昭和60年

年次経済報告

新しい成長とその課題

昭和60年8月15日
経済企画庁

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第3章 人口高齢化と経済活力

第4節 公的部門の拡大,人口高齢化とサプライ・サイドへの影響

1 人口高齢化と公的部門の拡大―欧州諸国の経験

これまでみてきたように,我が国の人口の急速な高齢化に伴って,年金,医療を中心とする社会保障費の増大は避けがたい。このため,GNPに対する公的負担の水準も,今後かなり上昇する可能性が高い。すなわち国民年金,厚生年金保険の保険給付額は現在GNP比3.0%(58年度)であるが,昭和100年頃にはこの3倍強の9.2%程度へ上昇する。また第3節でみた将来の医療保険給付の試算をGNP比率でみると,4.8%(同)から7%弱にまで上昇する可能性もある。この結果,他の公的部門支出の比率が,仮に現状の27%程度にとどまったとしても,年金と医療費だけで公的部門支出の比率は現在の35%(一般政府の支出)から9%ポイント程度上昇し,43~44%になると試算される。

このように我が国の公的部門の規模は,人口高齢化に伴いかなりの水準にまで上昇することも考えられる。そこで,我が国経済の将来を占う上で,人口高齢化が既に進展している欧州諸国の経験をみてみよう。

欧州諸国では,1970年代に入ってから失業率が大幅に上昇,またインフレと失業のトレード・オフも悪化してきている( 第3-18図 )。この原因としては,労働市場の硬直性が強いことが基本であるが,(1)2度の石油危機による成長率の低下,(2)それにより加速された産業構造の変化と,それに伴う製造業の雇用の減少,(3)女子の労働力率の上昇に伴う労働市場の緩和,に加え,(4)賃金以外の労働コストの急速な上昇が注目されている。

各国とも,公的部門の拡大に伴い,雇用者所得に占める社会保障負担や税の比重が傾向的に拡大している( 第3-19表 )。例えば西ドイツでは,雇用者所得に占める社会保障負担の割合が,労使計で1960年の19.8%から1982年には29.2%へと5割以上増加しているほか,所得税も13.4%から18%へと,かなり増大している。この結果,雇用者所得に対する手取りは,1960年の66.8%から,1982年には52.8%へと低下しており,公的負担は雇用者所得のほぼ半分にまで達している。さらにスウェーデンでは,手取り比率は1960年の75.8%から,1982年には44.8%への急激な低下をみている。このように欧州諸国では,公的負担の増大から,企業にとっての総労働コストと労働者の手取賃金の間のギャップが傾向的に拡大している。

欧州諸国では,こうした労働者の手取り賃金以外の労働コストの増大は,一面で失業対策として行われたワーク・シェアリングのための,早期退職促進を狙った年金の繰上げ支給(西ドイツ)や,失業保険の拡充等に伴っても生じていると言える。

手取り賃金以外の労働コストの上昇は,社会保障システムを支える労働者を減少させることにより,実際に働いている労働者の負担をより増大させるように働く。ちなみにいくつかの欧州諸国では,公的負担が過度に増加したため,地下経済を拡大させ,これが更に課税対象を縮小させることで税率引上げを余儀なくさせるという,悪循環を招きかねないことが指摘されている。また,普通の労働者による週末の現金決済での就労が増加しているとされている。我が国でも,近年パートタイマーの利用増大の一因として非賃金労働コストが安くすむことが挙げられている。

一方,失業保険給付や年金給付の水準が社会保険料や税等を控除する前の賃金を基準に設定されている国では,公的負担の増加に伴う手取り賃金の減少により,失業者ないし退職者の可処分所得と就労者の可処分所得が接近し,勤労意欲を弱めることになりやすい。

西ドイツでは,労働コストの上昇から国民所得に占める営業余剰(企業収益に対応)が傾向的に低下してきている。この結果,近年失業率が高まっているにもかかわらず,設備投資の内容は省力化の比重が増大し,能力拡大投資が減少しているものと考えられる( 第3-20図 )。このため,一定の設備稼働率に対応する失業率は急速に上昇してきており,仮に設備がフル稼働しても,なおかなりの失業が残ると予想されるなど,資本不足が構造的失業の原因として注目されている( 第3-21図 )。資本不足を解消し,失業問題の抜本的解決を図るためには,設備投資の促進によって,資本ストックの伸びを高めることが重要な課題となっている。しかし,資本形成を支えるべき経済全体のGDPに対する粗貯蓄率の動向をみると,1960-67年には27.3%であったのに対し,1980-82年には21.6%へと5.7%ポイントも低下してきている。この背景には,政府部門の傾向的拡大があると考えられる。ちなみに,主要国のGDPに対する財政支出と粗貯蓄率の動向をみると,特に西欧諸国においては,政府規模の急速な拡大につれて貯蓄率がかなり大幅に低下しているのが伺われる( 第3-22図 )。

