昭和42年
年次世界経済報告
世界景気安定への道
昭和42年12月19日
経済企画庁
第2部 世界の景気変動とその波及
第1章 世界工業国の景気変動
ところで,各工業国で生じた景気の波は,時として重なり合うことがある。世界の工業国の景気の波がどういう時期に重なり合って働いたか,その程度はどの位であったか,あるいは工業国間の景気の波及の範囲はどのように拡がったかを識別するために,ディフユージョン・インデックスによって検討してみよう。第67図は,工業諸国の鉱工業生産,輸入,輸出,卸売物価といった主要経済指標をディフユージョン・インデックス化し,それによって戦後の景気変動を示したものである。
戦後,これまで工業国の景気後退が重なり合った時期は,1948~49年,51~52年,57~58年の3つの時期がそうであった。これらの時期はしばしば国際的不況と呼ばれてきた。半面,多くの工業国の好況が重なりあった時期は,50年,55~56年,59年,65年といった時期であった。
とくに,工業国の景気後退が重なり合って働いた時期には,工業国全体の輸入需要の不振に敏惑に現われ,それが工業国の輸出不振にはね返り,貿易活動の著しい沈滞を呼び起した。工業諸国の生産不振が輸入不振を通して工業国相互間の貿易を停滞させ,その工業国相互の貿易不振が工業諸国の生産不振にはね返ったばかりでなく,さらに工業国の輸入不振が低開発国の輸出需要,輸出価格にも悪影響を与えた。第68図にもみられるように,欧米の景気不振が重なって,北米,西欧諸国間の貿易が相互縮小的な作用を示した51~52年,57~58年といった時期には,世界貿易全体の減退傾向もかなり強かったのである。また,これらの国際的不況の時期には,貿易価格や工業国の卸売物価の低下もかなり大幅であった。
その後,65年頃までは,国ごとの景気後退はあっても,多くの工業国の景気不振が時期を同じくして現われることはなかった。各工業国の好・不景気が一種のならし合い効果をもち,工業国全体の生産,貿易は平滑性を伴った持続的拡大を続け,世界貿易全体の拡大テンポもかなり高かった。しかし,66年後半から67年前半にかけて過半の工業国の生産不振が時を同じくして表面化し,工業国のなかで輸入不振を示すものが多くなり,世界貿易全体もかなり停滞的となった。それは,不景気の波の重なり合い方からすれば,前述の過去3回の国際的不況の経験にも近似したものであった。
それでは,多くの工業国における今回の景気不振のシンクロナイズは,従来の国際的不況に比べてどういう点で異なっているであろうか。まず,これまでの国際的不況を中心に,世界工業国の景気の盛衰の足どりを概括的に検討しておこう。
(1) 1948~49年不況
1948~49年の国際的不況は,アメリカの在庫投資の減退に端を発したものであった。アメリカのインベントリー・リセツションは輸入需要,とくに原材料の輸入の大幅な減少と1次産品価格の暴落を引起したが,それはとくにスターリング諸地域の貿易に対してきびしい影響を与え,イギリスの金外貨準備は終戦直後の46年末から49年9月にかけて実に半減した。そのため,イギリスは9月18日に30.5%に及ぶポンドの大幅切下げを実施したが,西欧諸国およびスターリング低開発地域もこれに追随して為替平価の切下げを余儀なくされ,為替切下げの波及の範囲はきわめて広汎であった。
ポンド切下げ後,1週間をでぬうちに,西欧主要工業国を含む約20ヵ国の平価切下げが行われたが,これらの国の貿易は全世界貿易の約3分の2を占める大きさであった。その,後も平価切下げに追随する国がふえ,結局ポンド切下げを契機とした切下げ国は30余ヵ国に達した。
1949年の主要工業国を含めた平価切下げ国の範囲が広汎で,かつ切下げ幅も大きかったのは,この時期が戦後の各国の為替平価と物価体系が再編成期にあったことを背景としたものであった。戦後各国がいまだ疲弊状態を脱せず,為替平価切下げ幅も範囲も大きかっただけに,この切下げによって31年(49年以前のポンド切下げを中心とした世界的な為替平価切下げの年)のような深刻な大不況がくるのではないかと危惧する向きもあった。
しかし,結果的に,この為替平価切下げがさらに不況を深刻化することにならなかったのには,つぎのような要因があった。
