昭和39年

年次世界経済報告

昭和40年1月19日

経済企画庁


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第1部 総  論

第4章 世界貿易の発展と新しい動き

4. 東西貿易拡大の機運

(1)1963~64年の貿易拡大

1960年からとみに拡大テンポを高めてきた東西貿易は,62年に一時伸び率が鈍化したが,63年にはいって再び上昇をはじめた。63年の東西貿易は,西側の輸出が55億ドル,同じく輸入が58.8億ドルで,前年にくらべ輸出7.6%,輸入8.2%の増加となり,62年の伸び率(輸出4.9%,輸入7.2%)を上回った。とくに日本の伸びは著しく,輸出18%,輸入21%の増加となった。

しかし,63年において急速な拡大をみた世界貿易(社会主義圏の域内貿易を除く)の増加率にはわずかに及ばず,そのため60年以来高まってきた世界貿易に占める東西貿易の比重は63年には微減を示し,輸出入とも約4.1%となった(62年輸出入とも4.2%)。

ところで64年にはいって,カナダ,オーストラリア,アメリカなどの諸国で,食糧輸出が増大し,日本でも中国市場を主軸としてかなりの貿易増大(64年上半期に前年同期比で輸出53%増,輸入68%増)がみられたため,OECD諸国全体としては,64年上半期に前年同期比で輸出約12%増,輸入約23%の増加となった。だが,EEC,EFTA諸国では,同期間において輸出はむしろ減少した。

しかし,社会主義市場に対する輸出信用期間を5年間と定めたベルン会議の取決めも事実上無効となるなど,社会主義圏に輸出市場の拡大を求める各国の動きが,最近いっそう活発になって,イギリス,日本,フランスでは対ソ化学プラントの輸出信用期間の延長にふみ切り,また中国向けプラント輸出も積極化しているので,西側諸国の輸出は,先行き増大が見込まれている。

東西貿易の増大傾向は,社会主義市場においても特徴的に示されている。

62年に,機械輸出を中心に拡大したコメコン域内貿易は,63年にはいっても増勢が続いたが,ルーマニア,ポーランド,ハンガリーでは,東西貿易もかなりの伸びを示し,また中ソ対立がいっそう深化して,中ソ貿易は63年にも減少を続けたが,両国の西側諸国に対する輸入地域転換が進み,社会主義圏全体としての貿易総額で東

西貿易の占める比重は,61年以降30%とという高い水準を維持している(第13図参照)。

第12図 東西貿易および世界貿易の増減率

しかし,社会主義圏の各国別東西貿易の推移はまちまちで,東西貿易のすう勢的な上昇過程のなかでも,東欧,中国では,63年に輸出入の大幅な増大がみられるのに対し,ソ連では,62年の拡大とは対照的に目立って伸び率が鈍化した(第14図参照)。これは農業の減産によって農産物の輸出が減退したことを反映している。なお,64年前半には大量の食糧輸入が続いたが,農業生産の好転によって,後半には食糧輸入をほとんど必要としなくなり,それに代って,現在進行中の化学振興計画に沿って,化学プラントの輸入が増加している。

また,西側への金売却は,62年までは年間2億ドル台であったが,63年にはいって緊急食糧輸入のため5億ドルに増大した。64年も同程度の金売却が見込まれている。

一方,中国では農業生産が好転し,対ソ借款返済額も縮小したので輸出余力が増し,中ソ対立の深化につれて減少する圏内貿易とは対照的に,東西貿易は大幅に拡大した。61年にはじまった社会主義圏から資本主義圏への輸入地域転換の動きも,鋼材,単体機械から63年にはいってプラント輸入の段階まで発展し,中国の対外貿易に占める東西貿易の比重は,63年に55.4%という圧倒的比重を占めるようになり,貿易の主導的地位が資本主義市場に移行することとなった。これにより,計画経済のなかに不確定要因が多くはいりこむことになる点が問題となろう。

なお,食糧輸入については,食糧不足は解消しつつあるが,相対的に土地生産性の高い米を輸出し,小麦を輸入するという計画当局の意向も示されているので,ここしばらくは続けられよう。

