昭和58年
年次世界経済報告
世界に広がる景気回復の輪
昭和58年12月20日
経済企画庁
第1章 1983年の世界経済
中国の国民所得は,1981年に引締め策が実施されたため,前年比で80年6.1%増から81年は4.8%増と伸びが鈍化した。しかし,82年には同7.4%増(暫定値)となった(第1-6-1表)。工業総生産額は82年前年比7.7%増のあと,83年1~10月でも前年同期比10.5%増と計画(4~5%)を大きく上回っている。重工業生産は同じく各9.9%,12.9%増と増勢を強め,軽工業の伸び(5.7%,8.1%)を上回っている。
一方,82年の食糧生産は前年比8.7%増(3.5億トン)と史上最高の水準となり,農業総生産額は同11.O%増加した。これは,比較的天候に恵まれたこと,生産責任制の実施などによる。83年には夏収食糧(冬小麦中心で年間食糧生産の約2割を占める)が1割以上の増収となり,食糧生産は前年比3%以上増加すると見込まれている。綿花等経済作物生産も引き続き好調に推移している。
また,中国の小売物価上昇率は,大幅な財政赤字の発生に伴う通貨発行の増加,副食品価格の引上げ等により,80年に前年比6.O%となった後,引き締め策が効を奏し,81年同2.4%,82年同1.9%に鈍化した。
更に,中国の都市部の失業率は,83年6月末2.6%と推計されている(79年末5.5%)。
貿易面では輸出の伸びが鈍化したにもかかわらず,輸入抑制策が実施されたため,貿易収支は,82年には90.5億元(約48億ドル)の黒字となった(81年25億元の黒字)。83年1~10月には輸入が再び増加したものの,引続き12.2億ドルの黒字を記録している。外貨準備高(金を除く)も83年9月末時点で140億ドルを上回っている。
近年中国経済は他国に比して比較的良好なパフォーマンスを示している。
これは,世界不況の影響をあまり受けずに済むことが可能であったことが一つの原因である。
まず中国は石油の純輸出国であり,第2次石油危機後の石油価格の上昇は輸出額の増加につながった。また,中国の輸出依存度は8.2%(81年)と発展途上国としては低いため,82年以降の輸出の増勢鈍化により受けた影響は比較的小さかった。
更に,中国では国際価格と国内価格を分断しており,輸入物価の上昇が国内価格へ波及することはほとんどなかった。
経済政策も中国経済の比較的良好なパフォーマンスに貢献した。中国では,79年より経済構造のゆがみを是正する目的で,①農業,軽工業の重視,②エネルギー,輸送,建材部門の強化,③投資の削減と投資効率の向上,④輸出拡大と外資の活用,技術導入の促進,⑤地方・企業の自主権拡大等経済管理体制改革の実施,⑥民生の向上,科学技術,教育事業の発展,⑦人口増加の抑制などの経済調整策を進めた。
その後,調整政策は81年以降,より中央の集中を強化し,効率を重視する方向に向かった。すなわち第6次5か年計画(81~85年)の初年に当たる81年に,79,80年に生じた大幅な財政赤字とインフレの深刻化,重複投資の増加や貿易面の混乱等分権化により生じたマクロ的な非効率等に対処すべく,物価の凍結等厳しい引き締め策(調整強化策)が実施された。81年の基本建設投資総額(国営企業の固定資産投資総額)は前年比20.8%減少し,歳出も同8.1%削減された。工業総生産額が4.1%増と前年(8.7%)の半分の伸びにとどまったことにより,国民所得の伸びは鈍化した。調整強化策の実施により財政収支赤字は大幅に縮小し(80年128億元~81年26億元),インフレも鎮静化する等一定の成果がみられた。しかし,①財政収支の均衡,物価の安定を今後も維持していく基礎が依然強固でないこと,②経済管理体制改革を初め調整を必要とする事項が予想以上に幅広いものとなったこと,などにより,80年代を通じて経済調整を継続する方針が明らかにされた。さしあたり第6次5か年計画期には,安定成長下で財政収支の均衡,物価の安定に留意しつつ,経済の効率化を図ることが最優先の課題となっている。具体的内容は次のとおりである。①工・農業生産を年平均4~5%増加させる。軽工業の伸び(5%)は重工業(3%)を上回るものとする。②エネルギー・輸送部門に重点を置く。③既存企業の合理化,技術革新を進める。④基本建設投資は年平均460億元にとどめる。国民一人当たり消費額の増加率も同4.1%とする。⑤対外経済交流を活発化させ,輸入の伸び(9.2%)を輸出(8.1%)より高くする。
