おわりに

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我が国経済においては、33年ぶりとなる春季労使交渉における高い賃上げ率、100兆円を超える企業の設備投資など、前向きな動きが随所にみられる一方で、名目賃金が物価上昇に追いつかず、経済の過半を占める個人消費が力強さを欠く状態が続いている。日本経済は今、2%程度の安定的な物価上昇の下で、名目賃金・所得の上昇がこれを上回るという、主要先進国では通常にみられ、デフレ以前の我が国でも観察された経済状況をつくりだすことができるか、そして、持続的な賃上げと活発な投資がけん引する民需主導の成長型経済に移行できるか、その分岐点にある。

こうした問題認識の下、本報告においては、我が国実体経済の状況を詳細にレビューしつつ、「デフレに後戻りしない経済構造の構築に向けた動きは着実に進んでいるか」、「人手不足がもたらす成長制約に対し、省力化投資の促進や円滑な労働移動の実現など経済の対応力は備わっているのか」、「これまで我が国が蓄積してきた金融資産や住宅資産といったストックは有効に活用されているか、これらをいかに経済の豊かさにつなげることができるか」という視点から議論を展開した。

本報告全体を通じて何が明らかになったのか、主要な論点と、それに対するメッセージを整理すれば、以下のとおりである。

●経済の下押しリスクには注意が必要であるが、デフレ脱却への歩みは着実に進んでいる。

我が国経済の緩やかな回復基調を支えているのは、好調さが継続している企業部門である。その背景の一つには、輸出関連企業やインバウンド関連業種における円安の影響もある。一方で、円安は、輸入物価の上昇を通じて国内物価を押し上げ、コストプッシュ型の物価上昇につながるリスクを内包するものであり、これは、賃金上昇が物価上昇に追いついていない中で、消費者の購買力をさらに損ないかねない恐れがある。また、価格転嫁を行えなければ、原材料コストの上昇を通じて、中小企業等の収益悪化につながる。本報告では、円安がもたらす影響についてデータを用いて検証し、<1>円安は、過去と比べると、現地通貨建ての輸出価格の低下にはつながっておらず、輸出数量を増加させる要因とはなっていないこと、<2>企業の価格転嫁行動が変容する中で、円安による川下の国内物価へのパススルーは過去よりも高まっており、円安による国内物価の押上げ要因がより強まっていることを示している。

一方、デフレ脱却に向けた前向きな動きは着実にみられる。デフレ脱却の定義は、物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないことである。過去、四半世紀にわたり、政府及び日本銀行は、デフレとの闘いを続けてきたが、デフレに後戻りしないという状況をつくりだすまでには至らなかった。しかし、今回はこれまでとは異なる。従来の政策努力に加え、2年前に生じた外的要因による輸入物価の急上昇を、強力な価格転嫁政策と賃上げ促進を通じて国内物価の持続的な上昇につなげ、この結果、現在、2%台の安定的な物価上昇が2023年秋以来8か月間続いている。この間、企業行動も変容し、物価と賃金がともに上昇することがノルムとなりつつある。我が国のデフレ脱却に向けた歩みは着実に進んでいる。この流れを確実なものとすべく、再びデフレに後戻りしない経済構造を構築していくことが極めて重要である。

本年の春季労使交渉の賃上げ率は33年ぶりの高水準となる中で、より多くの企業において、より高い賃上げ率が実現するなど賃上げの広がりがみられる。企業の価格転嫁行動は、仕入価格の転嫁に関しては、規模・業種の別を問わず、我が国がデフレ状況に陥る前の積極的な姿に戻りつつある。労務費の転嫁という観点では、人件費比率が相対的に高いサービス部門において、長らく続いてきた物価も賃金も動かないという状態から脱し、両者が共に上昇するというフェーズに確実に移行しつつある。人件費がより高いサービス分野において、物価上昇率の高まりが徐々にみられており、物価上昇の広がりという観点でも、デフレ状況に入る以前の状態に着実に近づいている。こうした中で、予想物価上昇率も、主体間でのばらつきや偏りはあるものの、いずれも過去よりも高い水準に安定化する動きがみられる。一方、中小企業においては、サービス部門を中心に、依然として、労務費の価格への転嫁が難しい状況が続いており、労務費を転嫁しやすい環境を整備するために、サプライチェーン全体での適正な価格設定と価格転嫁を定着させることが引き続きの課題である。さらに、物価と賃金がともに上昇するということがノルムとして定着していく中にあっては、例えば、公共サービス料金の設定にあたり、人件費の転嫁を適切に反映するなど、各種の制度も物価・賃金が上昇することを前提としたものに変化していくことが重要である。

