昭和61年
年次世界経済報告
定着するディスインフレと世界経済の新たな課題
経済企画庁
第3章 ドル高修正,原油高修正の影響
本節では,最近のドル高修正及び原油高修正が,主要国の貿易収支,物価,景気等マクロ経済にいかなる影響を及ぼすのか概括的に分析する。
一般に為替レートの変化は,相対価格の変化を通じて輸出入の数量を変化させ,長期的には貿易収支の不均衡を縮小させる方向にはたらく。しかし,その時間的経過は様々な要因によって規定され,短期的には不均衡が拡大する傾向がみられる。こうした現象は,為替レートが貿易収支を均衡させるには時間がかかることを意味し,通常Jカーブ効果と称されている。
この貿易収支の短期的不均衡の拡大は,①輸出入数量が相対価格の変化に反応する度合(価格弾性値)だけでなく,②為替レートの変化が,輸入価格,輸出価格にどれだけ反映されるかという点や,③初期時点における収支不均衡がどの程度あるかという点にかなり依存することになる。
こうした点を踏まえて,ここでは,特に西ドイツについて,輸出入(通関ベース)の数量関数,価格関数等を推計した上で,ドル高修正が貿易収支にいかなる影響を与えるか試算を行ってみた。ただし,この試算では,単純化のため所得面の変化はないものとし,為替レートの変化の価格面を通じた効果のみを計算している。具体的には,85年1~3月期以降対ドル・マルクレートが10%上昇(欧州方式)したとして,西ドイツにおけるマルク建て及びドル建ての輸出入額と貿易収支がいかに変化するか試算している(所得要因は85年1~3月期の値で固定)。
試算結果は第3-1-1図に示されているが,これによると,長期的には数量面の効果を通じて不均衡は徐々に改善されていくことになるものの,短期的にみると,マルク建ての場合は2四半期間,ドル建ての場合は約3四半期間にわたって収支の黒字が拡大することがわかる。マルク建ての場合とドル建ての場合とで黒字拡大の程度や期間が異なるが,これは,前述の通り,初期時点における収支不均衡の程度に依存するところが大きく,初期時点において黒字が大きいほど,ドル建てでみた収支の不均衡拡大の額もその分ふくらむことになる。
為替レートの変化が国内物価へいかなる影響を及ぼすかという点に関しては,①為替レート→(自国通貨建て)輸入物価,及び②輸入物価→国内物価,という2つの波及局面について検討する必要がある。前者については,対ドル・レートで考える場合,当該国の輸入に占めるドル建て契約の比率や輸入相手国における輸出業者の価格戦略に依存する。一方,後者については,輸入財の種類・性質,あるいは輸入財市場の競争性の程度等が重要であると考えられる。
西ドイツと日本について,その対ドル・レートと輸入物価及び国内卸売物価の推移をみてみると(第3-1-2図),もちろん石油価格の影響や国内市場の一般的需給状況,さらには賃金等の国内的な価格要因などを考慮する必要があるが,為替レートの変化が輸入物価の変化を通じて,その程度を減じつつ,また,タイム・ラグを伴いながらも,徐々に国内価格に波及していることがわかる。
ドル高修正の景気への効果については,次の二つが考えられる。第1は,貿易の数量面を通じて景気にはたらく効果(数量効果)である。ドル安は,アメリカ以外の国に対しては,輸出減による需要減と輸入増による国内生産の圧迫という形でデフレ要因としてはたらく一方,アメリカに対しては,逆に景気刺激要因となる。
第2に,為替レートの変化は通常,交易条件(輸出価格/輸入価格)を変化させるが,それに伴って実質所得が移転し,それが国内に波及していくという効果(交易条件効果)がもたらされる。この交易条件効果は現実の需要に対しては潜在的な効果であるが,ドル安の場合,アメリカ以外の国に対してはプラス,アメリカに対してはマイナスとなろう。
実際には,互いに逆方向にはたらく二つの効果がそれぞれタイム・ラグを伴いながら複雑に組み合わさって国内景気に影響を与えることになる。しかし,国内への波及が始まる前の段階における,いわゆる「水際」の効果についてのみ考えてみると,二つの効果の合計は貿易収支の変化額にほぼ等しくなることがわかる(第3-1-3図(注)参照)。
既に述べたように,貿易収支の不均衡は短期的には拡大することになるが,西ドイツの場合について行った試算(第3-1-3図)からもわかるように,これはまさしく,交易条件効果が数量効果よりも短期的には大きいことを意味する。しかし,時間がたつにつれて,数量効果が交易条件効果を上回り,それと同時に収支の不均衡も解消に向かうことになる。
つまり,ドル高修正の景気への効果と貿易収支の不均衡改善効果は表裏一体のものであり,アメリカ以外の国についていうと,Jカーブ効果により自国通貨建てでみた貿易黒字額が拡大する限りドル安は景気にはプラス,黒字額が減少し始めると景気にはマイナスに作用する(アメリカではその逆)。しかし,以上の効果はあくまでも「水際」の効果であることに注意する必要がある。特に交易条件効果については,後述するように実際に国内需要に波及するのには時間がかかる。
原油価格の低下は,国レベルでみると,通常原油輸入国には産油国に対する支払代金の減少となるため,貿易収支を改善させる効果をもつ。石油消費国の国内経済においては,原油価格低下は,原油を輸入し原料として使用している企業の原材料コストの引き下げをもたらし,企業利潤を増加させることとなる。