経済管理体制改革については第7次5か年計画期以降全面的に実施し,当面は全般的構想を練ると同時に,イ.国営企業の利潤上納制から納税制への切換え,ロ.流通制度の合理化,ハ.都市中心の地域間連携の強化等に的を絞って行うことになっているが,現在多岐にわたる改革が試行されている (第1-6-2表)。
以上のような調整政策実施の結果,中国経済は大きく変容した。
まず第1に,79~82年の国民所得増加率は年平均6.3%と,66~78年の6.6%よりやや鈍化した。同期の農業生産の増加率は年平均7.5%と工業生産(7.2%)を上回り,軽工業生産の増加率は11.8%と重工業(3.4%)の3倍となった(第1-6-3表)。
第2に,基本建設投資総額の伸びは79~82年平均2.6%へ鈍化した(76~78年平均8.5%増)。投資の内訳をみると,軽工業の投資と,重工業の中ではエネルギー・輸送部門の投資の割合が増加した。また,住宅投資の割合も急増した。投資の増勢鈍化に伴い蓄積率(注)は,78年の36.5%から82年29.O%に低下した。
第3に,政府による農産物買い上げ価格・賃金の引上げ等により,国民の消費がめざましく増加した。79~82年の農民一人当たりの所得,国営企業労働者の平均賃金は年平均各々19.2%,6.7%増加した(実質ベースでも16.1%,3.6%の伸び)。
第4に,前述の消費拡大策の実施,成長率の鈍化や分権化等により,歳入が79~82年平均0.1%増にとどまる一方,歳出は同0.9%増となった。こうした中で,財政収支は,81年に大幅に改善したものの,79年より赤字を続けている。財政の掌握する資金は減少し,基本建設投資総額に占める国家予算外投資(地方・企業による自己調達資金利用の投資等)の割合は5割近くに達している(第1-6-1図)。
第5に,対外経済交流が活発化,多様化した。79~82年には輸出振興策が実施されたため,輸出が年平均25.4%増加した。一方,輸入も同期間に17.5%増加した。輸出入額に占める西側諸国の割合は一層増加し(79年86.9%→82年93.2%),このうち発展途上国との貿易も急速に拡大した(79年30.9%→82年38.7%) (第1-6-2図)。
83年1月よりアメリカは,繊維製品の対中輸入規制を実施し,中国も対米農産物輸入規制措置をとった。この結果,対米輸出は減少し(1~9月前年同期比4%減)対米輸入は急減した(同40%減)。しかし,7月に米中繊維交渉は妥結し,対米農産物輸入規制措置が解除された。また,アメリカのワインバーガー国防長官は9月に,対中高度技術の輸出規制を緩和する方針を明らかにしている。
貿易外取引では,観光収入の増加に加え,海外工事の請負・労働力提供が急増している(83年上期前年同期比2.1倍の4.6億ドル)。
また,近年対外資本取引もますます活発化している。外資導入形態の中で最も重視されている直接投資についてみると,79年7月の合弁企業法施行以来,83年9月までに合弁企業は112件成立し,外国企業の投資総額は2.6億ドルに達している。83年9月には合弁企業実施条例が施行され,①政府は合弁企業の生産計画について指令を行わない。②製品の輸出義務を緩和し,国内販売を認める。③紛争の際第3国の仲裁機関の調停を認めるなど合弁企業振興策を実施している。
合弁企業以外の直接投資の受け入れについては,西側先進国と石油・石炭等資源の共同開発を進めており,82年末時点で海底油田探査・開発のため4.9億ドルの外資を導入している。また,補償貿易(生産物分与方式)は4.1億ドル,合作経営(注1)は,5.3億ドルに達している。これらは経済特区(注2)が設けられている広東・福建省を中心に積極的に展開されている。
借款導入についても79年以来300億ドル近い融資枠を獲得しているが,実際に使用したのは82年末時点で中国銀行による商業ローン75.6億ドル,政府借款14.8億ドル,IMF,世界銀行など国際機関融資9.4億ドルにとどまっている。83年5月にはIMFからの借款を繰上げて返済するなど債務返済も比較的スムーズに行われている。最近では外債の発行など資金調達も多様化している。また83年には国際労働機関(ILO)に復帰し,また国際原子力機関(IAEA)など国際機関へ加盟し,中国の国際化は一層進展しつつある。
