昭和47年

年次経済報告

新しい福祉社会の建設

昭和47年8月1日

経済企画庁


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13. 沖縄経済の概観

昭和47年5月15日沖縄は日本に復帰した。昭和20年6月に米軍に占領されて以来約27年間にわたつて,沖縄は本土とは異なつた法律,制度のもとにおかれ,本土と別の経済として機能してきたのである。ここでは復帰前における沖縄経済の構造を概観し,約27年間にわたる沖縄経済の歩みを簡単にあとづけることとしよう。

(1) 沖縄経済の構造

a 総支出の構成

沖縄には,2,240平方キロメートルの土地に,945千人の人口が居住しており,その総支出は1970年(昭和45年)で860百万ドルであつた。まず,沖縄の総支出の配分についてみてみよう。 第13-1表 はこれを本土との比較において示したものであるが,この表から指摘できる沖縄経済の資源配分上の特質は以下の2点である。

第1に,個人消費支出の比率が木土に比べ高いことである。沖縄経済は1960年以前においては総生産の7割以上を個人消費にむけていたとみられる。その後,個人消費の比重は相対的に低下してきているものの,最近5年間の平均でみてもなお6割近くが個人消費支出に振りわけられている。また,政府消費への配分比率も本土に比べて高い。

第13-1表 総支出の構造

第2は,固定資本形成への資源配分のうち個人住宅への配分比率は本土に比べ若干高いが,政府部門への配分が本土に比べかなり低いことである。また,民間設備投資比率(総支出に対する民間投資の割合)は60年代前半までは本土よりも低かつたが,60年代後半以降においては,本土をかなり上回るにいたつた。

b 産業構造

産業別の就業人口と生産所得とから沖縄の産業構造の全体的な姿をみてみよう。

沖縄の本土との対比における就業構造の特徴として指摘できることは,第一次産業(とくに農林業)と,第三次産業就業者の比率が高く,逆に第二次産業,なかでも製造業の就業者比率が低いことである( 第13-2表 )。農林業就業者(ほとんどが農業である)は最近5年間平均(1966~70年)でも全就業者の3割近くを占めており,また第三次産業就業者の占める割合は5割を越えている。一方,製造業就業者の比率は徐々に高まつてきているものの,1割弱にとどまつている。また米軍雇用者の全産業就業者に占めるウエイトは1966~70年平均で9.3%で,製造業就業者の数よりも多くなつている。

第13-2表 産業別就業人口の構造

第13-3表 産業別純生産の構造

産業別の純生産についてみると,沖縄においては,生産所得の7割以上が第三次産業によつて生産されて,これに対し,農業は全体の9%強,製造業は全体の1割を生産しているにすぎず,米軍雇用者のそれに及ばない( 第13-3表 )。

以上のふたつによつて沖縄の産業の就業者1人当たりの労働生産性(名目値)を試算してみると1966~70年平均で,第三次産業を100とすると農業23,製造業85で,第三次産業が最も高い。これに対して本土では同じく第三次産業を100とすると,農業39,製造業115となつている。

主要作物別の農業収入の構成によつて沖縄農業のあらましの姿をみると,最近5年間平均では農業収入の4割が砂糖キビ,3割が畜産,そ菜(主として米軍用の清浄野菜)14%,パイナップル5%などで,沖縄農業は砂糖きび,畜産(主として豚と肉牛),パイナップルの3つが主力であるといつてよい。

第13-4表 主要作物別の農業収入の構成

他方,製造業の構造を最近5ヵ年間の平均でみると全事業所数,従業者数,付加価値総額の約9割は軽工業が占めている。労働生産性(名目純付加価値額/従業者数)も重化学工業に比べて軽工業のほうが高い。

業種についてみると,精糖,パイナップルかん詰を中心とする食料品工業が最大の産業で,ついでセメント,合板などとなつている。重化学工業では最近稼働しはじめた石油精製がある。

c 分配所得

このような沖縄の就業構造や産業構造の特徴は,分配所得の面からもうかがうことができる。沖縄の分配所得の構造の特徴をみると 第13-5表 に示すように本土にくらべ,個人業主所得と賃貸料所得の比重が高く,法人留保を中心としたその他の所得のウエイトがきわだつて低い。また,米軍基地の影響は最近ではその影響力が弱まつてきているものの,なお米軍雇用者の所得と軍用地料を合せて全分配所得の12%弱(1970年)を占めている。