第1には,ポンドを中心とした平価切下げの前にすでにアメリカの景気が上向きに転じつつあり,そのためにイギリスその他の切下げ国の海外需要が増大し,外貨準備の強化に寄与することになったことであった。
第2には,多くの国が復興段階にあり,輸入需要が強かったことが,平価切下げ後の諸国の輸出増進に少なからず役立った。
第3には,ドル不足の激しかった当時において,為替平価切下げを契機として,アメリカから輸入超過額が減少し,とくに西欧諸国のドル不足の緩和と外貨準備の増加は,その後の西欧域内の貿易拡大と通貨交換性回復への端緒を着実に作りだすことになった。そして後述の朝鮮動乱の勃発は,ドル不足の緩和を促進する要因となったのであった。
(2) 1951~52年不況
1949年末頃からアメリカ景気は賦払信用制限の緩和,低金利政策などもあって回復に向い,西欧景気も50年半ば頃までは緩やかな回復を示したが,朝鮮動乱の勃発による軍需資材の大量買付けは物資の国際的欠乏を生じ,またこの間の投機的動きも加わって,各国の物価の異常な高騰を招来した。
51~52年の国際的不況は,この朝鮮動乱ブームの崩壊を背景とするものであった。動乱ブーム収束は51年の後半から52年にかけて価格の大幅な反落を招き,また貿易需要の減退を生じさせた。イギリス,西ドイツ,オランダ,ノルウェーなどでは国際収支が悪化して外貨準備が減少し,そのため内需増大を抑えるために引締め政策が発動された。
ベルギー,フランス,イギリスは割合に大きな景気後退を経験し,ノルウェー,スエーデンも生産が低下した。西ドイツは生産水準は低下しなかったが,その増加率はかなり鈍化した。
アメリカでは,朝鮮動乱の調整をは52年と53~54年の2段階にわたって行なわれた。52年の調整はかなり緩やかであったが,53~54年の再調整過程はかなりはげしく,国防支出の著減と投資の減退により,経済活動は全般的に低下した。しかしこの54年については,西欧諸国の景気はアメリカの景気後退の影響をほとんどこうむらずに推移したのであった。このことは,戦後の復興期に比べると西欧諸国間の貿易取引は急速な拡大を遂げ,また西欧諸国の工業力も強まることによってある程度まで西欧のアメリカ依存度が低下したことによるものとみられよう。
(3) 1957~58年不況
アメリカは1953~54年不況のあと,金融,財政両面の景気刺激策をてこにして回復に転じた。54~56年の西欧諸国,55~56年の北米は,それぞれ投資ブームの時期に当っており,欧米諸国の設備投資の増大は顕著であった。とくに,西欧諸国における近代化投資の展開と,生産性向上には著しいものがあった。しかし55年頃になると,西欧の多くの工業国については,すでに完全雇用の限界が生じ始め,賃金と価格の上昇傾向が著しくなった。 加えて,スエズ動乱の発生は国際的に物価上昇を促進する影響を与えた。そのため,大多数の西欧諸国では投資ブームに随伴したインフレの防圧,国際収支安定を目的とした公定歩合引上げや信用規制をとるに至った。アメリカでも欧米間の金利差に根ざしたドル流出を抑制する目的で公定歩合引上げが行なわれた。西欧でもとりわけ深刻な外貨危機に見舞われたフランスでは,金融引締めのほかに公共投資の大幅削減と増税が実施された。
57~58年になって,アメリカと西欧諸国の景気後退は再びシンクロナイズして現われた。この欧米の景気後退は引締めが契機となったが,基本的な性格は,設備投資の減退による不況であった。多くの欧米諸国について,この57~58年は設備投資の中期的循環の谷をなしているようにみられる。
欧米の過剰設備の発生から連鎖反応的な国際不況の深化が憂慮された。アメリカでは57年9月に始まった景気後退のスピードが戦後の前2回の経験よりも激しいことが認識されると,失業補償期限の延長,財政支出の増大,住宅抵当金融の緩和などの景気刺激措置を講じた。一方西欧でも,ほとんどすべての国で公定歩合の引下げ,貸出制限の撤廃,賦払信用制限緩和,さらに公共投資の増加などの政策がとられた。
この57~58年の欧米不況においては,政府の景気対策は景気の大きな落込みを阻止するのに有効に働いた。この時期の景気後退は,イギリス,オランダ,ノルウェー,ベルギー,アメリカ,カナダなど割合にきびしいものがあったし,またフランスは58年末にフラン切下げをやむなくされたが,各国の景気刺激策が呼び水効果をもったためもあって,当初懸念されたほどには深刻な不況に陥らずにすんだ。
