昭和37年

年次世界経済報告

世界経済の現勢

昭和37年12月18日

経済企画庁


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第2部 各論

第4章 共産圏

2. 中国の経済動向と東西関係

(1) 1961~62年の経済動向

中国の第2次5ヵ年計画(1958~62年)は624をもって最終年度を迎え,63年から第3次5ヵ年計画が着手される予定であるが,中国国家統計局からは61~62年に関する全般的な計画数字および経済実績については何も発表されていない。しかし,62年4月の人民代表大会ならびに9月の第8期党中央委員会全体会議(十中全会)で,工農業生産の概要と経済政策について簡単な報告が行なわれている。この報告にみられる61~62年の中国経済の著しい特徴は,59年以来3年間も続いた農業災害の発生と,これに対処して効果的に進められている調整政策の動向であろう。人民公社制度の調整は60年にも進められてきたが,61年から62年にかけて,(1)経済開発の重点を重工業から農業に移し,(2)技術的にみて非能率的な小企業(人民公社工業)を淘汰し,(3)人民公社制度の調整を徹底化するなどの諸政策は一段と強化拡大されてきている。そして62年の農業生産は前年に比べてわずかながらも好転を示し,調整政策の効果が徐々に現われつつあるというのが現状である。

このような特徴に留意しながら,以下61~62年の工農業生産,貿易の動向を主要経済指標によって概観しよう。

1)工業生産

61年の工業生産については公式に発表された統計がないので正確な評価は困難だが,58年の大躍進(高度成長)のあと,59,60年と経済成長テンポはスローダウンし(第4-17表参照)国連世界経済年報(1961年版)の指摘するところによれば,61年にはおそらく前年水準を下回ったものとみられている。このような工業生産の停滞は主として農業不振にもとづくものであった。農業不振によって農産原料品の供給が減少し軽工業品は全般的に減産となったが,また食糧配給量の引下げによって都市労働者の労働生産性も著しく低下したとみられている。

また石炭,電力,石油および鋼材,非鉄金属,木材などエネルギーおよび原材料の不足によって産業部門間の需給バランスが崩れ,工業生産を停滞させるような側面も見受けられた。しかし62年にはいって農業機械,化学肥料など農業生産に関連する工業生産を中心に生産活動は全般的に好転をみせ始めている。

つぎに部門別産業動向について注目すべき諸点を拾ってみよう。

(イ)エネルギー

エネルギー生産構成のなかで石炭の占める比率(1960年約85~90%)がもっとも大きく,投資の重点は石炭開発におかれている。しかし奥地開発ならびに水利建設の進展と相まって電源開発もすすめられているが,61年には農村の電力需要が増加して,石炭,電力,石油は増大する内需を満たすことができなかった。61年にはソ連から石油製品292万トンが輸入されたが前年の原油56万トン,石油製品240万トンの輸入量とほぼ同水準であった。

(ロ)鉄鋼業

鉄鋼業の新規固定投資の規模は多少縮小され,投資の対象も主として,鉱石採掘,選鉱,輸送などの設備増強に向けられ,原料ならびに製品間のバランス調整に関心が向けられた。したがって鉄鋼生産についても量産よりも品質の向上により多くの関心が払われるようになった。工業生産の成長と鉄鋼生産の伸びとの相関関係をみると,戦前戦後のソ連のばあいに比べはるかに高いテンポをもってこれまで鉄鋼生産が行なわれてきたが,61年になってはむしろ,減産に転じたもようである。

(ハ)機械工業

この部門では生産の重点はまず農業の機械化,半機械化という方針にしたがって各種農業機械(トラクター,コンバイン,内燃発動機),農具,排水灌漑設備の増産に向けられている。また化学肥料工場用プラント設備や,鉱山機械(積込機,運搬車,ポンプ,巻揚機,コンバイン,コンプレッサー)も並行して増産されようになった。

(ニ)化学工業61年の化学工業の主要課題は,化学肥料,農薬の増産を達成することであった。化学肥料部門では新規固定投資および拡張工事が大幅にすすめられ,化学工業部門の総固定投資額の41%が化学肥料部門に集中された。なお大規模工場建設と同時に,合成アンモニア年産800トン程度の中小工場が多数全国に建設され始めている。

