昭和59年
年次経済報告
新たな国際化に対応する日本経済
昭和59年8月7日
経済企画庁
第2章 経常収支の動向とその要因
1970年代における2回の石油危機は,世界経済並びに世界の経常収支の分布に大きな影響を与えた。日本の経常収支は1960年代半ば以降黒字基調で推移してきたが,2回の石油危機発生によって大幅に赤字化した。その後石油価格上昇に対する経済の調整が進むにつれて,石油危機発生後3年目には経常収支は黒字化している。
しかし,日本における第1次石油危機と第2次石油危機とではその対外バランスの調整パターン,及びスピードにかなりの差異がみられた。また,先進主要国における経常収支の調整の在り方にも多くの相違がある。
こうした各国間,及び日本における2回の石油危機に対する対外バランスの調整過程に相違が生じたのは,どのような理由によるものなのであろうか,また,石油の対外依存度の極めて大きい日本が,石油価格の大幅な上昇にもかかわらず比較的短期間に経常収支赤字を克服し,永続的な対外借入国にならなかったのは,どのような要因が作用したためなのであろうか。
石油価格の上昇は,石油輸入国にとっての石油輸入支払代金を増大させるため,即時的には石油輸入国の経常収支赤字要因となる。他方,石油輸出国では石油輸出代金の増加から経常収支黒字要因となる。
日本の場合,2回の石油危機発生による石油輸入代金の増加分の効果を試算してみると(注),第1次石油危機(48年末)と第2次石油危機(53年末)で,それぞれ146億ドル(対名目GNP比3.5%),434億ドル (対名目GNP比4.4%)にも上っている。ここから第2次石油危機の方が経常収支をより大幅に悪化させたことが分かる。
さらに石油価格の上昇ば,日本の交易条件(輸出価格と輸入価格の比率)を不利化させる。この交易条件の不利化は,石油価格上昇により実質為替レート(円レートに日米の物価水準の比率を乗じたもの)が下落する場合にはより大幅なものとなる。2回の石油危機により日本の実質為替レートは下落したが,その下落幅は第2次石油危機の方が大きかった(第2-5図)。この結果,交易条件も,第2次石油危機後により大幅に悪化した。こうした交易条件の悪化による日本から石油輸出国への実質所得の移転額は,対名目GNP比でみてそれぞれ4.3%,5.4%にも上った。
こうした石油価格上昇の即時的効果は石油輸入国の経常収支を悪化させる要因として働く。しかし石油危機後の石油輸入国の経常収支の動きは,石油価格上昇の即時的効果だけで決定されるのではない。
日本の場合,経常収支の赤字幅は石油価格上昇の即時的効果にほぼ比例して2回目の方が大きかったが(第2-6表),2回とも石油危機発生後3年目には経常収支は黒字化した。これに対して西ドイツは第1次石油危機後には経常収支は黒字を維持したが,第2次石油危機後には日本を上回る大幅赤字に陥り,しかもそれが長引いた。フランスの場合は,経常収支は2回とも大幅な赤字となり,しかも第2次石油危機後には西ドイツ以上にそれが長期化している。
こうして2回にわたる石油危機において石油輸入国の対外バランス調整の姿が異なったのは石油価格上昇に対する国内経済の生産及び賃金面,支出面での対応や,実質為替レートの反応が異なっていたからである。
(生産面への効果)
まず生産面については,中間投入財としてのエネルギーの実質価格上昇は,石油輸入国の企業(特にエネルギー投入比率の高い企業)にとっての生産コストの上昇による利潤の減少にみられるように(所得分配率に中立的な)技術退歩と類似した効果を与える。逆に,石油輸出国のエネルギー部門では,生産物の実質価格上昇による利潤の増大にみられるように(所得分配率に中立的な)技術進歩が生じたのと類似した効果が生ずる。
この結果,石油輸入国では,(1)経済の供給能力や労働生産性の低下と,(2)相対的にエネルギーを使用しない財への資本と労働の移動が生ずることになる。ここで,エネルギーの実質価格上昇によって生ずる供給能力の低下は,(1)エネルギーのコストが産出高に占める割合が高いほど,(2)生産技術が硬直的で省エネルギー,産業構造の転換能力が低いほど,(3)生産要素価格,とりわけ実質賃金の硬直性が高いほど,より大きなものとなる。
