昭和39年

年次世界経済報告

昭和40年1月19日

経済企画庁


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第2部 各  論

第4章 社会主義圏

2. 中国(本土)の経済動向

(1)経済政策の変遷の現段階

1953年に社会主義工業化と社会主義建設の達成をめざし,第1次5カ年計画に着手してから,これまでの約12年の経済成長過程で,中国経済は,58~59年の急上昇と,60~61年の急低下という大きな変動をへて,現在は58~59年の水準復帰へと,順調に経済回復を続けている(第4-3図参照)。

58~59年に達成された国民経済のピーク段階は,いわゆる大躍進政策によって実現されたものである。その大躍進政策の特徴を端的に示すとすれば,人民公社の制定と小企業生産方式の採用であろう。人民公社の制定は政治・軍事的な目的を別にすれば,経済目的としては,全国農村の人的・物的資源を有効に活用して生産を高め,貯蓄の増強をはかることにあり,また,小企業生産方式の採用は,潜在失業力を集約的に利用することによって,少ない投資額で成長率を高めようとするものであった。

この大躍進政策の帰趨については,資本不足,人口過剰という低開発国の経済的条件のもとで,はじめて試みられる新しい成長政策として,多くの関心が集められてきたが,60年にはじまる国民経済規模の縮小は,大躍進政策の一応の失敗を示すものとなった。さらに自然災害による農業不振や,中ソ対立によるソ連の経済援助の停止は,中国の経済停滞をいっそう長期化させることとなった。61年1月に開催された第9回中国共産党全国大会(9中全会)は,大躍進政策に大幅な修正が加えられたという意味で重要な会議であった。これに続いて,62年4月の全国人民代表大会で,農業優先開発を骨格とする調整政策の基本方針が決定された。

人民公社制度は,59年から60年にかけてすでに制度面あるいは運営面で後退がはじまり,形式的には人民公社制度そのものは存続しているが,内容的には,生産隊を中心とする独立採算制の採用という,56年頃の農業生産協同組合方式の線まで後退した。これは,精神的刺激に強く依存して貯蓄増強をねらいとした人民公社制度が,生産力のまだ低い中国農業の諸条件のもとでは,予期した増産効果はもとより,むしろ農民の労働意欲を低下させる結果となったことを示している。このため,計画当局は個人所有地(自留地)の復活,自由市場の開設とともに,人民公社制度の組織を緩和することによって,物的刺激を通じて農民の生産に対する労働意欲を高めようとする措置を講じた。

また,過剰労働力問題を解決しつつ,少ない投資額で経済の成長を促進しようと計画当局が試みた小企業生産方式でも,やはり,59年から60年にかけて整理陶汰の段階にはいった。取り上げられる業種が,紡織,食品,修理工業という伝統的な農村副業的な業種にとどまっている間は問題は少なかったが,経済成長率を高める手段として,業種の選択が鉄鋼,機械工業などいわば近代工業の分野にまで拡大されると,品質や採算点の面で,資源のロスという問題に直接当面するようになったようである。60年あたりから小企業生産方式を採用するにあたっては,採算性と地域性とを加味する動きがみられるようになった。たとえば,土法製鉄,小型高炉,小型転炉(トーマス転炉)は大幅に陶汰されたが,窒素肥料,農業機械,農器具など,比較的加工度の低い業種では,近代工業の分野に属する業種でも,なお小企業生産方式が全国的に採用されている。要するに,人民公社制度や小企業生産方式については,その実施にあたって,漸進的かつ現実的な運営方法が要求されるようになったわけである。

上記の農業優先開発の政策は,以上のような大躍進政策の調整過程において,まず農業生産の安定が先決だとする計画当局の基本方針が示されたわけで,第1次5カ年計画(53~57年)における社会主義工業化のパターンが,ソ連の経験と経済援助を支柱にした大規模企業中心の重工業優先開発の方式であったことときわ立って対比される。

国連推計の産業別生産国民所得の構成をみると,中国は59年において,農業生産の占める比重が43.6%と,ブルガリア,ルーマニアなど社会主義圏の低開発諸国にくらべても高く,なお後進性が強い(第4-4図参照)。したがって,土地生産性の低い農業生産のもとでは,豊凶の差がただちに国民経済の成長差どなって現われる。63年から64年にかけて,農業生産の回復は順調に進んでいるが,今後調整政策の実施によって,経済回復の基調が持続されるかどうかは,ここ数年間の農業生産の動向にかかっているといえよう。

