輸入が拡大している点は,同時期にソ連の対東欧輸入が伸び悩んでいる点と対比すると,興味深い。すなわち,ソ連が国内供給制約等から輸入を増やす時に,東欧からの輸入ではなく,西側からの輸入を増やしていることである。この理由として,東欧諸国にとって,石油価格低下で対ソ連輸入が減少し,その限りでは対ソ連輸出を増やす必要性が小さくなったこと,対ソ連貿易で黒字となっても振替ルーブルという交換可能でない通貨の黒字であるので,輸出を拡大する動機に乏しいことから,東欧諸国がソ連向けの輸出を拡大することに消極的であったことが考えられる。

これまでみた,コメコン域内貿易の縮小,対西側貿易の拡大という傾向は,90年に入って一層顕著に現れている。90年1~3月のソ連の対西側貿易は,前年同月比10%程度の増加を示しているのに対し,域内輸入は同10%程度の減少,域内輸出は同2%程度の減少である。ハンガリーの1~6月の対西側輸出は前年同月比30%の大幅増,対西側輸入も同14%増であるのに対し,対域内輸出は同30%の大幅減,域内輸入は20%の大幅減である。この光景にある要因として考えられることは,①前述の通り,東欧諸国は88年以降,ソ連に対して貿易黒字を計上しているため,対ソ連輸出をむしろ減らす方向に動いていること,②ソ連自身が,品質等の面で問題のある東欧諸国の製品の輸入に消極的となっていること,③コメコン貿易は,企業間の自由取引ではなく,政府間の取引であるが,市場化を目指した改革が急進展する中,計画経済の統制,官僚機華が崩れてきつつあるため,貿易取引に混乱が生じていること,④東欧諸国が市場経済化を進める中で,コメコンのシステム(生産分野配分,振替ルーブル決済,国家間貿易)が,障害となっていること,である。今後も,ソ連が石油の生産量滅少のため,90年に入づてから東欧向けの右油供給を大幅に削減しつつあることが加わり,コメコン域内貿易は一層縮小することとなろう。91年1月からは,国際価格による,交換可能通貨決済に移行することになっている二このことは,東欧にとってこれまで最大のメリットであった,振替ルーブルによる石油の輸入ができなくなることを意味し,ソ連(こ対する石油依存は,少なくとも当分の間,なくならないと思むれるものの,東欧のコメコン離れは一層加速されることとなろう。