昭和56年

年次世界経済報告

世界経済の再活性化と拡大均衡を求めて

昭和56年12月15日

経済企画庁


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第5章 困難深まる共産圏経済と東西経済関係の諸問題

第4節 東西経済関係の諸問題

1. 1970年代における東西経済関係の進展

(1) 70年代における東西経済関係進展の実態

(東西貿易の進展)

貿易をはじめとする国際経済関係は国際分業の利益等の経済的要因で規定されるのが普通であるが,体制を異にする東西間の経済関係はそれとともに政治的要因の影響も受けるという特殊性がある。

戦後の東西経済関係は,この政治的要因の変化に伴い冷却と進展を何度か繰り返してきたが,70年代に入ると折からの緊張緩和を背景に急速な進展をみせた。

これを東西貿易(ソ連・東欧諸国と西側先進諸国との貿易,狭義の東西貿易であるが,以下,東西貿易とはこれを称する)の推移でみると,貿易高(輸出入総額)は,60年代の年率10.7%増から70年代前半には同28.0%増へと伸びが著しく高まった(第5-4-1表)。しかも,70年代前半の東西貿易の伸びは,西側先進諸国やソ連・東欧諸国の域内貿易の伸びを凌ぎ,世界貿易の伸びをも上回った。この結果,世界貿易に占める東西貿易のシェアは1970年の4.5%から75年には5.5%へと高まった。70年代後半には,東西貿易の増勢は鈍化するよるようになったものの,貿易額は引き続き拡大した。

これを東西両側の貿易依存度という形でみると,西側先進諸国の貿易全体に占める対ソ連・東欧貿易の比率は,70年代にやや高まりはしたものの,輸出入ともに3~5%程度のシェアと相対的に小さなものであった。これに対して,ソ連・東欧諸国の貿易に占める対西側先進諸国貿易のシェアは,70年代初から70年代央にかけて,目立って高まり,その後やや低下はしているものの全体の3割前後と西側諸国に比べてはるかに高いウエイトをもつものとなっている。しかも多くの国で,輸出のシェアよりも輸入のシェアの方が高い。

(東側諸国の貿易収支赤字の拡大)

東西間の貿易収支を東側からみると,60年代にはほぼ均衡していたものが,70年代に入って赤字が増加するようになり,とくに1974年頃からは巨額の貿易赤字を計上するようになった。

70年代央に貿易赤字が急増した理由としては,第1次石油危機に伴う西側先進諸国のスタグフレーションの激化とソ連・東欧諸国の農業不振が重なったことがあげられる。まず,ソ連・東欧諸国の輸入は次のような理由から急増した。すなわち,①西側先進諸国の同時不況が西側企業にソ連・東欧諸国の市場性を認識させて積極的た売り込みを促すとともに,そうしたことがソ連・東欧諸国の需要に合致した(ソ連・東欧諸国は,5か年計画目標の達成のため,機械・設備や鉄鋼等の輸入を計画期末に到るにつれて活発化させた)。

②原燃料価格の急騰が,西側諸国からの輸入価格に急速に反映されるようになった。③ソ連・東欧諸国の農業不振は,民生重視策の下で,飼料用穀物等の食糧輸入を増大させた。

他方,輸出は,①西側諸国の深刻な不況のため,ソ連・東欧諸国の主力輸出商品である原燃料や半製品,労働集約型工業品に対する需要が低下した,②農業不作が,ソ連・東欧諸国の食料品輸出余力を低下させたことなどによって伸び悩んだ。この結果,1975年のソ連・東欧諸国の対西側先進諸国貿易赤字は95億ドル(71年は5億ドル,OECD統計に基づく)の記録的水準に達した。こうした大幅な貿易赤字は暫く続き,ソ連・東欧経済,とりわけ東欧経済の発展を制約するようになったことはすでにみてきた。

(東側諸国の累積債務の急増)

ソ連・東欧諸国は,こうした巨額の貿易赤字の一部をユーロ市場等,西側金融市場での外貨借り入れによって決済したが,このため,ソ連・東欧諸国の対西側債務残高は急速に増大した(第5-4-2表)。

