昭和58年
年次世界経済報告
世界に広がる景気回復の輪
昭和58年12月20日
経済企画庁
第4章 国際的資本の流れの変化と国際金融の諸問題
国際通貨体制は70年代に大きな変ぼうを遂げた。71年8月にアメリカが金とドルとの交換性を停止したことによって,第2次大戦後四半世紀にわたり国際金融の基本的な枠組みとなってきた旧IMF体制(アジャスタブル・ペッグ制)はその機能を停止し,主要通貨は変動相場制への移行を余儀なくされた。その後71年12月に主要国間で多角的通貨調整が実施され,一時的にいわゆる「スミソニアン体制」と呼ばれる固定相場制への復帰が実現した。しかし主要国間の国際収支の不均衡が解消する兆しがみえなかったため,スミソニアン体制は73年2月から3月にかけて崩壊し,主要国通貨は全面的な変動相場制へ移行した。
その後10年を経た現在,IMF第2次改正協定(78年4月発効)に基づき,加盟国は自国の為替相場制度(為替取極め)を自由に選択しうる状況にある。しかし,こうして主要国通貨が変動相場制を採用している現状で,国際通貨としての諸機能を兼ね備えた米ドルの動向は世界及び各国経済にとって非常に大きな意味を持つ。ここで変動相場制移行後のドル相場の推移を簡単に振り返ってみることにする。
変動相場制移行後の10年間に,ドル相場は大幅な変動を繰り返したが,特徴的な動きを示した時期を抽出するとおおむね次の通りである(第4-1-1図)。
i) 第1次石油危機前後の不安定期(73年3月~75年7月)
ii) ドル防衛策に至る急落期(77年6月~78年11月)
iii) 80年央以降のドル大幅上昇期(80年6月~83年8月)
これらの時期におけるドル相場の推移を,主としてアメリカのインフレや国際収支状況の,いわゆるファンダメンタルズ(経済の基礎的諸条件)に照らしてみることにしよう。
変動相場移行直後のドル相場は極めて不安定な動きを繰り返した。ドルの対ドイツ・マルク相場は,73年7月末2.35マルクまで下落した後(スミソニアン・レート比27%の下落)一転して翌年1月末には2.78マルクヘ上昇し,その後再び下落するなど約半年程度の期間に大幅な変動を繰り返した。実効相場(為替相場を貿易の相手国別シェアに応じて加重平均したもの)でみてもドルは73年7月に92.7(月平均,1973年3月=100)へ下落した後,翌年1月には107.1へ上昇した(15.5%の上昇)。実効相場はその後75年3月に93.9へ低下したが,75年7月には98.7へ上昇した。総じて,この時期には石油危機という外部ショック,変動相場制移行直後の調整期ということもあって,為替相場の安定を望みうる状況ではなかったといえよう。
この間,アメリカの消費者物価は72年から74年にかけて石油価格の上昇を主因として加速したものの(72年平均3.3%から74年同11%へ上昇),西ドイツを除く主要先進国のインフレはそれを上回るペースで加速した(OECD主要7カ国平均,72年平均4.3%から74年同13.3%へ上昇)。
他方,国際収支面では71年及び72年に大幅赤字となったアメリカの経常収支は,輸入抑制措置を初めとする緊縮政策によって73~74年に黒字に転じた。しかし,他の主要先進国の経常収支は西ドイツを例外として赤字に転じた。これはアメリカが石油危機による影響が相対的に軽かったことによるが,こうしたアメリカのインフレや国際収支における相対的に良好なパフォーマンスを背景に,75年初から年央にかけてドルは上昇し,その後,75年央から77年央までドルは比較的安定裡に推移する。
ドルの実効相場は,77年6月の104.4から78年10月には86.0まで下落し,対円相場ではこの間272.98円から183.95円まで約30%以上下落した。当時,アメリカではインフレが加速し,消費者物価はその他主要先進国を上回るテンポで上昇し,78年には7.7%へ上昇した(OECD主要7カ国平均は7.0%)。またアメリカの経常収支は,貿易収支の大幅赤字によって赤字に転落するなど,この時期のアメリカのファンダメンタルズでは総じて悪化していた。
こうした中で,78年11月1日,アメリカ通貨当局は,日本,西ドイツ,スイスの各中央銀行とのスワップ枠拡大等による為替市場に対する協調介入の強化とあわせて,公定歩合の引上げ(8.5→9.5%),預金準備率の引上げを主な内容とするドル防衛総合対策を発表した。このときアメリカがこうしたそれまでの「ビナイン・ネグレクト」政策を覆すような措置を導入したことによって大幅な下落を続けていたドルはようやく下げ止まった。これがいわゆる「カーター・ショック」である。
