昭和42年

年次世界経済報告

世界景気安定への道

昭和42年12月19日

経済企画庁


[前節] [目次] [年次リスト]

第2部 世界の景気変動とその波及

第5章 景気変動と経済政策

3. 近年における政策手段の特徴

景気政策の主要目標が金融・財政措置を通ずる需要の調節にあることはいうまでもなく,その点は今日でも変わらないが,そのほかにそれを補足する各種の政策手段が多くとられるようになったことが近年の特徴であり,そのなかには近年になってはじめて開発された政策手段もある。

とりわけ,景気過熱に伴う物価騰貴や国際収支赤字に対しては,正統的な金融・財政措置のほかに,各種の政策手段が行使されるようになった。これは一つには,60年代に入って成長意識が高まり,成長を阻害するような過度の需要抑制策をできるだけ回避したいという考え方が広まったからであるが,また一つには,近年における物価騰貴が単なる需要抑制措置だけでは十分に阻止できないことが次第に認識されてきたからでもある。また国際収支赤字の問題にしても,主要な慢性的赤字国であるアメリカ,イギリスの場合には,構造的要因が大きく作用しているので,資本取引規制のような直接的な対策をとる必要が生じてきている。

金融・財政政策を補足するこの種の新しい政策手段のうち,近年とくに注目をあびているのは所得政策と労働力政策である。この両者はいずれも長期的な成長政策の一環であるとともに,短期の循環対策としても活用されている。さらに,金融・財政政策についても,その役割と効果あるいはその活用の仕方において,近年顕著な変化がみられるようになった。

(1) 開放体制下の金融政策

景気調整手段としての金融政策は,財政政策にくらべるとはるかに機動性にとんでおり,中央銀行の判断によって即時に実施できるという利点がある。しかしながら,支出の増減または税率の変更を通ずる財政措置が総需要の水準を直接的に調整できるのに対し,金融政策による需要の調整は一般的にいって間接的であり,その点で不確かであるという面を持っている。

これは金融政策が銀行の流動性と金利水準を変化させることで,銀行の貸出能力や経済主体の借入意欲に影響を与えようとするものだからである。そこで,企業の外部資金依存度が高く,また民間銀行の中央銀行依存度の高い国では,金融政策は非常に効果的であるが,そうでない国では金融政策の効果が浸透するまでにかなりの時間がかかることになる。とりわけ不況期においては,景気の先行きに関する企業の期待も弱く,消費者の態度も慎重であるから,金融政策の効果も比較的限られたものになりがちである。これに対して,ブーム期においては,金融政策は金利水準に敏感な在庫投資や住宅建築あるいは公共投資に対してかなりの抑制効果をもっている。とくに直接的な信用規制(窓口規制)が実施される場合はなおさらである。また,近年広く用いられるようになった選択的な金融措置である賦払信用規制は(イギリス,フランス,イタリアなど),各国の従来の経験からいえば,短期的にはかなりの即効的効果をもっている。

ところで,58年末の通貨交換性回復以来,各国の金融政策の重点ないし効果についてかなりの変化がみられる点が注目される。通貨交換性回復下においては,短資の国際移動が激しくなるから,それが時として国内対策としての金融政策の効果を阻害しがちである。たとえば,過熱時に金融引締めを実施して国内金利を引上げ銀行流動性を削減しても,高金利が短資の流入をよび,また流動性の低下が銀行および企業による外国短資の借人を誘う。それによって国内の流動性が補強されるから,たとえば直接的な貸出規制をやらないかぎり,金融引締め政策の目的が裏切られることになる。とりわけ,容易に借入可能な国際資本市場としてユーロ・ダラー市場が発達してきた近年においては,短資の国際移動がしばしば金融政策の効果を阻害しがちであった。

逆に景気不振期に金融を緩和し,銀行流動性の増強と低金利をはかっても,増強された流動性は高金利を求めて海外に流出し,金融政策の所期の目的を阻害する結果を招き易い(たとえば,67年上期の西ドイツ)。

したがって開放体制下における金融政策は,国際金利や短資の動向にたえず注目しながら運用されねばならぬことになる。

景気過熱と国際収支赤字が共存する場合には,金融引締めは国内不均衡と対外不均衡の双方を同時に是正できるが,景気過熱と国際収支黒字が共存する場合(近年の西欧大陸諸国においてしばしばそれがみられた)には,金融引締めは資本取引の規制を平行的に実施しないかぎり,効果を発揮できないことが多い。58年末の通貨交換性の回復以来,西欧諸国が各種の資本取引制限措置をつぎつぎと採用し出したのもこのためである。たとえば西欧大陸諸国では,短資流入阻止のために外国人預金に対する利付禁止(西ドイツ,スイス,フランス),外国人による短期政府証券の購入禁止(西ドイツ,ベルギー),外国人預金に対する特別準備率の適用(西ドイツ),銀行の対外ポジション最高枠の設定(イタリア,フランス,オランダ等)などの措置がとられてきたし,また外国人の国内証券投資の規制(いわゆるクーポン税,西ドイツ)も導入された。このほか,直接的制限措置ではないが中央銀行が外国為替市場に介入して短資輸出を促進するなどの手段もとられた。これらの措置は,いずれも短資の移動を統制するための手段であり,多くの場合国内過熱と国際収支黒字とが共存する場合の対策としてとられたものである。

