昭和58年
年次世界経済報告
世界に広がる景気回復の輪
昭和58年12月20日
経済企画庁
第3章 持続的成長と経済再活性化の条件
第2次石油危機以降,景気停滞を続けていた先進国経済も83年に入ってようやく回復に転じた。
81年央より緩やかな景気回復を続けているイギリス,83年より回復しているアメリカ,西ドイツなどでは,物価の鎮静化が著しい。83年7~9月期の消費者物価の前年同期比上昇率は,アメリカ2.6%,西ドイツ2.8%,イギリス4.6%といずれも60年代後半の上昇テンポとなっている。景気停滞が続いているイタリア,フランスでは同期に各々14.2%,9.8%と高水準である。
今後,先進国の景気が回復期から拡大期に移行する過程で,物価上昇率はある程度高まることは避けられないとみられるが,70年代のようにインフレが加速化するかどうかは重要な問題である。それでは70年代にインフレ率が高まった原因は何であろうか。
主要先進国の景気拡大期におけるインフレ率の推移をみると (第3-1-1表),70午代に卸売物価,消費者物価共に上昇率が高まったことが指摘できる。
国別動向をみるとアメリカ,イギリス,フランス,イタリアでは消費者物価は期を追って騰勢を強めたが,西ドイツ,日本では鈍化した。
70年代におけるインフレ率高まりの原因として第1にあげられるのが2度にわたる石油危機の影響である。OPECによる石油価格の引上げ,世界的な農作物不作等により主要先進国の輸入価格は急騰した。
しかし,問題なのは,こうした直接的な諸要因が国内物価上昇のスパイラル化を引き起こし,直接的効果が消滅または弱まった後でもインフレが従前の水準まで減速しなかったことである。このため主要先進国の物価上昇率は景気拡大期においてますます上昇テンポを速め,いわばインフレが体質化したといってもよい状況になった。これは後にみるフィリップス・カーブの動きからも確認できる。
以下では,インフレの体質化に影響を与えたと思われる原因を取り上げてみる。
主要先進国について賃金(一人当たり雇用者所得,国民所得ベース),輸入物価,労働生産性(一人当たり実質GNPまたはGDP)を説明変数とした消費者物価関数を推計してみると,総じて賃金上昇の寄与度が高いことが指摘できる (第3-1-1図)。たとえ賃金が上昇しても労働生産性がそれに見合って上昇すれば単位労働コストは上昇しないが,賃金上昇率から労働生産性上昇率を差引いた単位労働コストの寄与度をみてもかなりの物価上昇要因となっている。
特に,各国とも70年代には労働生産性の上昇によるインフレ抑制の寄与度は60年代に比べ小さくなっており,70年代における各国のインフレ悪化の一因となっている。
消費者物価の上昇に対する労働コストの寄与は国によっても異なる。賃金上昇率が高く,労働生産性上昇率の低いイギリスで最も大きく,フランスがそれに次ぐ。しかし賃金上昇率は高いものの,労働生産性の上昇が物価に反映される度合の強いアメリカでは比較的労働コスト上昇率の寄与は小さかった。また,西ドイツでは労働コスト上昇率の寄与は小さい。
消費者物価の上昇に最も大きな影響を与える賃金の上昇には,雇用情勢や,将来の物価上昇に対する予想が,大きな影響を与えているとみられるので,労働需給要因,期待物価上昇率を説明変数に用い,賃金関数を推計した。
期待物価上昇率については,過去のマネー・サプライ(Ml)と消費者物価上昇率により現実の物価上昇率を説明する関数を推計し,その理論値を用いた。
また,労働需給を表わす変数には,現実の失業率から均衡失業率を引いたもの(以下「修正失業率」という)を用いた。均衡失業率(付注3-1参照)は,未充足求人比率と失業率の関係から算出される失業率で,需給のミスマッチ,労働力の流動性の低下等により,未充足求人が多いにもかかわらず,失業率が高い場合,均衡失業率は高くなる。したがって均衡失業率は摩擦的な失業の多さの指標と考えられる。労働需給要因に通常の失業率を用いずに,均衡失業率との差である修正失業率を用いたのは,近年,需給のミスマッチから摩擦的失業が増加しており,摩擦的失業が賃金決定に与える影響は小さいとみられるからである。