第31表 西側先進国の貿易総額に占める東西貿易の比重

(2)東西貿易の拡大要因と問題点

米ソ間の緊張緩和や対社会主義圏貿易制限の緩和など,東西貿易を促進する環境が醸成されてゆくなかで,63年から64年にかけて,東西貿易の拡大機運はいっそう高まったようにみえる。その理由として,①ソ連において,農業生産の集約化と消費財の増産などを目的として,肥料,化合繊,プラスチックを中心とする化学工業振興計画が着手されて圏内の設備供給力を上回る需要が発生したこと,②東欧諸国でコメコン体制についての批判が起こり,コメコン域内の国際分業の名のもとに,ソ連への依存を強化することに警戒的となり,③また,中ソ対立が深化したために,両国で西側諸国に対する輸入市場転換の動きが盛んになるなど,東西貿易に対する社会主義諸国の関心が高まってきたことが挙げられる。さらに,④資本主義諸国でも,工業国における輸出増進の必要性が最近とみに高まり,とくに,長期的な国際収支対策からみても,社会主義市場が潜在的な将来市場としての可能性をもつことに,各国が大きな関心をいだきはじめたことが指摘される。

つぎに,63年から64年にかけて,東西貿易を拡大させたいくつかの要因を取りあげてその動向を探ってみよう。

1)ソ連における政策の転換

その一つは,ソ連における長期的な経済構造の変化とそれに対応する貿易政策の転換である。ソ連の対外経済政策は,1950年代の半ばを転機として,自給化から積極的な貿易拡大へと目立った転換を示した。この転換は一般的な国内および対外政策の変化を背景として行なわれたが,基本的にはソ連経済の構造変化によるものであった。すなわち,戦争による人的損害と戦時・戦後の出生率の低下は,労働力の供給を漸次窮屈にし,戦前のように,基礎産業への投資の増大と余裕のある労働力の動員によって生産の増加を図るという条件が失なわれた。したがって,経済全般にわたり,資本の効率的な利用,労働生産性の引上げ,企業経営の能率化など,経済効率の向上が必要となった。

この経済効率の向上という要請が,対外的には貿易による利益,いわゆる「社会的労働の節約」を図るため,積極的に貿易を拡大する政策への転換を促進した。

このような条件のもとで,50年代半ばにソ連圏内国際分業の推進と並んで,東西貿易の積極化の方針が打ち出されたのである。他方,ソ連の経済力の充実と消費の向上・高度化は,低開発国に対する貿易・援助関係を強化することを可能にし,低開発地域をも含む東西貿易拡大の要因となった。

さらに注目されるのは,最近における化学工業振興計画が,西側工業国との貿易に及ぼす影響である。

この計画は,農業生産の集約化,消費財の増産と多様化,金属その他重要資財の代替品の供給を目的として,化学肥料,農薬,合成品を大幅に増産するため,64~70年の計画を定めたものであって,計画実現には多額の設備投資が必要とされる。しかし,ソ連においては化学工業や消費財産業の設備の対外依存度は相対的に高い。もちろん,その一部はコメコン内の工業国からの輸入に仰ぎ,近年その比重は増大する傾向にあったが,今後投資の増大に伴って,これらの産業設備の需要が急激に増大すれば,それは西側工業国からの輸入によって充足されなければならない。この点,化学工業振興計画は,東西貿易拡大の一つの重要な要因となっている。

2)コメコン体制と各国の分散傾向

ソ連と並んで,東欧諸国でも政策の転換が行なわれた。1950年代前半に,は,東欧各国はそれぞれ平行的に重工業優先の全面的な工業化政策を進めてきたが,そのため,基礎原料,エネルギーの不足など経済的困難に陥った。そこで全面的工業化政策は修正され,各国の条件に応じた生産の専門化と協議化による国際分業が推進されることになった。ソ連,東欧の経済協力機関として,49年に結成されたコメコン(Council0f MutuaI Economic Assistance経済相互援助会議)は,それまでは目立った活動をしていなかったが,政策転換に伴って,各国の経済計画の相互調整を通じて国際方策を進めるための機関となった。

