昭和60年

年次世界経済報告

持続的成長への国際協調を求めて

昭和60年12月17日

経済企画庁


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第2章 経済の成長過程と産業構造の変化

第1節 経済成長の軌跡

(3大国の成長の軌跡)

戦後の40年間は2度にわたる石油危機等の影響はあったが,総して,戦前以上の高い経済成長を遂げた期間であった。しかし,成長の過程は国により異なっている(第2-1-1図)。

アメリカは,GNPが戦後一貫して世界第1位であったなど圧倒的経済力を有してきた。その成長をみると,特に,50年代から60年代初めにかけて,3回の景気循環を経た後,61年1~3月期から69年10~12月期に至る106か月間の景気拡大は黄金の60年代とさえいわれた。しかし,60年代後半には,ベトナム戦争と「偉大な社会」のスローガンの下でインフレが進行していく。インフレと石油危機の影響が重なって,アメリカ経済は,70年代から80年代初にかけて,極めて激しい変動の時期を経験することとなった。景気拡大は短命なものに終わり,成長率も60年代に比べ低下することとなった。しかし,第2次石油危機後の深刻な不況を経て,83年以降は,アメリカは回復に転じ,84年には朝鮮戦争時以来の高成長を遂げた。

西ドイツと日本は,まず敗戦国としての打撃からの復興を果たし,その後はアメリカを追う形で,自由世界第2位の座を競ってきた。西ドイツは,50年代に重工業を中心に高度成長を遂げ,68年(こ日本に追い越されるまで,長く自由世界第2位の地位にあった。60年代になっても西ドイツは底堅い成長を続けたが70年代に入ると低成長に悩むようになり,80年代初の停滞の後,回復を続けているものの最近の成長には,アメリカのような力強さはみられない。一方日本は,50年代後半から60年代前半に,やはり重工業中心に高度成長を遂げ,60年代後半には以前にも増して急速かつ持続的な成長をみせた。しかし,70年代前半には,第1次石油危機を中心とした外的環境の変化もあって,激しい変動に見舞われた。日本は,これらの変動に対し,調整力を発揮しつつ安定成長への道をたどっている。

1. アメリカの成長・停滞・再活性化

(アメリカ経済の成長の特色)

アメリカは,豊富な人口(84年,約2億4千万人)と多様な天然資源に恵まれた広い国土(面積936万km2日本の約25倍)を有している。その成長は,従来の慣習にしばられずに,新たなフロンティアにおいて,豊富な労働力と天然資源,技術開発力を中心として進められてきたものであった。特に60年代の成長は目覚ましいものがあった(第2-1-2図)。しかし,60年代後半は,70年代のスタグフレーションの原因が作られつつあったことは前述のとおりである。アメリカの成長の背景には,労働力の供給が比較的豊富だったという事実がある。労働投入の増加が一貫して成長を支えてきた。60年代から70年代にかけて,戦後のベビー・ブームの世代が生産年齢に達し,女子の社会進出に伴う労働力化もあって,労働力率も上昇を続けた(第2-1-1表)。これに後述のような他の国々(特に西ドイツ)とは対照的な実質賃金の伸縮性が加わった結果,労働という生産要素を生産過程に追加的に投入,成長を促進することが可能だったのである。

第2に,技術進歩が経済成長の強弱を決定する重要な要因となったことである。特にそれは,60年代の高成長期には,成長を支える最も重要な役割を果たした。しかし,70年代に入って技術進歩率の低下がみられるようになり,後半には経済成長に寄与しなくなってしまった。そうした状況に改善がみられるようになったのは80年代に入ってからであった。

(60年代の高成長の基盤)

60年代前半は,以上のようなアメリカ経済の特長がいかんなく発揮された時期であった。労働投入は豊富な供給をバックとして伸び続け,盛んな設備投資が供給力を高めた。技術進歩(注)は,成長に対して全産業でも1/3,製造業では1/2の寄与をしているほどであった(前掲第2-1-2図)。