このような外資流入規制のほか,国内引締め措置としての金融政策の有効性を維持するために,銀行貸出に対する直接的な規制(窓口規制)をする国が近年多くなった(たとえばオランダ,フランス,ベルギー,ノルウェーなど)。

国際収支赤字の問題を抱えている米英においても,近年資本取引の規制が強化されているが(アメリカの金利平衡税や直接投資および銀行融資の自主規制,イギリスの直接投資規制など),これは純然たる国際収支赤字対策であって,欧大陸諸国の場合とは趣旨に異にしており,国内景気対策としての金融政策の不備を補強することが目的ではない。むしろ,国内成長をなるべく抑制しないで国際収支赤字を是正しようという政策意図から出た措置である。また,同様な政策意図から,たとえばアメリカでは国際収支上の考慮から短期金利は高めに維持する半面,国内成長の促進のために長期金利を低めに維持するという,いわゆる二重金利政策がとられてきた。

(2) 財政政策の活用

戦後早くから景気対策に財政を活用してきた国としては,イギリス,オランダ,スカンジナヴィア諸国などがあるが,その他の諸国では財政政策が景気対策として利用されることは比較的少なかった。これは,財政の景気対策的役割が十分に認識されていなかったか,または各種の事情によってフィスカル・ポリシーの実施が困難だったからである。つまり,財政が財政固有の目的をもっていること,予算均衡の伝統が根づよいこと,財政政策の変更が議会の審議と承認を必要とすること,とくにインフレ抑制のための増税については選挙対策上の考慮などから抵抗が多いこと,などの事情があったからである。

たとえば,アメリカでは1957~58年の景気後退にさいして政府発注の増加など若干の財政措置がとられただけで,減税は行なわれなかった。48~49年と53~54年の景気後退期には減税が行なわれて,それが景気回復に大きな寄与をしたことは事実であるが,これらの減税は必ずしも景気対策的視点から行なわれたものではなかった。48~49年の減税は,景気後退が認知される以前に(48年4月)に成立したものであり,税負担の軽減という見地から行なわれたものであった。53~54年の減税(超過利得税の廃止,個人所得税および消費税の引下げ)も税制改革計画の一環として行なわれたのである。

また,西ドイツにおいては,財政が経済成長に大きな役割を果したが,短期的な景気調整手段として運用されることは少なかった。景気過熱期に公共投資の若干の削減などが行なわれたこともあったが,あまり実効はなかった。戦後4回の重要な減税(53年,55年,58年,65年)のうち,景気情勢にうまくマッチして景気調整的役割を果したのは58年の減税だけであり,55年と65年の減税は景気過熱を助長しただけであった。58年の減税にしても,景気調整の見地から行なわれたものではなかった。西ドイツの財政が従来景気対策的に運用されなかったのは,予算均衡の原則にとらわれすぎたのと,連邦制による財政分権主義のためである。

しかし60年代に入ると,需要調節手段としての財政の重要性がアメリカにおいて再認識されるようになった。とくにケネディ政権下において減税その他の財政措置によって景気上昇の持続がはかられたことは,前述したとおりである。

フランスにおいても,50年代の放慢財政が58年末のフラン切下げを契機に修正され,財政がインフレ対策として活用されるようになった。63年秋から始まった総合的安定計画においても,財政の緊縮が重要な役割を果たしたし,66~67年の景気停滞期においては財政措置が逆に景気刺激手段の一つとして活用された。

従来,財政の景気調整機能を重視しなかった西ドイツにおいても,67年にはいって不況克服のために財政政策の積極的な活用がはかられ,また補整的財政政策の機動的運営を確保するために,西ドイツとしては画期的な「経済安定成長促進法」が制定されるにいたった。

このように,財政の景気対策的運営という点で近年かなりの進歩がみられたものの,まだ多くの問題点が残されている。第1の問題点は,財政の景気対策的運用そのものに対して,現在なお抵抗があり,とりわけ,過熱期における増税についてはなおかなりの政治的な抵抗があることである。たとえば,60年代前半に財政政策を巧みに活用して好況の持続に顕著な成果をあげたアメリカにおいても,66年に経済が完全雇用状態に達してインフレ圧力が出現し,その対策として増税の必要性が強調されたときに政府は増税の実施を躊躇した。そして,67年に政府が増税を決意して法案を議会へ提出したのに対して,今度は議会が増税に抵抗してその棚上げをはかろうとした。

西ドイツにおいても,65年の過熱時に財政緊縮の必要性が中央銀行やEE C委員会などから強く指摘されたにも拘わらず,選挙の年であったこともあって,財政支出が大幅に膨張し,また減税が実施されたために,財政はむしろ景気刺激的に働き,ブームを煽る結果となった。

