昭和50年
年次世界経済報告
インフレなき繁栄を求めて
昭和50年12月23日
経済企画庁
第2章 トリレンマの変貌
1974年に世界の石油消費量は前年の27.76億トンから27.43億トンへと1.2%の減少となり,なかでも,純輸入国のアメリカ,日本,西ヨーロッパの合計(世界の消費量の約3分の2を占める)では4.9%の減少となった(ブリティッシュ・ペトロリアム推計)。その結果,世界の石油輸入は15.1億トンから14.8億トンへと約3%減少した。もっとも,74年には後述するように在庫が大幅に増えたためこの程度の輸入の減少にとどまったものであり,在庫の増加となった分を除いた輸入を前年と比較すると,ほぼ5%の減少と,輸入国での消費の減少と見合った動きになる。
在庫の動きについてみると,73年に石油危機にもかかわらず在庫がかなり増加した後,さらに74年中にも全世界でl.1億トンの増加とかってない規模での在庫増が生じた。これは,ほとんどが意図せざる在庫増と見られるべきものであり,需給の緩和が石油会社の予想を大幅に上回るものであったことを示している。なお統計の得られる国について在庫の動きを見ると第2-35図のとおりである。
次に75年に入ってからの動向をみると,前年に累積した在庫を調整する動きが,引続く消費の減退と相まってOPEC諸国における大幅な減産を招いた。世界銀行の推計によれば石油の在庫残高は75年に減少に転じ,加えてOECD諸国の在庫変動分を除いた石油輸入がさらに1%弱減少することが見込まれる(第2-36表)。この在庫増加のマイナスへの変化幅1.4億トン,消費の減少による影響0.1億トンがOPECからの石油の輸入減1.5億トンを説明している。
OPECの自家消費のみは増加したが,絶対量はそもそも小さい。従って,上記の事態の結果,大幅な減産が引起こされた(第2-37図)。さきの見込みによれば,OPECの生産は75年中13.6億トン(日産2,750万バーレル/日)と,74年にくらべて11%減の低水準にまで落込むものとみられる。現に75年の実績では,最近,値上げを見越した在庫積増しから一時的な生産の回復が見られたものの,75年3,4月には74年平均の水準に対する減産率16%,石油危機前の操業水準に対するそれは実に21%という低水準を記録した。
この石油危機以来の落込みに対する各国の減産の寄与率を見ると,サウジアラビア37%,クウェート19%,リビア17%といったところが目立っている。いわゆるロー・アブソーバーと,運賃,品質差によるプレミアムから割高となった油種の産出国とで減産幅が大きかったわけである。
つぎに上記のような需給緩和の原因は何であったのだろうか。在庫の動きは需給緩和の時期を左右したのみと考えられるので,以下では消費の減少―それはほとんどがOECD地域で起った―の原因をみることにする。
最近数年間のOECDの石油消費とGNPを増加率で比較すると第2-38図の通りである。これによると,70年代に入ってからの石油消費のGNPに対する弾性値は1.2~1.3程度で安定している。この弾性値からしても,OECDの石油消費量減少は所得の動きによって説明しうる以上に落込んでいることがわかる。まりGNPの伸びがほぼゼロであるから,約4%の減少が説明されずに残る。
このような所得の停滞以外の石油消費減の原因は三つある。
第一の理由は石油価格上昇の効果であり,第二は,73~74年の暖冬に続く74~75年の暖冬であり,第三は各国でとられた消費規制,節約キャンペーンの効果である。
これらのそれぞれの寄与を求めることは難かしいが,第一の要因,すなわち価格の効果については,軽視できない。第2-39表によれば,74年には,エネルギー消費に占める石油の割合が,日本,ヨーロッパにおいて,前年より小さくなっている。さらにEC委員会の推計によれば,ECにおけるこの割合は,73年59%,74年57%,そして75年には53~54%となると見られる。これは割高な石油に対する代替が進んでいることを意味している。