技術進歩は,生産性を高めて成長に寄与するばかりでなく,投資の期待収益率を高め,設備投資を誘発する。資本収益率は,資本に体化された技術進歩を反映し,60年代前半は高水準を続けた。

技術進歩のためには,技術知識ストックの増加が要求され,技術知識がストックとして生産に寄与するに至るには研究開発投資がある程度の期間継続的に行われる必要がある。アメリカにおける研究開発投資の動きをみると,50年代から60年代の終り頃まで,宇宙産業を中心とした政府部門,.電気機械と一般機械を中心とした企業部門による研究開発投資はいずれも着実な伸びが続いていた(第2-1-3図)。このように,経済全体でみると,この時期には,このような技術進歩と生産要素投入とが,調和のとれた形で成長が進んできたものとみることができよう。

(70年代の技術進歩の停滞)

しかし,60年代後半には,研究開発投資は低下をみせ始めた(GNP比は64年,実額では68年がピークとなっている)。その結果,技術知識ストックの増加も鈍化し始め,70年代には,著しく小さな伸びとどまった。しかも,60年代後半から政府は需要管理政策により,低失業率を維持しようと努め,3%台という低失業率が続いた。これもあって,賃金・物価が上昇を速め始めるようになった(第2-1-4図)。インフレの高進は資本の償却不足を招き,設備投資を鈍らせインフレ期待を定着させた。さらに,労働市場にパートタイマー等の形をとりつつ未熟練労働者が大量に参入したことにより,労働の質が低下したことも労働生産性上昇を阻げたと考えられる。

これらの要因(特に,技術知識ストックの上昇鈍化)が重なって,70年代には供給能力の伸びが停滞した。これに賃金の急上昇が重なったため,何度かの景気循環が続く中で,財政金融政策を拡張的に行っても,インフレの高騰を招き,短期間のうちに金融引締め等によって,その鎮静化を図らねばならなくなる等,経済の変動が激化し,インフレ体質の深刻化と経済の基礎体力である供給面の弱化が進行していったのである。この結果,経済規模,輸出などの面で,世界経済におけるアメリカの相対的地位は70年代に一段と低下した。

(再活性化政策の登場)

このような事態により,アメリカには強い危機感が広がっていった。レーガン政権が81年以降追求してきた再活性化政策の背景には,こうした危機感があった。

経済再活性化政策のねらいは,スタグフレーション体質から脱却して,持続的成長の基盤を確保しようとするものである。81年の「経済再生計画」は,①連邦支出の増加率の抑制,②大規模減税の実施,③政府規制の緩和,④安定的な金融政策,の四つの柱から成っている。つまり,歳出抑制,政府規制の緩和により政府部門を縮小し,減税により労働意欲,貯蓄,投資意欲を刺激し民間部門を活性化する。これらにより,生産性を向上させ,供給力の増加を図る。

また,インフレに対しては,マネーサプライ管理を重視し,名目需要の伸びを抑えることによりインフレの鎮静化を図ろうとしたのである。

(再活性化の進行)

この計画の発表後,現在まで5年近い歳月が経過した。その間,81年後半以降急速な景気後退がみられたが,82年11月には底を打ち,83年以降景気は著しい拡大をみせた。その後第1章でみたように,景気の拡大速度は鈍化しながら現在に至っているが,今後の焦点はこの拡大が単に循環的な回復に過ぎないのか,それとも,60年代のように,より持続的で息の長い中期的な成長過程の始まりを示すものなのかということにある。

この問題において重要なのは,研究開発投資の動向であろう。前掲第2-1-3図でみると,現在まで研究開発投資の伸びは,実額で75年,GNP比でも77年に底を打ち,80年代に入っても上昇を続けている。これは,技術知識ストックの上昇につながっている。その伸びは,83年前年比3.2%,84年同3.7%と加速を続け,特に製造業においては,その成長の下支え要因ともなっている(前掲第2-1-2図)。

