昭和61年

年次世界経済報告

定着するディスインフレと世界経済の新たな課題

経済企画庁


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第1章 最近の世界経済の動向

第1節 世界経済の環境変化

1. ドル高修正の進行

80年1月から85年3月まで,為替相場の動きをみると,細かな上下動を含みつつも,米ドルは上昇を続け,その実効相場指数(IMF発表,80年=100)は63.7ポイントも上昇した。その反面,ドイツ・マルクの対ドル相場は同期間に47.9%も減価し,日本円の対ドル相場もこれよりははるかに小幅ながら同様に8.0%減価した(第1-1-1図)。このように,同期間中は米ドルが独歩高を示したことが特徴であった。

ところが,85年2月下旬をピークに,その後米ドルはかなり速い足取りで下落に転じ,85年3月から86年8月までの間に,同実効相場指数は44.5ポイントの下落をみた。ここでは,そうしたドル高修正の過程を三つの局面に整理する。

(85年2月下旬から9月下旬まで)

80年代に入って上昇基調を続けてきた米ドルは,85年に入ってからも上昇傾向を強めたが,85年2月下旬に反転し,これを境にドル高修正が始まった。

この背景としては,まず,アメリカ経済に対する先行き懸念の広がりがあげられる。すなわち,アメリカの景気は,84年後半以降拡大テンポが低下したが,市場においては85年に入ってからもアメリカ経済に対する信認は根強く,このことがドル選好の高まりとなっていた。しかし,3月に発表されたアメリカの1~3月期の実質GNPが予想を大幅に下回るものとなったことや,2月の鉱工業生産,設備稼働率,住宅着工等の経済指標が思わしくなかったこと等,アメリカ経済に対する先行き懸念が広がるとともに,ドルは弱含みに推移した。

また,こうした指標の動きに先立って,85年1月央の5か国蔵相・中央銀行総裁会議において,「最近の為替市場の展開に照らし,必要に応じ市場に協調して介入するというウィリアムズバーグ・サミットにおけるコミットメントを再確認した」との声明がなされたことも市場心理に影響を与えた可能性がある。

次に,アメリカの金利低下により2月から6月にかけてアメリカと他の先進国との間の金利格差が縮小していったこともドル高修正を進めた。すなわち,前述のアメリカ経済に対する先行き懸念から金利先安感が強まっていたこと,また,5月に公定歩合引下げを行ったことから,アメリカと主要国の間の長期金利格差は縮小していった(第1-1-2図)。さらに,一部金融機関の経営危機に端を発する金融不安が重なったこともドル安要因としてあげられよう。こうして,米ドルは2月下旬を境に下落し始め,5月から6月にかけてやや下げ止まりを示したものの,7月中旬から8月にかけては再び下落を続け,9月の米ドルの実効相場指数は,3月から15.1ポイントも下落した(第1-1-3図)。

(85年9月下旬から86年4月末まで)

順調に進んでいたドル高修正の歩みは85年9月に入るとやや停滞をみせ始めた。一つの大きな理由は,8月下旬から9月上旬にかけて発表されたアメリカの貿易や雇用に関する統計が予想を上回る改善を示したことにあった。しかし,その後に発表された85年4~6月期の貿易収支及び7~9月期のGNP暫定推計値が予想をかなり下回るものであったことから,ドル相場の動きは不安定なものとなった。

こうした中で,9月22日には,5か国蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨークで開催され,為替レートは各国の基礎的経済条件をよりよく反映しなければならないとの見解の下に,対米ドル相場の秩序ある上昇が望ましく,これを促進するよう密接に協力する等の合意がなされた。これを受けた各国通貨当局の協調介入等により,下旬から米ドルは急落した。その後,85年末までのわずか3か月間に,米ドルの前記実効相場指数が12.0ポイントも低下するというスピードは,2月から9月にかけてのテンポを大幅に上回るものであった。

また,85年2月下旬からの修正過程では,ドイツ・マルク等EMS加盟通貨の対ドル上昇率が極めて大きかったのに対し,G5以後の修正過程では,日本円の対ドル上昇率が最大となっている点も注目される。ちなみに,85年3月から9月までの対ドル上昇率は,日本円9.1%,ドイツ・マルク16.5%であったが,85年9月から86年4月までをとると,両者はそれぞれ34.9%,24.9%となる。

このように,二つの修正過程を比較すると,相違点も散見されるが,ドル高修正が金利格差の縮小を背景に進行したという点は両者に共通していた。すなわち,9月のG5以後もドル金利の低下が継続したため,金利格差はさらに縮小に向い国内的にも金利引き下げの誘因のあったいくつかの主要先進国が,86年3月と4月に相次いで公定歩合の引下げを行うことも可能になった。

(86年5月以降の動き)

