昭和51年
年次経済報告
新たな発展への基礎がため
昭和51年8月10日
経済企画庁
終章 新しい発展のための基礎がためのとき
石油危機を契機に他の先進工業国と同様戦後最大の不況に陥つたわが国経済は,昭和50年春頃を底に回復に向かつたが,50年中の回復テンポは過去の不況からの回復局面と比べて弱いものであつた。しかしながら,51年に入ると先進工業国を中心とする世界経済の力強い回復から,世界貿易も先進工業国を中心に急速度に回復に転じ,わが国の輸出も大幅な増加となつた。他方,内需も個人消費が消費者物価の落着きなどから堅調さを増し,民間設備投資も下げ止まりとなるなど回復がより着実なものとなつた。したがつて,51年は本格的な景気回復の年となるであろう。しかしながら,今後の内外経済の進む道は必ずしも平坦なものではない。
戦後30年世界経済は,ブレトン・ウッズ及びガットの両体制の下で比較的順調な成長を続けてきた。この両体制が車の両輪となつて,戦後各国の戦災からの復興,金融の円滑化及び世界貿易の増大を通ずる世界経済の拡大が達成された。しかし,この世界経済体制を裏付けていたアメリカの経済力の相対的な低下とともにこの体制は動揺した。国際通貨体制をみると,1971年8月に米ドルの金への交換は停止され,これを契機として為替相場制度は従来の固定相場制度から変動相場制度ヘ移行した。同年12月,いわゆるスミソニアン合意により拡大変動幅の下で新しい固定的な為替相場体系に移行し,米ドルの切り下げも行なわれたが,1973年2,3月再び日本円をはじめ主要国通貨は変動相場制度に移行し,米ドルの再切り下げも行なわれた。また,石油危機後各国が一勢に深刻な不況に陥り,これまでの世界貿易の自由化進展のテンポは,若干スローダウンすることとなつた。
先進工業国の戦後の急速な拡大に対して発展途上国では,人口が急増したのに比し,経済開発が立ち遅れたので,生活水準の向上は遅れ南北間の格差は拡大した。このようなことから,南側の諸国は,国連貿易開発会議においてみられるように,政治的発言力の増大を背景として,格差是正の経済的要求を強めている。
一方,先進国を中心とする世界経済の急拡大は南の資源に対する北の需要を急拡大させ,潜在的な資源ナショナリズムを表面化させることとなつた。この典型的なあらわれが原油の輸出制限を武器とした原油価格の4倍にものぼる引上げであつた。この石油価格引上げを契機に世界経済は同時不況に突入し,世界貿易は縮小したのであつた。
他方,戦後のわが国経済の動きをふり返つてみると,敗戦の灰燼の中から不死鳥の如き復興をなしとげ,その後,高度成長を達成した。
わが国経済の高度成長を可能にした要因としては,まず企業の積極的な技術導入によつて開花した技術革新がある。技術革新は新製品の開発と製造コストの削減という2つの面から大規模な投資機会を提供し,設備投資主導型の経済成長を実現した。
製品のコスト低下は,需要が根強い高圧経済下にあつても卸売価格を安定させ,内外市場における需要拡大をもたらした。また設備投資主導の経済成長がもたらした生産性の向上は,固定為替レート制の下でわが国の輸出競争力を強めた。
わが国は天然資源に乏しく,資源の海外依存度は高いが,1972年ごろまでは海外資源価格は安く,かつその供給制約の心配はないものと一般に考えられていた。
ところがこのような内外の好条件の多くは,いまや消滅する方向にある。一次産品についてはその価格は上昇傾向にあるばかりでなく,供給制限の懸念さえある。また変動相場制の下にあつては,それぞれの国の為替レートは各国の総合的競争力を反映するため,固定為替レート制の下にみられたような状態が続くということは予想されない。さらに,内外技術格差も縮小し,安直に外国から新技術を求める余地も少なくなつている。
しかし,戦争による灰燼からの復興とそれに続く経済成長の過程でいかんなく発揮されたわが国経済に内在する適応力はいまだ失われていない。このことは,石油危機がもたらした戦後最大の不況を乗り切り狂乱インフレを克服したことに示されている。
わが国経済が適応能力を失わず,国民が引続き勤勉である限り,わが国経済は新しい発展のときを迎えるであろうことは間違いない。
すでに戦後も30年を経過し,日本経済にとつて一つの世代が過ぎ去つた。そして,この間日本経済の歩みを書き綴つてきた年次経済報告(経済白書)も今回で30回を数えた。
昭和51年度は日本経済にとつて,「昭和50年代前期経済計画」の出発の年に当たり,新しい経済の発展を安定した社会の上に築くべき基礎がための年である。そこで,以下本章では,主に本報告の分析結果をふまえた上で,新しい計画に示された中期的方向にも沿いつつ,昭和51年度のわが国経済が取り組むべき主要課題のいくつかについて簡単に検討することとしたい。