このように,インフレ期において財政上の対策が充分にとられず,引締めの負担が金融政策にかかりすぎたことが,66年央における世界的な異常な高金利の原因となった。それが,国際的には各国の国際収支に大きな混乱を与え,また国内的には(たとえば西ドイツの場合)生産的投資を著しく抑制して不況をもたらす結果となった。

したがって,短期的な需要調節のためには,金融政策と財政政策の適切な組合せが必要となってくる。

最近OECDやその他の国際機関がこの点をつよく勧告しているのも,このような経験を背景としたものである。

財政政策の第2の問題点は,これは財政政策固有の問題であるが,支出の増減ないし税率の変更が議会の審議と承認を必要とすることから,短期の景気対策としては機動性に乏しいことである。そのため,所期の目的とは逆の結果が出てくる可能性さえまれではない。たとえば,過熱時に償却率の引下げを実施しようとしても,議会審議に時間がかかっている間に企業が現行償却率を利用しようとして逆に投資をふやし,過熱に拍車をかけることがあるし,またに反対に景気不振期に財政上の刺激措置をとろうとしても,それが議会の審議をへて発効するまでにぱ時間がかかりすぎ,その間に景気情勢が変って,景気振興のための財政措置が逆に景気過熱を招く結果となりかねない。とりわけ,経済がつねに完全雇用に近い状態で運営され,インフレとデフレの谷間が狭い西欧諸国では,こうした事態がおこりがちであった。

このような事態を回避するためには,政府が景気情勢に応じて,一定の枠内で,自主的に財政措置をとりうる権限(自由裁量権)をもつことが必要となってくる。これについては,すでにイギリスにその例がある。イギリスでは,61年に消費税を景気情勢に応じて上下10%の範囲内で変更する権限(いわゆるregulator)が政府に与えられており,その後このregulatorが数回使用されている。また,アメリカでも,62年にケネディ政府が個人所得税について5%まで引下げる権限を議会に要請したが,これは実現しなかった。

この種の自由裁量権(または待機権限)を最も広範囲に認めたものは,前述した西ドイツの「経済安定・成長促進法」(67年6月成立)であろう。同法は連邦政府および州政府に対して財政の景気対策的運用を原則的に義務づけると同時に,連邦政府に対してつぎのような権限を認めている。すなわち景気情勢に応じて,①所得税および法人税を上下10%の範囲内で一時的に(1年以内)に変更する権限,②投資プレミアム(投資額の7.5%を税額控除)の導入権限(有効期間1年以内)③過熱時における減価償却率の1時的引下げ,④景気調整基金の設置(需要超過期には支出留保により財政余剰を繰入〔前年度税収の3%以内],不況期には取消して支出)⑤不況期に最高50億マルクまで中短期借入金により支出する権限,⑥連邦,州,地方政府の借入れ制限権(ただし過去5ヵ年間の借入額の80%を下回らぬ範囲内で)。

なお,景気状勢に応じた政府支出の変更が効率的に行なわれるためには,多年度財政計画の作成によって将来の支出計画,とりわけ公共投資計画の大網とその優先順位があらかじめ決定されていかなければならないので,中期財政計画(5ヵ年)とその一環としての中期公共投資計画の作成が連邦および州政府に対して義務づけられた。

前記の景気対策上の権限の多くは議会の事後承認を必要としており,その意味では完全な自由裁量権ではないが,(①,②,③については3~4週間以内に議会が拒否しないかぎり,議会の同意をえたものと見做される。それにしても財政上の景気対策手段の整備という点で著しい進歩とみるべきであろう。

このように,西ドイツは67年に入って財政の景気対策的運用の点で画期的な前進を示したが,半面ではいわゆる財政硬直化の是正のために,不況期に増税を余儀なくされるという苦しい立場におかれている。この西ドイツの財政硬直化の問題はすでに数年前から指摘され,警告されていた問題であったが,これまでその根本的な是正策が採用されなかった。財政硬直化の原因は,基本的には60年代に入って西ドイツの経済成長率の鈍化に伴い税収の伸びが鈍ったにも拘らず,支出の方は過去の惰性で従来と同じテンポで増加したことであった。そのため,すでに66年度予算の編成にさいして特別立法により法律上の義務費の削減や繰延べを余儀なくされたほどであったが,67年度予算についても同様の編成難に陥り,それを契機にエアハルト内閣は退陣を余儀なくされた。66年末成立したキージンガー内閣は66年度予算のときとほゞ同様な非常措置により67年度予算を編成すると同時に,連邦財政の根本的立直しをはかることになり,「経済安定・成長促進法」にもとづく中期財政計画の作成にさいして,68年-71年の4ヵ年間に支出面で国防費,社会保障費など約300億マルクの義務費(法律または計画にもとづいたもの)を削減する一方,歳入面では所得税,付加価値税の増税によって約130億マルクの増収をはかることになった。

(3)所得政策とその評価

近年の欧米諸国における新しい景気対策手段として最も注目されるのは所得政策(incomes policy)である。これは戦後の欧米諸国において,物価とくに消費者物価が殆んど持続的に上昇を続け,不況期においても下落せず,いわゆる下方硬直性をもつことに注目して,物価上昇の原因が超過需要だけにあるのではなく,寡占体制と労組の強力な交渉力の下でオートノマスなコストの上昇が物価上昇の要因となる場合が多いとの考え方から,価格とコストの過大な上昇を抑えるために,賃金その他の所得の形成過程に政府が何らかの形で影響を与え,所得の上昇幅を適当な範囲内に(概して生産性上昇の範囲内に)とどめようする政策である。