(ホ)消費財工業

農産物を原料とする繊維工業,食品工業,軽工業部門は原料供給不足にょって全般的に生産活動は低下した。繊維工業の中でも綿紡織工業は原綿不足によって生産は低下したが,一部輸入綿花によって原綿の手当てが行なわれ,絹織物は比較的生産は順調で,輸出も好調であった。一方,ミシン,自転車,ラジオ,時計,ガラス器,磁器,プラスチック製品のような直接農産原料にかかわりあいのない一般消費財の生産については積極的に増産がすすめられている。食品工業のなかではひとり製塩の好調がめだった。

(ヘ)人民公社工業

61年から62年にかけて人民公社工業に包括される小企業政策については,重要な変化が示されているようだ。過剰労働力の吸収対策として58年以来小企業の利用が積極的に推進されてきたが,たとえば民芸品,小農具,家庭用品のような伝統的手工業部門に属する生産は別として,大企業生産と競合する分野での小企業ではその非能率と投資効果が問題とされ始めたようである。もっとも小企業育成は計画当局の経済建設方針と密着しており,58年段階の大躍進期には土法鉄鋼生産に重点がおかれ,61年段階では化学肥料の小規模生産に重点がおかれるというふうに業種によって小企業育成上の消長がみられる。

第4-18表 人民公社工業生産の種類と内容

2)農業生産

61年には前年の災害にひきつづき,ふたたび災害にみまわれて農業生産は停滞し,穀物生産もほぼ1954~57年平均水準まで低下して約1億6,000万トンに止まったもようである。これは前年に比べてやや好転したものの,内容的には米および小麦が減産し,芋が増産になるなど品質の低下がみられた(第4-19表参照)。

商品作物の中では大豆はやや好転したが,綿花は減産となり,前年に対し12%減となった。

一方,57年から61年にかけて約6,000万人の人口増加(国連世界経済年報1961年版)がみられるので,1人当り食糧生産量は57年水準を約10%下回ることとなった。減産の影響は国民消費量の低下ならびに輸出入商品構成の変化となって現われたが,農村人民公社では公共食堂における「直接供給制」が大幅に後退し,都市では60年7月から食糧配給量が実質的に引下げられ,また貿易面では大量の緊急食糧輸入が行なわれて,従来の食糧輸出国から食糧輸入国にその地位が変った。

農業生産の減産は主として自然災害など気象条件によるものであったが,また深耕,密植など主として人力労働のみに依存する度合いの強かった,農耕方法,および農民の労働意欲を喪失させるほどの人民公社制度の集中化傾向も減産理由となった。したがって調整政策の中心は当然災害対策と同時に農業技術ならびに人民公社制度の改善にもおかれることになった。すなわち,(1)農業の機械化,電化の漸進的な実現,(2)化学肥料,農薬の増投,(3)人民公社の末端機構(生産隊)を独立採算制の計算単位とする公社,生産大隊,生産隊の「三級所有制」の確立,(4)農民の個人所有地(自留地)の拡大,(5)農村自由市場(農村集市,貨棧)の復活強化などの一連の対策がそれである。60年末に7万合(15馬力換算)にすぎなかったトラクター保有台数は,62年央には10万台となり,また60年末に45万KWだった排水,灌漑用電化設備も61年末には100万KWに達した。自留地面積も耕地面積の7%にふえ57年段階の3~4.5%をはるかに上回り(58年の大躍進段階では自留地は実質的には廃止状態となる),農村自由市場での商品取引高も農村における全商品取引高のおおよそ25%を占めるまでに調整の効果が示されてきている。

62年の食糧生産見通しについては,政府発表によると夏期収穫の作物実収高は昨年同期をやや上回り,早稲は増収となり,また秋期収穫作物も全般的に好転が伝えられている。増勢の理由として気象条件の好転と人民公社制度の改善とが指摘されているが,しかし本格的に生産が上昇するためには,現在進行しつつある調整政策の効果をまたなければならないし,機械化のテンポともにらみ合わせて,ここ数年を必要とするというのが一般的な見解のようである。機械化のテンポについてはこのほど政府見解が発表され,農業技術改革の基本的な達成には,現在からはじめておよそ20~25年を必要とするという長期的プログラムが示されている。