以下,主要経済指標によって,63~64年の経済動向を概観してみよう。

(2)1963~64年の概況

1)農業生産

1963年の農業生産は前年に引き続き改善された。計画当局の発表によると,食糧生産は,62年よりいくらか増大し,58~57年の年間平均生産量に達したといわれるが,58年の最高水準には回復していないものと思われる。国連の世界経済年次報告によると,食糧生産は62年に対比して10%の増産となっているが,ホンコン筋の推計では,第4-20表に示されるように1%以下の増産にとどまっている,また畜産品,野菜も大幅な増産となったが,これには農民の個人所有地(自留地)からの収獲増が大きく寄与していろ。農業生産の回復は64年にはいってさらに進み,計画当局の発表によると,食糧,綿花,甘蔗,煙草,茶,果実など全般的に豊作を伝えている。また肉類,卵の出荷量も戦後最高に達し,おもな農業,畜産製品の生産高は,いずれも第1次5カ年計画の最後の年である1957年の水準を上回ったという。しかし人口増加を前提とした場合,人口1人当り生産高では,おそらく58年の戦後最高水準への復帰は困難であろう。

農業生産の好転は,天候条件に恵まれたことと相まって灌漑設備の増設,化学肥料の増投,農業機械の導入,農業技術の改善など農業の近代化が徐々に進んだこと,および,作付面積の拡大によるものであった。

現在,計画当局が重点を置いている農業増産対策は,主どして土地生産性の向上をねらいとしたものである。国民1人当り耕地面積の少ない中国農業(中国0.165ヘクタール,日本0.067ヘクタール,ソ連1ヘクタール,ポーランド0.536ヘクタール)では,第1次5カ年計画期には,開墾による耕地面積の拡大も重点的に取り上げられてきたが,立地条件,あるいは費用の面を考慮して,今ではもっぱら土地生産性の向上に重点が置かれている。土地生産性の向上については,農業近代化のための20~25カ年の長期計画を立案して土地改良の促進(灌漑排水設備の普及),農業機械の導入化学肥料の増投,農業技術の改善などが進められている。そして61年から63年にかけて農業投資はかなり増大してトラクター,排水潅漑設備,電力排水灌漑ステーションが大幅にふえ,また,化学肥料,農薬も増投され,64年1~8月間に投入された化学肥料は前年同期の76.4%増に達したという。

このような農業近代化のための投資源としては,政府投資のほかに63年に復活された農業銀行を通ずる農業貸付金の増大が大きく寄与している。

しかし現在,農業近代化計画はその緒についたばかりで,水準としてはまだ非常に低い。59年末現在,中国の機械化耕作面積は全耕地面積の5%前後といわれ,また動力灌漑面積は総灌漑面積の10%を占めるにすぎなかった。

その後,この比率は若干増大をみたとしても大したものではない。また,化学肥料投入量にしても,59年には耕地面積1華畝(0.067ヘクタール)当り165グラムにすぎなかった(ソ連4.2キロ,日本65.5キロ)。計画当局では,この10年以内に達成すべき投入目標として,1ヘクタール当り5キロを予定しでいるが,その達成には現在300万トンていどの化学肥料生産が800万トンに増大しなければならないとされている。

なお農業近代化と平行して,作付面積の拡大,あるいは米作の北上化が検討されている。作付面積の拡大についは,間作の増大による作付面積の拡大と同時に,現在,中国科学院を中心に農作物の2毛作地帯の北限について実地調査研究が進められている。また,米作の北上化については,一般的に米作の土地生産性が小麦のそれを上回るため,従来淮河以南とされていた米作地帯を,土地条件ならびに気象条件が許す限り北上化させる計画が進められてきた。しかし58~59年段階では,画一的かつ急激に促進されすぎた面があ現在その反省とともに,日本の経験などを参考としながら再検討されているようである。

一方,大躍進段階には,農村労働力の流出,都市労働力の増大がみられたが,61年以降には,計画当局の指示もあって,都市食糧対策のために都市労働者の帰農が進められてきた。

2)工業生産

農業生産の早い回復テンポに比較して,工業生産の回復テンポは比較的に緩やかである。しかし1963~64年にかけて,中国の工業生産は,農業関連産業の拡大を中心に着実な回復を示し,計画当局の発表によると,64年の工業総生産額は前年比15%以上の増加が見込まれている。

工業政策の重点は,引き続き,自力によって工業基礎を建設すること,農業にあらゆる援助を与えること,重工業と軽工業のバランスをはかること,および製品の品種を拡充し,品質を向上させることに力点が置かれている。