こうした構造的変化が進んでいる中国経済は現在幾つかの問題を抱えている。
第1が投資の急増である。81年に減少した基本建設投資総額は82年に国家予算外投資の急増により,前年比25.4%増加した。83年上期にも,大幅に削減する計画であった予算外投資が前年同期比9%増加し,予算内投資が同25.6%増加したため,17%増となった(第1-6-1図)。これに伴い再び非効率な重複投資が増加し,セメント・鋼材等資材不足の深刻化,不足資材の価格上昇等が生じた。政府は83年の投資計画を上方改訂した上で(507→550億元)投資額に上限を設け,プロジェクトの見直し等の厳しい措置をとっている。また83年より「エネルギー・交通重点建設基金」を創設し,地方・企業等の余剰資金を吸収し,エネルギー・輸送部門に重点的に投入することとしている。
第2に,報酬金支給の増加等により,労働生産性を上回る所得の増加がみられることである。このため,政府は報酬金の乱発傾向の是正等を呼びかけている。
第3に,第6次5か年計画の中心課題である効率化が依然計画どおりの進展を示していないことである。予算内国営工業企業の欠損額は83年1~9月に前年同期比23.6%減少したものの依然として2割は赤字経営であり,原燃料の浪費傾向が是正されていない。政府は,9月末以降生じた工業企業の計画を上回る欠損に対し財政からの補てんを中止するなどの厳しい措置をとることとしている。また国営商業企業の欠損額は1~8月同19.9%増加した。更に投資効率を固定資産使用開始率(注)でみると,81年に86.6%まで上昇したあと82年には再び74.4%に鈍化するなど,あまり改善していない。
82年9月の共産党大会では,今世紀末までに工農業総生産額を80年の4倍とする(年平均増加率7.2%)目標が明らかにされたが,今後,以上のような問題点をどのように解決し,90年代の高い成長の基礎を築くかは,中国経済にとって依然大きな課題であろう。
ソ連・東欧経済は,内外にわたる成長制約要因の増大・深化から70年代後半に一様に不振状態に陥った。80年代に入ってもそうした状態に大きな変化はみられなかった。しかし,最近になって,これら諸国が経済調整の努力を強めていることもあって,一部に立ち直りの気配がみられる。
ソ連・東欧経済は,82年中も困難な状態が続いた。
ソ連では,4年続きの農業不作と工業生産の低迷等によって,経済計画は未達成となった。農業総生産は4年続きの穀物不作(約1.8億トン,81年は約1.6億トン,いずれもアメリカ農務省推計)によって前年比4.0%増(81年2.0%減)とわずかな回復にとどまった。また工業総生産も,年初の寒波による生産中断,労働生産性の伸び悩み,鉄道輸送の混乱の影響等によって計画目標(前年比4.7%増)を大幅に下回り,2.8%増と戦後最低の伸び率となった。この結果,国民所得(物的生産部門の純生産高,支出ベース)成長率は,計画(前年比3%増)を下回る2.6%となった (第1-6-4表)。
東欧コメコン諸国(東独,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリアの6カ国)では,農業生産は,穀物の豊作によって比較的順調な拡大をみた。しかし,工業生産については,原燃料不足,労働生産性の伸び悩み,労働力不足の深刻化(東ドイツ,チェコスロバキア,ハンガリー等),貿易赤字削減のための輸入抑制の影響等によって,計画未達成となる国が多かった。こうした工業生産の低迷を主因に,国民所得成長率は,東ドイツ,チェコスロバキア・ルーマニアで計画未達成となった。また,計画を達成したハンガリー,ブルガリアも目標水準自体が控え目に設定されていただけに,必ずしも好調とは言えない面もある。更にポーランドでは,戒厳令布告(81年12月)以降,石炭等の重要産業は軍管理下に置かれ,生産拡大のための優遇措置がとられた結果,目立った回復がみられた。しかし,西側諸国の経済措置の影響,戒厳令への労働者の反発等によって全体として経済後退は食い止められなかった。