3)貿易

(イ)1961~62年の貿易動向

61年における対外貿易総額(一部推計を含む)は60年に対し36%の減少を示し,60年の減少をさらに上回って貿易総額は53年規模にまで縮小した(第4-20表参照)。これは主として中ソ貿易の減少によるもので,中ソ貿易は第4-21表にみられるように前年に対し中国の輸出35%減,中国の輸入55%減の水準にまで後退した。

中ソ貿易の減少は農業不振のために食糧および農産原料の輸出が急減し,このために機械および設備など資本財輸入も激減したためである。しかし輸出入バランスをみると借款ならびに延払償還のために輸出規隼は輸入規模を上回り,約1億6,570万新ルーブルほどの出超となっている。一方,60年にわずかながらも増大を示した東西貿易は,61年には輸出の大幅減少,輸入微増という結果が示されたようで,国連の「世界経済年報」の示すところでは第4-22表にみられるように,前年に対し中国の輸出13.5%減,中国の輸入1.9%増となった。農産原材料輸出の減少と緊急食糧輸入の増大,資本財輸入の減少とによって以上のような結果がえられたわけだが,地域別にみると西欧諸国では輸出入とも大幅減少となり,東南アジアも減少が示されたのに対し,カナダ,オーストラリアでは緊急食糧輸入によって輸入額は大幅に増大した。また日本の対中国貿易も60年後期にはいって再開され,輸出入商品構成からみて石炭,塩,銑鉄といった非農産物の輸出を見返りに,不足している機械および工業品を日本から輸入するという特徴を示しながら,中国の農業災害にそれほど影響されることなく着実に増加してきている。農業生産の好転と相まって最近大豆輸出も再開され始めたようで,日中貿易の見通しはかなり明るさを加えたようだ(第4-23表参照)。しかし各国輸出入総額中に占める東西貿易の比率をみると第4-24表に示されるように日本の比率は東南アジア諸国はもちろん,西欧各国に比べてもかなり低い点は注目してよかろう。

以上のような西欧諸国での貿易の停滞は62年にはいっても続いているが,しかしホンコンおよび日本を中心として対外貿易は全般的に好転し始めた。おそらく中国の経済情勢の改善のきざしを反映するものであろう(第4-25表参照)。

(ロ)輸出入商品構成の変化

中国の輸出入商品構成の推移をふると61年になって著しい変化が現われている。これまでの推移では輸出商品構成のなかで食糧および同加工品,農産原料の占める比重が工業化のテンポに応じて低下し,繊維品を中心とする工業製品の比重が高まるという趨勢が示されてきたが,61年にはこの趨勢値をはるかに上回る構成変化が示された(第4-27表および第4-28表参照)。これは明らかに農業不振によって食糧および農産原料などの伝統的輸出商品の比重が傾向値以上に大幅に低下したことを示すものである。そしてこのような急激な変化は対ソ輸出商品においてもっとも特徴的に示されている(第4-26表参照)。一方,61年に輸出比重が高まった工業品のなかではソ連向け綿製品の増大と西欧各国向け銀および錫の輸出増加が目立った。

