昭和50年
年次経済報告
新しい安定軌道をめざして
昭和50年8月8日
経済企画庁
第II部 新しい安定経済への道
第2章 新しい安定経済への道
成長軌道の下方修正のなかで,物価安定,国際収支均衡,福祉充実の三大目標をいずれも実現することは,決して容易なことではない。なぜなら,成長率の減速過程では,労働生産性上昇率が低下しても賃金上昇率は高成長期の惰性が働いてそれを上回るため労働コストが上がり,企業行動もコスト上昇を価格ヘ転嫁しようとし,コスト・インフレに陥り易いからである。こうしたコス卜・インフレが国際競争力の弱化を招き,国際収支の均衡達成を困難にすることは言うまでもない。また,減速過程における労働需要の鈍化は失業の増大など雇用環境を悪化させる傾向をもつ。その結果,国内の産業調整を困難にし,輸入制限を招くなど,国際分業の発展を妨げ易い。さらに,減速過程で税収鈍化と福祉要請が重なると財政危機が生じ,福祉水準の向上も妨げられ,インフレの悪化にも陥り易くなる。このように成長軌道の下方修正は,もろもろの困難な問題を提起するが,世界のなかで戦後この困難な仕事にとり組み,一応の成功を収めたのは西ドイツ経済であつた。
西ドイツの実質成長率は,1950年代の8%から,その後次第に減速して60年代には先進国平均の5%になり,70年代初頭(74年を除く)には4%になつた( 第140図 )。この間GNPデフレーターの上昇率は,50年代の2.5%から,60年代の3.5%ヘ上昇したものの,国際的にみれば物価上昇率のもつとも低いグループに属していた。もつとも70年代に入ると上昇率は高まつたものの石油危機後の2桁に及ぶ世界的なインフレの昂進のなかで,74年の西ドイツのGNPデフレーター上昇率が7.5%にとどまつたことは,国際的な注目をあびた。国際収支も,1961年,69年のマルク切上げ,71年のフロート・アップなど,為替レートの弾力的運営によつて黒字不均衡の除去に努めた。71年12月のスミソニアン合意のあとや73年3月のEC共同フロートのなかでも,マルクの為替レートをたびたび上方調整し,国際収支の不均衡拡大を抑えている。こうしたなかで福祉水準も着実に向上した。10人当たり住宅戸数は,1950年の2.0から60年の2.9ヘ,さらに73年には3.5に達している。また,GNPに対する社会保障費支出(振替支出)は1960年にすでに12%に達していたが,それが72年には13%をこえており,わが国の72年の4.8%をはるかに上回つている。人口1人当たりの社会保障費支出でも,西ドイツはすでに1960年でわが国(1970年)を倍も上回つていたが,73年にはさらに同年のわが国の5倍になつている。
西ドイツ経済が,成長率の減速過程で生じがちな上記の諸困難を克服しつつ,このような福祉向上を遂げることができた理由は,どこにあつたのであろうか。注意しなければならない点は,このような諸困難の克服が決して一直線に進んだわけではないことである。また,福祉の充実,スムーズな労使関係の樹立がすでに高成長期の1950年代から努力し続けられており,それが減速過程で生じる諸問題の解決を容易にしたことである。
西ドイツ経済の1960年代における成長率鈍化は,労働力不足から生じた。50年代末における完全雇用の達成に加え,61年におけるベルリンの壁の設定がその直接的契機である。しかし,より構造的には,人口の増加率低落に加え,人口の年令構成の老令化と就学年数の上昇から15~60才の生産年令人口の年平均増加率が,1950年代後半の1.9%から60年代前半の1.1%,60年代後半の0.6%,70年代初頭の0.0%へと減衰していつたからである。そのうえ老令年金の充実が高令層人口の労働力化率を低く抑えており,また,所得水準の上昇に伴つて労働者の余暇選好も強まつて週労働時間が短縮していること(1955年は戦前並みの48.8時間であつたが70年にはアメリカ並みの39.1時間へ)は,労働力不足化に一層拍車をかけた。こうして西ドイツの成長率鈍化は労働力不足から生じたものであつたから,成長率鈍化に伴う労働需要鈍化,失業増大などの雇用環境悪化の問題はそもそも存在しなかつた。むしろ西ドイツ経済では,所得の上昇,福祉の充実などもあつて,労働力人口が減少していつたことが,成長率の減速を生じさせた一因になつている。西ドイツは,かかる労働力不足に対処するため外国人労働者の移住を認め,その全労働人口に対する比率は1960年代初頭の2%から60年代末には10%にも達した。
こうした労働力不足のなかで,西ドイツは国際分業を積極的に進めていくことができた。鉱工業生産の伸びに対する実質輸入の弾性値をみると,生産減速過程で上昇傾向を示している( 第141図 )。これは,前述の所得や福祉の水準を上げていく過程で進行したのであるが,次のような効果をもたらした。第1は,低生産性部門を輸入に譲つた結果,その労働力が高生産性部門に移り,経済全体の生産性を高めた。第2は,それが所得や福祉の向上に伴う労働力の不足を補い,また,生産性向上を通じて所得や福祉の水準を高めた。第3は,国内市場の競争インセンティブを高め,企業の合理化を促進した。第4は,輸入増による国際協調と国内産業の生産性上昇を通じて,輸出市場を拡大した。西ドイツの需要構造をみると,輸出増・輸入増という貿易の拡大均衡の姿が減速過程で鮮かに浮彫りにされている( 第142図 )。