83年に入って,ソ連・東欧経済にはようやく改善の動きがみられ,経済情勢は最悪期を一応脱した模様である。
ソ連では,工業総生産が労働生産性の順調な伸びに支えられて年初来,年計画目標(前年比3.2%増)を上回る水準で推移しており,1~9月前年同期比4.1%増となった(第1-6-4表)。農業面では,畜産が順調に拡大しており,また83年の穀物生産も不作だった82年を上回る収穫が見込まれている。
アンドロポフ政権(82年11月誕生)は,前政権から持ち越された解決困難な諸問題に対して中央集権的経済管理体制を変えることなく,労働規律強化,綱紀粛正,労働インセンティブの増加等硬軟両様の政策を展開することによって,より現実的に対応しようとしている。83年に入って経済情勢にやや持ち直しの動きがみられるのも,そうした政策効果がある程度現われているとも考えられる。
東欧諸国では,国によって経済パフォーマンスにかなりのは行性がみられる。工業総生産は,1~6月期に東ドイツ,ブルガリアが年計画目標ないしそれを上回る水準の増加を示した。しかし,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニアでは年計画目標を下回る水準の増加となった。注目されるポーランドでは,工業生産は82年の夏頃を底に回復に転じており,83年1~9月には政府計画を上回る回復となっている。一方,農業では,穀物生産は豊作であった82年の水準には及ばないものの,平年並みかそれをやや上回る作柄となる見込みである。東欧諸国の経済情勢は全体としてみると依然厳しいものの,工業生産の伸びの高まりや後述する対西側貿易不均衡の是正等をあわせて考えると,最悪期は脱しつつあるものとみられる。
東西経済関係は,アフガニスタン問題の発生を契機に不安定化の様相を示し,ポーランド問題によってその度合が強まった。
81年末のポーランドの戒厳令布告に際して,西側諸国は対ソ,対ポーランド措置を実施した。これにからんで,アメリカが石油・天然ガス機材の対ソ輸出を厳しく規制したためソ連との間でシベリア天然ガス・パイプライン計画を進めていた西欧とアメリカの間には,意見の対立がみられた。しかし,対立修復の努力がなされ,82年秋には,対ソ経済対策のあり方について主要国間で検討を行ってゆくことで合意された結果,アメリカは石油・天然ガス関連機材の対ソ輸出規制を解除し,対立は解消されることとなった。西側主要国は,81年のオタワ・サミット以降の各サミットにおいて東西経済関係には政治・安全保障上の観点を入れていくことを確認しているが,その後もO ECD,IEA,ココムの場において,こうした観点から諸問題の検討が続けられている。
こうした中で,83年4月には,アメリカは対ソ穀物協定交渉の凍結を解除し,8月には米ソ間で新長期穀物協定(83年10月~88年9月)が締結された。また,ポーランド問題に関してとられた対ポーランド措置も,83年11月に一部緩和された。
東西貿易(ソ連・東欧諸国とOECD諸国の貿易)は81年,82年と連続して減少し,83年に入っても減少傾向が続いている(第1-6-3図)。
ソ連・東欧諸国の対OECD輸出は,前年比で81年7.6%減の後,82年も0.3%減となった。これは,①西側先進国の景気後退,②原燃料価格の低下,③ポーランド危機,等の影響とみられる。一方,ソ連・東欧諸国のOE CD諸国からの輸入は,前年比で81年73%減の後,82年も8.1%減と同程度の落ち込みとなった。これは,①輸出不振と債務累積による外貨調達難から輸入が抑制されたこと,②東西関係の不安定化(ポーランドの戒厳令に対する西側諸国の対ソ連,対ポーランド措置等),等の影響とみられる。貿易収支をみると,ソ連・東欧諸国の貿易収支は,東欧諸国の黒字化(81年18億ドルの赤字→82年8.2億ドルの黒字)とソ連の黒字幅の拡大(81年22.2億ドル→82年26.8億ドル)によって,81年の4.2億ドルから82年の34.9億ドルへと黒字はかなり増加した。
83年1~6月では,ソ連・東欧諸国の対OECD輸出は前年同期比4.7%減,輸入は同48.9%減といずれも減少を続けている。貿易収支は,ソ連の収支が石油価格の低下等を反映した輸出の落ち込みによって大幅な赤字となっているのに対して,東欧諸国の収支がこれら諸国の引続く厳しい輸入抑制によって黒字幅を拡大させる傾向にあるため,全体としては1~6月に5.3億ドルの黒字となっている。