しかし外貨取得源としで注目されてきた銀売却は62年にはいってかなり減少している。

また輸入商品構成についても61年において急激な変化が現われたが,なかでも第1の特徴は機械および設備など資本財輸入の比重が著しく減少したこと,第2の特徴は緊急食糧輸入の開始によって食糧および飲料の比重が急上昇したことの二点を指摘することができよう(第4-27表および第4-28表参照)。機械および設備,鋼材などの資本財の輸入減少は,投資活動の停滞と相まって中国の工業生産が61年にかなりスローダウンしたことを示すものである。一方,緊急食糧輸入はカナダ,オーストリア,フランスなど自由諸国から61年中を通じて,米麦合計約500万トンが輸入され,62年にも長期契約にもとづいて,以上各国のほか,アフリカ諸国からもひき続き輸入が行なわれている。一次産品の国際価格が全般的に低迷するなかで,昨年から本年にかけ,ひとり米相場の好調が伝えられているが,戦後世界の米輸出総量の20%近くを占めていた中国の輸出比重が,61年には5%までに低落し,逆に緊急食糧輸入が行なわれるなど,従来の食糧輸出国から食糧輸入国に中国の地位がとってかわったことが,米相場好調の間接的要因として影響しているようだ(第4-29表参照)。

(2) 経済開発の優先順位と農業集団化政策の変遷

以上のように中国経済は60年以降停滞を続けているが,停滞の主因が農業不振にもとづくものであり,しかも産業別生産国民所得のなかで農業の占める比重がかなり高い(1959年43.6%)ところから,これに対処してとられている経済政策の重点は当然農業に向けられることになった。

しかし,このような農業重視の政策は経済情勢の変化に応じて現実的な課題として取上げられたものであり,「社会主義工業化の実現」という本来の目標そのものは変わりはないものとみられている。過去においても経済情勢の変化に応じてしばしば政策面における変更が行なわれてきた。以下第2次5ヵ年計画期間を中心として,57年から62年に至るまでの政策変遷を主として経済開発の優先順位と農業集団化政策に焦点をおいて展望することとしよう。順序と.してまず第2次5ヵ年計画構想の説明からはいろう。

第4-30表 第1次,第2次5ヵ年計画対実績対照表

1) 第2次5ヵ年計画(1958~62年)の構想

第3次5ヵ年計画の最終年度(1967年)に一つめまとまった工業体系を基本的に完成するという社会主義工業化の目標にそって,第2次5ヵ年計画の基本構想が提案されたのは,56年9月の党大会(八全大会)であった。

一つのまとまった工業体系の基本的な完成という意味は「国民経済の構造において工業生産が主要な比重を占め,工業生産のなかでは重工業生産が優位な地位を占め,拡大再生産と技術改革に必要な需要を充分保障するだけの各種の機械設備と原材料を自給しうる体制」に到達することをいう。

そしてこの目標達成のために,第2次5ヵ年計画の構想では,生産力拡大ならびに社会主義改造の面で幾つかの対策がとられることになり,これらの諸対策は第2次5ヵ年計画の前段階ではかなり順調に実施されてきた。第2次5ヵ年計画の最終年度(1962年)の生産目標は,早くも59年にくり上げ達成され,農業集団化政策についても,高級農業生産合作社(コルホーズ)の完全組織化を目ざした当初目標は,予定以上に早いテンポをもって達成され,ひき続いて画期的な大躍進(高度成長)政策と人民公社化が展開されることになった。しかし59年から61年まで続いた自然災害を契機として,中国経済は全般的な調整段階にはいることになり,また農業集団化政策についても,人民公社の運営面において農民の生産に対する意欲を弱め,農業生産を低下させるという面が現われた。このため農民の生産に対するインセンティブを復活する意味においても,人民公社体制の実情に側した調整が必要となった。

またソ連の経済援助が大幅に減少して工業化のテンポを鈍化させるという現象も現われた。

以上のように,1957年から62年にかけて中国経済の推移には激しい起伏がみられるが,段階的にみるならば,(1)1957年の調整段階,(2)1958年の大躍進段階,(3)1961~62年の再調整段階という三段階に区分することができ上う。以上のような経済情勢の変化に応じて,政策面にもまた多くの変遷がみられた。