ドル高修正の動きは,86年5月以降,それまでとはやや異なる様相を見せるようになった。すなわち,ドル高修正は85年2月末以来,ほぼ間断なく進行してきたが,アメリカと主要国の間の金利格差もかなり縮小してきたこと等もあって,86年5月から6月にかけてドル強含みの推移となった。

ドル相場は,その後も7月には再びドル高修正に向かったものの,9,10月にほぼ横ばいで推移するなど,以前とは異なった展開を見せている。

(EMS等の動き)

ドル高修正の過程のなかで,EMS加盟国通貨の相互関係も若干調整された。

最近では,まず85年7月のイタリア・リラの実質的な単独切下げ,次いで86年4月のドイツ・マルクとフランス・フランを中心とする全面通貨調整が挙げられる。しかし,こうした通貨調整を経験したとはいえ,EMSはドル高修正のなかで,相対的にみて極めて安定した推移を示してきたと評価できる。

最後に発展途上国の通貨をみると,ドル高修正のなかにあっても,多くの途上国はドル・リンクの相場政策を採っているため,その対ドル相場があまり増価していないか,発展途上国のインフレ率が相対的にみてまだ高いため,むしろ減価しているかのいずれかである。この問題については,後の第4章において詳述する。

2. 原油・一次産品価格の低下

(石油需要の低迷と急落した原油価格)

1984年には世界的景気拡大等もあって,5年振りに自由世界の石油需要は前年を上回ったが,85年には景気拡大の鈍化等から再び前年を下回るなど石油需要の低迷は続いている(第1-1-1表)。

85年末までの原油市場では,非OPEC諸国の増産等による世界的需給緩和の中で,絶えず価格下落圧力が働いていたにもかかわらず,スウィング・プロデューサーとしてのサウジ・アラビアを中心とするOPECの減産のため,原油価格の大幅な下落は避けられていた。しかし,以下に述べるサウジ・アラビアの方針転換およびOPECのシェア確保・防衛宣言等を直接のきっかけとして,原油価格は年末から86年初めにかけて急落し,北海ブレントのスポット価格でみれば,85年12月の26.15ドル/バーレルから86年2月には16.60ドル/バーレルにまで低下した(第1-1-4図)。(なお,それまで指標原油とされていたアラビアン・ライトはネットバック方式の採用によって,スポット市場に出回らなくなったため,それに代って,北海ブレントなどが用いられるようになっている。)

この原油価格急落の直接の要因は,まず第1にサウジ・アラビアの方針転換である。サウジ・アラビアは,従来からも実質的にはスウィング・プロデューサーとしての役割を果たしてきたが,83年3月のOPEC総会で,その役割を公式に規定されることとなった。特に,OPEC全体の生産上限がそれまでの日量1,750万バーレルから日量1,600万バーレルに引き下げられた84年11月頃からサウジ・アラビアは大幅な減産を行い,85年8月には日量220万バーレル(同国の生産枠は日量435万バーレル)にまで減産した。サウジ・アラビアは,機会あるごとに非OPEC諸国の協調減産を要求し,他のOPEC加盟国の生産枠を上回る増産を非難していた。しかし,非OPEC,特にイギリスは,全く協調の意志を示さず,また,他のOPEC加盟国の多くも,その財政問題等から,自国の生産枠を上回る増産を続けた(第1-1-5図)。

しかし,このような需給緩和状態はサウジ・アラビア一国の減産で支えられるものではない。また,サウジ・アラビアも自国の財政問題等からいっても,方針を転換せざるを得なくなり,85年7月の石油相会議で,スウィング・プロデューサーとしての役割を止めることを言明し,また9月上旬には,実質的な値引き販売であるネットバック方式での販売をメジャーズとの間で契約し,増産に踏み切った。ネットバック方式(付注1-1)とは,スポット製品価格に連動した価格設定方式である。この方式の買い手にとっての利点は精製マージンが保証されている点にあり,原油価格が下降局面にある場合や見通しが不透明でリスクが高い場合には,大きな魅力となる。売り手側にしても期間契約による安定した供給先を確保できるメリットがある。この方式は,85年12月のOPEC総会以降,市場競争力確保の手段として急速に拡大し,OPECのシェアの回復には貢献したとみられるが,一方では価格決定のイニシアティブが,産油国側から消費国側へと大きく傾くはずみともなった。

急落の原因の第2は,上述のサウジ・アラビアの方針転換とも密接な関連を持つが,85年12月のOPEC総会でのシェア確保・防衛宣言である(第1-1-2表)。これは,財政収入が悪化する中,石油収入を確保する必要によるもので,設立から25年間数量よりも価格を重視してきたOPECにとって,大きな方針転換であるといえる。この決定は,サウジ・アラビアなどの中東湾岸産油国が主導したものといわれるが,これらの国々は,採掘コストが安いため価格の下落に対し抵抗力があり,原油埋蔵量も多いため,需要を増加させるような価格の下落はそれが適度なものならばむしろ望ましいものとなる。こうしてOPECの原油生産は85年6月の日量1,405万バーレルを底として10月には日量1,718万バーレルとその生産上限を超え,86年8月には日量2,107万バーレルにまで達し,原油価格の大幅低下をもたらしたのである(第1-1-6図)。