このため,ここ3年余りの間に,中国の工業休系は,次第にソ連の技術者引揚げの影響から立ち直って,農業生産を支援する工業体系への再編成がはじまっている。

第4-21表 主要工業物資の生産

60年7月のソ連の技術者引揚げは,中国の基幹産業の各分野に決定的な影響を与えたが,63年から64年にかけて,その影響は,徐々に克服されてきている。その支柱となっている考え方は,経済技術援助を期待せず,独自の技術をもった工業体系を生み出そうという,中国の計画当局が標傍する「自力更生」の構想である。この自立経済構想は,多くの問題点を含みつつも現在実施段階にはいっている。その典型的な実例として,中国独自の技術設計をもって建設されたという上海の呉けい化学肥料工場,大慶の石油コンビナート,新安江水力発電所があり,また,ソ連の技術者引揚げのショックから立ち直って操業を再開した武漢鉄鋼コンビナート,洛陽トラクターエ場など多くを指摘することができる。

また,非能率,低品位,高コストという経済性の面から陶汰整理が行なわれてきた小企業生産方式も,過剰労働力吸収,地方資源開発という面では当然再検討されなければならない問題であり,とくに,ソ連の経済技術援助の停止によって,その必要性はいっそう増大しているとみてよかろう。したがって現在,各地方の特性に応じて農村に密着した発展を遂げつつある小型肥料工場などは,今後もそれなりに全国的な規模をもって発展するだろう。

つぎに,農業優先開発の考え方は,農業に奉仕する工業休系の確立というかたちで,化学肥料,農業機械,農機具,農薬など農業関連工業品および鉄鋼,石油など基礎財が,63年から64年にかけて大幅に増大した。とくに化学工業品は,化学肥料,硫酸,苛性ソーダ,塩化ビニール,ゴム製品を中心に増大し,63年には工業総生産額中に占める化学工業の比重は,食品,紡織,金属加工(機械工業をふくむ)に次いで,鉄鋼を凌駕して第4位となった。

64年にも増勢が続き,1~8月間の生産高は前年同期にくらべて化学肥料53%増,硫酸32%増,塩化ビニール32%増,農薬16.9%増となった。また農業機械,農器具を中心とする機械工業も着実な上昇をみせている。なおソ連圏からの機械輸入が大幅に減少したため,機械およびプラントの国内生産による輸入代替が進んでいるが,計画当局の発表によると,航空機,自動車,機関車,水圧機,平炉,分塊設備なども,中国独自の技術をもって生産可能になったという。もっとも,なかには試作程度の機種もある。

エネルギー産業のなかでは,電力,石油の増産が目立っている。計画当局によると,石油製品については,特定品種規格のものを除き,基本的には自給体制が確立されたといっているが,これには,新たに開発された大慶油田の役割が大きく寄与しているようだ。しかし農村電化をはじめ,現在,ボトル・ネックを形成している自動車輸送の増強,あるいは重工業生産の増大などによって,石油製品需要は今後大幅な増大が予想されるので,供給力の面では,石油精製設備および輸送設備投資のテンポが問題となろう。

電力開発については,63年に新たに新安江水力発電所(最大出力65万KW)か完成し,主として上海工業地区に送電されている。このほか,全国農村に小型発電所が多数建設された。

粗鋼生産は,60年の1,845万トンを最高にその後大幅な減産となったが,62年の800~1,000万トンを底として,そのご回復をはじめ,63年には1,000~1,100万トンとなり,64年にも前年比20%以上の増産が見込まれている。

なお,鉄鋼品種,規格数の増大,品質の改善にも重点が置かれており,64年にははじめてブリキが生産されるようになった。しかし,高炉設備にくらべて,製鋼・圧延設備は先進諸国より近代化の程度がかなり遅れており,酸素製鋼プラントやストリップ・ミルは保有していない。

農業生産の回復とともに,農産品を原料とする食品,繊維など軽工業品も増産に転じた。

繊維工業では,とくに化学繊維の発展が目ざましい。もともと,計画当局の繊維対策には,天然繊維,と化学繊維の並行した発展というねらいがあり,不安定な綿花供給を調節する意味からも,工業用繊維および国内衣料用繊維は,極力,化学繊維または混紡繊維によって代替するという方針がとられている。このため,海外からの化繊・合繊プラントの導入および化繊原料の輸入が促進されている。64年にはいって化学繊維の生産は,前年にひき続き増産となったが,綿糸,綿布生産高も前年比20%以上の増産が見込まれている。

