昭和48年
年次世界経済報告
新たな試練に直面する世界経済(資源制約下の物価上昇)
昭和48年12月21日
経済企画庁
第2章 先進諸国の物価問題
物価上昇が問題とされるのは,それが経済・社会全般にいろいろな歪みをもたらすからである。
物価上昇は,①資源の最適利用を妨げるので,調和のとれた経済発展を実現していくうえで,種々の問題が生じるほか,②所得や富の分配の不均衡を拡大し,とくに低所得層は生活が一層苦しくなる。また,③各国間の物価上昇の速さの相違により,貿易収支の不均衡をもたらし,国際間に経済的な摩擦を引き起す。
物価上昇の弊害は,物価上昇率が高ければ,それだけ大きいといえる。現在先進国が当面している物価上昇は60年代のそれに比べ約3倍の速さで進んでいるだけに,経済・社会へ及ぼす影響は大きいとみられる。
ところで,現在のはげしい物価上昇のもとで,一番問題とされているのは,所得の少ない人々の生活を一層苦しめているということであろう。
そこで,以下,物価上昇が国民生活や社会に及ぼす影響面にしぼって各国の実情をみることにしよう。
(所得と富の分配へ及ぼす効果)
物価の高騰は先進各国が福祉政策の重要な柱として推進している所得と富の分配の平等化を妨げるばかりか,その不均衡をさらに拡大する。物価高騰を利用して不当な利益を得る人がいる一方で,年金受給者のような低所得層にその負担が偏りがちであるところに問題がある。
① 賃金労働者
毎年のように賃上げが行なわれている賃金労働者の場合でも,実質所得が低下するという現象がおこりうる。アメリカの例をみよう。
72年末から73年にかけて先進各国の経済は物価の上昇を伴ないっつ急速に拡大したが,この間に雇用者所得はどのような変化をしたであろうか。一般に景気上昇時には,生産性の上昇によって製品の単位当たりのコストは下がるが,現在ではこれが価格の引下げに結びつきにくくなっており,この結果企業利潤は急増する。一方,賃金(雇用者所得)は生産性の上昇に遅れて増加するため,景気上昇時には雇用者所得の国民所得に占めるシェアーは低下する(これを賃金ラグというが,賃金ラグはいずれ賃金の上昇により解消に向う)。
こうした賃金ラグの存在のため,景気の上昇過程で物価が急騰するときには,単に雇用者所得の国民所得に占めるシェアーが低下するだけでなく,雇用者の実質所得,実質可処分所得が絶対額でも減少するケースが生じる。アメリカにおける民間非農業労働者の実質可処分所得をみると69,70年に不況と物価高騰のため減少したあと,71年以降景気の回復により増加に転じた。しかしながら72年10月を境にはげしい物価上昇のために実質所得,実質可処分所得は減少を続け,73年6月にようやく増加に転じている(第2-9図)。このように景気が上昇をつづけても,物価が高騰すれば,賃金労働者の実質賃金,実質可処分所得は減少する場合がある。好況下の物価上昇により72年10月から73年3月にかけて民間非農業労働者の実質可処分所得(4人家族)は週平均2.68ドルも減少を示しており,この額は69年,70年における不況下の物価上昇によって減少した1.49ドルを大きく上回っている。こうしたケースはイギリスでもみられた。
② 年金受給者
収入が固定されている人々の実質所得水準は,物価上昇率だけ低下する。
欧米諸国ではほとんどの国で,年金の物価スライド制(スウエーデンなど),ないしは賃金スライド制(西ドイツなど)がとられているため年金の購買力が低下するケースはみられなくなっている。
しかしながら,年金の引上げにもかかわらず年金受給者の大半は老令,低所得階層であるため,次に述べるように物価上昇の負担はより重いと言えよう。
③ 低所得階層の人々
物価が上昇しているといっても,家計に与える影響は所得階層によって一律ではない。一般的にいって収入が少ないものほど物価上昇による苦痛は大きい。
今回の物価高騰は食料品や農産物の急騰を主因として上昇したため低所得層へのその負担感は,従来にも増して強まっているとみられる。例えばイギリスの一般小売物価指数の動きと,低所得階層の小売物価指数を代表するものとして年金受給者の小売物価指数の動きを比較すると(第2-10図),71年第1四半期を100として73年第2四半期には年金受給者(1人)の小売価格指数は121.8であるが,一般小売物価指数は119.0である。この乖離は72年第3四半期以降大きくなっている。この原因は家計支出に占める食費のウエイトが年金受給者(1人)では42.2%であるのに対し,一般家計では28.4%と低いことにあり,食料品の高騰は低所得層へより強く影響を及ぼしている。従って最低賃金や年金が物価にスライドして引上げられているとしても,物価上昇の負担は低所得層により重くかかって来ており,社会的な不均衡は拡大しているといえよう。