なお,今回の原油価格下落はドル高修正と重なったために,実質的にみると,アメリカ以外では下落幅は一段と大きかった(第1-1-7図)。

(深まるOPEC内の対立)

85年7月の第74回OPEC総会では中・重質油の値下げが合意されたが,イラン,アルジェリア,リビアの3か国は棄権した。埋蔵量が少なく人口も多い国々は数量よりも価格の維持を志向しているが,特に上記の3か国はOPEC内の強硬派であり,サウジ・アラビアを中心とする多数派との対立があるとみられる。

多数派主導のOPECシェア確保・防衛宣言の後,原油価格の急落という状況の下で,86年3月の第77回OPEC総会においても,第3,第4四半期の生産上限について,多数派案と3か国案の2案を併記する結果となったことは,OPEC内の亀裂の深さを示したものといえよう。

(非OPECの動向)

85年末からのOPECの方針転換は,ある程度の価格下落を覚悟した上で,それによって非OPEC-特にイギリス-の協調減産を引き出すこともねらいとしていたとみられる。第77回のOPEC総会には,非OPEC諸国のうち,メキシコ,エジプト,オマーン,アンゴラ,マレーシアの5か国がオブザーバーとして参加し,姿勢としては協調に前向きな国も増えていたが,具体的な行動には進展せず,また,北海原油の約8割を産出するイギリスは協調の姿勢すら示さなかった。

(8月初のOPEC減産合意以後の動き)

このようなOPEC内の利害対立,非OPECの協調減産取付けの不調等から,原油価格は低水準のまま推移し,86年7月には8ドル/バーレルまで低下した。

しかし,8月初のOPEC総会で,9,10月の暫定措置としてイラクを除く12加盟国の生産量を84年10月に決定された国別生産枠内とするという大幅減産の合意がなされた。そのため,スポット価格は反騰し,14~15ドル/バーレルまで回復した。

その後,9月に入ってからの実際の生産量は,一部の国で生産枠を若干超えたが,イラン等が生産枠を下回る生産量となったことから全体では日量1,680万バーレルと総会合意(イラクは現状日量200万バーレル程度とみられる)の減産が達成された。また,非OPECもこのOPECの大幅減産合意を受けて,減産協力の姿勢を示す国が増えてきており,前記の5か国の他に,ソ連,中国なども協調への意向を明らかにした。一方,イギリスの減産非協力姿勢は続いているが,ノルウェーは,9月に,11,12月の輸出量を10%削減すると発表した。

10月6日から22日まで開催されたOPEC臨時総会では,現行の暫定的減産措置を微調整(生産上限を11月,12月平均で日量20万バーレル増加させ,サウジ・アラビア及びアラブ首長国連邦を除く各国の国別枠に配分)し,年末まで2か月延長することが合意された。

(下落傾向続いた国際商品市況)

国際商品市況の推移をSDR換算ロイター指数でみると,1980年にピーク(1391.2)をつけた後,アメリカの減反や主要産地での熱波被害等による穀物等の急騰を中心とした83~84年にかけての回復を除き,下落傾向が続いていた。SDR換算ロイター指数は,84年後半以降,低迷を続け,85年8月には925.9まで下げた(第1-1-8図)。こうした低迷には,①85年に入っての先進国の景気拡大速度の鈍化,②世界的穀物生産の記録的な大豊作,③累積債務国の増産等による非鉄金属等の市況の低迷,④インフレ収束が進んだことなどが主な理由としてあげられる。

その後,85年末頃から86年年初にかけて,干ばつ被害によりブラジルのコーヒー生産高が前年度比半減との見通しをうけ急騰したことを主因に緩やかな回復傾向に転じた。しかし,86年春頃から,①事実上の農産物の最低支持価格として機能してきたアメリカのローン・レートが新農業法により大幅に引き下げられたことを受け,穀物や綿花の価格が下落したこと,②コーヒーも国際コーヒー機関の輸出割り当て停止などから再落したこと,③すずは,国際すず理事会の資金不足のため85年10月以降停止されていた一部の市場取引が86年2月に再開されたが,その価格水準は取引停止前に比べ約40%下落しその後も低迷したこと,等を理由に再び下げ続け,8月には728.8まで下がり,ピークに比べ約半分の水準となった。

9月には,天候要因や需要増加等により下げ止まりないし若干の上昇気味となった。