昭和57年
年次経済報告
経済効率性を活かす道
昭和57年8月20日
経済企画庁
第I部 鈍い景気の動きとその背景
第1章 景気回復パターンの変化
56年度における物価は,卸売物価,消費者物価ともに鎮静化傾向を続けた。第2次石油危機後高騰した卸売物価は,55年半ば以降急速に落ち着き,56年度中も鎮静状態を続けた。
品目別にみると輸出入品は,海外原料品市況が下落傾向にあったものの円安の影響により,特に56年4~6月期から7~9月期にかけてやや上昇した。しかし,国内品は,後述するように賃金が伸縮的であったことに加え,需給の緩和により落ち着いた動きを続けたことから,卸売物価全体としては安定した推移をたどった( 第I-1-28図(1) )。
なお,このように原油等の輸入原材料価格が円安を主因に幾分上昇したにもかかわらず,需給の緩和が続く中で一部の品目を除き国内製品価格への目立った転嫁がみられなかったことは,一部業種の業況をかなり悪化させたものの,わが国の価格機構の弾力性という面で注目される。
また,消費者物価も着実に安定傾向を強めた。前年同月比上昇率でみると,56年度当初は5%台であったものが,57年3月には2.8%と,54年4月以来3年ぶりに2%台に低下した。品目別にみると,商品の上昇率鈍化の影響が著しいが,これは基本的には卸売物価,特に消費財卸売物価の鎮静化を主因とする。また,サービスも穏やかな賃金上昇率等を背景として落着いた動きを示した。このほか,公共料金については55年度における電気・ガス料金改定のように大幅値上げされるものがなかったこと,価格変動の激しい生鮮食品,特に生鮮野菜の価格が比較的天候に恵まれ供給増となったこと等から落ち着いていたことも影響している( 第I-1-28図(2) )。
以上のような要因から物価は落ち着いた動きを示したが,この間名目GNPの伸びは,53年の9.9%から56年の5.8%まで一貫して低下している( 第I-1-29表 )。
名目成長率の低下は,実質成長率の低下か物価上昇率の低下を意味するが,物価上昇率が下方硬直的であれば実質成長率の低下は大幅になり,雇用へのマイナスの影響は大きくなる。近年のアメリカはそのケースにあたる。53年と56年で比較すると,名目成長率は1%低下しただけだが,この間GNPデフレーターの上昇率が1.8%高まっているため,実質成長率は2.8%も低下した。
他方,物価上昇率が下方硬直的でなければ,実質成長率の低下はそれだけ緩和される。近年の日本はそのケースにあたり,53年から56年にかけて名目成長率は4.1%も低下したが,この間GNPデフレーター上昇率が1.8%低下したため,実質成長率の低下は2.2%にとどまった。
このように日米両国間ではGNPデレレーターの変化率の下方硬直性の度合いに差がみられる。これは,付加価値の過半を占める賃金の変化率が労働力需給や物価上昇率の変動に対し,アメリカに比ベ伸縮的に動くことによる面が大きい。
日本とアメリカについて各年の賃金上昇率を物価上昇率,生産性上昇率,労働力需給の3変数で説明する賃金関数を推計すると,次の二つの差異が指摘できる( 第I-1-30表 )。第1は,日本の関数のほうが労働力需給の係数の有意性が高く,影響も大きい。第2は,日本の場合は当年ないし前年の物価上昇率のみが有意であるのに対し,アメリカの場合は過去三カ年の平均値を用いた場合がもっともフィットが高い。
この2点の差はいずれも日本の賃金上昇率の伸縮性がアメリカよりも高いことを示している。すなわち,日本の賃金のほうが労働力需給の変動に対してより敏感に反応するし,しかも,物価上昇率が変化した時,アメリカの賃金の反応は緩慢であるのに対し,日本の賃金は速やかに反応することを示している。
このような賃金変化率の伸縮性の差は,賃金決定主体の対応の仕方が大きな影響を与えていることに加え日米の賃金決定の慣行の差によって生じている面もあるとみられる。アメリカの場合,賃金契約は通常三年契約と長く,しかも各業種が同時期に決定されないため,いったん高い賃上げ率が認められると,金融引締め措置をとって労働力需給の緩和や物価上昇率の低下が生じても,それが経済全体の賃金上昇率の低下につながるまでに時間がかかる。これに対し,日本の場合は賃金契約は通常一年契約であり,賃金上昇率への影響がより速やかに波及する。