2) 1957年の調整段階

経済調整を必要とする局面はまず56年の自然災害による農業生産面に現われた。1953年に第1次5ヵ年計画が着手されて以来,56年までは経済開発の重点を重工業におくといういわゆる「重工業優先の工業化」政策は比較的順調にすすめられてきた。しかし,56年の農業不振によって経済開発の重点は重工業と同時に農業も並行的に取りあげるといういわゆる「工農業同時発展」政策にとって替わったわけである。「工農業同時発展」政策の具体的な内容としては,投資ならびに労働力配分について,石炭,鉄鋼を中心とする重工業部門と並行して,農業および農業関連工業部門(農機具,農薬,肥料)も重点的に取り扱うというもので,また農業増産対策としては,(1)農産物の収買価格引上げによる生産刺激,(2)耕作方法における労働集約化,品種改良,化学肥料の増産,農器具の普及など集約農法の促進,(3)自留地の拡大,自留地耕作時間の延長,自由市場価格の引上げによる農民の物質的関心の刺激などの諸対策がとられることになった。

また経済発展のテンポが落ちて過剰労働力の吸収機会が減少することになったが,雇用対策として中小企業,手工業,農業副業部門の育成にも政策の重点がおかれた。人口政策の面から産児制限が国家政策として正式に採用されたのもこの時期である。

農業集団化政策の面では,高級農業生産合作社(コルホーズ)の強化を目ざした集団化がひき続き促進されたが,57年末には生産合作社に加入した農家戸数の全農家戸数に占める割合は96.8%,そのうち高級農業生産合作社が93%,初級農業生産合作社が3%と,ほぼ完全に高級農業生産合作社の組織化が完了した。

しかし農業集団化の過程はかならずしも互助組→初級農業生産合作社→高級農業生産合作社(これらの三つの組織形態は土地ならびに生産手段の所有面によって集団化の段階が区別され2る。互助組では土地,生産手段は個人所有,初級農業生産合作社の段階では,土地,生産手段は現物出資,共同使用の形式をとるが,高級農業生産合作社の段階では,土地,生産手段はすべて集団所有制となる)というように段階的に発展してきたわけではなく,互助組から一挙に高級農業生産合作社に転化したり,あるいは個人経営農家が直接高級農業生産合作社に吸収されたものも多く,高級農業生産合作社のなかには質的にみてかなり調整を必要とするものも現われた。57年はいわばこの調整段階に相当する年である。

高級農業生産合作社の調整は次の三点に重点をおいてすすめられることになった。(1)当初農業生産合作社の蓄積に傾斜がおかれすぎた点を修正し,農民に対する分配比率を高める。(2)農民の物質的関心に応じて,個人経営の副業生産と自留地耕作を奨励する。57年の全国農家サンプル調査によると,農民1世帯当り全収入中に占める平均家庭副業収入比率は56年の20.9形から,57年には26.4%に高められた。(3)農業生産合作社の管理部門と生産部門間の矛盾調整が行なわれ,「統一経営,分級管理」の原則が確立された。つまり管理委員会は合作社全体の「計画,経営,分配,指導」を行なう機関どし,生産隊は「生産の基礎単位」だという管理権の内容規定が明示され,また同時に各生産隊に対し,ノルマをきめて請負作業を行なわせ,超過生産分に報償を与えるという「三包一奨制」が実施されることになった。

3) 1958年の大躍進段階

57年12月に開催された中国労働者大会(中国工会全国代表者大会)で「イギリスに追いつき追いこす運動」といういわゆる躍進政策が展開されたが,この躍進政策は57年の調整段階の終息を意味するものである。「追いつき追いこす運動」の内容は,第4次5ヵ年計画(1968~72年)期間中に,鉄鋼,石炭,セメント,工作機械など重要工業品の生産量においてイギリスの生産水準を凌駕するというものであるが,このような大躍進(高度成長)政策が正式に明示されることになったのは,58年5月の党大会(八全大会第2次会議)においてであった。

ここではまた大躍進政策と同時に社会主義建設のための総路線(General Line for Socia1ist Construction)が決定された。総路線というのは,社会主義建設のための政治的経済的基本方針であって,経済方針の具体的な内容としては,(1)工農業同時発展,重軽工業同時発展という工業化政策,(2)中央工業と地方工業,大企業と中小企業,近代的工業と手工業の各生産様式の併用政策を同時に取上げて,社会主義建設を達成しようとするものである。