このように,人口高齢化が既にかなり進行している西欧諸国では,社会保障支出の増大を主因とする政府規模の大幅な拡大が,雇用,設備投資等の経済のサプライ・サイドにかなりの悪影響を及ぼしていることが伺える。

2 人口高齢化,公的部門の拡大と貯蓄率

我が国の国際収支の動向をみると,昭和58年度でGNP比2%,59年度で3%程度のかなり大幅な経常黒字を示している。この過半の部分は,米国の大幅な財政赤字の持続と,それによる実質高金利を映じたドル高・円安等,短期的な要因に基づいている。しかしそれだけでは説明し切れない,中長期的な要因に基づく経常黒字もかなりあるとの分析結果が,昨年の年次経済報告で提示されている。また,同報告は,「この中長期的な要因に基づく,経常収支黒字は,我が国の輸出入構造,産業構造の変化といった経済構造の変化を背景として発生していると考えられる。」と述べるとともに,マクロ経済の観点からみると「この中長期的な要因による経常黒字は,我が国経済に,国内貯蓄と国内投資との間に構造的なギャップが存在することを背景として発生していると考えられる。」としている( )。

このうち国内貯蓄をみると,家計部門がGNP比約10%の貯蓄超過となっている。この国際的にみて高い家計部門の貯蓄率が今後の人口高齢化の下で低下していく可能性があり,その場合には,我が国の長期的な貯蓄・投資バランスに重要な影響を与えると考えられる。

(世代間の所得移転と貯蓄率)

家計の行動に極めて重大な影響を与えると考えられるのが,先にみた財政赤字の累増と年金・医療保険制度の財政運営の動向である。現在の財政赤字の累増や現行の年金の財政運営は,いずれも現在の我が国経済を支える現役世代や今後支えていく将来の世代から,現在の老齢世代への大規模な所得の移転である。また,医療保険についても,結果として世代間で同様の効果を生じている面がある。

すなわち,税収等を上回る支出を行うことで発生している大幅な財政赤字は,将来その元利払いのために税負担を課する必要があるが,これは現在の若い世代や将来の世代によって支えられることになろう。また,年金制度では先にみたように現在の受給者に対し,自らの拠出額をはるかに上回る給付を行っており,この差額は,現役世代の保険料の拠出と税金で賄われている。したがって,今後高齢化が進むにつれて,若い世代や将来の世代の負担が急増することが見込まれている。医療保険においても,57年度の国民医療費のうち一般診療費12.1兆円の内訳をみると,その約3分の1(4.1兆円)は,65歳以上の高齢者によって使われており,その大部分は,現役世代の保険料や税金で賄われている。

今後高齢化の進行に伴い,医療費が増大する可能性があるが,この負担増も現在の若い世代や将来の世代によって支えられることになる。

このような,比較的高齢の者に対する所得の移転ないし負担の軽減と若い世代や将来の世代に対する負担の増大は,将来において,

全体として家計部門の貯蓄率を低下させる要因として働く可能性も否定できない。この場合には,我が国の急速な人口高齢化に伴う将来の公的部門の拡大は,貯蓄・投資バランスを長期的には悪化させる可能性がある( )。

(最近の家計貯蓄動向)

ここで近年の我が国の家計貯蓄の動向をみてみよう。

家計部門における各支出項目の推移をみるため,ここでは国民経済計算(新SNA)の家計部門の所得支出勘定を再構成する。すなわち,家計部門の税・社会保険料込みのグロスの所得(「受取」総額のうち,利子や賃貸料等の「財産所得」及び「その他の経常移転」について受取から支払を差し引いたネットの金額にしたもの)の支出構成をみたのが 第3-23図 である。この図の解釈については,他の様々な経済的要因もあり,一概には言えないが,49年度頃以降の期間をみる限りにおいてはこのグロスの所得に対する消費の割合はほぼ66%の水準で,極めて安定した動きを示しているとみることができる。一方,所得に対する貯蓄の割合は緩やかな低下傾向にある。このように,この期間においては所得に対する消費の割合が極めて安定し,ほぼ一定と考えられることから,公的年金負担及び健康保険負担等の社会保障負担と直接税とを合計した公的負担全体と家計貯蓄とはある程度代替関係にあるとみることができ,近年の貯蓄率の低下には,公的負担の増加が影響している可能性もある。

