昭和56年
年次経済報告
日本経済の創造的活力を求めて
昭和56年8月14日
経済企画庁
第II部 日本経済の活力,その特徴と課題
「平和主義を信奉するわが国にとって,四つの小島に満ちる9千万国民の生活を向上し,経済を発展し,国力を培う唯一の方法は,その経済力の平和的対外進出である」。これは,昭和32年,わが国外務省が初めて「外交青書」を出した時の一節である。第2次大戦後のわが国は,三つの意味で受身の対応によるしかなかった。第1に,欧米先進諸国に追いつくこと,つまりキャッチ・アップが目標であったということである。先進国は恰好の目標であり,経済制度,技術,それに文化もまたお手本となった。第2に,わが国の活力そのものを生かす道が日本経済の経済成長と,その海外に対する発展以外になかった。第3に,日本経済の海外に対する影響力は弱く,海外の経済社会情勢を与件として受け容れるしかなかった。
このため過去35年間の日本経済は,「キャッチ・アップのための模倣」と「経済の成長・国民生活の充実」とに,そのもてる活力を主として傾注してきた。歴史は,わが国に対し,これ以外の選択の余地を多くは残さなかったのである。
しかし,受身であったとはいえ,日本経済の活力は大きかった。模倣という手段,経済という分野が中心だったものの,模倣も時間と費用を節約する優れた才能である。そのため,海外からの知識・技術の吸収・導入はきわめて活発であった。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の調査によれば,1969年から73年にかけての5年間に,世界で翻訳された書籍は約20万点に達するが,わが国の場合外国語から翻訳したものが1万点強であるのに対し,日本語から外国語に訳されたものは900点弱にすぎない。知識の貿易は,約12.3倍も入超だったのである( 第II-E-1表 )。技術貿易の収支も大きな入超であった(第II部第1章第4節参照)。
そしてこうしたいわば「受信・吸収」は,日本経済の活力の基礎となった。加えて,ここでとくに強調する必要のあるのは,わが国では,この受信・吸収が一部の知的エリートだけに独占されることなく,広く大衆的普及が進んでいったことである。今日わが国を含めて主要先進国では,一方で高度の科学専門誌があるとともに,他方でテレビのようなマス・コミュニケーション手段が存在するが,わが国では,とくにこれら両極間に,中間的メディアが深い密度で存在しているように思われる。そして,この中間メディアが,かなり高度な科学知識や経済・社会認識を伝達する役割を果していると考えられる。それは「中間メディアを通じた知識の大衆的共有化」といってもいいであろう。中間的メディアの性格づけの難しさからして,これを実証することは容易ではない。しかし,たとえば書籍の分野別発行比率をみると,共産圏諸国を別とすれば,わが国では,「社会科学・純粋科学・応用科学」で1957年には西ドイツに.次いで高く,その後,1967年,1977年では首位の比率を占やている( 第II-E-2表 )。また,昭和55年度のわが国の総出版点数は,学習参考書等を除いて約32千点に達するが,そのうち翻訳出版点数は2,650点,8.4%を占め,分野の区分は上記の国際比較の場合と多少異なるが,「社会科学・自然科学・工学・産業」は総出版点数のうちの35.1%であるのに対し,翻訳では,この比率は37.8%で,それを上回る。さらに,電気通信総合研究所の研究によれば,わが国の情報流通量(供給量)は,昭和31年の3,310兆語から50年には16,859兆語と5.1倍に,情報消費量も613兆語から994兆語と1.6倍になったと試算され,そのうちとくに経済情報消費量は2.7倍になったと推計されている( 第II-E-3図 )。この試算には,「対話情報」は含まれていないが,高度成長過程を経て,狭い国土の上に稠密な経済活動が行われるようになったことを考えれば,対話情報の伸びも大きかったと推測される。さらに経済活動が欧米型の「個室型」でなく「大部屋型」であり,意志疎通が対面方式で行われる機会が多いことも,そうした傾向を強めたと考えられる。
以上からしてわが国では,①「経済・社会・科学・技術・産業」に関する情報の比重が高く,②かつそれが大衆的範囲にまで広汎に吸収されていったとみてよい。