他方,石油輸出国-とりわけ先進石油輸出国-では,エネルギー部門でブームが生じると共に,経常収支の黒字を背景とする実質為替レートの上昇から工業輸出品の国際競争力が低下する。この結果,エネルギー部門及び非貿易財部門とりわけ所得弾性値の高いサービス部門に資本と労働が移動する可能性がある。
この脱工業化の傾向は,特に石油収入の増加を公共部門の雇用増大によって消費する場合に一層強められよう。このため石油輸出国であっても脱工業化の進展と共に経常収支の悪化が進む可能性もある。こうした現象は,1970年代にオランダにおいて天然ガス輸出の好調から実質為替レートが上昇し,工業品の国際競争力が失われたことから「オランダ病」と呼ばれることがある。オーストラリア,ノルウェーイギリスなど先進エネルギー輸出国は,石油価格上昇によって恩恵のみを享受できるわけではなく,「オランダ病」にかかる危険性にも直面しているのである。
日本の場合には,石油の対外依存度が大きく石油価格の上昇はただちにエネルギー・コストの上昇につながる。このために経済の供給能力に対する石油価格上昇の影響は,他国と比べてより大きなものになりやすい。他方,省エネルギーや産業構造の転換が早いこと,並びに実質賃金の硬直性が他国よりも小さかったことは,供給能力の低下を小幅なものにするよう作用したと言えよう。ただし,以下にみるように実質賃金の調整過程をみると,第1次石油危機の時期に実質賃金の硬直性が強く,産出量にはより大幅なマイナスの効果が生じたと考えられる。
(賃金の調整)
石油価格の上昇に対して名目賃金がどのような動きを示すかによって経済に様々な影響が生ずる。すなわち,名目賃金上昇率の調整の在り方に応じて,実質GNP,雇用および物価には異なった効果が生ずる。
まず第一に,石油価格上昇が実質GNP及び雇用に与える効果がゼロとなるのは,名目賃金上昇率が労働生産性の伸びとGNPデフレータ上昇率との和こほぼ等しい場合〔ケース(1)〕である。
これに対して,名目賃金上昇率が労働生産性の伸びと個人消費デフレータ上昇率との和にほぼ等しい場合〔ケース(2)〕には,実質GNPおよび雇用には悪影響が生ずる。これは石油価格上昇にもかかわらず賃金稼得者が実質生活水準を維持しようとするために,かえって雇用には悪影響が及ぶことになるのである。
第二に,物価への影響についてみると,まず国内要因に基づくインフレを示すGNPデフレータに対して影響がほぼゼロとなるのはケース(1)の場合である。ケース(2)の場合は国内要因に基づくインフレを加速させる。すなわち,石油価格上昇に対して賃金稼得者の実質生活水準が維持されるよう名目賃金が上昇することは,雇用の減少と国内要因に基づくインフレの加速というスタグフレーション的な影響を経済に与えることになる。
そこで我が国について実質賃金が中期的な労働生産性の伸びと等しくなるような名目賃金(1人・時間当たりの名目雇用者所得)の伸びを以上二つのケースについて計算すると第2-7表のようになる。現実の名目賃金をこれらの値と比較することによって2回にわたる石油危機時における日本経済の実質賃金調整が,経済に与えた影響を探ることができる。
この表からまず第一に,第1次石油危機の時期には,ケース(2)を上回る大幅な賃金上昇が生じていることが分かる。これには,第1次石油危機以前に既にインフレが加速していたという事情も作用していようが,第1次石油危機の時期に実質賃金調整の在り方が,実質GNP,雇用を減少させ,インフレを加速させるよう働いたとみることができよう。
第二に,第2次石油危機の時期には,ケース(1)とほぼ斉合的な実質賃金調整が行われたことが見てとれよう。このことは第2次石油危機の時期には,実質賃金の動向が実質GNP,雇用,及び国内要因によるインフレに対し,ほぼ中立的であったことを意味している。
以上のような実質賃金調整の在り方の相違は,実質賃金及び資本に対する実質収益率の組合せによって,日本の供給能力の動きを示した図 (「生産要素価格フロンティア)」からもみてとれよう。第2-8図は,技術進歩分を取り除いた場合の実質賃金と資本の実質収益率の動きを示している。中間投入財としての石油の実質価格上昇は,既に述べたように投術退歩と類似した効果を経済に与えるため,実質賃金と実質収益率の組合せを示す曲線を下方にシフトさせる。第1次石油危機の時期には,この下方シフトに伴って実質賃金は大幅に上昇し実質収益率の低下幅も大きかった。これに対し,第2次石油危機の時期には実質賃金はほぼ横ばいで推移し,また実質収益率の低下は小幅なものにとどまった。従って,この図からも石油価格上昇に伴う実質賃金調整が雇用に与えた悪影響は第1次石油危機の時期により深刻であったことがみてとれよう。
