むすび
「日本経済レポート(2025年度版)」では、2025年の経済・物価・賃金動向をデータに基づき具体的に確認し、成長型経済に向けた現状と課題を点検した。物価上昇が所得階層など属性別の家計それぞれに与えている影響、賃上げの広がりを改めて確認し、力強い賃上げを実現していくうえで重要となる人的投資の現状分析を行うとともに、企業の成長手段としての重要度が増しているM&Aの現状と課題を分析した。
(2025年のマクロ経済)
第1章第1節では、米国の関税引上げの我が国経済への影響を個別項目ごとに検討した。2025年4月に我が国を含め世界各国に米国の相互関税が課された。我が国の自動車産業においても収益を中心にその影響がでているものの、直接的な影響を受ける米国向け自動車輸出数量は足下で回復してきている。相互関税が課されるその他の産業についても特段の大きな影響はみられない状況である。我が国の生産活動や設備投資についても特段の変調はみられず、特に設備投資については、自動車産業を含めて、旺盛な設備投資計画が維持されている。他方、企業活動にとってより深刻なのは、人手不足感の高まりである。製造業、非製造業にかかわらず人手不足感はバブル期並みに高さとなっている中、せっかくの企業の高い設備投資計画も、人手不足によって実行が遅れたり、計画自体が見送られたりする懸念もある。個人消費については、総じてみれば緩やかに持ち直しているものの、食料品を中心とした物価上昇が力強い回復に対する重石となっている。
第2節においては、賃金と物価の好循環に向けた現状と課題を検討している。消費者物価は、米をはじめとする食料品価格が主因となって、依然高止まりが続いている。ただし、米価格上昇の今後の鈍化や既往の輸入物価上昇による食料品価格の押上げも弱まっていくことから、消費者物価の伸びは鈍化していくとみられる。物価上昇率を財とサービスに分けると、財は約4%の上昇であるのに対して、政策要因を除いたベースでサービスは2%弱の伸びと相対的に緩やかではあるものの上昇している。賃金と物価が相互に安定して上昇する好循環が実現するためには、賃金上昇が主導する形でサービス価格が安定的に上昇していくことが重要である。賃金については、2024年半ば以降、上昇率が前年比2%から4%程度の範囲で推移しているが、物価上昇には追いついていない。経済の供給力(潜在成長率)を引き上げることを通じ、安定的な物価上昇と持続的な賃金上昇を両立させていくことが重要である。賃上げの原資となる企業の価格転嫁については、人件費の転嫁を含め着実に進展しているものの、業種によるばらつきは大きい。物価上昇の広がりについても、業種によるばらつきがみられる。他方、予想物価上昇率については、企業部門は2%程度の予想物価上昇率が定着してきている。ただし、家計の予想物価上昇率は、食料品など身近な物の価格上昇が影響して、企業部門より相当程度上振れしている。予想物価上昇率の安定にはマクロ経済環境の安定が重要である。
(成長型経済の実現に向けて)
第2章では、成長型経済の実現に向けた課題について、物価高の影響、賃金と生産性、企業行動という観点から分析を行った。
第1節では、物価高の影響について、家計の消費構造が家計属性ごとに異なるという点に着目して分析を行った。いずれの世帯でも、足下の食料品を中心とした物価高により、消費に占める食料品支出の割合は増加傾向にあるが、特に、所得の低い世帯や、引退後の高齢者世帯、子育て世帯では、食料品価格の上昇による影響が相対的に大きくなっている。このような世帯類型ごとの消費バスケットを考慮した消費者物価指数を推計すると、食料品の消費比率の違いを主因として、こうした世帯が直面している物価上昇率は、マクロで見た平均物価上昇率よりも高い傾向にある。また、食料品価格の上昇は、予想物価上昇率を押し上げる効果を通じて景況感に悪影響を与えている可能性も示唆された。
第2節では、個票を用いて賃金水準や賃金上昇率のばらつきの状況を検証するとともに、人的資本投資の現状についても分析を行った。まず、賃金分布や賃金上昇率の分布については、全体的に賃上げが進んだ一方で、年齢や産業によっては賃金上昇が進んでいない属性も散見される。
人的資本については、日本の労働生産性が国際的にみて低水準にとどまっている原因として、人的投資、自己啓発の意欲が国際的にみて低いことを示した。ただし、日本人労働者の職業的な能力自体は高く、高い能力が労働生産性に結び付いていないことが課題である。また、労働者が人的投資を行うインセンティブを持てない理由として、企業と労働者の人的投資に関するミスマッチや、人的投資を行った労働者に対する処遇が十分でないこと等を指摘した。最後に、管理職や専門職等や企業特殊人的資本の占める割合が相対的に低い職種では、転職により各個人が生産性を高める余地が大きく、結果として経済全体の生産性向上にも寄与しうることを論じた。
第3節では、我が国におけるこれまでの企業行動について振り返りつつ、生産性をめぐる論点について考察した。我が国企業の多くは、バブル崩壊以降長きにわたり、債務を圧縮し、コストカットを重視する慎重な経営方針をとってきた。
今回のレポートでは、まず、こうしたスパイラル的な動きが、企業の構造・立ち位置をどのように変えたかについて、金融面から振り返った。2013年に始まった「量的・質的金融緩和」のもとで、中央銀行や金融機関のバランスシートは拡大したものの、企業の資金需要に力強さが不足していたこともあって、企業への資金供給の拡大は緩慢なものにとどまった。結果として、金融機関の供給する資金の一定程度は海外へ流れることとなったほか、本来は設備投資等のために資金を調達する主体と想定される企業が、資金の運用主体としての役割を徐々に帯びてきたことも明らかになった。こうした変化が進んでしまうと、我が国経済が生産のための実物資産(資本ストック)を蓄積する推進力が損なわれる恐れがある。企業が積極的に資金を需要し、設備投資等に投下していくことができるような経済環境を醸成することが重要である。
別の見方をすれば、我が国企業には豊富な手元流動性が蓄えられており、それを有効に活用すれば、これまでの停滞を挽回するような成長が可能になるともいえる。企業活動活性化の手段としてM&Aを取り上げ、計量分析を行ったところ、M&Aは企業の生産性を有意に押し上げることを確認できた。M&Aによる企業の再編は、別々の企業に分かれていたままでは実現しなかった事業拡大などによって、企業自身にメリットをもたらし、ひいては我が国経済の成長力を底上げすることにつながる。
長期間停滞していた物価と賃金が上昇し始め、我が国は成長型経済への移行を実現していく重要な局面にある。これまでコストカット志向の根強かった我が国企業においても、生産性を高める前向きな動きが広がっていくことを期待したい。