総路線は社会的,経済的,文化的に遅れた中国の水準を自力でしかも急速に高めようとする場合の必要な政策とみられているが,そのねらいは過剰農村労働力と国内資源を有効に活用することによって生産力を高め,また食糧配給制度あ確立,流通機構の整備などによって消費購買力の増加に対処しようとするものである。総路線と大躍進政策の展開には,食糧供給の動向がもっとも問題となっていたが,この点については,この政策がうち出された58年5月が,実は57年の豊作と,58年夏季収穫作物の大豊作を背景とした時期である点に注目する必要があろう。

農業集団化政策については,58年8月農村人民公社が設立されて集団化政策はいっそう強化されることになった。

農村人民公社は当初,一郷一社(2,000戸単位,必要に応じて数社を統合して県連合社を組織することもできる)の規模をもって設立され,性格的には行政面と生産面との一体化つまり「政社合一」が促進されることになった点に特徴がある。また所有制の面では一部の国営農場(ソフホーズ)を除いて一般的にはやはり集団所有制であり,果樹は私有,自留地は集団所有とし,出資金(農民の生産合作社加入の際の現物出資)は人民公社の生産力が高まったところで,1~2年後に公有に移される予定となっていた。分配制の面では条件が熟したところでは賃金制と供給制が併用されたが,全般的には従来の「三包一奨制」にもとづく基準作業量に対する出来高払いなど労働日報酬制が採用された。

以上が当初設立された当時の人民公社の性格と内容であるが,その構想には多分に集中と平均化を急ぎすぎた面がみられ,また公社運営についての具体的な取決めが欠如していたため,その後の公社運営の面で多くの行過ぎや誤りが発生して混乱を招くことになった。

その後58年11月および59年8月の第8期党中央委員会全体会議(六中全会ならびに八中全会)において,人民公社の運営についての具体的な規定が明示され,綱領的な意味をもつ方針が与えられることになった。その規定された内容をみると,人民公社の規模を一郷一社(2,000戸単位)とすることは従来と変わりはないが,公社の内部機構を管理委員会,管区(後の生産大隊),生産隊の三級組織に区分し,所有制の面では「三級所有制」を確立して,生産大隊の所有権が基本的であること,管理委員会の所有権は部分的であり,生産隊も小部分の所有権をもつという三者間における所有権の分野が明示された。また同時に生産大隊を「独立採算制」の基本単位とするという方針も与えられた。

「三級所有制」によって定められた管理委員会,生産大隊,生産隊にそれぞれ帰属する所有権の内容をみると,まず生産大隊には「土地,役畜,農具,副業器具などの生産手段の所有権」と「国家に対する農業税と公社蓄積基金を控除した集団労働による生産物を,全生産大隊の範囲内で統一的に分配する権限」が与えられ,つぎに管理委員会には「森林,牧場,貯水池,機械トラクター・ステーション,小型工場,漁場,果樹園,育種場,苗圃場」と「各生産大隊の公共積立金の50%相当額」について所有権が認められ,すた生産隊にも「超過生産部分のうち,生産大隊に上納した残りと,節約した生産費用および副業生産品」について所有権が与えられることになった。分配制の面では賃金制と供給制とを結合した分配方法が実施されることになった。賃金制の実施に当たって賃金等級は六級ないし八級の段階に分けられ,また各地区の賃金水準は各地区の生産力の差に応じて差別がつけられることになった。供給制の実施は公共食堂の開設によって具体化された。もっとも公共食堂の萌芽的なものはすでに互助組の段階においてもみられ,また農業生産合作社においても農繁期には公共食堂が設置されたが,人民公社では単に農繁期だけではなく恒久的な施設となった。

このような公共食堂の開設は一面「直接的分配」という共産主義の萌芽をふくむものとして注目されてきたが,しかし現在の段階ではむしろ赤字農家をなくすという意味が強く,社会保障制度にすぎないという見解もある。

1959年には全国農村人口の73%が公共食堂を利用したといわれる。しかし59年8月の第8期党中央委員会全体会議(八中全会)では,公共食堂の運営面に若干弾力性が与えられることになり,1人当り食糧配給量の範囲内で公共食堂を利用するか,自宅炊事によるかは個人の自由選択に委ねられることになった。