以下では,この可能性を分析するために,ライフ・サイクル仮説に基づくシミュレーション・モデルにより,年金制度の成熟化等が進み,人口構成も高齢化していく中で生ずる我が国の家計部門の長期的な貯蓄動向を展望してみよう。

但し,このシミュレーションについては,いくつかの仮定に基づいて行われ,また長期にわたる試算のため,不確定要因も多いことは注意する必要がある。

(家計貯蓄動向のシミュレーション分析)

ライフ・サイクル仮説では,各家計はある時点の消費を決める際に,その時点の可処分所得だけでなく,その時保有する資産の金額,将来の可処分所得,老後のかめに必要な貯蓄等をも考慮して計画的に行動すると考える。例えば,公的部門の拡大のために,将来公的負担が増加し可処分所得が低下することが予想されると,その家計は現在の消費水準を多少引き下げ,貯蓄することで,将来可処分所得が低下しても消費水準を維持できるように行動するわけである。

人口学では,ある年に生まれた世代をひとつにまとめてコホートと呼ぶ。この分析では,我が国の労働人口の中核を占める被用者の全体を対象とし,現在及び将来の可処分所得(勤労所得,退職金,遺産,年金給付を含む)と消費支出(遺産を含む)の流れを,58年の横断面データ等から推計した。そして,分析の便宜のため,やや単純な想定ではあるが,(1)生涯における勤労所得と退職金の年齢プロフィルは各コホート間で同一,(2)生涯における消費支出の年齢プロフィルは,各コホートの生涯所得の違いによってその絶対水準が異なるものの,同一のパターンを描く,と想定した。なお, 第3-24図 には,推計された58年で20歳のコホート(男女1人ずつの組)の生涯収入・支出パターンが,58年の賃金単位(将来の各時点の所得・消費をそれぞれの時点の平均賃金率で実質化したもの)で示してあるが,人口高齢化等に伴う将来の公的負担の増大により,その時点での現役世代の貯蓄が減少する反面,年金負担がなくなり年金を受給する高齢期には,かなり可処分所得に余裕があるとの見通しになっている。

このような貯蓄率の分析上特に問題になるのが,各コホートが年金制度を通して受け取る純移転所得(年金受取一年金保険料負担)が,どの程度そのコホートによって消費され,またどの程度遺産として次の世代に残されるかである。先にみたように,最近の厚生年金保険の新規受給者は平均して多大の純移転を受けている。もしこれが年金受給者によって何らかの形で消費されてしまえば,年金制度を通して現役の労働者の世代から,老齢世代への純移転があったことになり,年金制度は貯蓄率を低下させる要因になる。一方,純移転所得のうちかなりの部分が貯蓄され,遺産の増加として子孫に残されれば年金制度は貯蓄率を必ずしも低下させないことになる。そこで年金の遺産に与える影響を各種調査により試算してみると,年金の純受け取りの7割強は,老人の余暇の増加と消費の向上により消費されたとの結果が得られた。これについてはデータの制約等の問題もあるが,ここでは,年金純受け取りの3割弱が,年金制度がなかった場合に残される遺産の上積みとして次の世代に残され,また次の世代もこの年金に係る遺産は本来自分が支出すべき所得であると認識するものと想定した( 付注3-4 )。

次に,各コホートが相互に重なり合いつつ全体の人口構成が高齢化していく中で,人口高齢化等に伴う公的負担の増加が家計部門の貯蓄率にどのような影響を与えるかを,シミュレーション分析の手法により求めた。この場合,家計の貯蓄行動と公的負担の推移については様々な想定を置くことが可能であるが,ここでは単純化のためそれぞれ次のような2種類の想定を置き,合計四つのケースについてシミュレーションを行っている。