こうして,欧米の景気後退が相前後して一巡するにつれて,アメリカに対する西欧の経済力が一だん強化される動きが目立った。西欧諸国の急速な設備近代化の進展は,過渡的には過剰設備を生じさせたものの,アメリカに対する生産性の開きは急速に縮まった。57~58年の不況時において,アメリカからの西欧の輸入も,西欧からのアメリカの輸入も双方ともかなりの減少をみたが,とくに西欧のアメリカからの輸入減は著しく,一方西欧諸国間の貿易の比重は一だんと拡大した。そして,50年頃にはアメリカの2分の1以下であった西欧全体の金外貨準備高は,58年末にはアメリカのそれと比肩するに至り,戦後のドル不足はほとんど解消する動きに転じた。こうした事態の変化を踏まえて,西欧の為替交換制回復,貿易自由化が展開され,西欧間の貿易に対して一そうの拡張効果を高めることになったのであった。
(4) 1967年の景気停滞
以上の為替平価の激動,価格の激動あるいは投資の大きな変動の局面をくぐり抜けたあと,1960年代に入ってからは工業国は国別には景気の後退や景気停滞が生じたものの,66年の半ば頃までは,各国の不景気の波が重なりあって働くことはなかった。すなわち,60年から61年初めにかけてのアメリカ,カナダ,61年,63~64年のイギリス,63~64年のイタリア,64年のフランスなど個別の国の景気後退や,62年頃の西ドイツ,オランダの景気停滞がみられたにもかかわらず,世界景気,世界貿易の全般的な不振を生ずることはなかった。換言すれば,各工業国の景気局面にずれがあったことが工業国相互の景気変動をならし,世界経済,世界貿易全体としては安定的拡大を持続させる様相を呈してきたのであった。
この間にあって,アメリカが63年以降,財政支出増大の刺戟と投資,消費減税を組合わせることによって,50年代の低成長から高度成長政策に転換し,戦後史上最長の景気上昇を実現したことが,世界諸国からの輸入増大を誘発し,工業国全体の成長を高目に実現させるうえに少なからぬ牽引的役割を演じた。一方,西欧の自由化を起点とした工業国相互間の自由化展開のもたらした効果は,輸出需要増加の面でも,企業の投資競争刺激の面でも,工業国全体の景気をたえず押し上げる力として働いた。各工業国にとって対外的刺激効果が強かったことは,60年代前半の重要な特色であった。しかし,欧米工業国は完全雇用達成によるコスト・インフレに一そう悩まされるようになった。アメリカも高度成長の持続にベトナム戦争の影響が加わって,65年末には完全雇用目標に近づき,インフレ傾向が強まるに至った。多くの工業国では,インフレ圧力の危険を防止することが,不況への転落の危険を阻止するのと同じ位の重要性をもつものと認識されるようになり,需要に対する供給力不足経済のなかで,インフレと国際収支難を解決するための調整的政策措置をとる国も多くなった。64年秋から66年にかけて行なわれた西ドイツの金融引締め,66年後半におけるアメリカの過熱抑制策はその例であったが,その他の西欧諸国でもインフレ克服をねらいとする引締め措置が,時期に応じて採用された。
60年代前半を通じ,総じて強い基調を保ってきた欧米景気は,66年後半から67年前半にかけて,一転して停滞的様相を表面化した。前掲の第67図にみるように,工業国の景気の停滞は約10年ぶりにシンクロナイズして現われた。
このことは,世界の輸入上位3大国であるアメリカ,西ドイツおよびイギリスの景気の後退ないし停滞がこの時期に重なりあって現われたこと,その輸入の減退が他の工業国の需要不振を呼び起したことによるものである。もともと西欧工業諸国は,西ドイツとイギリスおよびアメリカに対する輸出依存度が高いだけに,3大国の景気不振が他の西欧諸国の景気不振に波及する程度もきわめて大きかった。ちなみに,西ドイツとイギリスを除く西欧工業諸国の3大国向け輸出は,平均して輸出総額の40%,国民総生産の7~8%にも当っているため,3大国の輸入不振はきわめて直接的な姿でこれら諸国の需要,生産の不振を呼び起した。日本は西欧諸国ほどではないにしても,3大国向けの輸出は輸出総額の35%(うち30%はアメリカ向け),国民総生産の4%を占めているだけに,3大国の景気不振は輸出の不振と国際収支悪化に響くところがかなり大であった。