カーター・ショック以後のドル相場は,第2次石油危機による不安定期を経て,80年央から大幅な上昇を続けた。実効相場は80年7月の84.6から83年8月には129.8まで実に53%の上昇を記録した。この時期に特徴的な点は,厳しい金融引締め政策によって,アメリカでこれまでに例のない高金利が出現したことである。これによってインフレは急速に鎮静化したが,金利は高止まり,特に実質金利は高水準にある。一方,国際収支面では,貿易収支赤字の拡大により,経常収支が赤字に転じ,82年後半から83年には経常収支赤字下のドル高が継続した。
80年央以降のドル高は,これまでのドル相場の動きから考えても極めて特異な動きを示したといえる。
主要先進国の政策スタンスをみると,第2次石油危機以降各国は一様に金融面で引締め政策を維持した (第2章第2節参照)。この結果,83年にはインフレ率でみた各国の経済パフォーマンスの収れん度は,比較的良好なものとなった。
それにもかかわらず,この調整過程ではドルが独歩高の様相を呈し,また一方では,日々の為替相場変動も大きくなり,その不安定性を増大させた(第4-1-1表(1),(2))。今回のドル高の特徴は,これまでの経験に比して,特に日本円に対しては相対的なファンダメンタルズとは総じて無相関に,しかも不安定性を増しながら,ドルだけが大幅な上昇を記録したことにあるといえる。以下ではドルがこうした記録的な上昇を続けた要因を探ってみよう。
まず,ドル相場がどの程度,いわゆる「適正水準」から過大評価されているかをみてみよう。固定相場制下とは異なり,為替相場の自由な変動を前提とする変動相場制下では,各国間の国際収支の不均衡等の調整は為替相場の変動に委ねられることになる。したがって,その時々に決まる為替相場は,その時の「適正水準」という見方もできよう。しかし,その為替相場の変動が余りにも急激であったり,過度であったりするとその影響は極めて大きい。また為替相場は一国の通貨の対外価値を総称するものであるため,各取引主体によって「適正水準」は異なるものにならざるを得ない。
為替レートの水準について一つの判断材料を与えてくれるのが購買力平価説であろう。購買力平価説によれば,2国間の貨幣の交換比率である為替相場は,基本的にそれぞれの購買力によって決まり,貨幣の購買力はその国の物価水準によって測れるとする。すなわち,相対的に物価上昇率の高い国の通貨は,物価上昇率の低い国の通貨に対して下落し,この過程で均衡相場である購買力平価が成立する。この購買力平価の成立ぱ,財・サービス取引における対外均衡を意味することになる。
しかしながら厳密な意味で購買力平価が成立するためには,貿易制限等がなく,貿易を通じて財の移動がスムーズに行われる必要がある。他方,物価水準の測定にはどのような財の価格をとるか,あるいは購買力平価が成立している時点として,どの時点を基準とするべきかという問題も生じる。更にこれは最も基本的な問題であるが,為替相場の変動に伴い国内価格が調整されるまでにはある程度の時間を要するため,購買力平価が常に成立する保証はない。こうした多くの問題はあるものの,購買力平価説は為替相場の長期的動向をみるうえでは依然として重要な考え方である。
ここで期間をできる限り長くとることにし,変動相場制移行時の73年3月と83年6月時点の主要通貨について二通貨相互間の為替相場の変動の様子を購買力平価に照らしてみてみよう。 第4-1-2表は上記期間における二通貨相互間の為替相場の年率変化率と相対価格(購買力平価)の同変化率を比較したものである。同表によれば,この間自国の物価上昇率が最も高かった英ポンドが各通貨に対して大幅に下落しているのを初めとして,総じて現実の為替相場は購買力平価と同方向に変化してきたことがわかる。
次に二通貨相互間の為替相場をみるだけではなく,実効相場の概念を導入してみよう。実効相場とは為替相場を貿易の相手国別シェアに応じて加重平均し指数化したものであるが (付注4-1参照),それを相対価格で割引いた実質実効相場は購買力平価が常に成立していれば不変となる。しかし第4-1-3図にみられるように各通貨の実質実効相場はこれまでも不安定な推移を示し,とりわけ80年央以降のドルは実質実効相場でみても大幅な上昇を示していたことがわかる。これは 前掲第4-1-2表とあわせてみても,近年のドル相場が購買力平価という基準に照らして過大評価されていた事実を示すものといえよう。