名目成長率が低下するなかで賃金上昇率の調整が速やかであれば,物価の安定に寄与し,ひいては上述のように生産や雇用へのマイナスの影響も小さくて済むことになる。このように,日本の場合,賃金の伸縮性が物価の安定に大きく寄与したといえよう。
56年度については春季賃上げ率が7.7%であったにもかかわらず,現実の名目賃金(調査産業計)はこれをかなり下回る5.1%なった。これは,大企業の所定内賃金の伸びが春闘の賃上げ率よりも低い伸びにとどまったという要因もあるが,小規模企業の賃金上昇率がかなり低下したこと,時間外やボーナスの伸びが低くなったことに影響されている。このことは,わが国の賃金上昇率がかなり経済情勢ないし収益状況を反映して決まっていることを示している。
過去数年の製造業の賃金の推移をみると,54年度に7.9%の伸びを示した後,その伸びをほぼ一貫して低下させ,56年度は6.2%となった。
54~56年の局面では,特に5~29人規模の小規模層の事業所の賃金上昇率が低い( 第I-1-31図 )。これは,所定内賃金の伸びが低いことに加えて,第4節でみたように中小企業の生産が平均よりも停滞傾向が強いため,所定外を中心にこの部門の労働時間が減少していることも影響している。( 第I-1-32図 )で事業所規模別の総実労働時間の動きをみると,5~29人規模では55年~56年の減少が目立っている。
このように55~56年においては労働時間の減少もあって名目賃金の増加率が低下したため,実質賃金の増加率は昨年の年次経済報告で分析したように折りからの交易条件の低下の影響も加わって55~56年前半の局面で大幅に低下した。これが,今回の景気調整局面における消費を中心とする内需の停滞をもたらしていることは言うまでもない。
ところで,交易条件低下の実質所得削減効果は,56年初にほぼ収まったとみられる( 第I-1-33図 )。にもかかわらず,実質賃金の伸び悩みは56年央まで続いた。特に5~29人の小規模層の事業所の労働者の実質賃金は56年秋頃までマイナスの伸びを続けた( 第I-1-31図 )。これは,56年に入ってからの円安が交易条件を悪化させ,56年度上期において再び実質所得の増加率をわずかながら低下させたという要因に加えて,先にみたように,生産の停滞から労働時間が減少していることも影響している。56年後半においては,生産の回復がみられたことから,労働時間の減少幅が縮小し,大企業ではプラスに転じた。また,56年末から物価が一層の落着きを見せ実質賃金も大企業中心に伸びを取戻しつつある。これが56年末からの消費の回復の基本的な背景の1つとみられる。
53年から56年にかけて名目国民総支出の伸び率が低下する過程で,企業の売上高,収益はいかなる影響を受けたであろうか。そしてそれらの結果,企業と労働者の所得分配はいかに変化したであろうか。
まず,売上高の推移から見てみよう。
法人企業の売上高は,55年度から56年前半にかけて伸び悩んだが,56年後半には若干伸びを高めている。
売上高の前年同期比増減率でみると,55年1~3月期に27.2%増とピークを打った後一貫して低下し,56年4~6月期には2.8%増となってが,56年後半は9%台と若干伸びを高めた( 第I-1-34表 )。しかしながら,その伸びは過去の回復過程と比べれば緩やかである。製造業,非製造業ともほぼ同様の推移を辿っており,動向に大差はみられない。
規模別にみると特に資本金1千万円未満の小規模層の企業では55年度の伸び悩みが目立っている。小規模層の生産は56年度においても相対的に停滞的であり,個人企業をみても55年度の売上高は減少しているし,56年度の伸びも低い。したがって,売上高の面でも55年度~56年度の局面では,大企業と中小企業の格差ががなり見られたといえよう。もっとも,個人企業でも卸・小売業やサービス業は製造業と異なる動きを示しており,製造業よりも早く54年度に伸び悩みを示した後,55年度はむしろ小幅ながら伸びを高めた。56年度に入って再び伸び悩んだが,56年度後半はやや伸びを取戻している。
なお,名目国民総支出は,53年度~56年度にかけてほぼ一貫して伸び率を低下させているのに,売上高の増加率は必ずしも平行的に動いていない。つまり売上高は54年度は伸びを高めているし,56年後半も名目国民総支出の伸びが低下するなかで,若干伸びを高めている。
両者の差は,①在庫品評価調整額の変動と,②付加価値率の変化によって説明される。54年度は物価上昇が加速するなかで在庫品評価益が大幅に膨らんだため,売上高の伸びは大きく高まったものの,名目GNPは在庫品評価益を含まないのでその伸びはむしろ低下した。また,石油価格上昇による交易条件の悪化により,大企業を中心に付加価値率が低下したことも影響した。