西側からの各種の資金協力は,ソ連・東欧諸国の通貨に交換性がなく,またこれら諸国は十分な交換可能外貨準備を持たないことから,東西貿易を発展させる上で,不可欠であった。早くも60年代央において,イギリスがソ連に対するプラント輸出の借款供与に対して政府保証を与えたのを皮切りに,西側先進諸国が相次いで長期信用をソ連・東欧諸国に与えるようになり,70年代に入って緊張緩和を背景に,各種の金融協力が実現されるようになった。こうしたことで,ソ連・東欧諸国の西側諸国に対する債務残高は早くから増大する傾向にあったが,巨額の貿易赤字の決済のための外貨借り入れは,この傾向に拍車をかけた。

ソ連・東欧諸国の累積債務の急増は,ソ連・東欧諸国の債務支払い能力に対する疑念を発生させ,76年のOECD閣僚理事会や先進国首脳会議(サンファン会議)においても,東西経済関係を健全に発展させる必要があるとの見地から議論されることとなった。

一方,東側諸国,とりわけその外貨獲得能力に比べて債務残高の大きい諸国では,この問題を深刻に受けとめたとみられ,輸出拡大や選別輸入等の輸入抑制に努めた。こうしたことが,西側諸国のスタグフレーションの長期化の影響とともに70年代後半の東西貿易の増勢鈍化に繋った。

(産業協力等の進展)

東西経済交流は,単なる商品取引に止まることなく,科学・技術協力,経済開発協力や工業生産協力(いわゆる産業協力),さらには金融協力に至る広範な分野にわたるようになった。

産業協力についてみれば,60年代末から70年代央にかけて数多くの東西産業協力協定が結ばれた(国連欧州経済委員会報告によれば,その数は60年代央の約100件から1973年末には1,000件を突破し,1976年末には約1,200件になっている)。そして,東西貿易に占める産業協力に伴う貿易のシェアは,1975年の約3%から1979年には約20%に高まった。ただ,70年代後半になって,産業協力協定の締結は足踏みするようになった。これは,ソ連・東欧諸国が産業協力にあたって,コンペンセーション取引(注1)やカウンター・パーチェ(注2)スを強く求めたこと,西側諸国の過剰生産能力を持つ部門が産業協力によって競合問題を起こす,いわゆるブーメラン効果(注3)を懸念したこと等による。そうした中で,生産分与方式(注4)による資源関連の投資プロジェクトへの開発協力については,西側先進諸国にとって資源の安定供給源の確保とともに,供給源の多角化という見地から比較的スムーズに協力の進展がみられた。

(2) 東西経済関係進展の背景

次に,こうした東西経済関係進展の背景をみてみよう。東西経済関係の進展の背景には,まず政治面での東西間の関係安定化があったとみられる。

米ソ間においては,60年代の中期頃より,相互関係改善の糸口を求める動きが始まった。特に70年代に入ってからは,米ソ間においては,相互関係の改善を狙いとする種々の協定が結ばれた。経済・貿易関連の協定では,「米ソ合同委員会設置協定《72年5月》」,「海運協定《72年10月》」,「運輸協定《73年6月》」,「租税協定《73年6月》」,「米ソ穀物貿易5か年協定《75年10月》」,(もっとも「通商協定,戦時債務返済協定《72年10月》」は74年通商法の成立により発行をみなかった)がある。また,欧州においては,東西両独基本条約等各種の政治外交上の合意が東西間で成立するとともに,実務面でも独ソ経済・工業・技術協力協定などの各種の協定が結ばれた。

こうした東西間の関係安定化努力は,1975年央に,ヘルシンキにおいて欧州安全保障協力会議(CSCE,欧州諸国とアメリカ,カナダを合せた35か国が参加)首脳会議を実現させるに至った。