こうしたなかで,西ドイツ経済が減速過程のなかで直面した最大の問題は,ひとつには物価安定のためのポリシー・ミックスであり,2つには税収鈍化,福祉充実からくる財政硬直化・財政赤字の問題であつた。両者は言うまでもなく,密接にからみあつていた。
労働力不足からくる賃金コストの年平均上昇率は50年代の1.2%から,60年代には3.6%に高まり,特に最近の5か年の1968~73年には7.1%に達した。こうしたコスト圧力の高まりに応じてGNPデフレーターの年平均上昇率も先にみたように次第に高まつてきた。しかしそれでも西ドイツの物価上昇率が世界的にみて低水準に収まつたのは,まず超過需要インフレの発生を防いだのみならず,さらに労働コスト圧力が全面的に物価上昇ヘ転嫁されないような需要管理政策をとつたこと。また,独占禁止政策の遂行に努力を払つてきたことによる。超過需要インフレの発生は,いわゆる財政硬直化という制約の下では,きびしい金融政策の展開と,貿易の自由化,為替の切上げによつてこれを未然に防いだ。加えて「カルテル法」(1957年)とカルテル庁による厳正な行政が競争的な市場環境を整備した。こうした結果,物価を安定させつつ労働分配率は1950年代の65%から,1960~65年には70%ヘ,1965~73年には75%へと着実に上昇してきている。しかし,労働分配率の極端な上昇は,利潤の低下を通じて企業の投資活動を減退させる。そこで西ドイツでは,ひとつには労使協調,2つには政府・労使・学識経験者による「協調のとれた行動」の推進,労働者との定期協議(したがつて強制的な所得政策ではない)を行なうことによつて,この問題を緩和している。労働の経営参加を通じた労使協調については,「石炭・鉄鋼共同決定法」(1951年),「経営組織法」(1952年)によつて,企業の監査役会の役員の3分の1は労働者代表によつて占められるようになつている(石炭・鉄鋼業ではすでに2分の1)。この監査役会は常務取締役の任命・罷免権をもち,大型投資などの事業計画等を事実上決定する会社の最高統制機関である。「協調のとれた行動」のための経済動向指針資料は,「経済安定・成長促進法」(1967年)の中で,連邦政府が設定し公表しうることになつている。そこに示された賃金上昇率は拘束力をもたないが,国民的合意がつくられ易い環境の下では大きな効果をもつ。ガイド・ポストはGNP成長率と物価上昇率との関係を明示的に示すことにより,連邦政府が,公共団体,労働組合,経営者団体等の協調をうる上で,大きな役割を果たしている。こうして西ドイツでは,物価安定のためのポリシー・ミックスとして,一方で総需要管理,貿易の自由化,為替レートの弾力的運用,独占禁止法の厳格な実施でコスト上昇が容易に価格ヘ転嫁されない状況をつくりながら,他方では労働者の経営参加,「協調のとれた行動」の推進などによつて名目賃金の上昇率が過度にならないよう配慮されているといえよう。
しかし西ドイツでは,成長鈍化による財政の減収と福祉支出の増大から1966~67年には財政危機が生じ,減速過程における最大の危機的局面を迎えた。1961~67年の税収の伸びは年率7.6%であつたが,支出の増加率は8.2%に達した。これは福祉支出がこの間年率20%以上で増加したことが主因となつている。福祉支出の財政総支出に占める割合は50年代末の25%から65年には33%に達した。しかも硬直的な財政支出の下では,景気調整はもつぱら金融政策によつて行なわれたので,金融引締めはいきおい過度なものとなつた。1967年にみられた戦後初のマイナス成長はその結果である。こうした減速過程の困難のなかから生まれたのが,先にもふれた1967年に成立した「経済安定・成長促進法」であり,財政の弾力的運用による景気調整を主たるねらいとしている。これによつて,連邦予算は一方では5か年の中期財政計画(rolling plan)に基づいて作成されることになるとともに,他方では景気調整準備金を設定して,好況期には財政収入の一部を準備金に繰入れ,不況期には景気刺激のために取崩されるようになつた。また,67年の財政改正法によつて,財政硬直化の主因となつていた消費的経費の削減がはかられた。1967~73年には税率の上方改正もあつて税収は年率10.1%増大し,他方,福祉支出の増加率は7%に抑えられた。もちろん,西ドイツの福祉水準が前述のように1950年代の高成長期間中に相当の充実をすでにみせていたことが,福祉支出の増勢鈍化を可能にした点は見逃しえない。こうした財政改革を基礎に,景気調整は金融と財政の両面でバランスをとつて行なわれるようになつたわけだが,そのなかで金利メカニズムが全面的に自由に働いていることは景気過熱やインフレ抑制にとつて重要である(金利の全面自由化は1967年)。特に公債発行などに際して政府と西ドイツ連銀がつねに市場の実勢を尊重しており,公債等の低金利政策は排除されている。また今回の世界的インフレのなかで,72年10~73年6月のわずか9か月の間に計6回,通算4%に及ぶ公定歩合の引上げを実施している。小口預金の多い貯蓄性預金の金利は比較的硬直的であつたが,大口の定期預金金利(3か月)は,72年央の4.5%から次第に上昇して,73年末には11%に達した。西ドイツは,多くの金利について実質金利がプラスに維持された数少ない国のひとつであつた,1970年代初頭の世界的なインフレーション激化のなかで,西ドイツの物価が国際的にもつとも安定していたのは,以上のように減速過程に伴う諸困難を克服する諸々の政策手段がすでに整備されていたからであつたといえよう。