3大国の景気不振の度合がきわめて顕著であったのは西ドイツであって,67年上期の実質国民総生産は前年比1.7%減,設備投資は約14%の減少となった(第1部,第3章の西ドイツの節を参照)。西ドイツがこれほどきびしい景気後退に直面したのは,戦後初めての経験であった。加えて,イギリスもポンド危機打開のための引締めにより66年後半以降景気は沈滞を続けた。 こうした時期に,アメリカの景気も67年上期中は不振状態に置かれた。西ドイッの景気後退は64年夏場以降66年中続いた長い引締めの下で,投資意欲が著しく減退して不況の自律的進行が生じた半面,財政,金融の景気補整手段の発動が遅れたことが影響している。アメリカが景気不振になった大きな原因は,66年末の意図せざる在庫の増大と,その後67年上期中の急激な在庫調整の進展であったが,これは一部には66年にとられた過熱抑制策時の消費伸び悩みと投資沈静がタイムラグをもって現われたことが影響している。
いずれにせよ,3大国,とりわけ西ドイツとアメリカの景気不振は,他の多くの工業国の輸出の停滞を招き,また経済活動を不活発にさせた。開放経済体制下における景気不振の工業国間の波及はきわめて急速であった。もしも主要国の景気不振が長びくことになれば,工業国間の不況の進展のみならず,工業国の不況が低開発国にも波及拡大することによって,世界貿易全体にマイナスの累積作用を生ずることを避けられなかったであろう。
しかし,67年の工業国の景気不振は,上期の実績からみる限り従来の国際的不況と異った点がある。
第1には,工業国の景気不振の動機が57~58年のような各工業国の過剰設備発生に根ざした自律的後退要因によるものでなく,むしろ欧米工業国,ことに特定の主要国の完全雇用下のインフレ抑制措置が景気不振と,他の国への不況の波及の直接的起因となっていることである。
そして第2には,各国とも景気不振に直面するや,大きな落込みを回避するためにそれぞれ財政,金融両面における弾力的な景気補整策をくりだし,その効果に期待されるものがあることである。
第3に,とくにアメリカの景気が大きな後退におちいることなく,すでに早期立直りに向いつつあることである。アメリカ景気が後退するまでに至らなかったことは,軍需増大の景気下支え要因もあったにせよ,機動的な景気政策の効果に基づく面がかなり大きかった。この数年のアメリカの輸入増加が,各工業国,さらには世界全体の貿易拡大を誘発する効果が高まってきただけに,もしアメリカの景気不振がより拡大したとすれば,その各国への悪影響が増大することを免れなかったかもしれないが,アメリカが景気不振から早期に脱却したことは,一たんシンクロナイズした工業国の景気停滞の改善に大いに役立ったといえる。
第4には,67年上期の多くの工業国の景気停滞と輸入不振のなかで,イタリアと日本が生産,輸入の増大を続けたことが,世界の不景気の進展を緩和する効果をもった面も少なくなかった。かつての51~52年,57~58年の国際的不況時には,これら両国の輸入が世界輸入全体に占める比重はまだかなり小さかったし,またともに国際的不況のなかで,生産,輸入は停滞的であった。 しかし67年上期の場合には,イタリア,日本の世界輸入に占める比重がかなり高まり,かつ他の工業国の輸入停滞のなかで,両国の輸入がかなり増加したことは,世界貿易の停滞と縮小を食い止める役割を果たしたといえよう。
従来の国際的不況と,今回の国際的景気停滞を比較すると第57表の通りであって,ポンド切下げの情勢は予断を許さないにしても,今回の国際的景気不振は従来の場合にくらべてとりわけ深刻化するともみられなさそうである。しかし,アメリカについては,いぜんコスト・インフレの圧力が強く,これに軍事費増大による財政赤字インフレが加重されていること,西欧諸国については,景気不振による需要停滞によって物価上昇は大分弱まっているものの,コスト・インフレ圧力はなお払拭されていないことなどには,注目する心要があろう。インフレ圧力の存在は,今後の景気回復にいろいろな影響を与えるであろうし,またインフレ圧力を取除くことに成功しない限り,工業国は今後も依然として景気後退を回避することができないからである。
今日の世界工業国のきわめて現実的な課題は,デフレとインフレ双方の要因に挟撃されながらも,景気変動を小幅化する努力によって持続的成長を達成し,合わせて中断なき世界貿易の円滑な拡大をはかることに,その主要な重点があるといっても過言ではないであろう。