このような所得政策を戦後早くから組織的に採用してきた国はオランダである,その他の欧米諸国では価格と賃金の自粛を一般的に要請する程度であった。ところが60年代に入って,前述したように諸国の成長意欲の高まりと需要抑制措置が物価上昇を阻止しえなかったという若い経験の累積から,安定的成長を達成するための重要な政策用具の1つとして所得政策を組織的に活用しはじめたのはイギリスであったが,ついでアメリカ,西ドイツ,フランス,その他の国でも程度の差こそあれ同様な試みが行なわれるようになってきた。とくにイギリスは,戦後における度重なる国際収支危機を経験し,その是正のためにとられたドラスチックな需要抑制措置がいわゆる「ストップ・ゴー」政策の繰り返しとなって,同国の成長を大きく阻害したとの認識から,所得政策の実施に最も熱心であった。

アメリカの場合は,所得政策が正式に導入された60年代前半においては,コストプッシュによる価格上昇圧力の発生をさほど県念する必要のない情勢(不完全雇用)にあったのだが,同国では寡占の度合が高くかつ労働組合の交渉力も非常に強いという伝統があり,国際収支赤字の是正と経済成長の促進という両面作戦の遂行のために所得政策を必要としたのであった。

所得政策の実施方法をみると,アメリカや西ドイツのように,許容される賃金その他の所得の上昇巾を毎年政府が明示するといういわゆるガイド,ライン(またはガイド・ポストないしガイディング・ライト)政策だけに頼り,あとは個々の重要な賃金,価格の決定について不当と考えられた場合に勧告その他の方法で介入するという方法をとっている国もある。また,イギリスのようにガイドラインの設定だけでなく,個々の重要な賃金,価格の決定について事前の届出と特定機関による審査を行なうという,比較的整備された形で所得政策を実施している国もある。

もともと,価格や賃金は企業や団体交渉の自主的決定に委ねられているのが資本主義社会の原則であるから,この原則を承認するかぎり,所得政策が成功しうるためには,企業や労働組合および国民大衆の理解と支持がなければならない。ところが実際には,たとえば,ガイド・ラインの設定一つをとってみても,どのようなガイド・ラインが適切であるかについて意見がつねに一致するとは限らない。また,所得政策は必然的に所得分配の問題とかかわるものであるから,現在の分配率に不満をもつ労働組合は,分配率固定的な所得政策に対して同意できないかもしれない。また,相対的に所得が低いと考える特定の階層ないしグループは,「例外」を要求するであろう。また,かりに所得政策の原則と特定のガイドラインについて組合の上層部が同意しても,下部がその決定に従わないかもしれない。さらに,団体交渉による協約賃金率がほゞガイドラインに従って決定されたとしても,現実に支払われる賃金はガイドライン以上に上昇するかもしれない(いわゆるwage drift)。

たとえば,イギリスの経験についてみると,65年のガイド・ラインは3~3.5%であり,協約賃金率の上昇率も4.5%にとどまったのであるが,実際の時間あたり賃金収入は10%も上昇した。

このように,所得政策はその実施に関していくつかの困難な問題を抱えており,そのため諸国の実積をみても,これまでのところ,あまり成功的であったとはいえない。最近発表されたECE(国連欧州経済委員会)の調査も,所得政策の効果はこれまでのところ限られており,また,一時的であって,とくに有効な政策手段とはいえなかったとしている。

労働力と設備に余裕があり,経済が不完全雇用状態にある時とか,あるいはほゞ完全雇用に近い水準にあっても景気不振の時期には,所得政策はかなりの成功をおさめるが,完全雇用状態で好況がつづくような時期には所得政策もあまりうまくいかない。たとえば,アメリカでは62年にガイド・ライン政策が実施されてから65年までの時期は比較的成功を収めてきたようであるが,66年以降完全雇用が達成されてからは,それに対する労組側の抵抗も強まり,最近ではガイド・ラインが事実上無視されているようである。

また,所得政策に最も熱心なイギリスにおいては,64年末以来,企業と労組が所得政策の実施に正式に同意したにも拘わらず,その運営がうまくいかぬため,政府は66年になって価格と賃金の引上げを事前に届出る義務を定めた「価格・所得法」を制定,さらに同年7月のポンド危機を契機として同法にもとづき価格と所得の凍結措置(66年末まで)の採用を余儀なくされた。

その後67年上期の「厳しい抑制期間」が終ると,下期以降賃金上昇率が再び加速化しつつあることは,第1部でみたとおりである。

オランダにおいては,戦後早くからかなり広汎な法的規制を伴った所得政策が実施されていたが,63年以降所得政策がやや緩和され,企業と労組の自主決定の自由が回復された。しかしその後,賃金の「爆発的」な上昇が生じたばかりか(64年15%,65年11%)66年以降は企業と労組の自主的な賃金交渉が妥結困難となったため,政府は再びその統制権限を適用して,66年5月に短期間(7月央まで)の賃金・価格凍結を実施するほか,67年の賃金上昇幅についても上期4%,下期1.5%,の枠を決定した。