国内綿花の供給がふえ,さらに,パキスタン,メキシコ,ウガンダなどからの輸入綿花が増加して,加工輸出が行なわれているためである。

一方,塩化ビニールの増産とともに,プラスチック製品が増産され,ラジオ,ミシン,自転車など耐久消費財もかなりの増産となった。

3)固定投資と個人消費

ソ連の経済援助が全く期待できない現在では,貯蓄の重要な源泉は政府貯蓄である。政府貯蓄のなかでも,もっとも基本的な国営企業ないし集団農場の余剰(上納利潤)は,経済回復とともに再び増大している。とくに国内市場および海外市場向け消費物資が増産となっで政府貯蓄の増大に寄与した。

しかし,集団農場において農民の物的インセンティブを高める意味から,人民公社体制の緩和,無償労働の減少,個人所有地(自留地)の復活などが進み,農民の実質所得は高まったとみられるので,1963~64年の経済の回復によって,政府貯蓄額は増大したものの,国内貯蓄率はむしろ低下したとみられる(エカフェの推計によると58~59年の平均貯蓄率は22%,60年以降の推計値なし)。一方経済開発投資も,政府貯蓄の上昇と平行して増大し,64年にはいって粗固定投資規模は前年を上回り,すでに着工した投資プロジェクト数は前年より200単位ほど上回っているという。政府投資の重点は,63年から64年にかけて,農業関連工業(化学肥料,農業機械)および石油精製,鉱山(石油,鉄鉱石,石炭,非鉄金属)電力ならびに輸送部門に集中されている。また,農業部門に対しては,土地改良工事などに直接政府投資が行なわれているほか,63年に開設された農民銀行を通して農業貸付金がふえ,人民公社における農業用生産手段の購入が増大している。

消費物資の供給も,消費購買力の増大と並行してかなり増大してきた。昨年,全国の各機関,企業の職員労働者のうち,約40%を対象として賃金改訂が行なわれた。おそらく,賃金の格差是正と,60~61年当時の小売価格の上昇に対処するものであろう。賃金の上昇によって都市労働者の預金残高がふえ(全国都市の預金残高は前年比4億2,000万元増),消費購買力も高まった。

また,農業生産の回復によって農家所得は全般的に増大を続けている。このような消費購買力の増大に歩調を合わせて,都市では,食糧,食料油,綿布などの割当てがふえ,砂糖,肉類,煙草などは自由販売も行なわれているという。また,ミルク,かんづめ,果実,野菜など食品およびミシン,自転車,ラジオ,プラスチック製品など日用品も,全国的に出回りが著増し小売価格も若干引下げが行なわれているようである。

4)対外貿易

(a)貿易の推移と市場別構成

中国の対外貿易総額は,1959年をピークとしてその後減少に転じ,60年には前年比8%減,61年には23%減,62年にもさらに8%減少して,59年の約3分の2ほどの規模となった。しかし63年になって,生産の回復は貿易面にも波及して貿易の拡大がみられ,輸出7%増,輸入1.5%増,輸出入総額4.4%増となった。貿易の回復は64年にはいっても続いている。

このような貿易の回復は,大部分が東西貿易の拡大によるもので,対ソ連圏貿易は60年以来の貿易縮小傾向が依然続き,63年にも対前年比約14%の減少となったのに対し,東西貿易は,対前年比16%の増大となった。このため,輸出入総額でみた市場別構成は,63年に資本主義圏の比重が社会主義圏の比重を上回るという特徴的な変化を示すにいたった(輸入の市場別構成では62年にすでに構成変化が起こっている第4-23表参照)。

対ソ連圏貿易の減少は,いうまでもなく60年以降にみられるような中ソ間のイデオロギー論争に端を発したソ連の経済技術援助の停止,ソ連技術者の引揚げなどを反映するもので,したがって,中ソ貿易では対ソ輸入が急減しているのに対し,対ソ輸出は借款返済の必要上それほどの減少がみられない。計画当局の発表によると,対ソ借款返済は64年中にほぼ完済の見込みだという。

一方,東西貿易は中ソ貿易が急減した期間にもあまり変動なく横ばいに推移してきたが,63年にはいってかなり上昇した。

東西貿易を先進諸国と低開発諸国の二つのブロックに分けて,53年以降の市場別構成比率をみると,第4-24表に示されるように,中国の輸出では,低開発国の比重がおおむね60%台を維持して不変なのに対し,中国の輸入では,56年に先進諸国の比重が低開発諸国のそれを上回り,その後,先進諸国の構成比率が高まってきている。おそらくこれは,従来西側諸国の禁輸措置などの関係で,ホンコン経由で輸入されていたものが,禁輸緩和とともに直接取引きにとって代り,資本財輸入の増大とともに先進国に対する輸入依存度が高まったためであろう。