ドル相場が80年央以降,際立った上昇を示した要因にはアメリカの高金利を背景としたドル資産への資木流入圧力があったものと考えられる。また,こうした資本取引もあって先にみたような購買力平価からのかい離が生じたものとみられる。
いうまでもなく為替相場は,基本的にはその時々の外国為替市場における需給バランスによって決定される。最近では資本取引から生じる外国為替の需要,供給が相当程度増加した。外国為替の需給に直接影響を与える資本取引は主としてアンカバー・ベース(先物予約が付いていない)の資本取引と考えられるが,こうした取引のうち主なものは外貨証券(株式,債券)や直接投資に係わる長期資本取引である(このほかアンカバー・ベースの取引には当局の介入等がある。)。これらの取引の主たる担い手である機関投資家の海外資産運用比率をみると,近年資本取引規制が自由化された日本やイギリスを初めとして各国で傾向的に高まっている (第4-1-3表)。
このような状況において,為替相場水準は,経常取引から生じる資金フローよりも,少なくとも短期では株価と同様に資産市場での均衡価格(ストツク均衡)となる可能性が強まる。これは,財市場の価格調整速度に比較して,資産市場における価格調整度がかなり速いと考えられることによる。ただしこうした場合でも,経常収支の動向は,一国の対外純資産残高を変化させることによって,当該国居住者の資産選択に影響を与え,また経常収支の動向はひとつの「ニュース」として人々の予想形成に影響を与えるため,依然として為替相場を決定するうえで重要である。最近のドル相場が資本取引のうちでも特に証券投資等の長期資本の動向に影響される度合が大きくなったのは第4-1-4図に示される通りである。
アメリカで79年10月に新金融調節方式が導入されて以来,日々の為替相場変動はドル金利の変動に伴って生じるケースが多く,いわゆる「金利相場」といわれる状況となった。このためドルの大幅な上昇は金利差によって説明されることが多い。
アメリカと主要国との長短実質金利差をみると(後出第4-1-8図),いずれの国と比べても80年央以降,アメリカの方が高水準にあり,投資家にとってインフレ格差から生じると予想される為替差損を割引いてみてもドル資産を保有することがかなり有利な状況が続いていた。金利の変動が資本取引を通じて,為替相場に影響を与える経路を考えると次の二つが存在する。
第1に,ある通貨の金利が上昇することによって,他の条件を一定とすれば,相対的に当該通貨建資産が有利になることから,他通貨建資産から資本が流入し,当該通貨に対する需要が増大して,当該通貨の為替相場は上昇もる。
第2に,予想収益の変化を通じて金利が上昇した通貨の為替相場が上昇する。外貨建資産の予想収益はそのときの当該外貨建資産の金利と為替相場(自国通貨建)の予想変化率によって決まるが,為替リスクのない自国通貨建資産との間にストツク均衡が成立するためには,自国金利と,外国金利に為替相場の予想変化率及びリスク・プレミアムを加えたものが等しくなる必要がある(注)。このため外国金利が上昇し,自国金利が一定に保たれている場合には予想変化率が低下する必要があり,この際,当該時点の為替相場が上昇する(自国通貨の下落)可能性が強くなる。このようなケースでは資本移動が生じなくても,為替相場は変動することになる。これらの点から80年央以降のドル高にはアメリカの高金利が深くかかわっていたものと考えられる。
今回のドル高の要因には,アメリカの高金利の外に国際政情不安という要素があったといわれる。80年以降,ポーランド情勢の緊迫,イラン・イラク紛争,ソ連軍のアフガニスタン侵攻,フォークランド紛争,レバノン紛争等が発生した。必ずしも直接的にドル高に結びつくものではなかったものの,外国為替市場では,これらの政治的事件の続発は「有事に強いドル」を求めたドル買い圧力として作用した。
これを資本移動の観点からみると,過去の相場変動の経験から,市場がドル相場の上昇を予想し資本移動が生じたことになる。これに加えて,よく指摘されるように,避難通貨としてドル資産が選好された面もあろう。