56年度においても,前年度後半にはマイナスとなった在庫評価益が卸売物価が若干上昇したことにより増大したため,それを含んでいる売上高は伸びを高めたものの,それを含まない名目GNPは伸び率低下の傾向を続けた。
55年度は売上高(製造業)が,伸び悩む中で企業収益は減少したが,56年度上期以降は売上高の伸びが若干高まったことにより収益は改善した。しかしながらその改善幅は小幅である。
法人企業の動向をみると製造業の売上高経常利益率は,54年度下期以来56年度上期まで4期連続の低下を示した( 第I-1-35表 )。しかし,56年度上期については,石油業における為替差損がかなり影響しており,「石油,石炭」を除く製造業でみると,売上高経常利益率は54年度上期以来の上昇となっている。
56年度上期と下期については,後述のように変動費比率は増益要因となったものの,固定費比率は減益要因となった。これは売上げの伸びが緩やかなためである。同定費の内訳をみると,金融緩和が続くなかで金融費用は増益要因となったが,その他は販売管理費等を中心に減益要因となっているものが多い。
変動費は第2次石油危機に伴う原材料価格の上昇により,54年度上期より経常利益率の低下要因として作用していたが,56年度上期以降は上昇要因となっている。その間の変動費の変化要因をみると,材料原単位は一貫して向上しており,収益の改善要因として働いた( 第I-1-36図 )。企業の交易条件は55年4~6月期まで急速に悪化し,収益の悪化要因となったが,その後はほぼ横ばいで推移し,55年度下期以降は悪化要因となっていない。55年度下期の経常利益率の低下,56年度上期の石油・石炭を除くべースでの上昇という変動をもたらしたのは,在庫品評価調整額の動きである。55年度下期は前期の大幅な評価益の後,物価の落着きにより評価損が発生したため利益率の低下要因となったが,56年度上期には再び小幅ながら評価益が生じたため利益率の上昇要因とし働いた。
56年度の経常利益率の動きを業種別にみると,固定費比率の低下傾向が強い機械関連業種が引き続き高水準で推移した。また,建設関連業種(木材・木製品,窯業・土石)では,原料価格の低迷から変動費比率が低下したものの,売上げの伸びの停滞から固定費比率が高まり,56年度上期まで経常利益率は低下を続けてきたが,下期には売上げの伸びが高まったことにより,経常利益率は大きく高まっている。他方,生産財関連業種(繊維,パルプ・紙等)では,変動費比率の低下はあったものの,経常利益率は概して低水準で推移した。
法人企業の非製造業は,卸売業,小売業等のウエイトが高いため,第2次石油危機に伴う原燃料価格の上昇の影響は比較的小さかったが,先に見たように55年度~56年度上期にかけて製造業と歩調を合わせて,売上げの伸び悩みを経験したため,固定費比率の上昇から経常利益率が低下気味に推移している。54年度上期の2.33%に対し,56年度上期は1.74%まで低下している。製造業(石油・石炭を除く)と異なり56年度上期も低下を続けたのは,電力・ガス業の利益率が低下したことに加え製造業のような在庫評価益の増加のプラスが動いていないためとみられる。しかしながら,56年度下期には,売上げの伸びが高まったことにより,利益率は1.86%と,やや高まっている。
他方,規模別の収益の動向をみるために「石油・石炭製品」を除く製造業について大企業と中小企業に分けて売上高経常利益率の動きをみてみると,56年度上期の利益率は大企業のほうが高く,改善幅も大企業のほうが大きい。大企業では投入原単位の向上と在庫評価損の消失による変動費比率の低下が収益の改善要因となっている。中小企業では大企業よりも固定費の割合が高く,56年度上期に限ってみれば売上高の増加率が大企業よりもやや高かったため,固定費比率の低下が収益の改善要因になっている。
第I-1-37図 大企業と中小企業の製商品の採算についての判断(製造業)