こうした政治面での関係安定化とともに経済面での双方のニーズの合致が,経済関係の進展の背景としてあげられよう。すなわち,ソ連・東欧諸国からみれば,①工業の近代化や労働生産性の向上を短期間に実現するためには,西側先進諸国からの機械・設備等の輸入,あるいはノウハウなどの技術・知識の導入が不可欠と考えられた,②資源開発等,大規模プロジェクトを推進するためには,資本や技術不足に悩むこれら諸国は,西側資本・技術の協力を必要とした,③重工業偏重による消費財部門の立ち遅れをカバーするためにも,西側先進諸国からの食糧や消費財,あるいは同関連生産機材の輸入を必要とした,などのニーズがあげられる。

一方,西側先進諸国にとっては,①ソ連・東欧諸国がその経済力から言っても広大な市場性を有しており,魅力的な市場であった②ソ連・東欧諸国,とりわけソ連には大規模な資源エネルギーが賦存しており,資源調達地として魅力があった,③西側諸国はソ連・東欧諸国への輸出拡大によって景気後退による需要低下を多少なりと和らげることが可能であったなどのニーズがあげられる。

こうした双方のニーズは,まず第1に,東西貿易の取引商品構成によく反映されている。第5-4-3表でも明らかなように,ソ連・東欧諸国は機械・輸送機器,鉄鋼,飼料用穀物,さらには一部消費財を輸入している。

一方,西側先進諸国のソ連からの輸入においては第5-4-4表にみられるように石油,石炭,天然ガスなどのエネルギー,木材や綿花などの非食品原材料,あるいは鉱物性原料など,圧倒的部分がエネルギー・一次産品によ,って占められ,また,東欧諸国からの輸入においても,最近まで,エネルギー・一次産品輸入が過半を占めていた。

とくにソ連・東欧諸国からのエネルギー輸入は西欧諸国にとって無視できない重要性をもっているとみられる。西欧諸国のエネルギーの対ソ連・東欧依存は年々高まりをみせ,近年では,石炭等は1/4近く,石油においても1割近くにまで達している(第5-4-5表)。

2. 70年代末以降の東西関係の緊張

(1) 対ソ経済措置の発動

こうした中で発生した1979年末のソ連によるアフガニスタンへの軍事介入は,イラン革命等で不安定化していた中東情勢を一層激化させるとともにソ連の一貫した軍事力増強とその意図に対する西側諸国の疑念を高め,東西関係に大きな影響を与えた。ソ連は,アフガニスターンへ軍事介入によって,緊張緩和を基調とする東西関係を破壊するものとして強い国際非難と対抗措置を招くに至った。

アメリカはアフガニスタン問題発生直後の80年早々SALTIIの議会審議棚上げを始めとする一連の対ソ措置を発表するととちに,カーター大統領は,その年頭教書の中で,ソ連の侵攻が中東に深刻な脅威をもたらしているとして,いわゆるカーター・ドクトリンと呼ばれる強い外交姿勢を明かにした。それと同時に,西側諸国との間で対ソ措置につき共同歩調をとるべく努めた。

アメリカの対ソ経済措置は,①高度技術と戦略物資の対ソ売却停止,②米国専管水域内のソ連の漁業権益の厳重な制限,③5か年にわたる米ソ穀物協定で決められた量を超える1,700万トンの穀物輸出停止等身内容としていた。また,同盟国や友邦に対しては,ソ連との通商を抑制し,アメリカの禁輸の穴埋めをしないよう働きかけを行った。

一方,アメリカ以外の西側先進諸国でも,イラン,アフガニスタン問題をめぐって協調・協力関係強化の必要性が強く詔識されるに至り,各国間で相互の意見調整がなされるとともに,それぞれの立場から対ソ措置が打ち出された。

これに対して,ソ連は,緊張の激化はカーター政権の冷戦政策によるものとして対米非難を強め,対ソ関係は冷却化した。一方,西欧諸国に対しては,西ドイツ,フランスとの首脳会談にみられるように外交攻勢を活発化させるとともに,緊張援和,経済協力の継続を呼びかけた。