他方,最近とみにユーロ市場の果たす役割が主目されており,ユーロ市場の動向が為替相場に大きな影響を及ぼすことがある。このユーロ市場の動向を含めてアメリカへの資本流入の現状については本章第2節で扱う。
次にドル高が各国の経済情勢や経済政策にどのような影響を及ぼしていたのかをみてみよう。
一般に自国通貨の上昇は,当該国の輸出競争力を弱め,いずれ国際収支の悪化を招く。ドル高期におけるアメリカの輸出入動向をみるとおおむね次のようなことがいえる。
アメリカの貿易収支は70年代に入って赤字を持続し,80年代に入ってドル高が顕著になってからはその赤字幅を一層拡大している(第4-1-5図)。輸出の伸びは80年代に入って急速に鈍化し,前年同期比では大幅な落込みを記録した。一方,輸入も80年代に入ってその伸びは総じて鈍化したものの,83年には景気回復を反映して大幅な増加に転じた。
アメリカの輸出競争力を価格競争力についてその他主要先進国と比較すると (第4-1-6図),80年以降のドル高がアメリカの輸出競争力に相当程度打撃になっていたことがうかがわれる。
これに対してその他主要国では競争力が相対的に改善したものの,主として80~82年の世界貿易の縮小傾向によって,これまでのところこうした効果を十分に享受し得なかったといえよう。
アメリカの交易条件(輸出価格/輸入価格)の推移をみると,80年央以降石油価格の下落もあって輸入価格が低下し,交易条件は改善傾向をたどっている(83年第2四半期に80年第2四半期比約25%の改善)。この交易条件の改善にはドル高もかなり影響したものとみられる。こうした交易条件の改善はアメリカの購買力を高め,所得効果から今回の景気回復を促す一因となると同時にインフレの鎮静化にも役立ったものとみられる (第4-1-7図)。
次にドル高が各国の金融政策に与えた影響を概観してみよう。
ドル高はその他主要通貨の下落を意味するが,貿易取引の多くがドル建取引であるため,自国通貨の下落は輸入インフレ圧力をもたらす。最近の石油価格の低下による物価面での好影響も,自国通貨の下落によって相殺されてしまいかねなくなった。
このためインフレ抑制を最優先課題としている各国政府通貨当局は,自国通貨の下落を防ぐ観点から,自国の金利を高目に保たざるを得なかった。例えば,ドル高期における西ドイツの金融政策運営をみると,ドイツ・マルクが経常収支の赤字化やポーランド情勢の深刻化等によって80年央以降大幅な下落を強いられたため,81年2月に特別ロンバード制(注)を導入して金利を大幅に引上げた。しかし,当時は景気の停滞が続き,金融政策面での景気刺激策が必要とされる状況であった。その後,82年後半にはアメリカの金利引下げに伴い,ようやく本格的な金利の引下げを行うことが可能となった。しかし,83年3月のEMS通貨調整を前にして単独利下げを行った後,ドイツ・マルクの下落が顕著となり,結局9月にはロンバード・レート引上げを余儀なくされた。
他方,先進各国では為替相場変動を通じた長期金利の高止まり傾向が指摘されており,これが順調な景気回復を阻害するとの見方が多い。特に長期実質金利差は縮小傾向にあり,このことが金融政策の自律性に問題を残しているといえよう(第4-1-8図)。
ドルが購買力平価から大幅にかい離したことによって貿易面でのゆがみも生じるなど,複雑な問題を提起している。例えば日本では,貿易黒字が拡大するなかでドル高・円安基調が続いたため,83年初めにかけて再びアメリカを中心とした諸外国の円安誘導批判を招くこととなった。物価は安定している一方,内需が低迷しているため,金利の引下げが望まれていたが,金利の引下げによって一層の円安に拍車がかかるという懸念から,公定歩合は81年12月11日以来5.5%のまま据え置かれ,円相場の基調が安定してきたとみられる83年10月22日こようやく0.5%の引下げが実施された。
他方,アメリカなどではこうしたドル高による日本からの輸入の増加が,保護貿易主義的な動きを助長する要因となっている面も見逃がせない。
これまでドル相場の推移を中心に変動相場制下の10年を振り返り,変動相場制下で生じた様々の現象の一部を取り上げてきたが,当初期待された変動相場制の諸機能は,必ずしも十分にその効果を発揮しなかったようである。
当初期待された変動相場制の諸機能とは,①海外の経済的諸条件の変化の影響をしゃ断する。②国内経済政策運営の自由度を増す。③国際収支の不均衡を為替相場の変動によって,スムーズに調整することができる等である。