まず雇用主による社会保険料負担を含む公的負担の推移については,(1)改正厚生年金保険の60歳支給が維持され保険料率が現在の3倍弱の水準にまで上昇するとともに,医療費も上昇するという,公的負担がかなり上昇するケース,(2)改正厚生年金保険本則の65歳支給が73年から85年までに実施され,保険料率が現在の2倍強程度にとどまるとともに,医療費についても,適正化・効率化により,ほぼ横ばいとなるケース,の2つの場合を想定した。

次に家計の貯蓄行動については,将来のコホートが貯蓄率を比較的高く保つ場合と(高貯蓄ケース)と,貯蓄率を切り下げていく場合(低貯蓄ケース)の2種類を考えた。基準時点の58年における,20歳のコホートの生涯可処分所得(年金に係る遺産を含む)に比較して,同時点における年齢別消費支出の総計は約20%下回っている。そこで,この20歳コホートの生涯可処分所得のうち2割程度が生涯消費されず,自分の受け取った遺産(年金に係る遺産を除く)に上積みされて後代に残されると想定し,58年で19歳以下のコホートについてもこの比率が維持される場合(高貯蓄ケース)と,将来世代は58年で20歳のコホートの賃金単位で計った消費水準を維持し,公的負担の増加に伴う可処分所得の減少分だけ生涯貯蓄を削減する場合(低貯蓄ケース)の2通りを想定した。

ここでこの分析における,各世代の賃金単位で表した生涯所得と支出をみてみよう( 第3-25図 )。これによれば生涯収入は,年金収入が60年時点で50歳のコホートまで増加したあと徐々に低下することを主因に減少し,Δ35歳(35年後に生まれるコホート)で約3億1500万円の水準になる。支出面をみると,低貯蓄の場合は賃金単位で計った消費水準を維持するため,公的負担の増大に伴い後代に残す遺産の上積みが,将来のコホートほど減少していく。これに対し高貯蓄のケースでは,公的負担の増大により,将来のコホートほど賃金単位で計った生涯消費支出は減少していくことになる。なおこの消費水準は,賃金単位で計られているため,財貨・サービスで計った実質消費水準を表すものではないことに留意する必要がある。すなわち賃金の上昇率は,生産性の上昇等により通常物価の上昇率を上回る。このため,賃金単位で計った消費が一定であっても,将来の財貨・サービスで計った消費水準は向上していることになる。

この公的負担率と貯蓄率に関する4とおりの想定の下での,将来の貯蓄率の動向は, 第3-26図 に示されている。これをみると,この四つのケースの中ではどのケースでも,60年から100年にかけて家計貯蓄率が低下していくと試算される( )。我が国の人口のライフ・サイクルから考えると,現在のところ(1)貯蓄率が相対的に低い高齢者数が少ないこと,(2)人口の最も厚いコホート(いわゆる「団塊の世代」)が,30代の働き盛りにあること等から,家計部門の貯蓄率はかなり高い水準にあると考えられる。しかし今後高齢化が極めて急速に進展することにより公的負担も急速に上昇するとすれば,この過程が進行しつくすまでの期間においては,(1)現在貯蓄率の比較的高い壮年層が,消費水準を維持るために貯蓄率を低下させること,(2)低貯蓄ケースでは,将来世代も消費水準を維持するため貯蓄率を低下させること,等から貯蓄率が低下する可能性があるものと考えられる。もちろん,この試算は今後の変化の方向をみるためのものであって,いくつかの仮定に基づいて行われ,また長期にわたる試算のため不確定要因も多いことから,その結果については幅をもって解釈すべきである。

(家計貯蓄の低下とマクロ経済)

このように,上記のシミュレーションにおいてはいずれのケースでも昭和100年頃にかけて家計貯蓄率が低下することが示されており,我が国の長期的な貯蓄・投資バランスや経常収支への影響も考えられる。国際収支の発展段階説は,中年世代においては,子弟のための教育や老後に備えて貯蓄を行い,老年世代においては蓄積した資産の収益および取り崩しによって生活するといった家計の貯蓄行動(ライフ・サイクル仮説)と多くの類似点を持っている。昨年の年次経済報告では,我が国は「未成熟の債権国」という発展段階にあり,中・長期的な要因に基づくかなりの経常収支黒字を生み出していると指摘した。