4) 1961~62年の再調整段階

「総路線,大躍進,人民公社」といういわゆる政府当局の表現をもってすれば「三つの旗」をもって展開された58年の高度成長段階は60年にはいってスローダウンし始め,61年から中国経済は本格的な再調整段階にはいることになった。このような調整の強化は,直接的には3年連続の凶作を媒介とするものであったが,また人民公社の運営上の誤りも原因となったとみられている。今回の経済停滞ならびに調整という局面は57年の調整段階と性格的には共通するものがあるが,しかし,自然災害の規模や経済の後退幅が今回のばあいはるかに大きいので,調整内容はさらに深刻であり,調整期間もかなり長期化する可能性をもっている。

調整対策の重点は当然農業生産の強化と人民公社の改善に向けられることになったのはいうまでもない。「総路線」で規定された「工農業同時発展,重軽工業同時発展」という経済発展のすすめ方は「農業開発に最重点をおき重工業よりも軽工業に重点をおく」という方式に改められることになった。

農業生産の強化対策としては,農業の機械化,半機械化が従来以上に強調されることになり,工業投資の中でも農業生産に関連する農業機械,化学肥料,農薬部門を最優先的に取扱うことになっている。また現状では農業生産の大半が手工労働に依存しているので,食糧消費対策の意味もかねて,県宮ならびに人民公社企業から労働力を抽出して直接農業生産部門に投入するという労働者の配置転換がすすめられている。

一方,過剰労働力の吸収対策として58年以降積極的に利用されてきた小企業生産(人民公社工業)方式についても,採算点の低い劣弱企業の淘汰が開始されているのではないかという推測が行なわわている。このような推測は61年1月の第8期党中央委員会全体会議(九中全会)や62年4月の人民代表大会で小企業生産について何もコメントがなかったところから指摘されているものである。

農業集団化政策についても,さきに人民公社運営の綱領的な方針として,生産大隊を基本単位とする「三級所有制」ならびに「独立採算制」が確立されたが,その後も農業生産の発展ははかばかしくなく,これに対処して人民公社の調整はさらにいっそう強化されることになり,62年1月には「独立採算制」の基本単位を末端機構の生産隊にまで移すことに決定した。これによって作付権および生産計画の決定権が生産隊に与えられ,各生産隊の労働に応じた分配原則が貫徹されることになったわけである。したがって人民公社制度そのものは現在も存続しているが,実質的には56年当時の初級農業生産合作社の段階まで後退したということにもなる(生産隊の規模は初級農業生産合作社よりも縮小して20~25戸となった)。

つぎに分配制の面についても,共産主義の萠芽をふくむ「直接的分配」の採用ということで注目されてきた公共食堂の運営は,その後一歩一歩後退して,61年1月には「供給制と賃金制との相対比率は,3対7が理想的」という線まで縮小してきている。

なお農民の家庭副業,自留地栽培についても労働時間の延長など弾力的な措置が認められるようになり,また国営商業や購販協同組合などの補助的機能をもった農村集市(農村自由市場)および貨棧(間屋業)などの役割も一そう推進されるようになった。これらの措置はすべて農民の物質的関心を高め,農業生産を増大し,商品流通を促進するという目的をもつものである。以上のように人民公社制度は実質的にはかなり変貌してきているが,今後人民公社運営に関する集団化方式として,.現在の生産隊(初級農業生産合作社の規模に相当する)中心でゆくのか,あるいは再組織されて,ふたたび生産大隊中心でゆくのかという見通しは極めてむずかしい問題である。中国当局の見解としては,現在の生産隊を基本単位とする「三級所有制ならびに「独立採算性」は,かつての「初級農業生産合作社」とは本質的に異なるとし,条件が整えば,ふたたび生産大隊を基本単位とする人民公社に再組織し,続いて単一公社所有制の「全人民所有制」へ向かって移行するという方向が示唆されている。かりにこの見解に従うとしても,再組織化の目安は農業の機械化の程度に応じて決定されるとみるのが最も順当な評価といえよう。