各国のUV曲線(失業率/未充足求人比率の関係)は,アメリカ,イギリス,フランスでは,60年代,70年代を通じ,右上方へのシフトがみられ(第3-1-2図),UV曲線から算出される均衡失業率は上昇している。しかし,80年以降の失業率の上昇は急激であり,その大半が,不況による需要不足に基づくものとみられる。
このようにして求めた期待物価上昇率,修正失業率をもとに推計した賃金関数によれば,①アメリカでは過去の賃金上昇の影響が強く,②フランスでは期待物価上昇率の賃金への影響度が強く,③イギリス,西ドイツでは他国に比して労働需給要因の影響度が強いという結果になっている (第3-1-2表)。
国によって,期待物価上昇率や労働需給が賃金上昇率に与える影響が異なる最大の理由は,各国の賃金協約,労使関係等の相違であろう。
アメリカでは,賃金契約期間が他国とは異なり,3年間の長期契約が通例である。また,消費者物価の一定の変動に応じて賃金を調整するCOLA(生計費調整条項)が70年代央に急速に広まった。フランスでは70年よりSM IC(法定最低賃金制度)が実施され,物価スライド制が導入されている。
イギリスでは物価スライド制は,70年代初の一時期を除いて実施されていないが,賃金交渉には実質賃金確保に対する労働組合側の姿勢もある程度反映された。一方,西ドイツでは物価スライド制が法律的に禁止されており,労働組合は比較的穏健で景気が停滞すると賃上げよりも職場の確保に重点が移り,賃上げ要求を手控える傾向にあるといわれる。
物価スライド制は労働者の実質賃金確保の見地から導入された。しかし,物価上昇が石油危機のような交易条件の悪化によって引き起こされた場合には,それが,労働生産性を上回る賃上げをもたらし,ホームメイド・インフレを引き起こす一つの原因となったと考えられる。
更に,賃金関数において賃金が労働需給要因よりも,期待物価上昇率によって,より左右されるということは,高失業期であってもインフレ期待が強い場合は物価が下がらず,いわゆるスタグフレーション現象に陥りやすいことを示している。
縦軸に各国の製造業時間(週)当たり賃金上昇率,横軸に修正失業率をとったフィリップス・カーブを描いてみると,第1次石油危機後と第2次石油危機後では,多少様相を異にしている (第3-1-3図)。
第1次石油危機後,各国の修正失業率,物価上昇率は共に急速に上昇した。しかし,その後の景気回復過程において,各国とも物価が鎮静し,修正失業率もアメリカでかなり低下したほか,イギリス,西ドイツでも多少改善した。
第2次石油危機後,アメリカ,イギリス,西ドイツでは物価上昇率,修正失業率が共に上昇したが,第1次石油危機後に比べ,各国がインフレ抑制に重点を置いた政策をとったこと等から,インフレの悪化幅は小さい。一方,修正失業率は第1次石油危機後に比べ大幅に悪化し,しかも景気停滞の長期化からアメリカを除き83年に至るまで上昇を続けた。
上でみたように,物価は賃金に影響され,賃金は期待物価を介して,物価の影響を受けている。
この効果をみるために消費者物価関数と,賃金関数を用いて過去の平均的な賃金と物価のスパイラルがどの程度の大きさになるかを試算してみる。消費者物価の1%の上昇は,賃金及び期待物価の上昇を経て,最終的にはフランスで2.9%,西ドイツ1.5%,イギリス1.3%,アメリカ1.2%の物価上昇をそれぞれ招くという結果が得られ,フランスは相対的にインフレ体質が強いとみられる。
70年代には,各国のこのような賃金・物価のスパイラル構造に,石油価格の上昇やマネー・サプライの増加等が火をつけ,最終的には大幅なインフレを引き起こしたものといえよう。西ドイツは,この試算では,インフレ体質そのものは,アメリカ,イギリス等と同程度となったが,マネー・サプライの厳しい抑制等の政策をとったため,結果としてはインフレ悪化の程度は他国に比して小さなものにとどまったと考えられる。
以上のように,70年代には労働コストの上昇を通していわばインフレが体質化したとみられるが,最近主要先進国でみられるインフレ鎮静化の要因を以下で考察してみる。
