昭和29年
年次経済報告
―地固めの時―
経済企画庁
日本貿易の長期的問題点
貿易の当面の課題が輸入の引締めであるにしても、長期的目標はもとより輸出増大である。日本の貿易の発展のためには、税制、金融、保険、経済外交等の諸施策が正しく運営されなくてはならないことはもちろんだが、これらの政策が真に実効を発揮するための経済的条件は何であろうか。国内のインフレ基盤をとり除くこと、費用価格構造を世界のそれと均衡のとれたものとすること、これらがその基本的条件であるという点については本報告書の他の部分でふれている。しかしこれらが解決されてもさらにこの他に国際市場の諸条件や商社の弱体化等から生ずる多くの困難が別に克服されねばならない。この後の点について次に述べよう。
東南アジア貿易
市場の問題においてまずとりあげるべきは東南アジアである。東南アジアは戦前においてももとより日本の大きな輸出市場であったが、戦後中国や朝鮮、台湾との間の貿易が激減したため、その重要性は一層大きくなっている。従って東南アジア貿易の拡大は戦後一貫して日本の貿易政策の中心課題となっており事実貿易の回復もかなりめざましいものがあった。しかし1951年をピークにしてその後は実額においても減少の方向をみせ始めた。( 第20表 )
これが日本の輸出が伸び悩んでいる一原因である。もっともこれらの減少の主たる原因は東南アジア地域(27年については特にインドネシア、28年については特にパキスタン)の輸入抑制であって東南アジアの総輸入額の中で日本の占める比率が特に著しく低下したというのではない。東南アジア諸国の貿易は、国によって異同はあるが、大体においてはその構造上景気変動の影響を受けやすく、朝鮮事変のブームが終わった後に輸出が急減し国際収支も大きな赤字を示したので輸入を減少せざるを得ず、それにつれて日本の輸出が不振になったのである。( 第21表 )このことは日本の貿易の伸長には、この地域の繁栄が望ましいことを示している。しかし注意すべきことは、このように東南アジア全体が輸入を減少しているにもかかわらずこの間にこの地域に対する輸出を増大している国があるという点である。すなわち西ドイツ、イタリア、ソ連圏諸国等がこれである。ことに西ドイツ、イタリアの進出は機械類の輸出が主体をなしており、かつ資本輸出及び技術進出が併行的に行われていることが特色となっている。これら諸国の進出に対し、日本の東南アジア諸国との経済提携は役務契約としてはさきに、蘭領ゴアやフィリピンの鉄鉱山開発のための契約が成立したが、28年以降は29年3月までに、インドに対するマグネシアクリンカーの工場建設、香港馬鞍山の鉄鉱山開発等7件の契約ができたに止まっている。東南アジア諸国の輸入が戦後、繊維より資本財へと比重が高まっているという点はしばしば指摘されている通りであり、世界諸国の輸出努力もここに向けられている。しかるに日本のこの地域に対する輸出構成は次第に重化学工業品にウエイトを移してはいるが、なお輸入制限の影響を受けることも強く将来増加の期待も少ない繊維品が半ばを占めている。( 第22表 )政府が28年中に重機械技術相談室をニューデリー、カラチ、バンコク、ラングーン等に設けて資本財の輸出を計ったのもこのような点を改善しようとしたものである。東南アジアにはいまだ賠償等外交上解決を要する困難な問題もあるが、かかる点を早く打開し、この地域への輸出増大に力を集中することが日本貿易発展のための鍵であろう。
中共貿易の縮小
中国本土は、戦前(昭和9─11年平均)の日本の輸出の17%を占めていて最大の市場であったが、現在は0.4%である。戦後においても昭和25年には相当な回復を示したが、同年末から厳格な輸出制限がしかれ貿易は激減した。しかし、28年に入ってから制限を次第に緩和し、同年中に6回にわたり300品目近くの禁輸解除を行い、これにつれて貿易額もかなり増大した。( 第23表 )主たる輸出品は化学薬品、人絹糸、綿布、タイプライター等であり、輸入品は大豆、カシミヤ山羊毛、豆類、ごま種、あま種、粘結炭、桐油、生漆等であった。中共は、戦前から日本の輸出市場としてばかりでなく安価な工業原料、油脂、食糧の供給地として重要であった。両国の経済関係が異なっているからもとより戦前のような貿易の回復は困難であるが、それにしても日本が近接の地において遠隔地から原料を輸入しなければならないということは経済的には不自然であって、これが日本の輸出品価格にはねかえり競争力を弱めていることも否めない。( 第24表 )なお28年中には西欧においても東西貿易回復の気運があり、同年中の西欧14ヶ国のソ連圏に対する輸出は価格を調整した実質額でみて、東欧及びソ連とは戦前の50%、中国本土とは70%にまで回復している。