しかし,中小企業は,原材料価格に比して製品価格が伸びなかったため変動費比率は上昇しており,収益の悪化要因となった。このため,大企業よりも利益率の改善幅が小さくなっている。規模別の卸売物価(工業製品)をみると,54年度央から56年度央にかけて,中小企業製品価格の上昇幅は大企業のそれを下回っており,特に55年央から56年度半ばにかけては低迷した。こうしたなかで規模別の企業の製品価格についての価格判断をみると,大企業では56年2月以降上向いているのに対し,中小企業では横ばい気味で推移している( 第I-1-37図 )。まだ,中小企業では仕入価格について大企業よりも上昇感が強くなっており,採算悪化を訴えるものが多くなっている。
なお,個人企業の営業利益の動向をみると,製造業とサービス業は56年下期は若干ながら伸びを取り戻す動きが見られた( 第I-1-38表 )。これら業種では56年に入り賃金上昇率が低下していることがプラスに作用しているとみられる。その結果,これらの部門の労働分配率は56年には低下している。しかしながら卸・小売業については,営業利益は依然停滞している。これは,この部門では製品価格の低迷により付加価値率が低下しているためである。
わが国の労働分配率は,従来から景気上昇局面では低下し,景気調整局面では上昇するという循環的変動を繰り返してきたが,55~56年の局面でも法人企業統計ベースでみると同様の動きがみられた( 第I-1-39図 )。すなわち,55年初~56年央の景気調整局面では労働分配率は上昇し,56年後半に景気回復局面に入るとともに分配率は若干低下している。
しかしながら,54年以降の労働分配率の変動は比較的小幅であり,大きく達観してみれば昭和50年代に入ってから労働分配率はかなり安定しているように見える。
特に国民経済計算ベースでは53年から56年にかけてほぼ一貫して上昇気味に推移しており,法人企業統計ベースで見られる54~55年初にかけての低下もその後の上昇もみられない。法人企業統計ベースと国民経済計算ベースとの動向の差は,在庫品評価調整の影響であり,在庫品評価調整前の国民経済計算ベースの労働分配率を試算すると,法人企業統計ベースと似た動きを示す。したがって,両者の違いは在庫品評価調整額を含むか含まないかによってもたらされているが,本来在庫品評価調整額は生産活動による付加価値の増加にはならないから分配に回すことはできない。その意味ではGNPベースの分配率のほうが現実の分配率を判断するにはより適切な指標といえる。いずれにせよ,どちらのべースで見ても第2次石油危機以降の労働分配率の変動は比較的小幅だったといえる。
このように労働分配率の変動が小幅であった理由は,第1節で見たように今回の景気変動が比較的小幅だったことによる。分配率は,通常景気変動と逆のサイクルを示すが,その理由は第1に人件費がかなり固定的な要素を持っているからである。つまり,景気上昇局面においても短期的には雇用を増やさず,既存の労働者の時間外労働を増やして対応するほうが企業にとって有利だし,景気下降局面においても短期的な下降であれば雇用を減らさず,時間外労働を減らして対応したほうが企業にとって有利である。このため,雇用の調整が生産の変動に遅れる傾向があり,これが景気上昇局面における分配率の低下,景気下降局面における分配率の上昇をもたらす要因となっている。第2に賃金上昇率の調整も物価の変動に対して若干遅れることも分配率の景気と逆サイクルの動きをもたらす要因となっている。このようなメカニズムがあるため,景気上昇が急激な時は生産増に対する雇用増という形の調整の遅れは大幅になり,まだ物価上昇に対する賃金の調整も大きく遅れるので,労働分配率は大きく低下する。逆に景気後退が大きければ,生産低下に対する雇用減という形の調整の遅れが大幅になり,物価が安定化するほどには賃金上昇率が低下しないという事態がより激しい形で生じる。このため,営業利益が大きく落ち込む一方,人件費はそれほど低下せず,労働分配率は大きく上昇する。以上のような労働分配率の低下と上昇のパターンは第1次石油危機の前後に最も顕著にみられた。それに対し,第2次石油危機下においては,54~55年初の景気上昇も55年初~56年央の景気後退も比較的小幅であったため,労働分配率の変動も小幅となった。
もっとも,全産業べースでの労働分配率の変動は小幅であるが,企業規模別にみると若干異なる動きもみられる。大企業では53年から55年1~3月期にかけてかなり低下したため,56年の水準は50~53年の水準をかなり下回っている。しかし,中小企業では56年の水準は50~53年並みの水準にある。個人企業の56年の労働分配率は製造業,サービスでは50~53年水準を下回っているものの卸・小売業では50~53年とそれほど変わらない。