ソ連・東欧諸国の対西側債務残高は81年末に765億ドルに達したあと,82年9月末には743億ドルへと若干減少したとみられている(国連推計)。
70年代に東西緊張緩和を背景に東西経済関係が著しい進展を遂げる過程で,外貨不足に悩むソ連・東欧諸国は,西側からの機械プラント輸入のためのクレジットや食料輸入のための外貨借り入れを増す等各種の資金流入を図り,債務を急速に増大させた。しかし,80年代に入ると,まず,多額の累積債務を抱えるポーランドが政治・経済危機発生から債務返済困難に陥った。
これを契機に,同様に経済困難に苦しむ東欧諸国への西側からの資金流入は極端に細り,各国とも外貨事情が悪化して,ポーランド以外にも流動性危機に陥る国が現われた。債務返済困難に陥った国では債務返済繰り延べを求めるとともに,IMFやBIS等の国際金融機関の支援を仰ぐことで当面の危機回避を図る国も現われた。それとともに,ほとんどの国が厳しい輸入抑制策と外貨獲得努力を強めることで,負債を減らすことに成功した。
東欧諸国のBIS報告銀行に対する資産・負債状況をみると,81年末から82年末の1年間に資産は59.9億ドルから55.6億ドルへと減少したものの,負債も423.1億ドルから370.3億ドルへと大きく減少したため,ネット・ポジションは48.2億ドルの改善(返済)となった。更に83年上半期だけでも38.0億ドルの改善がみられた (第1-6-5表)。
ソ連・東欧経済が不振に陥っている理由を産業別にみると,第1に農業が振わなくなっていることがあげられる。
ソ連では,ブレジネフ時代になって農業投資の大幅な拡大によって生産を高める政策がとられ,当初は順調な成果をあげた。しかし,基礎食料品価格を低く抑える政策の下で賃金が大幅に上昇したため,畜産品等への需要が急速に増加した。その結果,飼料用穀物の需要が飛躍的に高まったが,生産はさほど増加せず,不作が度重なったことから需給関係は悪化した。72,75年及び79年以降の4年続きの不作(主に穀物)の結果,畜産品不足は深刻な問題となっている。農業不作は物不足の原因となるのみならず,直接的に他の生産計画に影響を及ぼし,農業不作の年は,経済計画は必ずと言って良い程,未達成となった。
不作の原因としては,①天候不順,②肥料・農薬の投入不足,③融雪水,風などの土壌侵食,④輪作体系の乱れによる地力低下,⑤農業機械の整備不良等の作業体制の問題,等が指摘されている。
東欧諸国でも不作がひん繁に発生して,経済活動に暗い影を落としている。更に,ポーランドのように食料不足から社会不安に行き着く例もみられ,農業振興は極めて重要な課題となっている。
工業も近年非効率が問題化している。工業総生産は各国とも70年代後半に目立って増勢が鈍化し,80年代に入るとほとんど停滞し,国によっては低下さえするようになった (前掲第1-6-4表)。
工業の不振が顕在化するようになったのは,①原燃料等の資源供給制約,②大半の国での労働力不足,③設備更新の遅れと新規・拡大投資の困難,④鉄道輸送の問題化等,流通面のボトルネックの発生,⑤計画経済体制下での計画末達成の相互波及,⑥消費財供給不足による労働刺激システムの機能低下,⑦労働規律の低下,など数多くの理由がある。そして,以上の要因は,多くの場合,労働生産性の伸び悩みという形で集約的に現われている。
経済不振の根本的原因を探ると,ソ連・東欧諸国が工業化の初期段階で追求してきた粗放的・外延的な経済発展(資本や労働力を大量に動員して生産の拡大を図る路線)が,労働力増加の頭打ち,投資財源確保の困難化等によって行き詰ったことがある。しかも,代って新たに追求された集約的・内包的経済発展(生産性の向上や生産物の品種改善等,経済を質的に発展させる路線)も容易に進展しないという構造的な問題がある。