(支出面への効果)
石油価格の上昇は,世界における富の分布,各国の富の水準に大きな影響を与える。石油輸入国では供給能力の低下に伴う期待所得の低下と実質所得の流出が生じ,石油輸出国では石油資源の価値上昇によって富が増加する。
こうした富の水準と分布の変化は,各国の支出面に多くの影響を与える。しかしその影響は,石油価格変化が(1)一時的なものか永続的なもの(変化した後水準が元に戻らない)か,また(2)事前に予想されたものであるかどうか,さらに(3)人々の期待する成長率が石油価格上昇によって大きな影響を受けるかどうかによって異なってくる。
まず第一に,石油価格上昇が一時的なものである場合には,現在の国内支出水準を切り詰めることなく,対外借入れによって経常収支赤字をファイナンスしようとする動機が強く働こう。この結果,経常収支の変化は,石油価格上昇が永続的である場合よりも大幅化しやすい。
第二に,石油価格上昇が十分に予想されたものである場合には,人々は事前に支出削減による調整を行うことが可能になり,経常収支の変化は小幅化しよう。
逆に言えば,石油価格変化が予想されなかった場合には,経常収支はショック・アブソーバーとしての機能を果たすことになる。
第三に,石油価格の永続的な上昇によって経済の供給能力が大きく低下し,それに伴って人々の期待する将来の所得水準も低下したとしよう。この場合,期待所得に見合った水準に支出を切り詰めようとする動機が人々の経済行動に強く働くことになる。
日本の経験に照らして言えば,2回の石油危機における石油価格上昇は突発的かつ永続的なものであり,これに対し経常収支はショック・アブソーバーとしての機能をかなり果たしたと言えよう。この経常収支のショック・アブソーバーとしての機能は,特に第2次石油危機の時期に大きな役割を演じた。第2次石油危機の時期には,省エネ・省力化投資及び技術革新投資など企業の独立投資が堅調であり,また家計の貯蓄率はほとんど変化しなかった。
これに対し,第1次石油危機の時期には,産出量や雇用,および民間の支出性向の調整がより大幅に行われた。第2-7表にみられるように,第1次石油危機の時期には,期待所得の大幅低下とインフレの高進から家計の貯蓄率は高まりを示した。また,設備投資比率も48年から50年にかけて3%近く低下した。
こうした民間支出性向調整の姿が2回の石油危機で異なっていたのは,財政金融政策の対応の違いが一因をなしていたことは言うまでもない。第1次石油危機の時期にはインフレが既に高進していたこともあって,財政,金融面からの引締めは厳しく,かつ長期化した。これに対し,第2次石油危機の時期には,早目に財政金融政策の引締めが行われ,石油価格上昇の国内インフレへの波及を抑えることに成功した。この結果,国内総支出に対する引締め政策の効果は,相対的に小さなもので済んだ。
以上の結果,第1次石油危機の時期には国内需要の削減が大幅であったため,経常収支赤字は小幅化した。他方,第2次石油危機の時期には,国内の支出性向の調整は小さく経常収支の変化はより大幅なものとなったと言えよう。
なお石油価格の上昇が世界の富の配分および各国の国内支出性向に与える効果の違いによって,世界全体の貯蓄性向および投資性向が変化する。この結果,世界の実質金利も影響を受けて変動する。第1次石油危機後には,(1)産油国の支出性向が石油輸入国のそれを下回っていたこと,及び(2)石油輸入国の投資性向がかなり低下したこと,(3)さらにはアメリカで金融緩和政策が採られたこともあって世界の実質金利はかなり大幅に低下した。これに対し,第2次石油危機後には,(1)産油国の支出性向がやや高まったこと,及び,(2)第1次石油危機後と比べれば主要先進国の投資性向が低下しなかったこと,さらには(3)1970年代末以降のアメリカにおける金融引締め政策の影響もあって,世界の実質金利はむしろ高まりを示した。こうした世界の実質金利の動きは,我が国の実質為替レートの動向に影響を与え,さらには経常収支の改善パターンにも大きな影響を与えた。
(実質為替レート変動の効果)
