昭和32年

年次経済報告

速すぎた拡大とその反省

経済企画庁


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総説

投資景気の展開

次々に現れた注意信号

 30年の輸出景気から31年の投資景気への転換は景気循環論の定石通りの諸現象を経済諸部面に現出させた。

 その一は機械受注残高の累積である。 第3図 に見る通り機械メーカーの受注残高は30年半ば頃から累増を続け、31年年央には月々の引渡高の約1年半分に達した。いうまでもなく受注残高の累積は、機械という投資材に対する需要がその供給力を上回ったことを示しているのであるが、さらにその意義について次の二点を付加えておきたい。まず未納注文の累積、従って引渡期間の長期化は、抑制インフレーションの微候だと言うことである。戦争中我々は物価統制によって生活資材の価格騰貴を避け得たが、その反面もらった配給切符で現物を手に入れるのに数ヶ月も空しく待たなければならなかった。丁度それと同じ様に、機械に対する注文の殺到は、その価格を漸騰させるかたわら、引渡期間を長期化し、注文主は注文した機械の入手を長い間待たなければならなくなった。第二点は受注残高と国際収支の関係である。1955年の英国においては、投資の上昇による機械受注残高の増加が、機械輸出の成約を減らし、国際収支悪化の主因になった。しかし幸か不幸か、我が国の輸出構成中、機械の比率は英国の4割に対して2割に過ぎず、受注残高の累積が輸出停滞の主因とはなっていない。投資ブームは後述の経路、すなわち輸入の増大を経て我が国の国際収支に悪影響をもたらしたのである。

第3図 機械受注残高の累増

 現象の第二は、金融基調の変化である。 第4図 に見る通り金融は年度当初の貯金超過から貸出超過に逆転している。30年度中は、輸出売上の増加による企業収益の増大、従って預金の増加にもかかわらず、投資意欲が停滞していたために銀行に対する資金需要は増大せず、預金超過の状態が継続した。市中銀行は、この余った資金を日銀借入の返済にあてた。かくして一時は4,000数百億円あった日銀貸出も、30年度末には約300億円に減少した。日銀への返済が限度に近づくとともに金融機関の資金過剰状態があらわになり、金利の低下も著しく、いわゆる貸出競争が行われた。31年度に入っても企業収益は好調を続けたが、投資意欲の増大により、企業は収益をあげて投資に注ぎ、それでも足りずに不足資金を借入に依存したために、自己資本に対する借入資金の比率は悪化した。銀行は増大する資金需要を預金増加で賄うことができず、再び日銀借入に対する依存を強め、オーバー・ローンを再現した。これは結局貯蓄をこえる投資が行われたことを示すものである。こうして31年度の産業資金は、2兆5,817億円(前年度1兆3,730億円、括弧内以下同じ)と前年度の1.9倍であったのに対して銀行貸出は1兆428億円(3,318億円)と3.1倍に激増し、預金増の8,375億円(6,209億円)をもってしては賄いきれず、日銀借入の増加2,491億円(前年は2,248億円の減)によってかろうじて資金需要の増大に応じたのである。かくのごとく金融緩慢から短期間に小締りに、そして逼迫化への逆転の経路をたどったことは、変動の多い我が国経済史においても誠に珍しい大転換であって、先例を求めれば、第一時世界大戦後の大正8~9年のそれが、わずかに該当するであろう。ただし、当時は逼迫化に伴って金利水準が機動的に上昇したのであるが、昭和31年は銀行の貸出競争が継続して、金利が上げ渋ったことが著しい特色をなしている。

第4図 借入依存度の増大

 オーバー・ローンをカネの資源(ファイナンシャル・レゾーセス)の逼迫とすれば、モノの資源の逼迫は生産隘路の出現にうかがわれる。31年夏頃からまず鉄鉱、電力、輸送力が隘路として現れたが、さらに後に至っては石炭、機械工業の生産能力及び一部熟練工の不足などが顕著となった。 第5図 に見る通り鉄鉱は生産が2割増え、輸出は4割減少して国内供給は増大したにかかわらず、内需の3割余の急膨張によって鋼材輸入は6倍に増大した。電力の需給は30年度末まではバランスしていたが、31年度から不足し始めた。目先き電源開発計画をいかに急いでみても現実に供給力が増加するまでには時間がかかるから、不足は33年度までに持ち越される見通しである。また、国鉄輸送力の逼迫によって、駅頭在貨も正常と認められる量の2倍~3倍に達している。これらの部門の能力は5ヶ年計画で想定していたテンポをはるかに上回る増大を示していたのであるから隘路の出現はもっぱら拡大のスピードが予想以上に過大であったことに基づいている。