さらに石油製品の消費を品目別に見てみると,中・重質油において減少率が大きい(第2-40表)。また国別にみるとアメリカでの消費減少はヨーロッパでのそれに比べて小幅である。このことは,中質油,重質油に関しては代替エネルギー源が豊富であるため,代替の作用-すなわち価格の効果-が働いたことを裏書きするものである。従来からの研究(注1)でも,中・重質油においては価格弾性値が高いことが見出されているから,従来から経済に内在している価格メカニズムが今回も働いたといえよう。
中・重質油の消費が,他の油種よりも大幅に減退したことは暖冬の影響でもあろう。ヨーロッパのOECD諸国についてみると中・重質油に占める家庭用,第三次産業用(交通用を除く)の割合は34%であってかなり大きい。しかし,中質溜出油(軽油,ディーゼル油など)(注2)のヨーロッパにおける減少幅をすべて暖房用の減少と仮定してもOECDの石油消費の減少のうち所得で説明できなかった約4%のうち1.3~1.4%程度がこれによって説明されるにすぎない。
つぎに自動車の速度制限,暖房の室温規制などの消費抑制やその他の節約キャンペーンの効果であるが,これを価格上昇に影響された消費者の自発的な節約と区別することはできないが,室温規制などは成功すればある程度の効果が期待されよう。
1973年の初頭以来,数次にわたって引上げられてきた石油価格も74年1月に公示価格がアラビアン・ライトで11.651ドル/バーレルに引上げられたあとしばらくの間,据置き期間がみられた。しかし,それも7月までで,その後は,利権料と所得税(利権原油における政府取分をなすもの)の引上げが行われ,また10月より,政府取分が引上げられるなど,価格決定方式は変更を重ねた。
そして,11月中旬には,アラビア湾岸6ヵ国石油会議(アブタビ会議)において,サウジアラビア,アブタビ,カタールの3カ国のみは公示価格の引下げ,そのかわりの利権料や所得税率の引上げを行うことになった。これが注目を要する理由は,このいわゆる3ヵ国方式が75年1月から実施された新価格体系の根拠となったためである。
74年12月のOPEC総会では,9月総会以来の懸案事項であった,原油価格のインデクセーション(インフレ・スライド)や,公示価格の廃止による単一価格の設定が議論されたが,インデクセーションについては,同年9月のOPEC閣僚会議で採用の方針が決っていたにもかかわらず,実施の決定が見送られ,以後の検討に委ねられることになった。
単一価格については,100%国有化のすんだイランが強く主張していたものであるが,他の産油国での国有化が終了していない以上,OPECとして価格決定に際しての二本立て方式を完全に捨て去ることは急にはできず,上記の3ヵ国方式のほぼそのままの形での採用となったわけである。
この新価格体系の特徴は,第一に総会後のコミニュケで平均政府取分10.12ドル/バーレルだけを示したことである。第二には消費国にわたる際の標準価格がイラン内相の発言や3ヵ国方式によって10.46ドルと推定されたことである。事実,この数字は1975年9月の〃石油価格〃(標準の販売価格)に関する決定で裏書きされている。第三の特徴は,DD原油(産油国政府とメジャーズ以外の購入者との直接取引にあてられる原油)の価格は,10.46ドルに定められ,従来のDD原油の割高感が解消されたことである。
これらの特徴は,いずれも,単一価格制度に向っての前進を示すものであるにもかかわらず,原油価格は10.46ドル以下にもなりうる余地が残された。
すなわち,上記の平均政府取分や標準(平均)価格は,利権原油(メジャー等操業会社の分)40%,参加原油(産油国政府の持分)60%というウエイトで加重平均された結果の数字であるから,もし操業会社が参加原油の引取り(バイ・バック)を減らせば,割安である利権原油のウエイトが高まり,平均値(=標準価格)は下る。
この総会において同時に75年9月までは価格の引上げを行わないという決定が行われたが,その75年9月には,10%の原油価格の引上げが実現した。