これは上述のように,現在の我が国の人口構成がなおかなり若いことに対応していると解釈することも可能であろう。しかし,我が国も今世紀末にかけて,現在のスウェーデンを上回る高齢国になると見込まれる上,上記の分析結果をみる限りでは,将来,経常収支が構造的に悪化する可能性もあると言えよう。

このマクロ経済の貯蓄・投資バランスの悪化は,公的負担率を引き下げることによっては防ぐことはできない。なぜなら,公的負担の低下により家計貯蓄率を回復させようとしても,一方で政府支出を維持したままでは政府部門の財政赤字の増大(負の貯蓄)により相殺されてしまうからである。

ここで行ったシミュレーション分析では,公的負担の増大による手取収入の減少にもかかわらず,労働力率は変化しないものと仮定されている。しかし現実には,公的負担の増大に伴う勤労意欲の減退や労使関係の悪化,さらには労働コストの上昇による企業収益の低下が発生する可能性もある。以下ではこのような点について分析を試みることとしよう。

3 公的部門の拡大と労働供給

所得再分配は財政に期待される重要な機能であるが,反面,資源配分の効率性という観点からみれば,財政による所得再分配の増大は,労働者の勤労意欲や企業の投資意欲を弱める可能性がある。これらはトレード・オフの関係に立つものであり,そのいずれに重点を置くかは,国民の価値観や,時々の社会経済情勢に大きく依存している。したがって,資源配分の効率性という観点からのみ論ずることは,問題の一面を把えたにすぎないという限界もあるが,ここでは,勤労所得に対する公的負担率の上昇等が勤労意欲を阻害することによって,どの程度の経済厚生上の損失が発生するかという問題に限定して検討を行うこととしよう。

まず,負担面に関し, 第3-27図 により主要国の所得税(地方税を含む)の実効税率を比較してみると,通常の給与所得の範囲では,我が国の水準は他の諸国に比し低いものとなっている。しかし,総じて,我が国の税率の累進度合は高いことが分かる。さらに, 第3-28図 により,我が国の所得税,住民税,社会保険料の限界負担率をみると,所得税に比べて,住民税の累進度合は小さいものとなっており,社会保険料は逆進的なものになっている。

以上を総合して,給与所得に対する社会保障負担を含む限界公的負担率をみると,負担に対する受益を考慮しないグロスベースでは,所得加重平均値で30%強と,既にかなりの水準にある( 第3-28図 )。これに対し,支出面での所得再分配のうち,厚生年金保険の拠出に対応する将来給付の現在価値のみを考慮した,ネットの限界公的負担率はこれよりかなり低い18%強となる( )。

今後社会保険料の増大により公的負担が徐々に増加すると,昭和100年頃にはグロスの限界公的負担率は,かなり上昇することが予想される。すなわち,上述の貯蓄率のシミュレーションにおける高負担ケースで45%程度,低負担ケースでも38%程度にまで高まると予想される。これは,現在の米国の46%程度に迫る水準となる。また年金拠出に対する給付率の引下げもあって,ネットの限界公的負担率も,高負担ケースで35%程度,低負担ケースで29%程度となり,かなり高水準に達すると見込まれる。さらに,公的年金の給付はかなりの水準が維持されるのに対し,現役の勤労者の手取りは,社会保険料の上昇もあって減少するため,現役労働者の勤労意欲を弱める可能性もある。

こうした公的部門による所得再分配の高まりは,資源配分の効率性という観点からみる限りにおいては,労働供給に対するインセンティブを弱め,経済のサプライ・サイドにマイナスの影響を与えると考えられる。ここでは,公的負担による労働供給へのマイナス効果を,消費者余剰の概念を用いて考察してみよう。

まず,勤務時間の調節や転職により,ある程度自分の労働時間を変化させられる一人の労働者を考えて,公的負担の在り方がこの労働者にどのような影響を与えるかを考える。当初この労働者の勤労所得30万円に対し,40%の比例的な公的負担が課され,12万円を納めているとしよう。ここで仮に制度が変更され,負担が定額となりこれまでと同額の12万円が課されるようになったとする。この仮想的な制度変更の後では,労働者が労働時間を変化させても,負担額は変化しなくなる。このため,1時間余計に働く場合の手取りが,従来の時給の60%から100%まで増加し,労働時間を増加させるインセンティブが強まると考えられる。仮に,この労働者がこのインセンティブにより10%労働時間を増加し,3万円手取りを増加したとすると,付加価値は3万円増加する。