このように,所得政策の効果的な実施のためには,法的規制に頼らざるをえないという傾向が最近みられる。しかし,法的規制で一時的に所得の過大な上昇を抑えても,規制が除かれると反動的に大幅な所得上昇がおこりがちであることは,さきのイギリスの例からも明かであろう。また,これまでの自発的ベースに基づいた所得政策にしても,ガイド・ラインを遵守させるために独禁法の発動,政府購入の取消し,関税引下げなどといった制裁措置を背景にしないと効果がないことがしばしばあった。

所得政策は比較的新しい政策であり,その効果的な実施のための機構や運用方法についてもまだ実験の域を出ない。現時点においては,所得政策はまだ主要な政策手段とはなりえず,OECDも指摘しているように,それに大きく頼ることは時期尚早であろう。

(4) 積極的労働力政策の重視

所得政策とともに近年重視されてきた政策の一つは,労働力政策である。

金融・財政政策が主として需要の調整を目的とし,所得政策がコストと価格の調整を主目的としているのに対して,労働力政策は供給側の改善を主眼とした政策である。職業紹介施設を拡充して労働力需給の円滑化をはかり,職業教育を充実して近代的技能を身につけた労働力をふやし,また職業再訓練計画や訓練期間中の所得保証,労働力移動に対する補助金の支給などを通じて既存労働力の産業間,地域間の移動性を促進することは,成長政策の一環であると同時に,短期の循環対策ともなる。それによる労働力不足の緩和と労働生産性の上昇は,労働力の隘路から生ずるインフレ圧力を未然に防止し,引締め政策の必要性を少くするからである。需要の強い時期に所得政策の効果が失われるという事実も,労働力政策の重要性を一層強調する。また,不況の時期に放出された労働力に再訓練を与えて,成長産業へ送りこむことが,不況の緩和に役立つことはいうまでもない。

このような長期的ならびに短期的な観点から積極的労働力政策(active manpower policy)を戦後早くから積極的に活用してきた国はスエーデンであった。スエーデンが政府ベースでの所得政策に対して無関心であるのは,民間企業と労組の全国組織が自主的に所得政策を実施してきたこともあるが,1つにはこのような労働力政策を含む安定化政策が比較的効果をあげてきたからだといわれている。

近年はスエーデン以外の諸国も,この種の労働力政策の重要性を次第に認識し,職業紹介機能の拡充,労働者訓練,労働力移動性の増進などの措置をとりつつあり,OECDもそれを積極的に推進している。

たとえばイギリスでは,産業別に企業の資金的,負担によって共同の職業訓練機関を設置することが法的に強制されており(64年以来),また企業負担による失業補償金制度が65年以来実施されている。また,政府の職業訓練機関も近年著しく拡充され,労働者の地域間移動に対する手当も増強されてきた。このような労働政策への努力は,アメリカ・西ドイツ・フランスその他の欧米諸国においても程度の差こそあれ進められている。

(5) 為替レートの調整

さいごに,景気調節手段ないし国際収支対策としての為替レート変更の問題についてふれておこう。現行IMF体制の下では,固定レートが原則とされ,レートの変更は「基礎的不均衡」の存在する場合にのみ認められている。この「基礎的不均衡」が具体的に何を意味するかについては明確な定義はないが,いずれにしてもこのような体制の下では為替レートの変更は一種の構造対策として把えられている。しかし実際には,為替レートの変更は国際収支の重大な赤字または黒字の局面の下でその是正策として断行されてきたのであり,国際収支対策そのものであるか,またインフレ対策である場合が多かった。

戦後の欧米主要国における為替レート変更の実例をみると,まず1949年9月のポンド切下げを契機として生じた国際的な平価切下げの波(全部で30余カ国に達し,先進国で追随しなかったのはアメリカとスイスのみ)があり,その後約10年をへて,フランの切下げ(57~58年),マルクとギルダーの切上げ(61年春)カナダ・ドルの切下げ(62年5月)があった。その後64年春にイタリアの国際収支難からリラ切下げの噂が流れたが,これはデフレ措置と国際的資金援助で乗り切ることができた(このほか小国に平価切下げの例が若干ある)。

他方,イギリスは50年代から60年代はじめにかけてしばしば国際収支難とポンド危機に見われたが(51~52年,55年,57年,61年),そのたびごとに国内デフレ措置と国際的資金援助により,比較的短期間に切抜けることができた。ところが64年秋のポンド危機以来,国内デフレ措置と国際収支直接対策および国際的援助にもかかわらず,ポンドは一時的な弱い回復を示すだけで,完全には立直らず,ポンド不安がいわば慢性化するようになった。これは基本的には,国際収支赤字の是正が緩慢にしか進行しなっかたからである。国際収支赤字の解消が遅れた理由は,67年に入って中東紛争の勃発やアメリカ,西ドイツの景気不振,アメリカの金利上昇など対外的要因がイギリスに不利に働いたという面もあるが,政府の政策努力も必ずしも十分でなく,また66年の海員ストや67年の港湾ストにみられるように国家的利益を無視した行動が一部にあり,イギリス経済の体質的な弱さがまだ十分に改善されていないからである。