もちろん,70年代の2度の石油危機のような実物経済面での大きなショックを吸収するには為替相場の変動が必要不可欠であったはずである。この意味で先行き不透明な経済情勢が続く限り,変動相場制に代わる制度は考えられない。したがって,現在変動相場制に求められている,上に挙げた諸機能を有効に機能させるには,為替相場が国内政策目標と二律背反とならないような水準で安定裡に推移し,同時に経済諸条件の変化に応じた為替相場変動によるスムーズな調整が必要とされる。
変動相場制下における80年央以降のドル高は,様々な教訓を残したが,それは次のように要約される。
① 資本取引によって為替相場が決定される度合が強まると,為替相場が経常収支を均衡させる水準に決定するという保証はない。
② 為替相場が適正とみられる水準から大きくかい離し,また過度の変動が懸念される場合には,国内均衡達成のための政策運営が制約される。
③ 短期的には,為替相場の決定は予想の変化に負うところが大きく,しばしば政治的要因等で為替相場の乱高下がみられた。
④ アメリカの高金利は,長期実質金利の高止まりという形で各国に波及した。
こうした経験を踏まえて,各国が為替相場の安定を図っていくうえで政策協調を行うことが必要となる。国際貿易取引量の飛躍的増大,国際資本取引の自由化の進展等から,世界経済の相互依存度が高まっているので,財政・金融政策の運営には為替相場の安定にも配慮した財政・金融政策をとることは国内政策目標を達成するうえでも重要となっているといえよう。
今日まで変動相場制に代わる様々な通貨制度の提言がなされているものの,いずれの提言も技術的な問題が残り,現実性に乏しいものである。こうしたなかで為替相場安定のために第1に考えられる方法は通貨当局による市場介入である。
変動相場制移行後においても,各国は独自の判断に基づき市場介入を行ってきた (第4-1-4表)。ドルの供給国であるアメリカの介入政策をみると,カーター政権下では,ドルの急落期においては「ビナイン・ネグレクト」政策が遂行されたが,78年11月のドル防衛総合対策を契機として積極的な協調介入政策をとるに至った。しかし,レーガン政権下になると,スプリンケル財務次官が,81年5月4日の議会証言において,アメリカは為替相場の無秩序な状態に対処するためにのみ介入するという78年以前の政策に復帰すると述べる等,協調介入路線を放棄するのみならず,単独介入についても「ミニマム介入政策」に移行することを明らかにした。
その後,アメリカの高金利,ドル高に対する各国の不満が高まったため,82年6月のベルサイユ・サミットで,市場介入について共同研究を行うことが合意され,7か国蔵相会議のもとに作業部会が作られた。そして83年4月29日,7か国蔵相会議の声明と作業部会の報告書が発表された。発表された声明は「協調介入が有用であるとの合意が得られるような場合にはそのような介入を進んで実施する」との内容であった。
こうした経緯を経て,83年7月末から8月初のドル急騰局面では,アメリカ,日本,西ドイツ等の主要先進国は協調介入を実施した。米財務省の発表によれば,協調介入規模は7月29日~8月5日の1週間で総額約30億ドル(うちアメリカの介入額は2億5千万ドルと少な目であった)に達した。
介入の効果については,その時の状況如何により,必ずしも明確にできないが,短期的には為替需給に変化を与えること,当局の政策姿勢を示すことによって,市場の予想を変化させる心理的なインパクトが認められ,介入が協調的に行われればこうした効果は一層増すものとみられている。83年7~8月に実施された協調介入も為替市場に心理的影響を与えたものとして,市場筋でも一応の評価を受けている。また主要各国が国際通貨安定のために協調行動に踏み出したことは充分評価できよう。
最近の国際通貨に関する主要国の対応をみると,83年5月末のウィリアムズバーグ・サミットでは,「通貨制度改善のための諸条件を検討する」との合意がなされ,83年9月のIMF年次総会を前にした10カ国蔵相会議では,「サミット合意の具体化措置として国際通貨制度の機能の改善に必要な条件について意見交換,数週間中に10カ国蔵相代理会議を開き,改善を図りうる分野を1984年初めに開く蔵相会議に報告するよう指示した」旨のコミュニケが発表されている。