この時の決定の特徴は第一に,公示価格や政府取分ではなく,標準販売価格で値上げを表わしたこと,第二に運賃,品質の差によるプレミアムの調整の自由を残すことによって,アラビアン・ライト以外の油種については10%以下の値下げにする余地を残したこと,第三に値上げ後の価格凍結を76年6月末まで行うこと,であった。
総会終了後,各産油国は遂次それぞれの値上げ幅を発表している(第2-41表,なお今日の価格調整はまだ流動的なものが多く,この表は11月初段階での姿を示すにすぎない)。これはペトロリアム・インテリジェンス誌によれば,平均で9%程度の消費国の負担増となるとされている。しかし,各国の値上げの仕方は様々で,インドネシアは大半の油種について1.6%しか値上げしていないのに対し,ナイジェリアは10%以上などと,違いが大きい。また,例外はあるものの全般的な特徴として,サルファー分が低いものほど,また比重の低い(グラビティーの数字の大きい)ものほど,値上げ率が小さいという様相が見受けられる。
これは石油需給の緩和にともない,タンカーレートの低下によって運賃のプレミアムが割高となったばかりではなく,品質のプレミアムについても見直しの気運が出て来たことの結果である。この動きはすでに75年始めから,リビア,ナイジェリア等の公示価格,販売価格の数回の引下げに表われて来ていたものである(第2-42表)。
今回の値上げの背景として注目しなければならないのは74年以来根強かったOPEC諸国でのインデクセーションの主張が,イランを中心とする大幅な値上げを要求する主張につながったことである。結局10%に値上げ幅が決ったのはサウジアラビアとの妥協の結果であった。また,75年6月までのドルの下落の時期には,SDRで石油価格を表示することにより,ドルの減価に際しては自動的にドル建ての石油価格が上昇するようにしようという提案がなされるなど産油国の石油収入の購買力維持に対する熱意は強かった。
産油国側は9月のOPEC総会前にしばしば行って来た主張の中で産油国の購買力が30%減少している,と述べて来た。一方,石油価格は,74年1月以来9月の値上げを含めて約20%上昇して来ている。しかし,これは74年以降のことであろう。仮に73年平均を基準としてみれば,アラビアン・ライトの政府取分は5倍以上も上昇しているのに対し工業品価格の上昇はこれをはるかに下回る。74年以降の交易条件の不利化はそれ以前の有利化にくらべて問題にはならないともいえよう。また産油国の主張は,石油値上げと工業国のインフレの間におこるスパイラルをたち切る責任が先進国にある,というものであるが,石油価格の引上げにもかかわらず,先進国がこれを工業品価格に転嫁しないですませうるという見方は非現実的である。
ところで,世界的な石油需給の緩和のなかでOPECのカルテルが崩れなかったのは,いうまでもなく,サウジアラビアやクウェートなどが,本節の前半でも述べたように減産の多くを背負ったためである。このように輸出所得の一時的減少がほとんど問題を引起すことのない国を持っていたことは,このカルテルの強みであった。この体質のおかげで,市場メカニズムによってカルテルは崩壊する,という超楽観論者をOPECは裏切ることができたわけである。とはいえ,減産に追込まれたのは程度の差こそあれ,サウジアラビアやクウェートだけではなかったのはさきに見たとおりであり,先進国の景気は遠からず回復に向うという見通しがあったからこそ75年10月の値上げも成立したのだといえよう。このことは世界各地での石油製品価格が弱含みである状況のもとでの値上げであったという事実をみても明らかである。
(国際商品相場の激変)
1972~73年の先進工業国の同時的景気上昇と世界的な農業不振から大幅な上昇をみせた石油以外の一次産品価格も74年来の世界不況の中で低落した。その結果,75年10月の国際商品相場の水準は,72年後半以来の上げ幅の半分をもどしたことになる(第2-43図)。
しかし,商品別に相場の動きをみると,最高値までの相場の値上がり幅に大きな差がみられると同様に,最高相場現出後の最低値までの下落率にも大幅な差がある。
