昭和33年
年次経済報告
―景気循環の復活―
経済企画庁
総説
戦後経済の成長と循環
速やかだった戦後経済の成長
国際連合の世界経済報告(1956年版)は、第二次大戦後10年の経済発展は第一次大戦後10年のそれと全く異なると述べている。例えば世界における失業率(失業者の労働人口に対する比率)を戦前と比較してみると、アメリカでは1938年に19%であったのが、55年には4%となり、イギリスでは38年の9・5%に対して、戦後は1~2%にとどまっている。戦後欧米諸国では5%より多くなったことがほとんどないのに対して、戦前には20%もまれでなく、10%を越えることは常であった。
経済活動を最も総括的に示す実質国民所得の成長率でみれば、 第20図 にみるごとく、第二次大戦後の成長率は第一次大戦後に比べて圧倒的に大きい。しかも日本経済の成長率はこのような成長圧力の強い世界経済の中においても、群を抜いていた。それは世界経済の奇蹟と称せられる西ドイツに比べても高く、社会主義体制をとっている国々にも比肩し得るほどである。
このように第二次大戦後の世界経済の成長率が高かったことに対して幾多の説明が行われているが、それらを要約すれば次の三項にまとめることができるであろう。その第一は技術革新の影響である。技術が進むときには次々に新しい機械や生産方式が導入され、新しい製品が発明されるために、企業家はいつまでも古い設備を擁して安閑としてはいられない。競争相手が新しい機械を入れたときに、相手会社に圧倒されないためには、自社の機械が物理的にはまだ寿命があっても、これをあえてスクラップ化して新しい機械にとりかえなければならない。このことを「速やかな陳腐化」(ラピッド・オブソレッセンス)という。このような技術競争は経済力の集中が進んでいても完全独占に至らず、少数の大企業が並存している寡占の状態のときには一層盛んになり、相手より一歩でも先に出ようという意欲は燃えさかる。
技術がどんどん進歩するときには消費面にも似たような事情が生ずる。すなわち衣料や耐久消費財で次々に新しい製品が売出されるとき、企業のマーケッティングの努力に動かされ、また消費者相互間のみせびらかしの効果(デモンストレーション・エフェクト)にそそのかれて消費者はついまだ使える品物まで売払って新しい型に手をだしたくなる。
第二は大衆所得の増大である。前項に述べた耐久消費財に対する大きな購買力が一部月賦販売に支えられていることは事実だ。しかし月賦だけで全てを説明することはできない。なぜならば、購買力のもとになる所得が増えなければ、購買力だけが増え続けるはずがないからだ。そして戦後は勤労者や農民の団結の昂まりによって大衆の所得が次第に増加していることは多くの統計がこれを物語っている。
第三は経済における国家の介入度の増大である。世界各国の国民経済における財政の比重は、ほとんど例外なく増大し、また国が外国為替管理や税制を通じて経済に影響する度合も大きくなっている。また金融組織の強化も忘れることはできない。例えばアメリカにおいては1929~32年の恐慌の際は銀行が1万行も潰れて混乱を大きくしたが、今日では銀行預金が政府によって再保険され、取付騒ぎの起きないような仕組になっている。さらに、いわゆる自動安定装置(ビルト・イン・スタビライザー)の存在も見逃すわけにはいかない。昔は失業すれば貯金でもない限り即日購買力はゼロになってしまった。いまでは失業保険の存在によって少なくも半年は働いていたときの約7割の所得が確保される。また多くの農産物について価格支持制度が布かれ、農民所得の低下が未然に防止されていることは周知の通りだ。
以上挙げた三つの柱の背景として経済の思潮の変遷を挙げなければならない。例えば完全雇用の達成が国際連合憲章の中に強く謳われ、資本主義国においても経済政策の祭壇の中央に据えられることになった。昔は失業者がでると、あれは怠けている(アイドル)といったものだそうだが、いまでは失業者をだすような政府がアイドルだということに変ってきた。また景気の変動は天然現象ではなく政策によってある程度これを調整することができるものだという認識が深まってきた。経済知識や統計の発達によって経済のどこを押したらどこが動くかということが少しづつ明らかになってきたことも大きな変化である。例えば、1932年、まだ恐慌の最中にアメリカ政府は景気後退に基づく歳入減を補うために増税を行っている。景気後退期に増税して財政の収支を回復することがいかに間違った景気政策であるかは判りきっている。いまならば、バランスを回復すべきは国民経済であって、財政収支でないことは万人の目に明らかである。このような経済知識の集積も経済政策にとって大きな資産である。