(2) その後の展開

アフガニスタン問題で不安定化した東西関係は,1980年夏のポーランド情勢の緊迫化で一層不安定の度を高めた。

こうした厳しい情勢の下に,81年1月に発足したレーガン政権は「強いアメリカ」を標傍し,ソ連に対して強い姿勢を打ち出すに至った。

経済面では,レーガン政権は,大統領選での公約に基づき81年4月に対ソ穀物輸出制限を解除したが,戦略物資や高度技術の対ソ輸出に関しては厳しい態度をとった。

81年7月のオタワ・サミットにおいては,西側主要国は,「東西経済関係においては,政治・経済上の利益と危険との間に複雑なバランスが存在することを認識した」とし,「東西関係において,われわれの経済政策が,今後ともわれわれの政治安全保障上の目的と適合することを確保するため,協議及び必要に応じ,調整を行う必要があるとの結論に達した」と述べそいる。

3. 最近の東西貿易

80年代に入って東西経済関係を取り巻く環境が大きく揺れ動く中で,東西貿易も伸び悩みをみせ,最近では停滞さえ示している。もっともこれには,東西関係の不安定化だけではなく,東西双方の経済パフオーマンスの悪化が大きく影響している。

東西貿易は,輸出入総額の推移でみると,1979年の前年比26.7%増から,80年には同14.7%増となり,更に81年1~5月では前年同期比0.4%の減少となった。これは,ソ連・東欧諸国の輸出が,①西側先進国の景気停滞,②ソ連・東欧諸国の経済パフオーマンスの悪化による輸出余力の低下,③ソ連・東欧諸国の西側先進諸国向け主力輸出商品であるエネルギー・一次産品価格の低落,などで伸び悩むようになり,最近では減少さえ示すよう,になったためである(第5-4-6表)。一方,西側先進諸国からの輸入は,外貨事情が比較的良いソ連では80年に対ソ経済措置などでやや伸び悩みをみせたものの,81年に入って再び増加したが,外貨事情の苦しい東欧諸国では輸入抑制等で増勢鈍化し,81年に至って減少した。このため,ソ連・東欧諸国の西側先進諸国からの輸入は全体として増勢鈍化傾向を示している。

そうした中で,対ソ連・東欧貿易における西欧諸国とアメリカの違いが目立つようになっている。東西貿易の大半を一占める(80年では84%を占める)欧州OECD諸国の対ソ連・東欧貿易をみると,輸出は80年に入って安定した伸びを示したが,81年になると停滞を示し,他方,輸入は80年には2割以上の増加と好調であったが,81年に入ると減少するようになっている。これに対して,アメリカの対ソ連・東欧貿易をみると,輸出は,穀物の減少のために80年に大幅に落ち込んだものの,81年には再び急拡大するようになり,輸入も輸出とほぼ同じ動きを示すなど,西欧諸国とは異った動きを示している。こうしたことの背景にはアメリカの対ソ連・東欧貿易が穀物取引を中心としているのに対して,西欧諸国の対ソ連・東欧貿易は,東西両欧間には地理的歴史的に緊密な結びつきがある上,工業品とエネルギーとの取引が中心てあるため双方の経済バフォーマンスの好不調に影響され易いという貿易構造の違いもあると考えられる。

東西経済関係は,60年代から70年代を通じて,幾多の困難を伴いながらも着実に発展してきた。しかしながら,東西間の経済交流はたとえば貿易一つをとってみても,まだ小規模と言わねばならい。世界のGNPの約63%を占めるOECD諸国と同じく約4%を占めるOPEC諸国との貿易は世界貿易の約15%を占め,OECD諸国と世界のGNPの約12%を占める非産油途上国との貿易は世界貿易の約18%を占める。しかるにOECD諸国と世界のG NPの約15%を占めるソ連・東欧諸国との貿易は世界貿易の約5%を占めるにしかすぎない(いずれの数字も1979年時点)。こうしたことは,東西関係が安定化すれば東西貿易は今後拡大する可能性があることを示すものと言えよう。