もっとも,先進諸国グループのなかには,カナダ,オーストラリアなどを含んでおり,61年に開始された中国の緊急食糧輸入によって,以上各国からの食糧輸入が増大し,その他先進諸国からの資本財輸入が減少するという商品別輸入面での変化がみられた。

このように,中国の東西貿易については,先進諸国からの入超を低開発諸国に対する出超(主として香港,シンガポール)で相殺するという決済面における三角貿易型が形成されているわけである。

つぎに東西貿易の最近の動きを各国別にみると,西欧および日本など工業国からは,中国の経済回復と平行して,63年にはいって資本財輸入が漸増しはじめたが,とくに,各国の長期延払契約によるプラントの輸入の動きが活発となっている。64年2月のフランスの中共承認は,こうした各国の中国市場進出をいっそう促進するきっかけとなった。オーストラリアの著増は緊急食糧輸入の大幅増加のためだが,カナダからの減少を相殺するものであった。また,63年来中国が政治的にも力点をおいてきたアフり中近東市場も,絶対額は小さいながら貿易の拡大がみられ,ラテンアメリ市場も,64年にはいってメキシコ,アルゼンチンからの輸入が増大した。

輸出市場としては,とくに,香港,シンガポール市場の増大が目立っている。また日本,セイロンに対しても輸出の著増がみられた。

以上のように,63~64年にかけて東西貿易は拡大に転じ,63年には資本主義市場の比重が社会主義市場の比重を上回るという市場構成の変化があったが,これまでの中国の対外貿易依存度が,ほぼ10%前後で推移してきたところからみて,今後も,経済回復に伴い,実質国民所得の伸びと並行して東西貿易の増大が予想されよう。また朝鮮動乱の勃発以来,中国の対外貿易市場で主導的役割を果たしてきた社会主義市場の地位が,中ソ対立の深化という政治的要因によって後退したが,この点は,政治と密着した社会主義貿易の一つの特徴を示すものである。

第4-22表 中国の対外貿易の推移

(b)商品別輸出入構成

中国の輸出入商品構成をみると,一次産品および軽工業品輸出,資本財および原材料輸入という構成をとりながら,工業化の進展とともに輸出商品構成のうえで,しだいに繊維品を中心とした軽工業品の比重が高まり,一次産品の比重が低下するという傾向を示してきた。

ところで1961年にはいってこの輸出入商品構成に大きな変化が生じた。

つまり,輸出商品構成の面では,食糧,原材料(植物油脂原料,大豆,カシミヤなど)の比重が大幅に低下し,また輸入商品構成の面では,食糧の比重が大幅に上昇して,機械,鉄鋼,非鉄製品など資本財および基礎材の比重が大幅に低下した。このような変化は63~64年にも続いている。これは,農業減産のため食糧および農産品の輸出余力が減少して,従来の食糧輸出国から食糧純輸入国となり,また,中ソ対立の深化につれて,機械およびプラントなどソ連からの輸入がほとんど停止されたためである。

つぎに,商品別,市場別輸出入構成の推移をみると,その変化は第4-5図および第4-6図に示される。

まず,輸入商品については,食糧,原材料,(綿花,生ゴム),化学品(化学肥料,有機品)の輸入は資本主義圏の比重が高く,燃料(石油),機械,その他工業品(鋼材,非鉄品)は社会主義圏の比重が高い。品目別にみて圧倒的な輸入比重を示し,また中国の経済成長にとって重要な鋼材,機械およびプラント,石油製品などは,すくなくとも60年まではほとんど社会主義圏からの輸入に依存してきたことがわかる。そして,このような市場構成に変化が現われはじめたのは61年以降からである。60年まではソ連の機械輸出総額の40%以上を占めてきた中国向け機械輸出,同じくソ連のプラント輸出総額の60%以上を占めてきた中国向けプラント輸出は,62年にはそれぞれ2.3%,2.1%と減少し,63年に若干増加をみたものの,依然減少傾向が続いている(第4-25表参照)。

こうした機械・鉄鋼など,社会主義圏からの輸入減少は,60年前後から西側工業国からの輸入増大によって補填されはじめた。さらに63年にはいって,日本および西欧諸国から長期延払契約に基づくプラント輸入が開始されて,市場転換の動きはいっそう促進されつつあるようである。(第4-26表参照)。