いずれにせよ,67年11月中旬にポンドははげしい為替投機に見舞われ,ついに平価切下げとデフレ政策の採用を余儀なくされた。これにより,さしもの為替投機もおさまり,高金利と相まって短資の還流がみられるようになったが,基礎収支が切下げによってどれだけ改善されるかは,今後の推移にまつほかはない。

以下においては,戦後の主要国の為替レート変更のうち,比較的成功したとみられるフラン切下げとマルク切上げについて,その経緯と成果を振りかえってみよう。

それまで「欧州の病人」とよばれ,(53年下期~55年末までの時期を除けば)慢性的なインフレと国際収支赤字を続け,EUP,IMF,アメリカなどから多額の借款をうけることによって当面を糊塗してきたフランスは,57年6月に貿易自由化を全面的に停止,8月にはフランの実質的切下げ(20%)を断行したが,国際収支悪化と為替投機はおさまらず,翌58年6月に成立したドゴール政権はついに同年末平価を正式に切下げ(17.55%),同時に一連の財政緊縮措置をとった。その結果,フランスの国際収支は黒字に転じ,数年足らずのうちに多額の借金を返済することができ,現在では西ドイツについで豊富な金外貨準備を擁するにいたっている(フランスの金外貨準備は,55年末の20億ドルから58年5月末の17億ドルヘ減少したあと,60年末に20億ドル,66年末現在で67億ドル)。

フランスの平価切下げが成功したのは,それと平行して財政緊縮と賃金抑制を実施したからである。すなわち,補助金の削減と増税によって予算赤字を縮少,また農産物価格と賃金のスライド制を廃止した(法定最低賃金を除く)。このように,国内的にはデフレ政策を実施する半面で,57年以来停止されていた貿易自由化を復活し,国内産業に競争の刺戟を与えた。この措置により,フランスの景気は他の西欧諸国とは逆に,59年中停滞を続けた。しかし,これによって,インフレが一掃され,国際競争力が強化されて,59年末以降フランスは輸出先導型の経済拡大期に入ることになった。

このフランスの例からも明らかなように,国際収支対策としての平価切下げは,それと併行して思い切ったデフレ政策をとらぬかぎり成功しない。もともと国際収支赤字の是正のためには,デフレ政策の採用が通常であるが,完全雇用を最高の国家目的としている現代社会においては,デフレ政策にも一定の限界があり,大量失業の発生を前にしてリフレ政策へ転換しない政府はない。したがって,そうした一定の限界内でのデフレ政策によって是正できないような国際収支赤字(構造的不均衡)が存在する場合にのみ,平価切下げという手段が是認されることになる。

つぎに,61年の西ドイツのマルク切上げ(5%)についてみると,これはいわば構造的な国際収支黒字の是正によって「輸入されたインフレーション」(imported inflation)を阻止しようとするものであった。59~60年に輸出の著増と設備投資の盛りあがりからインフレ圧力が強まったとき,最初中央銀行は金融引締め政策によって国内需要を抑制しようとした(59年9月から60年6月までに公定歩合を3回引上げ,預金準備率を4回引上げる等の措置をとった)。

しかし,金融引締めによる金利の上昇は逆に外資の大量流入を招いた。これは1つには,当時のアメリカの金融政策が不況克服のために60年春から緩和の方向へ転じて,金利が引下げられ,また一部の欧州諸国もそれに追随したため,内外の金利格差が開いたからである。こうして金融引締めは国内需要の抑制に役立たなかったばかりか,国際収支の不均衡(大幅黒字)を一層拡大した。60年1月から9月までの間に西ドイツの金外貨準備は約18億ドルも増加した。そこでブンデスバンクはブームのさなかにおいて金融引締めを緩和せざるをえなくなり,60年11月の公定歩合引下げを皮切りに,翌61年中つぎつぎと金融緩和措置をとった。

こうして金融引締めを解除した代わりに,いわば最後の手段としてとられたのが,61年3月のマルク切上げである。マルク切上げは,西ドイツの輸出価格を上昇させることで輸出需要を抑えると同じに,企業の投資意欲に対しても衝撃的に作用し,61年末頃には輸出と投資が停滞的となり,ブームの鎮静化をもたらした,その意味でマルク切上げは短期の景気調整策としては比較的即効的な効果をもったといえる。

しかし,切上げ幅が小さかったこともあって,構造対策としては役立たず,西ドイツは64年以降再び輸出の著増から国際収支の大幅な黒字とインフレを招くにいたったのである。

(6) 景気対策の機動的運営

景気対策が所期の効果をあげうるためには,政策手段の選択もさることながら,その実施のタイミングが適切でなければならない。前述した政府の財政上の自由裁量権の確保も,タイミングを適切にするための一つの手段であった。