さらに低所得層は資産保有の面からも物価上昇により不利な影響を受ける。低所得者は負債が僅かであるtこめ物価上昇による債務者利潤は高所得者に偏りがちである(第2-11図)。さらに低所得者の資産は金融資産の形態で所有される率が高く,物価上昇による資産減価の割合もそれだけ高いと言えよう(第2-12図)。
④ 消費者
金融資産の分布を一国全体についてみると,各国とも家計が貸し手で,企業は借り手である(第2-5表)。物価の高騰によって借り手の負担は減少する。これをインフレによる債務者利潤という。企業の債務者利潤は企業活動に参加するものだけに分配される。
政府が借り手の場合には,それが公共サービス価格の低廉につながっている限り,国民一般に債務者利潤が還元されるとみられる。
(社会,政治に及ぼす影響)
物価の高騰が長期にわたり持続すれば,国民の心理面へ与える影響は次第に大きくなる。一般の国民はたとえ物価高騰によって名目所得が増大したことにせよ,所得は自分の努力で獲得したものだという心理に支配されている。したがってその実質購買力が物価高騰により減価して行くときには,それにより所得水準が低下するという不満を強く持つようになる。
また,インフレマインドが強まれば,既に指摘したように土地などへの投機が発生し,売り惜しみ,買い急ぎがみられるようになる。このような動きは物価安定を困難ならしめるだけでなく,富の分配,所得の分配の不均衡を拡大させ社会的不満を強めることになる。
また,物価上昇は,長期的な見通しを不安定にするから生活設計がたてにくくなり,この面でも国民の不満を強める。
こうした不満を人々に与えることが物価上昇のもたらす諸弊害のなかでも最も悪い弊害であるといえよう。社会的不満は政治不信をもたらし,圧力団体の主張をますます強める結果を招く。
このように物価上昇は国民生活のあらゆる面で種々の摩擦を引き起す原因となる。
(物価高騰と斗う消費者)
物価の高騰に対し多くの国で市民の自発的な自衛行動がとれたのも,今回みられた大きな特色である。それだけ今日の物価高騰はきびしいものといえよう。
アメリカでは73年1月に物価賃金規制第3段階へ移行後物価は急騰し,2月の消費者物価は前月比0.8%の急騰となった(22年来の最高)。この上昇のほぼ2/3は肉など市民生活に直接響く食料品の値上がりによるものであった(第2-13図)。こうした激しい食料品の価格上昇に対抗して,3月以来主婦による牛肉の不買運動がほぼアメリカ全土で同時に自発的に起った。これまで連邦政府は食肉の高騰に対し,価格凍結をすればかえって将来の食肉の供給量を減退させ,より大幅な価格上昇をもたらす結果になると説明し,価格凍結の意志のないことを明らかにしていた。いくつかの消費者団体はこれを不満として政府に食肉価格凍結を迫るため4月1日から7日まで食肉不買を呼びかけるとともに火曜と木曜日は肉なしデーとすることを提案した。合同自動車労組(UAW)などの組合も,この運動に参加することを決定し,政府に食肉価格の凍結を迫った。今回の不買運動は戦後3度目(1回目は1948年,2回目は1966年)の経験であったが,今回の場合は物価上昇が激しいだけに最も強力であった。3月29田こ大統領は朝鮮動乱時以降初めて食肉の小売価格に上限を設定することを発表し,「主婦と農民の協力を得て食肉価格は下降させうるし,そうならなければならない」と述べた。
こうした動きは西欧でもみられた。例えば,西ドイツでは73年7月から8月にかけて主婦によるミルクや食肉の不買運動が起きた。フランスでは73年11月,小売マージンの凍結に反対する小売商のストが全国的に広がったが,消費者連盟はこれに対抗して主婦に不買運動をよびかけた。
マルセイユなどでは生産者の直売などもおこなわれた。この反面,物価高騰に対する消費者の対応として,住宅,耐久消費財などの買い急ぎが多くの国でみられるが,これはかえって物価高騰を促進する原因にもなっている点は注意しなければならない。