●省力化投資、リ・スキリング等を通じた円滑な労働移動が人手不足対応の鍵に。

企業の人手不足感がバブル期以来の歴史的な水準に高まり、若年層に限らず中年層にも広がる中で、企業部門は、賃金設定について、かつての業績連動という考え方から、雇用者の待遇改善による人手の確保・定着という考え方に大きく舵を切っている。加えて、ソフトウェアを中心とした省力化投資も着実に増加しつつある。企業単位の詳細な分析によれば、省力化投資を実施している、あるいは過去よりも増加させている企業は、そうでない企業よりも労働生産性が有意に高く、省力化投資は、企業が人手不足経済を生き抜くための有効なツールであることが示されている。一方、省力化投資のハードルとしては、コスト面のほか、新たな技術を取り扱うことのできる人材面の課題が強く意識されている。中小企業への支援を通じた省力化投資の後押しも重要であるが、これにとどまらず、リ・スキリングの促進を通じて、こうしたニーズの高い分野への人材の供給に取り組む必要がある。

また、労働力という資源の希少化がますます進む中にあっては、限られたリソースの効率的な資源配分を通じて、経済全体の生産性上昇につなげることが極めて重要である。その鍵は、円滑な労働移動を可能とするマッチングメカニズムであるが、我が国の労働市場のマッチング効率性(マッチングのしやすさ)は、主要先進国と比べて低い状況にある。職種間のミスマッチは低下傾向にあるものの、大都市圏を中心に事務や販売職は労働供給が過剰である一方、多くの地域において建設や運輸、介護サービスといった分野で労働供給が不足しているという状態が構造的に続いており、職種をまたいだ労働移動も限定的である。産業間の労働移動も活発ではなく、低生産性部門から高生産性部門に労働が移動することにより、経済全体の生産性が向上するという効果は、これまでのところ十分に発現しているとは言えない。デジタル化・AI技術の発展の中で、供給過剰な事務職等では、将来、労働需要が一層減少することが見込まれる。一方、デジタル技術等と補完的な、新技術を実装する人材へのニーズが増していく可能性があることも踏まえると、労働移動を通じた資源配分の効率性の観点からも、こうした人材を育成するためのリ・スキリングが非常に重要である。また、供給が不足している職種の従事者に依存する産業では、人手の確保もさることながら、業務改革と省力化投資等を通じて、少ない人手で高い付加価値を生み出せる生産性の改善が必要である。

一般に、技術革新は労働需要の変化をもたらし、労働市場構造を変容させる。今般のAI技術の発展は、ホワイトカラーの労働需要の激変をもたらす点で、経済史のなかでも特異な存在でもある。この技術革新の大波のなかで我が国が新たな経済ステージへと飛躍するためには、動き始めた賃金を梃子にして、新技術を実装した人材の育成と労働移動の活発化を進めていくことが重要と考えられる。

●高齢者の高い就業意欲の後押しや、外国人労働者の定着に向けた支援が必要である。

これまで外国人労働者の受入れ制度が徐々に拡充され、現在、外国人労働者は、過去最高の200万人超、全雇用者の3.4%にまで達し、我が国の労働市場において欠かせない存在となっている。一方、国際的な人材獲得競争が激しくなる中で、日本がいかに競争力のある環境を提示できるかが、外国人労働者を我が国に惹きつけ、定着につなげるための重要な鍵となる。外国人労働者の受入れ増加は、国内の賃金押下げ圧力につながるのではないかという声もあるが、日本人労働者との間にみられる賃金差の4分の3は、年齢や勤続年数、事業所等の特性の違いによるものであり、これらをコントロールすると賃金格差は4分の1まで縮小することが示されている。他方、合理的に説明できない賃金差が残っているとすれば、こうした賃金差を生むような慣習の改善が求められるとともに、労働者本人への日本語教育や子どもの教育を含む日常生活面のサポート、留学生の卒業後の日本での就職支援を通じて、その定着に向けた取組の推進が引き続き重要である。