第5図 普通鋼の内需、輸出別出荷推移

 物価も 第6図 に示す通り、騰勢をたどった。31年度の我が国物価動向の特色は投資財物価が急上昇した反面、消費財卸売物価及び消費者物価の上昇が比較的緩慢にとどまったことで、欧米諸国で卸売と消費者物価の騰貴率が接近していたのと著しい対照をみせている。その理由はいうまでもなく2年続きの豊作により食糧が豊かで繊維の供給も潤沢であったうえに、消費者需要の伸びが控え気味に推移したためである。ただし、31年11月頃から魚介、野菜等生鮮食品、燃料の上昇、32年に入っては水道、鉄道、電気料金など相次ぐ騰貴によって消費財価格がやや騰勢を示している。これに対して投資財価格は年度間14%の値上がりを記録したが、その主因は鉄鋼市場価格の上昇にあった。棒鋼(19ミリ)の建値は1トン当たり4万6,000円であったが、その市中相場は一時建値の2倍以上の10万円を唱えた。鋼材の需給逼迫、価格の騰貴に対処するために、31年秋以降鋼材の緊急輸入が実施され、市場価格は抑えられた。投資財卸売物価が31年春から9月頃まで急騰を示し、その後比較的騰勢を緩めたのは、このような事情によるものである。

第6図 物価の動き

 繊維価格の軟調も綿花、羊毛の輸入の増大によって裏付けられていることを思えば、一般に物価上昇抑制の蔭に輸入の増大があることを忘れてはならない。28年の時もそうであったが、我が国の場合、インフレーションの圧力がそのまま物価騰貴になって顕現せず、輸入の増大を通じて国際収支の悪化となって現れる傾向をもっている。

 こうして行き過ぎた経済拡大の影響は最後に、かつ、最も決定的に国際収支の赤字となって現れた。31年の国際収支は前年の黒字の幅を次第に縮め7月についにわずかながら赤字を示した。その後一旦回復したが、32年1月以降の悪化は極めて急激である。31年度中の国際収支は受取33億36百万ドル、支払32億98百万ドル、差引38百万ドル黒字であって、前年度の5億3,000万ドルに比べれば約5億ドルの悪化を示したが、なお、黒字にとどまっているかにみえる。しかし、それは外銀ユーザンス(外国銀行からの信用供与による輸入代金の繰り延べ払い)の増大によって為替支払が一時的に猶予されているためであって、ユーザンスを調整した実質収支としては年度間1億8,000万ドルの赤字である。しかも、31年4~12月の実質収支はわずかながら黒字を残し、赤字は1~3月に一時に生じたのである。この3ヶ月間の赤字は2億2,000万ドルに達している。この赤字が輸出や特需の減少によって生じたのではなく、もっぱら輸入の増大によってもたらされたことは特筆に値しよう。 第7図 にみる通り輸出は前年度より19%も増え、特需も増加したのであるが、輸入の増大は42%にも達した。32年度に入っても国際収支は4月、5月、6月と赤字を続け輸入信用状の開設高から推計すれば、なおしばらく赤字の継続が予想されるに至った。

第7図 外国為替収支の動き

 このような状態を反映して外貨の保有高も31年12月末の14億2,000万ドルから32年に入って上期中におよそ5億ドルの減少を示した。我が国の外貨保有高の中にはインドネシアや韓国に対する輸出代金の焦付分を含んでおり、これらを差引き、さらに貿易を営んでいくための操作用外貨の必要額を考えれば、自由な予備金は既にかなり少なく、その前途は楽観を許さない。そこで、今まで種々の注意信号が現れても、これを次々に見過ごしてスピードを増してきた日本経済も、外貨保有の急減には愕然として引締政策に転じなければならなくなったのである。

 以上のように相次いで現れた諸現象は、今から考えれば一つとして需要が供給を超過したことを示す微候でないものはない。それにもかかわらず、なぜ日本経済という自動車が国際収支の壁にのりかけるまでブレーキが踏まれなかったのか。それは基本的には外貨保有高が十分で、収支の多少の赤字は心配するに足りないという気の緩みがあったせいもあるが、また次のようにこれらの現象が警報に値しないという解釈が行われ、かつ統計の不備も加わってその当否の判定が難しかったからである。まず、現象の発生を一時的特殊的原因の責めに帰する説明が行われた。例えばオーバー・ローンは資金需要増大によるものではなく財政揚超の結果だと言って片付けられた。また輸入の増大はもっぱら輸入原材料の在庫蓄積によるもので、やがて輸入は減るから心配はいらないという考え方が大きな影響力を持っていた。

 第二に、投資ブームはある程度継続すれば、景気循環の自然のめぐり合わせとして頭打ちに転ずるから、景気上昇を他律的に抑制する必要はなく、我が国経済は国際収支の壁に衝突するごとくに見えながらその寸前で、景気の自動調節力によって巧みにUターンを行うという見解も有力であった。

 しかし経済の論理は厳しく自らを貫徹して、今日のごとき国際収支の危機が現出したのである。


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