このような差をもつ一次産品価格は大別して,鉄鉱石,石炭,原油などのように,取引量の大部分が長期契約にともなう価格契約や一方的な価格決定により取引価格が決まるものと,世界の主要商品取引所の相場によって決まるものとに分れる。さらに,相場商品についても主として需給関係によって相場が形成されているものと,すず,亜鉛などのように価格支持が実施されているなどの需給関係以外の要因が働いているものとによって異なり,その相違が個々の商品相場に明確にあらわれている。そこで,商品相場の変動要因について,穀物では小麦,非鉄金属では問題はあるが銅を中心に検討しでみよう。
イ 小麦相場の変動要因
米国は世界の食糧の主要供給国であり,また,シカゴ穀物市場は世界の取引市場の中心地である。
ここでの小麦の現物相場は,世界需給の上に立った需給見通しや,主として米国農務省発表の小麦の予想量(生産量,国内消費量,輸出量,在庫量)に左右されるといわれている。このような前提にたち,生産量,輸出量及び在庫量を変動要因として価格との相関式から要因分析をしたのが第2-44図である。
同図をみると,74年第1四半期への値上がり期にあっては,在庫の減少及び輸出の増大という値上げ要因が生産の増大という値下げ要因を上回っていたこと,また,75年第1四半期への値下がり期にあっては,輸出の減少と生産の増大という値下げ要因があったことがわかる。
ロ 銅相場の変動要因
非鉄金属相場をみた場合,最も世界需給や市場関係によって相場を変動させているとみられるのが銅相場である(第2-45図)。
勿論,政治的要因等の特殊要因から,需給要因による相場の変化幅以上に上下することもあるが,基本的には需給関係で相場が動いていることは,第2-45図にみるとおりである。その中ではLME(ロンドン金属取引所)在庫の増減が相場に最も強く働いていることを示している。
つぎに相場に大きく影響するものは世界景気の好不況である。とくに,73年の先進工業国の同時的好況が一次産品への急速な需要の増大をもたらし,相場上昇の大きな力となった。しかし,物資の流通に必要とする通貨量を除いた資金量の過不足や銅の生産量の銅相場に与える影響は,73年以降の相場の激変期には,一般的に言われているよりもその影響力は小さいものであった。
これを73年から75年にかけての銅相場の著しい上昇,下落期についてみると,その最大の要因は在庫要因で,つぎは世界的な銅需要量を左右する景気要因であった。しかし,その他の役機的要因による変動幅も大きく,下落期にもその速度は速いものであった。
(商品相場変動の共通要因)
73年以降の国際商品相場の上昇と,74年以降の下落には,全商品を通じてつぎのような原因があった。①世界景気の同時変動-71年末のスミソニアン前後,先進各国の景気が停滞していたが,72年央以降,一斉に好況に転じたため,需要が急増し,これが相場上昇の原動力となった。しかし,74年初めからのOPECの原油価格の大幅引き上げによるデフレ効果やインフレ,国際収支の赤字に対処した引き締め策から世界的な不況となり,需要が急減したこと。②インフレ心理―世界的なインフレ・ムードから国際商品市場に投機資金が投入され,実需筋の買い急ぎもあって必要以上に相場を押し上げた。この投機には実需を伴なわないため,その反動による値下がりもまた大きくあらわれたこと。③世界的な天候不順-72年の天候不順で世界各地で農産物が不作となった。一方,世界の穀物倉庫といわれるアメリカやカナダなどで農産物の過剰在庫対策から減反による生産縮小策をとっていたため,ソ連,中国の穀物大量輸入により世界的な在庫不足が生じ,農産物不足が叫ばれ,相場を押し上げたこと。
もちろん穀物等の農産物については,人口問題,食生活の向上,東西貿易の拡大等の長期的・構造的問題があり,非鉄金属についても,公害,環境問題,一次産品産出国のナショナリゼーション,人口増に伴う天然繊維需要増などの構造的要因が背景にあるが,今回の場合も需給の大急変に伴う相場の大幅な上昇・下落が経験されたのである。こうした価格変動が,とくに一次産品輸出に依存する諸国に与える影響は重大なものがあると考えられる。