コメコン域内の分業体制は,それ自体としては,西側との貿易の拡大を制約する要因となるものであるが,機械工業を中心とする域内国際分業の推進が意図されているにもかかわらず,少なくとも現状では,西側からの機械設備の輸入は,事実上コメコン諸国にとってますます重要性を増している。さらにコメコン域内の国際分業には,種々の問題が含まれている。

現在,各国の工業化の水準は著しく不均等であり,かつ先進工業国,とくにソ連中心の傾向が強い。このような現状のもとで,すでに,専門化される生産の割当について各国間の対立が生じ,遅れた国は急速な工業化を要求するようになっている。また,東欧各国とも,国際分業の名のもとに圧倒的に強大なソ連への依存を強化されることに反発するし,対ソ貿易で,輸出の割安,輸入の割高という不利が是正されぬかぎり,むしろ西側工業国との貿易の拡大を望むであろう。

コメコン域内の一部諸国の分散傾向,あるいは西側への接近は,中ソ対立によって,東欧諸国がソ連に対して自主性を強める機会を与えられたことにもよるが,コメコンの現状からも十分起こりうることである。すでにルーマニアは,コメコン内の国際分業と単一経済計画の試みに反対して,アメリカ,フランスと貿易交渉を行ない,ポーランドもケネディ・ラウンドへの参加を申し入れるなど,一部の諸国に西側接近の態度がみられる。

3)中ソ対立の深化

中ソ対立が激化するにつれ,中国の対ソ連,東欧諸国の貿易は縮小し,とくに,中国の対ソ機械およびプラントの輸入は大幅に減少した。中ソ貿易がピークに達した59年には,機械輸入額は5億3,260万ルーブル(うちプラント輸入額3億5,970万ルーブル)にのぼったが,経済援助の停止,技術者の全面的引揚げと同時に輸入額は減少し,63年には3,790万ルーブル(うちプラント1,310万ルーブル)となり,中国の経済開発にとって決定的な影響を及ぼすことになった。エカフェの調査によると,50年から57年にかけて,中国がソ連から受取った借款総額は予算支出額の3%,全投資額の8%を占め,ほとんど基幹工業投資に集中しているといわれる。

そのほか対ソ輸入に大きく依存していた石油製品,鉄鋼の輸入もかなり減少した。このため,中国では輸入地域転換や自給化による輸入代替を迫られることとなったが,資本主義国からの機械,鉄鋼の輸入増大に続いて,63年にはプラント輸入契約が成立し,また,石油の自給体制もある程度見通しがついたといわれている。

一方,ソ連経済に対しては,中ソ貿易の縮少はそれほど大きな影響を与えなかったが,従来,中国市場に依存してきた軽工業品輸入は,主としてコメコン諸国および圏外低開発国からの輸入増加によって補填された。

こうして,中ソ対立の深化に伴い,中ソ両国では,資本主義市場に対する輸入地域転換の動きが促進されてきている。

しかし,56年2月のソ連共産党第20回大会を契機として対立が深まり,63年7月の中ソ会談の決裂によって決定的段階にはいった中ソ間のイデオロギー論争は,今回のソ連政変を転機に,再び屈折点にさしかかろうとしている。中ソ論争の論点の相違という点からすると,中ソ間の対立は容易に解決しそうにもない。

しかし,国家関係の対立にまで発展してきた両国関係もいくらか変化し,中国の対ソ輸入も63年を底に回復に向うことも予想される。

4)今後の見通し

以上のような拡大要因に支えられて,西側諸国の対社会主義圏輸出は63年に7.6%増と,前年の4.9%増を大きく上回った。さらに,64年にはいって中ソ両国の経済回復が進み,食糧輸入は減少したが代って資本財輸出がふえ,また西側諸国のソ連および中国に対する長期延払い輸出が積極化して,ソ連向けプラント輸出では,イギリツ,日本,フランスの各国でそれぞれ輸出信用期間が延長された。こうして,64年には前年を上回る輸出の増大が期待されている。

しかし,西欧各国の輸出努力がますます強まり,アメリカも65年の大統領年頭教書にうたわれているように,ソ連,東欧に対する輸出増強策を講ずるといわれるので,日本の対社会主義圏輸出も今後競争激化に当面することとなろう。


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