また,ソ連・東欧の中央集権的計画経済管理方式は,硬直化し,経済の拡大化や高度化に対応し切れず,いたずらに計画の複雑化や経済管理機構の肥大化をもたらしている。その結果,経済効率化を図ることが困難になっている。それに加えて,一部の例外を除いて市場機能の利用は認められず,経済計算単位としての価格は,多くの場合長期間固定されている。このため,価格にコストや希少性が反映されず,巨大なムダを生じさせやすい構造となっている。更に,企業活動の評価は前年度実績プラス・アルファの計画の超過達成をもって行われるため,新しい技術やモデルの導入のために資材や労働力がその方面にさかれることになれば,従来どおりの計画達成による報奨を受けることは困難になる。こうしたことから,企業は技術革新には極めて消極的となる。以上の諸問題に対して,種々の対策がとられてはいるものの,経済不振化の歯止めとはならなかった。
ソ連・東欧諸国では,経済不振に伴い,多大の軍事負担が投資や消費を圧迫して,生産性向上を妨げ,更に経済成長を阻害するという悪循環が起こりつつあるものとみられる。ソ連・東欧諸国の軍事支出については明確な統計は無いものの,種々の推計から,大幅な負担になっているものとみられる (第1-6-6表)。また,若年人口が増えなくなっている中で兵力維持のためにそうした良質の労働力や頭脳を軍事目的にさかねばならぬことも負担といえよう。
経済不振となったソ連・東欧諸国では,各国の事情に応じて経済調整を進めてきた。対西側貿易で機械設備や飼料輸入の増加から構造的赤字状態に悩み,対ソ貿易でもソ連に原燃料供給を仰がなければならない立場にある東欧諸国では,対外面を重視した経済調整を実施している。貿易・為替制度の柔軟化,限られた資源の有効利用に向けた価格制度の手直し,改革,更には,農業増産,サービス部門の強化のための小規模私営業拡大策等,種々の試みが実施に移されている(第1-6-7表)。
経済管理・計画化についてみれば,大規模経営単位のコンビナートを核として極めて中央集権色の強い東ドイツ方式から市場機能の重視や個人レベルでの経済活動を大幅に認めて分権的色彩を強めるハンガリー方式まで幅広い,しかし,概して言えば,企業レベルでの自主権を拡大して,生産効率,質の改善を目指す,どちらかと言えば分権化の方向が経済調整の主流になっているとみられる。
ソ連・東欧諸国の所得水準は,西側先進国の水準に近づきつつある国があるものの,全般にまだ低水準である(第1-6-8表)。これらの諸国が,現下の厳しい経済情況を脱して,西側先進国の所得水準に到達するだけの成長を実現できるかどうかは,第1に,現在続けられている経済調整(場合によっては経済制度改革)努力が成功するか否かにかかっていると言えよう。そして,第2は,国際政治・経済関係がどのように展開するかも大きな影響を与えるとみられる。
調整のための努力としては,既に労働規律強化・綱紀粛正,労働インセンティブの増加等,硬軟両様の政策が展開されている。しかし,こうした政策には,それなりの効果はあるものの一定の限界がある。
経済生産活動における企業の自主性の拡大を目指した経済制度改革については,かつて60年代において試みられたが政治・社会制度の自由化の恐れと既得権益を守る党・行政官僚の強い抵抗等により多くの国でざ折した。こうした経緯もあり,今後も抜本的な改革は困難とみられる。ただ,ハンガリーでは,共産党の指導性を犯すことなく,また,社会主義体制の枠組から逸脱せずに,市場機能の活用等,経済自由化に実績をあげている。他の東欧諸国でも,この経験に習おうとする国もみられるが,経済規模の違いや社会・文化の違い等からハンガリー方式の改革を目指すにしても部分的な改革にならざるを得ないと考えられる。
社会主義国家の行方に大きな影響を及ぼすソ連の動向をみれば,アンドロポフ書記長は就任直後の演説で,企業,農業集団等の自主性拡大に関して「兄弟諸国の経験を考慮すべきである」との注目すべき発言を行っており,ハンガリー等の改革方式を参考にしていくことが示唆されている。しかし同時に,自主権拡大も責任増大,国家利益との合致が条件であるとくぎを刺している。
一方,東西関係は不安定な状態を続けている。もし東西対立が激化し,軍備の一層の増強や東西経済関係の後退を余儀なくされれば,ソ連・東欧経済にとっては今以上の負担を強いられることにもなりかねない。そうした場合,今までとにかく実現してきた所得水準の向上さえ期待できなくなる可能性もある。したがって,ソ連・東欧諸国は,ますます国内経済と国際政治・経済情勢の連関に注意を払わざるを得なくなるであろう。