昭和37年
年次世界経済報告
世界経済の現勢
昭和37年12月18日
経済企画庁
第1部 総論
第1章 1961~62年世界経済の動き
1961年に共産圏全体としての経済成長は前年に引きつづき鈍化した。ソ連では,工業生産は61年に9.2%増と前年よりその伸びが多少小幅になったが,引きつづいて計画を上回り,また62年1~9月にも前年同期に比べて9.5%増と好調を持続した。その反面,61年の農業生産は前年に比べて2%の増加に止まったと見られており,計画をかなり下回った。その結果,61年の国民所得の伸びは,60年実績が8%,61年計画が9%であるのに対して,7%となった。
このようにして,62年央で実施期間の半ばに達した7ヵ年計画(1959~65年)は,工業生産については目標を5%超過達成したといわれるのに反して,農業生産は59年以来微増したにすぎず,7ヵ年計画が大幅な増産を予定したのに対して,これを著しく下回ってきた。このため,農産物の需給が逼迫し,これに対処して,62年には前年に引きつづいて農業管理機構が整備されるとともに,飼料を増産するため作付構成の改善や機械,肥料の投入増加が行なわれた。また価格対策としては,62年6月に畜産品の国家買付価格と小売価格が引き上げられた。これらの政策により62年の穀物収穫と畜産は計画を下回ったものの,記録的水準に達した。
一方,61年には国防支出が前年より27%増加し,さらに62年予算でも13%の膨張を示しているが,このような国防支出の増大は国家投資の伸びを抑える要因となっているようである。
61年における東欧諸国の国民所得の伸びはポーランドとアルバニアを除き,多かれ少なかれ前年を下回り,また61年計画にも達しなかった。工業生産は前年より増勢が鈍化し,チェコと東ドイツでは61年計画も達成されなかったが,その他の諸国では計画を上回り,とくに工業化の水準の低い諸国では重工業を中心になおかなり大幅な伸びを続けた。これに反し,農業生産はポーランドとアルバニアを除いて,悪天候に見舞われて停滞ないし減少を示した。このような農業の不振が多くの東欧諸国の国民所得の伸びを鈍化させる主要な要因となったが,62年の計画では工業化の水準の低い諸国の国民所得は61年の実績を上回る増加が予定されている。
ほとんどすべての東欧諸国では農業制度の改革をほぼ完了しており,61年には多少遅れていたハンガリーでも集団化が推進され,国営農場は圧倒的な地位を占めるようになった。これらの諸国と異なり,ポーランドだけは国営農場と集団農場の全耕地に占める比重が依然として13%に止まっている。
中国では59年以来3年間引きつづいて農業災害が発生し,61年の農業生産はほぼ前年なみの低い水準に止まった。この農業の不振は農産原料や食糧の供給不足を通じて工業生産全体に悪影響を及ぼした。
このような事態に対処して,中国は61年から62年にかけて経済開発の重点を重工業から農業に移し,また農民の増産意欲を刺激するため,従来から行なわれてきた人民公社制度の調整をーそう促進している。
62年の農業生産は好天候もありわずかながら好転を示し,農業機械,化学肥料など農業生産資材の生産を中心に工業生産もやや活発化の兆を見せはじめている。
共産圏諸国の貿易を全体として見ると,61年には圏内貿易が停滞した反面,東西貿易はかなり拡大を示したところに特色がある。
圏内貿易の停滞は,中国の対ソ連および東欧貿易が減少したためで,その最大の要因は中国の農業不振による食糧および農産原料の輸出急減にあった。これに対し,ソ連と東欧との間の貿易は9%前後の拡大を示している。
次に東西貿易をみると前年に比ベソ連では23%と大幅に増加し,東欧諸国は8%増加した。中国では圏外貿易は若干ながら減少した。これは緊急食糧輸入が大幅に増加したにもかかわらず,圏外輸出が減少したためである。
東西貿易を自由世界の側から見ると,61年に自由世界の対共産圏貿易は前年に比べてその伸びは鈍化したものの,引きつづいて他の地域との貿易を上回る伸び率を示した。その結果,対共産圏貿易の比重はいく分増大したが,いぜんとして低い水準に止まっている。
日本の対共産圏貿易は各地域とも大福に拡大し,61年には全体で輸出が41%,輸入が74%の伸びを示した。しかし日本の貿易総額に占める比率は3.2%(輸出が2.4%,輸入が3.7%)で,西欧工業国のうちイギリスの4.1%,西ドイツの4.1%(60は4.7%),イタリアの6,1%に比べると低い。