第13-5表 分配所得の構成

d 家計消費

沖縄の家計消費の特徴は,第1に食料費のウエイトが高く,雑費,被服費のウエイトが低いこと,第2に都市勤労者世帯に比べ農家世帯の消費構造が相当に遅れていることである。これに対して本土の場合は1965年ごろから農家世帯の消費の高度化が急速にすすみ,エンゲル係数は都市世帯を下回り,雑費の占める比率も都市世帯よりも高くなつている( 第13-6表 )。また,沖縄の個人貯蓄率(個人貯蓄/個人可処分所得)は約29%(1966~70年平均)ときわめて高い。

e 福祉指標

沖縄の若干の福祉指標を1970年について本土と比較してみると 第13-7表 に示すように,所得水準で約5割となつているほか,医療体制の不備などなお格差があり,このことは今後の格差解消への努力が必要であることを示している。

第13-6表 製造業主要業種別の指標

第13-7表 沖縄の福祉指標(1970年)

(2) 沖縄経済の展開

約27年間にわたる独立の経済としての沖縄経済の展開を,①1945年6月の米軍による占領から50年6月の朝鮮動乱のぼつ発にいたる戦後の混乱から再建への努力がなされた時期,②朝鮮動乱のぼつ発から1958年9月の法定通貨のドルへの切替えにいたる沖縄経済の復興期,③1960年以降の沖縄経済の発展期の3期にわけてみよう。

a 戦後の混乱と再建への胎動(1945~50年)

1945年6月沖縄は米軍の手中に落ちた。沖縄は完全に焦土と化し,住民の犠牲者は当時の県人口の20%余に相当する12万人に達した。生産設備は完全に破壊され,住民は米軍の配給物資に依存せざるをえなかつた。すなわち,米軍によつて1人1日当たり1,400カロリー(のちに1,800カロリー)の食糧が支給され,衣類もまた米軍の余剰物資でまかなわれた。この間,通貸は流通せずすべてが現物で支給,または交換される物や交換の経済となつた。そしてこの物々交換の経済は翌1946年4月の通貨経済の再開まで約1年にわたつて続いた。

1946年には,いわゆるB円(B号円表示軍票)と新日本円とを法定通貨とする通貨経済が再開され,それにともない5月には賃金制度がしかれた。また同月には軍民共同立案による沖縄中央銀行が設立され,民政府公金を取扱うとともに,各種の金融サービスの供給を開始した。一方,実物経済をみると,自由な企業の設立は認められず,また各島間の交易すらも自由には行なえないという経済統制下には置かれていたが,食糧自給を目的とした農業が復活するとともに,食器,日用家庭用品やスキ,カマなどの農機具の不足を補うための手工業が芽ばえた。また戦時中に強制的に本土に疎開させられていた沖縄県民の帰還もはじまつた。

1948年7月には,琉球銀行の設立,法定通貨のB円統一(沖縄の法定通貨は1946年4月のB円,新日本円の2本建て通貨制度の採用後1946年8月には新日本円に統一され,さらに1947年9月には再びB円,新日本円の二本建てとなつた)など沖縄経済再建の基礎となる布石がうたれた。さらに1948年11月には従来認められていなかつた自由企業免許制度が米軍布告によつて確立され,1949年1月から50年10月までの期間に製造業や商業などを中心に企業免許数は約19,000件,資本総額約5億円(B円)に達した。

また,1949年には民間貿易再開への準備措置として「商業ドル資金」制度が創設され,沖縄住民のドル収入が同勘定にたくわえられるようになつた。さらに1950年(昭和25年)4月にはB円の対ドル為替レートが1ドル120B円に決定され,それまでの複数レートの一本化がはかられた。

ところで,この期間の沖縄経済を支えた最大の要因は,米軍の放出物資と総額185百万ドルにのぼるガリオア援助資金であつた。なかでもガリオア援助資金は 第13-8表 に示すように,食糧,肥料,医薬品,車輛,船舶,道路,港湾,電力などの経済援助を中心に1951年までに総額の80%が集中された。