まず最近におけるフィリップス・カーブの動向をみると,アメリカ,イギリス,フランスでは83年に入り修正失業率の増加が止まり,賃金上昇率も低下する動きがみられる。西ドイツでは,こうした現象はみられないが,これは,もともと西ドイツの賃金上昇率が他国に比べ安定していたことによるものである。
次に,各国における最近の賃金上昇率の鈍化を,労働需給要因と期待物価上昇率の鈍化による部分に分けてみると,アメリカ,イギリスでは,賃金上昇率は81年1~3月期から83年1~3月期に各々6.6%,5.8%ポイント低下したが失業率の上昇による低下分はそれぞれ2.5%,2.7%ポイントと試算され,賃金上昇率低下の約半分はインフレ期待の鎮静化によるものとみられる。
一方,フランスの賃金上昇率は81年1~3月期から82年末に2.1%ポイント,西ドイツでは81年1~3月期から83年1~3月期に2.8%ポイント低下したが,このうち失業率の上昇による低下分は各々1.3%,2.7%ポイントと大きい。
また,アメリカについては,最近の賃金上昇率が賃金関数から算出された理論値を下回っており,極度の雇用情勢悪化により賃金協約等が弾力的になったことなどの構造的な変化により,インフレ体質が改善したことを示していると考えられる。
インフレの鎮静化に対して政策がもたらした影響も大きかったと考えられる。第3節で詳しくみるように第2次石油危機後は,79年にイギリスのサッチャー政権,81年にアメリカのレーガン大統領がインフレ抑制最優先の政策を打ち出し,各国で引締め政策が実施された。また,西ドイツでは,従来より,インフレ抑制重視の政策スタンスを維持してきた。先進7か国のマネー・サプライ(M1)は67~78年平均10%から79~81年には同6.5%に増加テンポを鈍化させた。その後アメリカのMl増加により,82年には8.5%増となったが,M2の伸び率でみると,67~78年平均12%,79~81年同10%,82年9.5%と鈍化している。
フランスとイタリアの物価上昇率が鈍化しつつも高水準である原因も引締め政策への転換の遅れという政策的要因による面がかなりあるとみられる。
既にみた不況による物価低下,インフレ体質是正及び政策要因以外にも,①就業者の減少により労働生産性が改善したことなどによる労働コストの低下,②世界的な需給緩和によるOPECの石油価格引下げや,農産物価格の下落,③アメリカではドル高による輸入価格の低下などが物価の鎮静化を一層促進したと考えられる。
現在,各国の失業率は非常に高水準であり,しかも,その大半は需要不足によってもたらされたものである。失業の経済的社会的コストは後にみるように多大なものがあり,各国政府にとっては失業率の引き下げが重要な課題となっている。しかし,安易な景気拡大策は,再び賃金・物価のスパイラルを通じ,インフレを再燃させる恐れがある。
先にみたように,アメリカ,イギリスではインフレ体質がかなり改善してきているとみられ,これらの国では従来より景気に配慮した政策をとり得る状態にあるといえる。しかし,アメリカについては現在の景気回復速度を考えれば,新たな刺激策の必要性は小さい。
一方,フランスでは,インフレ体質は若干改善してきているが,フィリップス・カーブは依然原点から遠く離れており,インフレ期待の鎮静化を図ることが必要であるとみられる。イタリアについても同様のことが言えると考えられる。
二桁インフレの鎮静化はインフレ被害を受けやすい年金生活者等の弱者にとって大きな救いとなった。また,インフレ進行に伴う不確実性を取り除き,金利を低下させ,企業の減価償却不足も解消すること等から消費,住宅投資を増加させ,設備投資を促し,成長を助長する。更に,インフレの鎮静化により,政府は失業対策などの見地から積極的な景気刺激策をとる余地が生まれ,企業家,消費者のコンフィデンスがこの面からも改善する。
特に現在のインフレの鎮静は,失業の急増という高いコストを支払って得られたものである。景気の回復を持続させるためには,物価の安定を損ってはならない。再びインフレの体質化が起こるような状況は,絶対に避けなければならない。