日本経済は,こうした「受信・吸収→大衆的共有化」を基礎とし,その上に内外の自由な競争市場,政府部門の比重の相対的低さを条件として,活力を発揮してきたといえる。そしてこの「受信・吸収→大衆的共有化→活力」というメカニズムは,わが国のもつ「創造性」の高さを示しているとみることができよう。平たくいえば,「うまく真似,うまく学習すること」も創造性の一つであろう。とりわけ重要なのは,日本人達は,少なくとも国内では模倣意識は,そう強くなかったとみられることである。実証することは難しいが,「良さそうなことは,みんながやる」という気持が強かったように思われる。そうでなかったら,QC運動が,かくも多くの企業で,かくも多くの人々の手によって進められなかったであろう。
しかし,状況は変りつつある。第1に,わが国は経済的規模や技術水準など多くの面で先進国水準に達した。第2に「経済力の平和的進出」は,いまや外国人の目にうつると「攻撃的(アグレッシブ)」とすらみられるようになった。
そして第3に,国際経済社会の動きは,わが国にとって与件だとはいいにくくなった。日本経済の世界経済における地位・比重の上昇が,わが国の動きをして,世界に影響を与えるようになったのである。
こうして,戦後わが国をして「受身の対応」を選ばせた条件は変わりつつある。より「主体的な対応」を必要とするようになったのである。
まず,国内問題においては,今までのように,海外に学ぶというやり方だけでは解決の方法を見出しにくくなった。またわが国が先進国の仲間入りしえたことは,わが国も他の先進国の多くが直面し,解決に苦悩しているいわゆる「先進国病」に将来当面する可能性があることを示している。こうしてみてくると,先進主要国に学びながらも,日本経済独自の主体的解決の処方箋を見出さざるをえない。
対外関係においても同様である。とくに,自由な競争が行なわれている諸国間において,彼我の競争力が相対的に変わる場合,双方に「認識の遅れ」が生じやすい。強者は弱者が「不公正な(アンフェア)競争」をしているのではないかと疑い,弱者は「自らの影響の大きさ」に気がつかない。そしてそうした中で「秩序ある競争」への要請が強まってくる。
しかし,内外を問わず,自由な競争機能を生かすことが基本的に重要である。第2次大戦後において,狭くは日本経済の成長の例が,広くは自由世界の経済発展の例がそれを歴史的に証明している。自由競争の中でこそ創造性ある企業や経済が生かされ,発展していくからである。そして一国の経済が,世界の経済が繁栄する。自由競争の維持は,各国の創造性,再活性化を高めていく上での基本的なカを守ることである。
ところで,一時に比べれば彼我ともにさきに述べたような認識の遅れは次第に解消されてきているように思われる。なお,相互理解の不足があるとはいえ,問題解決のための対話は頻繁に行われるようになった。
以上を通じていえば,今日の日本経済にとって最も重要なのは,「受信・吸収する活力」の背景にあるわが国の創造性を生かし,できれば一層高めて「創造・交流する活力」をも強め,内外の問題解決に当たることではなかろうか。そうした課題解決に際しての基本的考え方は,これまで本第II部を通じて検討・分析してきた。
ただ次の諸点はつけ加えておきたい。それは,わが国は単に受信・吸収するだけでなく,次第に創造・交流の度を高めているということである。輸出が伸びているのも,ただ「モノ」だけが輸出されているわけではない。貿易事業所数やそこに働く人々の数をみると,この10年間,在日外国貿易事業所ではともに変化がないのに,在外日本貿易事業所数は増え,1事業所当たり従業員数も高まっている( 第II-E-4図 )。書籍も輸出入に限ってみれば,昭和35年に出6,入4の割合であったものが,55年には7対3に変わってきた。国際電話・電信においても,わが国からの送信は欧米諸国よりきわめて高い伸びを示している( 第II-E-5図 )。欧米諸国に比し,その水準は低いとはいえ,地理的に近い欧州域内間の交信の多さを割引いてみる必要があろう。さらに,特許登録件数では,日本国内で外国人の比率が急速に低下し,逆に欧米で日本人特許登録件数のシェアが顕著に上昇している( 第II-E-6図 )。技術貿易の面でも,限界的には出超に転じた。
また,技術協力,専門家の派遣,海外からの留学生等の受入れの伸びも高まっている( 第II-E-7図 )。
こうしてみてくると,わが国からは商品輸出という「モノ」だけでなく「ヒト」も「知恵」も急速に送り出されていることがわかる。
もちろん,以上は一見些細なことと思われるかも知れない。しかし,一つ一つは小さなことであっても,主体的な対応が積み重ねられていくことが重要である。急速に拡大した日本経済であるだけに,現状と世界から求められている役割にはまだギャップがある。そのギャップをできるだけ早く埋める国家的努力が重要なのはいうまでもないが,海外との接触の場で小さな努力が自覚的に数多く積み重ねられていくこともそれに劣らず大切だと考えられる。