景気対策のタイミングをあやまらないためには,まず景気情勢に関する正しい判断が適時に行なわれなければならない。それには各種の経済指標の整備が前提条件となる。この点で西欧諸国は近年かなりの進歩をみせてきたが,今日なおアメリカは勿論のこと,日本とくらべても不十分な点が多い。

たとえば,最も基礎的な統計である国民総生産についても年次データまたは半年次データだけしかない国が多く,季節調整ずみ四半期データを開発している国はイギリスなどきわめて僅かの国に限られている。在庫統計なども開発の遅れている分野である。

このように,西欧諸国の経済統計はイギリスを除けば著しく未整備であり,この点になお多くの問題が残されている。

それはともかくとして,たとえ,経済統計が整備されていたとしても,景気情勢についての判断がつねに一致するとは限らない。政府部内において意見の分かれることもあろうし,政府と議会が対立することもあろう。その場合,必要な景気対策の採用が遅れるという結果となるかもしれない。早期に手を打てば比較的マイナーな措置ですむものが,時期が遅れたばかりにドラスチックな措置の採用を余儀なくされることは,従来の多くの国の経験からも明かである。

そこで,景気判断に関する意見の不一致を最初から排除して,機動的な対策がとれるようにするために,主要な景気指標が一定範囲の変動を示した場合には,自動的に景気対策をとるという仕組みが考えられる。フランスの第5次五ヵ年計画において採用された「警告制度」はまさにこのような考え方から発足したもので,その内容はつぎのとおりである。①消費者物価の上昇率(前年同月比)が3ヵ月続けて主要な貿易相手国のそれよりも1%上回った場合,②12ヵ月移動平均による輸出(f.o.b)の輸入(c.i.f)カバー率が3カ月続けて90%を下回った場合(92%が均衡点とされている),③季節調整済み鉱工業生産指数(建設を除く)の前年同月比増加率が3ヵ月続けて2%を下回った場合,および国内総生産(実質)の年増加率が2.5下回った場合,④生産的投資(実質)の年増加率が2.5%下回った場合,⑤センサスの定義による未充足求人数が年初の計算による労働力人口の2.5%(季節調整済み)を3ヵ月続けてこえた場合(以上のうち,国内総生産と生産的雇用については国民経済計算委員会が判断することになっている)。そして,このようなインフレまたはデフレの兆候が出てきた場合には,政府は自動的に検討過程にはいり,然るべき対策をとることになっている。ただし,どのような対策をとるべきかは政府の判断にまかされる。

この「警告制度」は,短期の安定政策を中期的成長政策ないし経済計画のなかに巧みにとりいれたものであり,景気対策の敏速な実施を制度的に可能にするものとして注目されよう。

景気指標の一定の変動が自動的に対策の発動を促すというこの考え方をさらに一歩すすめたものが,いわゆる定式的伸縮制度(formula flexibility)である。これは,財政の自動安定装置をさらに強化するために考案されたもので,特定の景気指標の変化に応じて自動的に税率または財政支出を変更する制度である。近年の例としては,アメリカの通貨信用委員会が61年に政府に対してその採用を勧告したことがある。ケネディ政府はこの考え方をとり入れて,翌62年に前記の個人所得税の5%引下げ権限とともに,公共投資を最高20億ドルまで増額する権限を議会へ要請した。その内容は,季節調整ずみ失業率が,①過去4ヵ月のうち少くとも3ヵ月(または6ヵ月のうち4ヵ月)上昇し,②かつ,その水準が4ヵ月以前(または6ヵ月以前)の水準より少なくとも1パーセント高くなった場合,遅くとも2ヵ月以内に,連邦政府が財政投融資を最高20億ドルまで増加できるようにしようとするものであった。しかし,この提案は議会の同意をうることができなかった。この種の制度の実施については,適当な経済指標の選択や税率の変更幅などについて問題が残されているが,ともかくもフィスカルポリシイの機動的運用という点で一つの注目されるべき提案であろう。

(7) 景気対策に関する国際協力の進展

近年貿易為替自由化の進展に伴い,各国間の経済関係はーそう密接となり,またそれに伴い国民経済にしめる対外部門のシエアがますます高まってきた結果,国際間の景気波及の問題がいっそう重要性をましてきた。一国の好況はその輸入をふやし,他国の輸出をふやすことで良い影響を外部へ伝達するが,不況はその反対の結果をもたらす。また好況にしても,それが行き過ぎて物価の上昇ないし国際収支難を招くと,引締め政策の採用から輸入の大幅な減少を通じて急激な攪乱的衝撃が外部世界へ伝達されるかもしれない。また,インフレに伴う金利の上昇が他国の金利や国際収支に望ましからぬ影響を与えるかもしれない。これを要するに,自由化と国際化の進行は,諸国の経済成長を促進する半面で,対外面からする不安定要因を強めがちである。一国の景気動向はますます多く他国の景気動向に影響されることになり,とりわけ大国の景気動向の外部世界に対する波及力が大きくなる。したがって,景気対策も一国だけの対策では不十分となってくる。そこで,景気対策の面でも国際的な協力と調整が必要となる。このような国際協力は,大別して①国際収支赤字国に対する国際的資金援助と,②経済政策の相互調整とに分けられる。