こうした超過利潤は国内市場が競争的である場合は長続きせず,コスト低下が製品価格の引下げへとつながる。製品価格の低下は,それが生産財・資本財の場合には,企業のコスト減となり,前述と同様の過程を経て,更に加工段階の高い製品の価格低下をもたらす。また,それが消費財であれば,価格低下のメリットは消費者に及ぶこととなる。上記のような経路をたどって,原油価格の低下は国内の物価を順次引き下げていき,最終的には,消費者物価及び輸出物価に及んでいくと考えることができる。
原油輸入国への好影響とは対照的に,原油価格低下は産油国の原油輸出収入の減少をもたらす。OPEC諸国等多くの産油国の場合,原油が輸出品の大宗を占めているため,石油輸出収入の減少に対しては,対外資産を取り崩すか輸入の減少で対処するしか手段はない。2回の石油危機により産油国は巨額の対外資産を築き上げたが,最近では産油国の対外資産の取り崩しがかなり進んでいる。また,産油国の輸入需要の減少は,非産油国の輸出の減少の要因となることになり,その面では原油価格の低下が世界貿易を縮小させる方向の圧力をもたらす可能性も否定できない。
石油輸入国は,石油価格低下により(石油輸入量が一定であれば),価格低下分だけ代金の支払額を減らすことができる。第3-1-1表のAでは,石油価格が85年1~3月期の水準の50%となって,その水準が85年中続き,かつ,石油輸出入数量は85年の実績で推移したと仮定して,石油純輸入額の減少分(及びその輸入額比,名目GNP比)を試算している。これによれば,西欧の石油輸入国及び日本はGNP比1%台,原油の国内生産も行っているアメリカは同0.6%程度の石油収支の改善が見込まれることになる。これらの国々に比べ韓国の場合は,石油多消費型の国内産業構造であるため,GNP比4%と収支の改善規模は比較的大きい。一方,先進国でもイギリスやカナダなど産油国では,逆に石油輸出代金の減少から貿易収支は悪化するとみられる。しかし,石油価格低下に伴う産油国の輸入減少を考慮すると,石油輸入国の貿易収支改善規模はかなり小さくなることが見込まれる(第3-1-1表C)。
次に,実際に原油価格の低下がどれだけ石油純輸入額に影響を与えたかみてみよう(第3-1-4図)。ここでは,原油・石油輸入(輸出)価格を85年1~3月期の値で固定し,その価格がそれ以降継続したと仮定した場合の主要国の石油純輸入減少額を試算してみた。これによると,原油価格低下の影響は86年1~3月期から徐々に現れ,原油・石油純輸入の改善額は85年4~6月期から86年4~6月期累計でアメリカ約20億ドル,西ドイツ約63億マルク,日本約1.3兆円に及んでいる。一方,イギリスでは,約16億ポンドの純輸出減少となっており,同国の86年に入っての貿易収支悪化の主因となっていることがわかる。
石油輸入価格の低下は,国内物価を引き下げる効果をもつのが通常である。
この効果は,輸入物価の低下から,国内卸売物価,消費者物価ないし輸出物価へと波及していくと考えられる。これは,既に述べたように,石油が生産の中間投入として使用される性質があり,その価格低下の効果がコスト減を通じる製品価格の低下によって波及していくことによるものである。このような物価の低下は,直ちに,かつ完全に波及していくとは限らないが,市場の競争性の程度,石油コストの生産物に対して占めるウェイト,生産物市場の需要状況などに依存して,次第に価格の転嫁がなされるものと考えられる。
では,実際に消費者物価に原油価格の下落がどの様な影響を与えているか主要国についてみてみよう。第3-1-5図は,消費者物価上昇率における石油製品等エネルギー価格上昇率の寄与をみたものであるが,これによると,86年に入って各国ともエネルギー価格が消費者物価の下落要因へと転化しているのが明らかであり,最近の西ドイツ,アメリカでは,エネルギーのウエイトが高いことに加え,86年に入ってからそれまで上昇基調にあったエネルギー価格が急に低下し,消費者物価に対し2%程度の引き下げ要因となっている。
これまで述べたように,輸入石油価格の低下は,消費者物価,卸売物価等国内物価の低下をもたらす。その結果,家計及び企業にとって名目の所得は同一でも実質でみれば所得が増加することとなる。これは,原油という輸入品の価格の下落という海外からの要因によってもたらされたものである。
こうした実質所得の増加は,交易条件の変化に伴う所得移転の効果としてとらえられることができる。すなわち,交易条件が改善すれば輸入品への購買力が増加することとなり,国民経済的にみて実質所得は増加することとなる。そこで,交易条件変化による所得移転と消費,投資の過去の動きを比較してみよう(第3-1-6図)。各国とも,2回の石油危機(74年及び80年)には,著しく交易条件が悪化し,国外への所得移転が起きている。そして,所得移転の発生から1~2年後には,各国政府が金融引締め等の政策を採ったこともあるが,消費,投資の著しい低下が認められる。
今回の原油価格低下は,交易条件の面では,このような石油危機とはまさしく逆方向の効果をもたらすものであり,交易条件の改善,国内への所得移転によって各国における内需拡大に結びつくものと期待される。