石油価格上昇に対し石油輸入国の実質為替レートが大幅に下落すれば,ショック後の経常収支の改善幅は大きくなる。その結果,産出量,雇用に対する悪影響も小さなものになる。これは実質為替レートの下落から石油輸入国で相対的にエネルギーを使用しない工業品の国際競争力が強まり,生産の回復と経常収支改善への傾向が生ずるためである。
第1次石油危機後には,生産・支出面での調整が大幅だったこともあり経常収支の赤字化は相対的に小幅なものにとどまり,その結果実質為替レートの下落は小幅であった。また,既に述べたように,第1次石油危機後には世界の実質金利はかなり低下したこともあって,51年以降我が国の実質為替レートは大幅に上昇した。我が国の経常収支は51年には黒字に転じたが,52~53年には国内需要の増加もあって経常収支黒字拡大には歯止めがかけられた。
これに対し,第2次石油危機後には当初の経常収支赤字化が大幅であったため,実質為替レートの下落幅は大きく,かつまた世界の実質高金利の持続から実質為替レートの改善が妨げられたことなどから,一旦黒字に転じた経常収支の黒字拡大が抑えられず,第2次石油危機に際しての経常収支の赤字から黒字への変動幅は大幅化することになった。
さて2回にわたる石油危機に対する我が国の生産,支出,対外面での調整の在り方は,他の先進国と比べた場合にどのような特徴を持っていたのであろうか。
第2-9表には経済企画庁世界経済モデルによる原油価格10%引上げが固定レート制度,変動レート制度の下で生産,為替レート,物価,経常収支に与えた効果に関する試算結果が示されている。このシミュレーション結果によれば,
(1)固定レート制度の場合と比べて変動レート制度の場合に我が国の実質GNPの減少は変動レート制度の持つ隔離効果によって,比較的小幅なものにとどまった。
(2)変動レート制度の下で我が国は直物為替レートの下落幅,及び経常収支の悪化幅,内需デフレータの上昇は他国よりも大きい。
といった特徴がある。
日本の場合には第2次石油危機後には第1次石油危機後の場合と異なり為替レートの変動が大きく,また実質賃金の調整が円滑に行われたことが,実質GNPの下落を小幅化させていると言えよう。
またイギリスでは,北海油田発掘の影響もあって直物為替レートの下落幅は小さいが,実質GNPへの悪影響は必ずしも小さいものではない。これに対し,フランスでは為替レートの下落もあって実質GNPへのマイナスの影響は小さなものになっている。
以上みたように,石油価格引上げが各国経済に与えた影響は,各国の賃金,物価の硬直性,為替レート,支出性向の調整の在り方,及び石油の対外依存度,政策の対応の仕方によって異なってくると考えられる。我が国の場合には,他国と比べて変動レート制度の利点を生かしつつショック・アブソーバーとしての経常収支の変動によって石油価格上昇が雇用に与える悪影響を小幅化するような調整が行われたと言えよう。
以上のことから,石油の対外依存度の極めて高い我が国が,2回の石油危機にもかかわらず永続的な対外借入れ国にならなかったのは次のような要因が働いたためと考えられる。
まず第一に,石油価格上昇は中期的な経済の供給能力を低下させたが,これに対し国内の貯蓄性向を高めることによって将来の消費水準を維持しようとする動機が強く働いたことである。これは我が国の国民が現在の消費と比べた将来の消費を他国の国民よりも相対的により重視していることを反映したものである。特に第1次石油危機後に望ましい富の水準を維持するために「節倹」に努めたことは経常収支赤字を永続化させなかった一つの要因と考えられる。
第二に,石油価格の上昇に対し生産要素価格の調整と産業構造の転換が円滑に行われたことである。とりわけ,労働市場における雇用,実質賃金の調整が速やかに行われたことは,省エネ,新たな技術革新を目指した民間設備投資活動に好影響を与えた。この結果,エネルギー生産性の上昇と労働生産性の伸びの維持が可能となり,国際競争力が強化された。
第三に,実質為替レートも国内経済面での調整及び経常収支の改善を助ける形で調整が行われた。
こうした経済の供給面における柔軟性と適応力の高さが,我が国が永続的な借入国にならなかった背景をなしていると言えよう。確かに石油の対外依存度の高いことは,石油価格上昇による経常収支悪化幅を他国に比してより大きなものとする。しかし経済における生産支出面での調整が進むにつれて経常収支は,次に述べる中期的な要因によって決定されるポジションを示すようになると考えられる。