短期的な国際収支赤字国に対する資金的援助が制度化された(IMFを通じて)ことが戦後の特徴の一つであるが,近年はIMFを通ずる援助のほかに,各種の国際金融協力の網の目が整備されてきた。バーゼル協定(61年)金プール協定(61年),スワップ協定(62年以降)一般借入取極め(パリクラブ)(62年)などがそれである。これらの国際金融協力はこれまで主としてイギリス,アメリカ両国を対象とし発動されたが,カナダ(63年)とイタリヤ(64年)も国際収支危機に際してこの種の国際協力をえている。

つぎに政策上の調整の例としては,EECにおける共通景気政策の実施があげられる。EEC結成以来,委員会はその経済四季報のなかで,各国政府の短期的な経済政策について各種の勧告を行なってきたが,EEC条約103条にもとづいて理事会勧告の形で正式に加盟国政府に景気政策上の勧告を行なうようになったのは64年4月以来である。その後も毎年,EEC理事会が,加盟諸国に対して具体的な政策上の勧告をするのが例となった。第1回の勧告が出された。64年春においては,各国ともインフレ圧力のさなかにあったため,インフレの克服が短期的政策の最高の目標とされ,次のような措置が一般的に勧告された。①中央政府の財政支出を前年比5%増の範囲内にとどめる。②財政資金の不足は長期公債で賄う。③金融引締めを持続ないし強化する④自由な輸入政策をとる。⑤経営者団体および労組と協議して,所得政策を実施するように努力する。

65年3月の第2回目の勧告は,前回勧告の基本ライン(安定化政策)を確認すると同時に,当時不況に陥っていたイタリアについては国内需要刺戟を勧告し,フランスについては不況産業の振興,ベネルックスについては引締め措置の若干の緩和を勧告した。

66年12月の第3回勧告においては,イタリアとフランスを除いて景気停滞傾向をみせていたので,西ドイツとベネルックスに対して,金融緩和を勧告し,フランスについては価格凍結の緩和を勧告した。しかし,物価とコストの安定重視という基本的ラインは依然として堅持され,予算赤字の縮少,労働力移動の促進,所得政策の実施等が一般的に勧告された。

さらに67年7月の第4回勧告においては,イタリアを除いて不況ないし停滞的傾向がますます明白となっていたため,経済の成長と安定を同程度に重視すべき段階であるとし,西独,仏,ベルギーに対して投資を中心とした新たな拡大政策をとることを勧告したが,68年度予算については慎重な態度で編成すべきだとしていた。

このEEC理事会の景気政策上の勧告は,法的な拘束力をもたないけれども,或る程度の道義的な説得力をもつことは当然である。これまでの実績をみると,勧告が十分に守られたとはいえないにしても,ともかくもEECの共通景気政策は加盟国経済の安定化に若干の寄与を果たしたように思われる。

このEEC内部の共通景気政策のほか,先進国の協力機関であるOECDにおいてもその諸機関を通じてしばしば政策上の協議と勧告が行なわれている。

以上のような国際諸機関を通ずる政策調整のほか,特定分野の政策について臨時の多国間協議がみられるようになったことも注目されよう。たとえば67年1月チェッカーズにおいて開催された5ヵ国蔵相会議がそれであって,これは66年以来の世界的な高金利に終止符をうつべく,「金利休戦協定」の締結を狙ったものであったが,会議は一応所期の目的を達成し,その後主要国の公定歩合が相ついで引き下げられた。

当時はすでにアメリカ,西ドイツの景気停滞でこの両国の金利が低下しはじめ,金融当局も金融緩和の方向へ転換しはじめていたし,またイギリス,フランスも国内景気情勢から金利低下を望んでいたのであって,会議の成功が最初から客観的に保証されていたといえる。

しかし将来,主要国の景気情勢の足並みがみだれたときに,この種の会議が同様に成功するとはかぎらない。現にチェッカーズ会議のあと1年足らずの間にアメリカの金利が再上昇し,それからイギリスに波及し,さらに11月のポンド切下げを契機として,英,米の金利が一段と上昇,金利戦争再燃の気配が見えてきた。

以上われわれは,近年における欧米諸国の経済政策の運用を主として短期循環政策の視点から述べてきた。そこからどのような教訓がひき出せるであろうか。

① まず第1に,景気調整を有効に実施し,また長期と短期の政策目的を調和させるためには,金融政策のみならず,財政政策も景気対策的に展開させることが必要である。つまり,金融と財政との適切な組合わせが必要となる。また,景気対策手段とりわけ財政上の政策手段の整備とその機動化が要請される。

② 景気調整は,単なる需要の抑制だけではなく,供給面の改善(たとえば労働力政策)にも重点をおく必要があり,しかもその必要性は完全雇用へ近づくにつれて増大してくる。

③ 開放体制の下で景気の国際波及が広がる傾向があり,そのため政策面においても国際協力の必要性が高まっている。この点については今後さらに一段と努力する必要があろう。


[前節] [目次] [年次リスト]