決済勘定別均衡の問題
現在の日本の国際収支の困難はその総額の問題であると同時に通貨別の問題である。日本の貿易は、ドル、ポンド及び14のオープン勘定諸国との間に行われており、これらの各勘定の間の関係は一応切り離されている。従って一勘定の入超を他勘定の出超でカバーするということはできない。もちろん、国際通貨基金からの借入、ドル、ポンドのスワップ、ポンドの振替、オープンアカウントの現金決済等によってこの間の流通はないわけではない。しかし通貨の自由交換が成立しない以上仮に総合収支は均衡しても、従来と同様に、絶えず交替的なポンドの過剰や不足、あるいはオープンアカウントの貸越や借越に悩まされないとはいえない。
特に日本の貿易の本質を考えた場合問題となるのはドル不足である。ここしばらくは特需の存在、ドル輸出の好調、ポンド収支の極度の悪化等のためにあまり注目されなかったが、現在のポンド収支の悪化が同地域の国際収支調整措置に基づくものであるに対しより根深い問題である。もともと我が国の輸入は対米依存が強かったが、戦前には米国からの入超は中国、東南アジアによる出超で大体カバーされることができていた。( 第25表 )戦後はドル依存が急増し、しかも通貨間の交換がないのでこのような多角貿易の道がたたれている。
日本のドル輸入先の約8割は米国、カナダであるが、この両国との近年の貿易を見ると 第26表 の通りで、両国を合わして日本の輸出は輸入の3割にも満たないはなはだしい片貿易となっている。貿易の入超は毎年5億ドルを越し、このままでは現在の2億ないし3億ドルの狭義特需が将来MSA買付のような形で継続したと仮定しても、やはり大きな赤字を残すことになろう。
ドル不足は日本のみでなく戦後の世界貿易に共通した問題であるが、西欧諸国においては域内決済機構、ドル輸出の努力などによってかなり克服されている。しかし日本の場合は特需というドル獲得の道があったために、かえって基本的な貿易構造の変化に対処し得るような経済体制の整備が遅れていたことは将来に問題を残すものであろう。
貿易商社の弱体化
貿易商社が戦前に比べ著しく弱体化したことは輸出伸長の大きな阻害要因となっている。このことは一つには三井、三菱解体後、細分化された商社の濫立と過度の競争に基づいている。 第27表 にもみられるように、現在の代表的な商社でさえ自己資本の100倍に近い取引を営み、いきおい自己資本の10~20倍に上る信用取引と多額の銀行借入金に頼らざるを得なくなっている。従って取扱商品価格のわずかな変動によっても経営面にかなりの影響を受けることとなる。そしてこのような他人資本に対する依存度の増加から金利負担の増大をきたし、附加価値中に占める支払利子の割合は実に6割に上っている。これらのため戦前のように採算を一時度外視しても市場開拓を行い、また輸出相手国の新規需要を喚起する力も弱まっている。さらに最近は競争激化などから輸出マージンも低下したため、群小商社の進出余地は乏しく、商社の統合、系列化の動きが強まってきている。
商社の弱体化はその海外活動の面にも反映されている。すなわち海外支店等の設置数についてみると、昭和28年中には主として大手商社中心の強化努力から前年に比べ東南アジア、中近東などを中心にかなり増加したが、なお戦前の1割5分に満たない。またその設置地域をみると、 第28表 の通り旧領土、関満支においては戦前に比べ極度に減少している。しかし一部の都市、例えばニューヨーク、カラチなどにはかえって多数の商社が偏在しており、このため我が国商社相互の競争が激化するという弊害を生じている。しかも主要輸出先である東南アジアでは入国(タイ)、滞在期間(ビルマ、インドネシア、シンガポール)、業務内容(インドネシア、パキスタン)などに対し諸種の制限が加えられ、現地商社との間にかなりの差別待遇がなされている。その結果商社は極めて不安定な基盤の上に立つことになり、その活動も自由でなく、また市場開拓も困難である。
次にその規模についてみると、戦前に比べ小規模のものが多く駐在員事務所が8割を占めており、出張所、現地法人がそれぞれ1割となっているが、特に東南アジアでは現地法の制限もあり法人はほとんどない。これを外国の商社活動と比較してみると、例えばイタル・ビスコーザ(イタリア)はパルプ輸入、人絹スフ関係輸出に当たって単一機構による貿易を行い自国商社同志の無用な競争を避け、また西ドイツは機械輸出などに対し、アフターサービスを行うなど、積極的な動きを示している。我が国でも最近は国内取引の頭打ち傾向から各社ともようやく輸出市場開拓の方向に向かわざるを得なくなっているが、商社の対外活動を積極化させるためにもその経営基盤の速やかな強化をはかることが重要な問題になっている。