昭和54年
年次世界経済報告
エネルギー制約とスタグフレーションに挑む世界経済
経済企画庁
第3章 スタグフレーションと世界経済
(1)主要先進国経済は日,独等の例外を除いて,第一次石油危機以降そのインフレ体質を悪化させて来た。とくに重大なのは基軸通貨国であるアメリカが,賃金の下方硬直性,生産性の伸び悩みという面でインフレ体質に転化したことである。その一方で労働力供給の面でも構造変化がつづいている。こうしたことから主要先進国は物価と雇用のトレードオフの悪化に悩まされている。第二次石油危機はそれを一層深刻なものとした。
インフレと失業の共存―スタグフレーションはどうすれば克服できるであろうか。
(2)スタグフレーションの二つの要因の内,まずインフレについて考えて見よう。最近の先進国のインフレ悪化には,①外生的なインフレ始発要因と,②内部的なインフレの勢いの保持要因の二つが関係している。インフレ始発要因は更に本当に外生的なエネルギー危機によるエネルギー価格の高騰や農産物不作による食料価格の高騰等と総需要管理政策の失敗による需給ひっ迫の二種類に分けられよう。この内前者については,エネルギー危機や農産物不作自体を起さないようにする以外の対策はない。ある商品の価格が供給制約から上昇した場合には,それを適正に相対価格の変化に反映せざるを得ない。
(3)さて,インフレ始発要因の内の後者については,総需要管理政策はこれを慎重かつ状況の変化に応じて機動的に運営することである。第一次石油危機以降の主要国の財政・金融政策の運営は,アメリカを除いて極めて慎重であった。またそのタイミングについていえば,素早く引締めに転じた独,米及び日が第一次石油危機によるインフレを早期に鎮静させたのに対して,それの遅れた英,仏,伊は後々まで高いインフレに苦しんだ。もっとも第一グループの中で米は78年以降引締めの転換が遅れたこともあって再びインフレが高進することとなっている。
(4)インフレ悪化の第一の要因,内部的なインフレの勢いの保持要因に対する対策は構造政策と所得政策の二つの政策がある。
ここに構造政策とは,生産性向上,経済の効率化のためのミクロの対策を総称している。需要管理政策が需要を制御することによって需給のバランスをとろうとするのに対して,これはより積極的に供給能力を強化しようとするもので,供給管理政策といいかえることもできよう。これは更に①生産性向上のための設備投資・研究開発の促進,②保護主義的措置その他の非競争的要因の縮小・撤廃,⑧政府部門の比重の縮小,政府規制の再検討等に分けられる。
まず設備投資研究開発の促進については,適切な需要の維持・インフレ抑制と合わせて,税制・金融面での優遇措置が必要となる場合もあろう。
設備投資不振の原因が単なる需要不足だけでなく労働やエネルギーの実質価格の増大や将来の不確実性の増大等にもある場合には,とくにそうである。主要国においても投資税額控除の拡充,強化(米,78年),減価償却率の引上げ(独,77年),設備投資額課税所得控除(仏,79年)などの投資促進策がとられている。
保護主義的措置等の縮小撤廃については,79年4月,東京ラウンドの合意が成立し,自由貿易体制の維持,関税,非関税障壁のひきつづく削減努力が確認された。競争促進のためには国際競争,とくに労働コストの低い途上国とのそれを促すことが最も効果的なことにかんがみ,各国がこうした方向で開放体制を維持・強化していくことが望まれる。そのためには国内で積極的調整を推進することが必要となろう。また,国内競争政策面でも,近年西ドイツ,アメリカ,フランス,我が国において合併規制の強化をはじめとする独占禁止法上の構造的規制の強化策が講じられるとともに,独禁法適用除外分野の見直しが行われている。
政府部門の比重の縮小,政府規制の再検討等についてもすでに述べた通り,米,英,仏等が鋭意これを推進している。
(5)労働力自体の生産性を向上し,また,労働供給を需要にマッチさせる労働力対策も供給管理政策の重要な一環である。とくに若年労働力に対しては,その能力開発は投資と同じ意義をもつ。そのため教室,職場両方での職業訓練の強化が必要である。若年労働者が市場で売れる技能を身につけることは社会全体としても有意義であることを考えると,政府が一部訓練コストを補助金の形で企業に支払っても職場での訓練を実施する意味があると思われる。幸い労働力人口の伸びは多くの国で80年代後半に大幅に減少するものと見込まれている。80年代の前半を乗り切れば少くとも雇用面からのスタグフレーション悪化要因は弱まるものと期待される。
(6)さて,OPECの石油価格引上げ等による外生的インフレを内生的インフレに転化させないためには,それによる所得流出分だけ生産性上昇率が鈍化することになるので実質賃金の伸びを生産性上昇率の範囲に抑えることが必要なのは,本章の分析で明らかにしたとおりである。こうした問題に対処しようとする政策の一つとして所得政策がある。
所得政策は60年代クリーピング・インフレーションの発生とともに生まれて来たものであるが,石油危機以降でも多くの国で援用されて来た。主要国について見ても,その形態はいろいろであるが,英(72年11月~79年6月),豪(75年4月以降),加(75年10月~78年12月),伊(76年秋以降),仏(76年9月以降),米(78年11月以降)と,独,日を除くほとんどがそれに頼ってきた。
しかし,ほとんどの場合,所得政策はその所期の効果を挙げ得なかったといえよう。たとえその採用当初は効果が挙がった国でもすぐ不公正や資源配分のゆがみが累積して廃止の止むなきに至る場合が多かった。そうしたことから79年末現在,英,加は所得政策を廃止している。
そうした中で所得政策の有効性を高める試みも見られる。それは米で79年初頭に提案された実質賃金保障制度である。これは賃金上昇率のガイドラインを遵守することが個々の労慟者にとって得になる(損にならない)というインセンティブ・メカニズムを所得政策に組み込もうとしたもので,所得政策の一つの新機軸として注目される。しかしながら,これらの試みを含めた所得政策が有効に機能するためには,社会の諸集団間のインフレの原因に対する理解の一致,国民的コンセンサスの形成が必要とされよう。
(7)スタグフレーション克服の道は容易なものではない。慎重かつ機動的な総需要管理,生産性向上のための構造対策,人的能力開発対策,さらに賃金,物価の悪循環に陥っている国では所得政策面での実験等を合わせ活用しつつ辛抱強くスタグフレーションとの戦いをつづけなければならない。