また,賃金の安定,インフレ率の低下等も環境条件を好転させており,技術知識ストックの積み上がりによる技術進歩も加わって,資本収益率が上昇を続けていることも,重要な事実である。資本収益率の上昇は,収益/コス.ト比率を上昇させ,設備投資を上昇させる誘因となっている(第2-1-5図,第2-1-6図)。こうして行われた設備投資は,資本ストックとなってさらに生産力化し,供給増に貢献することになろう。

さらに,従来は戦闘的であったとされる労働組合にも,80年代に入って柔軟な姿勢がみられ,賃金上昇率がモデレートなものになったことも賃金コストの安定を通じて物価の安定化,収益率の上昇に寄与している。組合員と非組合員の賃金上昇率をみると,従来は組合員の方が高かったが,最近になってそれが逆転した(77~81年年率上昇率,組合員9.4%,非組合員8.2%,81~85年7~9月期同4.8%,5.4%)。また,労働組合が生産性の向上,企業のコストの低減を図るため「職種の専門化」から「複数の職種」をこなす方向への転換をしている。チーム・ワークや従業員参加を重視した新しいシステム作りに対して組合も受け入れる姿勢を示しているといわれている。こうした動きは,第1章でもみたように賃金の安定につながるだけでなく,労働生産性をも上昇させ,経済成長に好影響を与える。

以上のよいに,供給能力面からみて,アメリカの基礎的諸条件は基調としては,改善されつつあるとみてよいであろう。

2. 西ドイツ・調整への努力

(高度成長時代,50年代~60年代)

西ドイツは,敗戦後国家は二分されたが,援助等によって回復を始め,50年代から高度成長を実現し,60年代になっても成長は底堅かった。このような成長の最大の要因は,資本投入と技術進歩であり,労働投入は成長を制約するものとなっていた(第2-1-7図)。

73年の石油危機まで,技術知識ストックは順調に増加し,西ドイツ経済は4%台の成長を遂げた(第2-1-8図)。しかし労働力投入は減少を続け,成長の制約要因となっていた。このような労働制約の大きな原因は,国内では,生産年齢人口の伸びの低さ(60~70年平均0.5%)と,労働力率の傾向的低下(進学率の上昇と早期退職制普及)である(前掲第2-1-1表)。西ドイツの場合,50年代末までは,旧ドイツ領や東ドイツからの避難民の流入は1,000万人以上に上り,経済復興に必要な労働力を供給したが,それも60年代には途だえてしまった。このため,高成長に伴って労働需給は極端にひっ迫し(失業率60~70年平均0.8%),実質賃金を上昇させた(第2-1-9図)。なお,西ドイツでは,労働力制約の緩和のため,60年代より70年代初まで外国人労働者を急増させた。しかし,後述するように74年頃から労働力人口が増加を始め,70年代末からはかなり目立った増加を見せるようになってきており,これが不況と重なって外国人労働者問題を表面化させている。

技術進歩の面をみると,西ドイツは当初から,輸入技術の寄与が極めて小さく,ほとんど自前の技術開発によって生産性を向上させてきたことが特に指摘できよう。

(2回の石油危機後の停滞)

70年代初まで高成長を続けてきた西ドイツ経済も,73年の第1次石油危機後,深刻な停滞を経験した。その要因として,労働投入の減少が著しく,かつ資本投入も稼働率低下を背景に減少し,技術知識ストックも伸びが鈍化したことなどが挙げられる。

労働投入の減少は,石油危機によるデフレ効果が働いたこと,しかも,それにもかかわらず実質賃金が十分に低下しなかったことが原因であった。74年頃から西ドイツでは労働力人口の増加が始まり,これによって労働需給はかなり緩和されていたにもかかわらず,実質賃金は十分に低下しなかったのである。