第13-8表 沖縄へのガリオア援助資金の推移

b 沖縄経済の復興期

1950年6月の朝鮮動乱のぼつ発は沖縄経済のその後の歩みを規定するうえで決定的な意味をもつものであつた。朝鮮動乱を契機としてアメリカは継続的な沖縄統治を決意し,軍事基地を拡張するとともに沖縄の経済社会の安定確保にも本格的な考慮を払うようになつた。すなわち,50年4月の単一為替レートの設定に引続いて,民間貿易が開始され(50年10月),住宅復興や生産設備再建のための長期資金の供給機関としての「琉球復興金融基金」が発足(50年4月)した。

一方,大規模な軍事基地の建設と数万の米軍の駐屯は沖縄経済に大きな影響をもたらした。基地収入は1951年の19百万ドルから53年には51百万ドルへと急速に増大し,沖縄本島の約5分の1が基地化され,米軍雇用は増大し,商業,サービス業は活況を呈した。1953年に頂点に達した軍事基地建設ブームは54年後半には一段落をつげ,急速に拡大した沖縄経済はその反動としての収縮過程にはいつた。そしてこれを機会に基地に依存した経済からの脱皮が真剣に検討されるようになり,すでに1951年に再建されていた精糖業のほかに,みそ,しよう油,清涼飲料水,かん詰などの食料品工業や,たばこ,などの工業がぼつ興した。

55年になると再び基地建設が増大し,また本土の好況(神武景気)に支えられて,大平洋戦争の残がいである鉄や非鉄金属のスクラップ輸出が増大した。また軍用地料の3倍の値上げ,本土政府による恩給年金の支払増,米軍雇用者の賃金引上げなどの要因も経済の拡大に寄与した。1956年(昭和31年)には,自立経済の確立を目指した「第一次経済振興5ヵ年計画」がスタートし,産業振興策にのつて製粉,ビール,畜産加工などの企業設立や,それら企業の設立が計画されるようになつた。また,大型分密糖工場,パインかん詰工場,たばこ工場などの設備の新設・拡張や改良も行なわれた。

しかしこのような好景気も56年末を頂点として再び急速な下降過程にはいつた。これは本土の景気後退にともなつてスクラップ輸出が急減した一方,設備投資の伸長による輸入の増大によつて対外経常収支が57年末ごろから急激に悪化し,それにともなつて金融の引締めが行なわれたことによる。

しかし,55年以降の経済成長期を通じて沖縄には各種の企業がおこり,軍事基地に依存しながらも,一方では,沖縄経済の発展の素地がつくられていつた。

一方,通貨面では,1948年のB円統一以降通貨量の増減はアメリカ民政府の管理の下に,外貨収支にともなう発行の増減と,見返資金の放出・回収の操作によつて調整されてきたが,57年には外為清算勘定を設け,外貨収入の増減のみによつてB円の発行量が自動的に増減する仕組みとなり,1ドル=120B円が文字どおり制度化するにいたつた。

そして,1958年(昭和33年)9月沖縄の通貨はドルに切換えられ,同年11月末までにはB円は沖縄から完全に姿を消した。

c 沖縄経済の発展

1960年以降70年までの10年間に沖縄経済の経済規模(名目総生産)は,年率15.4%の速さで拡大した。これは56~60年の5年間の平均成長率9.5%を上回り,沖縄経済は60年代に入つて経済成長のテンポを一段と速めたことになる。また,60年以降の10年間を前半と後半にわつてみると,前半の5年間の成長率は年率13.6%,後半は年率17.3%と後半5年間の伸びが一段と高くなつている。

そこで,この10年間の前半と後半の期間における成長要因についてみてみよう。

まず,1960年代前半の成長要因についてみると,その第1の要因は,糖業,パインの好調であつた。沖縄の糖業については,すでに1952年に本土政府は沖縄産物資のほとんどを内国扱いとし,その輸入にたいしては別枠として,外為予算を確保するという日琉貿易覚書によつて含密糖が国産品と同等に扱われ,ついで54年には分密糖がその対象に繰入れられた。さらに59年には本土において国内産糖(沖縄産糖)に対して消費税と外国産糖にたいする関税の引上げ行なわれ,沖縄糖業は一段と有利な条件のもとに保護されることになつた。こうした動きのもとで,砂糖キビの生産は60~61年の500万トン弱から64~65年には2,400万トン強へとふえ,砂糖の生産もこの間77,000トンから298,000トンへと大幅に増大し,輸出も 第13-9図 に示すように60年の約13百万ドルから65年には53百万ドルへと増大した。また,パイナップルかん詰の輸出もこの間約5百万ドルから12百万ドルへと増加した。