一方,この労働者は余暇を減少させているので,余暇から得られる労働者の満足を金額に換算した部分は,マイナスになる。またこの間,負担額は一定にとどまる。以上のように考えると,限界公的負担率の経済厚生に与えるマイナスの効果は,限界公的負担率が低下することによる労働所得の増加から労働者にとっての余暇の減少の経済価値を差し引いた額になることが分かる。また以上から,高い限界公的負担率の経済厚生に与えるマイナスの効果は,自由に自分の労働時間を調整できる(労働供給の価格弾力性が高い)労働者が多いほど大きいことも理解されよう。ただし,大部分の労働者については労働供給の価格弾性値はさほど大きくないと考えられる。

ここで,この考え方に基づいて,公的負担と厚生損失の関係を整理してみよう。公的負担率としては労働者が将来の年金の受給額を考慮していない場合にはグロスの負担率で,考慮している場合にはネットの負担率で考える必要がある。そのいずれが適当であるかについては議論もあろうが,現時点については,この両者を比較してみると,前者では限界公的負担率がかなり高水準にあるので,経済厚生上の損失はかなり大きいが,後者ではなお低水準であろう。また,さらに将来,上述のように限界公的負担率が上昇するとなれば,グロス,ネットいずれの場合にも現在に比べて経済厚生上の損失も増大することとなろう( 付注3-5 参照)。

なお,政府支出を賄う公的負担と厚生損失の合計からなる社会的な総コストは,その直接の費用である公的負担額を大幅に上回るものであること,特に公的負担が高まると加速度的に厚生損失が上昇する点に留意する必要がある。

ただし,公的負担の在り方については先にも述べたとおり,所得再分配,垂直的公平など多面的な角度から検討する必要があり,経済効果の面からのみ論じ尽くしえないことは言うまでもない。

4 今後の課題

今後,我が国の人口が急速に高齢化するに伴い,国民の負担がある程度上昇することは避けられない。これは,公的部門が関与するにせよしないにせよ,高齢人口比率の上昇に伴う扶養や医療費の負担は,国民の誰かが負わなくてはならないからである。しかし,現在の制度をより効率化していくことにより,その負担増を抑制していくことは可能であろう。また財政赤字や年金・医療保険制度の財政運営については,特に将来の世代に過大な負担を残さないようにすることが,現在の世代の責任である。

年金制度においては,将来の世代に残す積立金の実質金額を維持するように,保険料率を早目に引き上げるとともにその運用も極力効率化する必要がある。

公的年金の給付水準は,その時点の現役労働者の税込み賃金に対する比率で設定されている。したがって,現在の方式を長期間にわたって維持すると,将来公的負担率が上昇するに従って,徐々に現役労働者の可処分所得に対し相対的に年金給付水準が上昇してしまう。このため将来の制度改正においては,手取ベースでの負担と給付のバランスに留意して設計を行っていくということも十分認識していく必要があろう。また,公的年金制度全体の長期的安定と整合性ある発展を図るため,昭和70年を目途に公的年金制度全体の一元化を完了させることを展望しつつ,給付と負担の両面において制度間調整を進めることが必要である。

医療制度においては,医療費を適正・効率的なものにしていくとともに,国民の間で給付と負担の公平化が図られるよう,適切な措置を講じていく必要があろう。また,医療供給体制についても医師数の伸びの抑制など,実行からその効果の発揮まで長い期間が必要な措置については,早急に実現に向けて努力する必要がある。

公的負担や所得移転の制度についても,勤労に対するディスインセンティブを弱める方策を検討する必要が強まっている。一般に,所得の増加に応じて負担が増加したり給付が減少するような制度は,勤労意欲に対するディスインセンティブとして働く。このような制度では,負担や給付を所得から切り離すことで,勤労意欲に対するディスインセンティブをなくすことは可能である。しかしこれは一面で,所得再分配に必要なコストの最小化とトレード・オフの関係にある。例えば給付面で,その水準を受給者の所得に応じて切り下げるような制度設計は,受給者の勤労意欲にマイナスの効果を持つものの,それを賄う費用を小さくできるというメリットがある。こうしたトレード・オフを避けることは一般に困難であるが,財政の歳出面,負担面のそれぞれが有する資源配分,所得分配の機能に充分配慮し,社会的に最適な政策手段の選択を指向することが強く求められている。


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