これは熟練労働者が不足していたことと,労働組合が産業別に組織されているため未熟練労働者の賃金も画一的に上昇してしまうこと等による面があったとみられる。

一方,70年代初から原材料価格の高騰と高水準の実質賃金等による収益/コスト比率の低下により,設備投資は落ち込みをみせた。この落ち込みは第1次石油危機後の75年が最も大きい。70年代後半には資本コストの低下もあって収益/コスト比率は上昇し,一たんは設備投資も増加した。しかし,その水準は60年代の水準までは回復せず,後述のように,80年代に入り,設備投資は更に落ち込んでいくこととなる。(第2-1-10図,2-1-11図)。

(難問を抱える再活性化)

80年代初めの西ドイツ経済は,第2次石油危機に対し,強力なディスインフレ政策で臨んだ。その結果,物価は著しく鎮静化したが,他方経済成長率は低下し失業者数が著しく増加した。一方資本投入は,稼動率の停滞とともに,設備投資の伸び悩みから,成長に対してはほとんど寄与しないという結果となっている。設備投資は,実質賃金高,不況等による収益率の低下に,高金利による資本コストの上昇が重なって,景気の緩やかな上昇にもかかわらず,いまだに大きな伸びをみせていない。実質賃金は,失業の増加もあって上昇に鈍化はみられるものの,実質賃金硬直性の改善は必ずしも急速に進んでいない。研究開発投資はある程度増加はみせているものの,伸びは鈍い。

このように,マクロ面からみる限り,西ドイツ経済は,実質賃金の硬直性等にみられるように経済の適応力に弱さがあり,技術知識ストックの伸びが鈍化している面があるなど,その供給力は必ずしも強化されたとはいい難いものがある。

3. 日本・高度成長から安定成長へ

(石油危機までの高度成長)

日本経済は50~60年代にかけて,他に類をみない高成長を遂げた。60年代における高成長は,輸入技術を含む技術革新の成果を利用しつつ,強力な設備投資の伸びに支えられて達成されたものであった(第2-1-12図,第2-1-13図)。

特に60年代前半まで技術輸入により,セカンドランナーとしての利益を生かしつつ製品生産の効率化を迅速に進めてきた。輸入技術によってもたらされた技術進歩は資本収益率の上昇を通じて,設備投資を誘発した。日本のセカンドランナーとしての利益は,技術知識ストックの1単位の増加に対する生産額増加が,日本においてアメリカよりも大きいことに表われている(付注2-2参照)。

こうした輸入技術の導入は,60年代末から70年代初頭にかけて,やや鈍化したが,この時期の成長は鉄鋼,石油化学,造船等大規模プラントを臨海地区に集中させコンビナートを形成するなど,規模の利益を追求する形で進展したといえよう。

一方,労働投入をみると,60年代後半以降の日本は60年代の西ドイツほどではないにせよ,かなり成長を制約する要因となった。これは,60年代以降生産年齢人口の増加率が鈍化したことに加え,進学率の上昇等により,女性を中心として労働力率が低下を続けたことによるものであろう(前掲第2-1-1表)。このため,労働市場は,西ドイツほどではないがかなりひっ迫し,実質賃金の上昇をもたらしたのである(第2-1-14図)。

(石油危機後の経済の調整)

このように好調な伸びをみせた日本経済も70年代に入り成長の滅速を余儀なくされた。74年以降設備投資は鈍化し(第2-1-15図),雇用は一時減少した。その背景には,石油危機によるコスト圧力の高まりから資本収益率が低下する一方,実質賃金が十分に低下しなかったことがあったとみられる。その後企業は減量経営に努め,コスト・ダウンを図る方向で調整を進めてきた。

第2次石油危機を乗り切った日本経済は,厳しい引締め政策によりインフレを克服し,安定成長への途をたどってきた。80年以降,研究開発投資の流れにはむしろ増加がみられる。また,設備投資も中期的にやや盛り上がりをみせている。

このように,日本においては,経済の調整が進み,基調としては,今後とも持続的成長が期待されるといえよう。