第13-9図 砂糖とパイナップル缶詰の輸出の推移

第2の要因は,軍用地料(地代)の大量支払および日米両国政府による援助の増大があつたことである。すなわち1958年には長年の懸案であつた軍用地料の問題が一応解決し,60年に11百万ドル,61年には18百万ドルの支払が行なわれた。1955~59年の5年間の累積地料が20百万ドル足らずであつたことと比べると,この2両年の支払はきわめて多額のものであつた。この地料による所得の増加は個人住宅投資や個人消費などの水準を上げるものとなつた。また,1961年の日米首脳会談の結果として日米両政府の沖縄援助が本格化したことも寄与している。この期間の日米両国の政府援助額は総額50百万ドル余に達し,それ以前(1956~60年)の16百万ドル弱を大幅に上回つた。

第3の要因は,軽工業を中心とする製造業の発展である。大型製糖工場の稼働,トランジスタ・ラジオ,繊維二次製品などの新規産業の立地が進み,これにより1962~65年間の製造業の生産(純付加価値額)の伸びは年率24.4%と60年代前半の経済成長率を大幅に上回つた。

第4の要因は,対外経常収支が好調に推移したことである。これは前にみたように砂糖,パイナップルかん詰を中心に輸出が好調に推移したことや米軍関係の受取り,日米両国政府の援助が増大したことによる。この60年代前半の対外経常収支は61,62年の小幅な赤字以外は黒字であつた( 第13-10図 )。

第13-10図 対外経常収支尻の推移

つぎに60年代後半の成長要因をみてみよう。この期間の成長要因のうちで最大のものはやはり米軍支出の増加であつた。1965年ベトナム戦争への米軍介入の増大により米軍発注があいつぎセメント,木材,金属製品など広範囲なベトナム特需が発生した。

こうしたベトナム特需は民間企業の投資意欲を刺激し,66年の民間設備投資は前年比67%増と大幅に増加した。また,米軍雇用者の賃金支払が増大し,これが消費を刺激した。しかし,67年以降米軍関係からの受取りはベトナム・ディスカレーションとアメリカのドル防衛の影響とによつて伸び率は鈍化した( 第13-11図 )。

しかし,経済成長のテンポは69年に成長率が13.3%とこの期間の平均的成長率を下回つたが70年には再び成長のテンポを高めた。

これは67年ごろから資本の流入が大幅に増大した結果である。 第13-12表 にみるように沖縄への資本の流入は67年50百万ドル,68年244百万ドル,69年248百万ドル,70年538百万ドルと年々大幅となり,とくに68年からアメリカの石油,アルミ資本の流入もはじまつた。この資本の大幅流入は67年以降の輸出の不振による対外経常収支の赤字を補填し,年率17%をこえる成長を可能ならしめたのである。

沖縄経済は敗戦による荒廃から立直り,急速に発展をとげてきた。しかし,その経済はアメリカ軍の基地に依存するところが大きく,またサービスの比重が著しく高い経済である。農業,工業,ともにモノカルチュアー的であり,その基礎は必ずしも強くない。また60年代後半以降からは,労働力不足の顕在化,農業従事者の老令化,消費者物価の高騰などの諸問題も発生してきている。

第13-11図 総生産と米軍関係受取り

こうしたなかで沖縄は去る昭和47年5月15日本土に復帰した。復帰後の沖縄の進路について,政府としては,新全国総合開発計画に昭和60年を目途とした沖縄ブロックの総合開発計画を組み入れることとしているが,沖縄が現在のような基地依存の経済から脱却し,その日本列島に占める立地条件を十分に生かして堅固な経済基礎をもつた豊かな県をつくり上げることこそ今後の課題といえよう。

第13-12表 資本導入許可件数と投資認可額(主要業種別,日本,アメリカ)

第13-13表 沖縄経済関係史


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