一方,輸入総額の30%以上を占めて61年にはじまった緊急食糧輸入は,64年にも引き続き565万トンの輸入が見込まれている。そして,その輸入相手国はほとんど資本主義諸国であって,ソ連からは61年に20万トン,62年に35万トンが輸入されたにすぎなかった。緊急食糧輸入については,今後,中国の農業生産の回復テンポに応じて輸入量の減少が予想されるが,最近,フランスとの間に大量の小麦買付けが決定し,また,米,大豆など,土地生産性の比較的高い農産物を輸出して小麦を輸入するという計画当局の食糧操作の構想も示されているので,食糧輸入はここ当分持続されることとなろう。

つぎに,輸出商品についてみると,輸出の大宗をなす食糧,原材料(大豆,植物油脂原料,カシミヤ),軽工業品(繊維品)の輸出比重は少なくとも60年までは社会主義圏が圧倒的に大きかったが,61年以降はその比重が低下している。

63年には経済の好転と相まって,前年に引き続きホンコン,シンガポールなど東南アジア市場を中心に,食糧,原材料,綿製品,絹製品など輸出が増大し,また輸入綿花による綿製品の加工輸出や,鋼材,軽機械輸出の増大など注目すべき動きがみられた。鋼材や軽機械は現在のところ,建築材料(棒鋼,窓枠),自転車,ミシン,ラジオ,事務用機械など加工度の低いものが多いが,伸び率は非常に高い(第4-27表,第4-28表参照)。なお計画当局の発表によると,対ソ借款返済も64年中にはほぼ完済の見込みだといわれているので,そうなれば,借款返済にあてられてきた綿製品の一部は,資本主義市場に転換されることとなろう。すでに大豆は,日本および西欧諸国向けに市場転換が行なわれている。

こうした計画当局の輸出増強政策は,経済開発に必要な資本財輸入のための外貨得取対策として,今後も意識的に強化されることであろう。

(c)日中貿易の推移と特徴

日中貿易は,第4-7図のグラフに示されるように,朝鮮動乱直後の1951~52年と,長崎国旗事件による59~60年の2度の衰退期を経て,現在,61年にはじまる貿易の上昇が続いている。そして,62年11月に締結されたLT総合民間貿易取決めによって本格的な上昇に転じ,63年8月には,ビニロン・プラントの正式承認にふみ切り,その後見本市の開催,貿易事務所の開設など貿易拡大の体制が逐次固められてきている。

63年の貿易額は,日本の輸出6.296万ドル,日本の輸入7.456万ドル,総額1億3,753万ドルと戦後では56年,57年につぐ第3番目の規模に回復したが,64年にはさらに貿易の好調が続き,1~10月の実績は輸出1億2126万ドル,輸入1億2906万ドル,総額2億5032万ドルと,すでに56年の戦後最高額を大きく突破した。本年にはいって,化学肥料,化学繊維,鉄鋼の輸出と銑鉄,大豆の輸入が著増したためである。下期にはいると,プラントの一部積出しが開始されるので,貿易の好調が続き,年間約3億ドル程度の規模に達するとみられている。

日中貿易の増大は,59~60年の貿易中断後の回復という要因も考えられるが,それと同時に,中国経済が農業生産を中心に回復に向かい,肥料,農業機械,鉄鋼など資本財需要が著増しているためである。とくに,中国にとって日本市場は,鉄鋼主原料,塩など非農産原材料を輸出して資本財の輸入が可能なこと,日本の技術水準に寄せる中国側の評価と期待が大きいことなどの条件にめぐまれ,さらに,日中貿易がこれまで傾向的に日本側の入超であったため,貿易収支バランスの是正に向かって,日本の工業品輸入が増加したことなどが,西欧諸国に先がけて増大する日中貿易の拡大要因となっている。

しかし,日中貿易に全く問題がないわけではない。決済面における2国間均衡主義を貫こうとする中国の貿易政策を前提とすると,長期的には,予想される日本の出超をどうして解決するかが問題である。また,中国商品の輸入増大についても,たとえば鉄鋼主原料や大豆のように,戦後18年間に輸入市場を他地域に転換してしまい,海上輸送コストが縮減して近距離という利点が薄らぎ,中国産の石炭,鉄鉱石の品位が低品位であるといったことから,輸入の拡大が阻まれている面もある。こうした輸入制約条件の解決が,長期的には今後の貿易拡大の極め手となろう。