高齢就業者については、2013年以降の継続雇用確保策の強化もあって、就業者数の増加を支えてきた。我が国の高齢者は、国際的にみても健康で、より長く働きたいという意欲も強い。例えば「年収の壁」を超えて働くことによる生涯可処分所得の増加というメリットを広く周知するとともに、各種制度について就業意欲をより後押しする方向へと見直していくことが急務である。また、企業側では、これまで定年の引上げや定年後の高齢者の賃金低下幅の縮小を通じて、高齢雇用者確保の取組を強化してきた。こうした企業では、高齢者に対し他の従業員への指導力を期待する傾向が高く、高齢者が培ってきた知識や経験という無形のストックの継承を通じて、企業活動の持続可能性につなげることの重要性を示していると言える。高齢者雇用の課題は、労働時間の長い業種では健康面、人手不足感が相対的に低い業種では生産性の低下が指摘されるが、本報告の分析によれば、人件費の増加圧力はあるとはいえ、省力化投資等を通じた生産性の改善等で、収益への影響をカバーすることが十分可能である。高齢労働者の無形のストックを有効に活かすためにも、高齢者の働きやすい環境の構築に向け、労働時間の適切な水準への抑制や省力化投資の促進など生産性向上に取り組むことが重要と言える。

●金融資産や中古住宅への投資行動には変化がみられ、これを更に進める取組が重要。

こうした高齢者の知識や経験という無形のストックに加え、我が国の家計部門がこれまで蓄積してきた豊富な金融資産と住宅資産も、経済と暮らしを豊かにする潜在的な力を持っている。しかし、金融資産、住宅ストックのいずれについても、これまでは必ずしも有効活用されてきたとは言い難い。金融資産については、我が国では、デフレ状態が長く続き、物価が動かなかったがゆえに、収益性は低くとも強い安全性がある現預金に偏在してきた。こうした現預金への選好により、リスク資産の長期保有が限定的であり続ける中、家計の老後に向けた資産運用は停滞し、その結果、企業の成長投資のためのリスクマネーの供給も限定的であった。住宅については、新設住宅着工戸数のフローは、住宅の除却年数の延伸もあって、ピーク時の半分弱まで減少したとは言え、引き続き住宅ストック数として世帯数を超えて増加傾向が続いている。今後も人口減少や単身世帯の増加という流れが続くことが見込まれる中で、新たな住宅の建設から、今ある住宅ストックの有効活用へと転換する必要性が指摘されてきた。しかし、これまでのところ、我が国においては、一般に住宅の寿命が短く、いわゆる新築信仰もあって、中古住宅の流通市場の発展が遅れてきた。

しかしながら、こうした金融資産や住宅資産への投資行動には変化の芽がみられる。金融資産については、これまで高齢層に偏在していたNISA口座数が、若年層を含む現役世代で着実に増加しており、物価が動き出した中、近年のNISA制度の拡充も後押しもあって、若年層を中心に、金融資産の運用スタンスはかつてよりも収益性を重視する方向に変化している。さらに、「貯蓄から投資」への流れを確実なものとするためには、金融リテラシーの向上とともに、構造的な賃上げなど家計の所得を向上させる取組が肝要である。

また、住宅についても、近年の建築費の上昇・高止まりもあって、より幅広い層で中古住宅の取得率が高まるとともに、汎用性の高いマンションにおいては、新築であるがゆえのプレミアムは消失しつつある。一方、個別性の高い戸建住宅においては、依然、新築のプレミアムは残存しており、購入者の中古住宅への志向も高いとは言えない。中古住宅市場の更なる活性化に向け、その阻害要因となっている情報の非対称性の低減、リフォーム促進を通じた長寿命化とともに、不動産流通市場の透明化などに総合的に取り組むことが重要である。こうした取組を通じ、新築信仰から脱し、我が国蓄積されてきた住宅ストックを有効活用することにより、より多くの国民がゆとりをもった暮らしを営み、真に豊かさを感じられる経済社会の実現につなげていくことが重要である。

昨年夏の年次経済財政報告「動き始めた物価と賃金」では、我々は、過去四半世紀ほとんど動かず据え置かれてきた我が国の物価と賃金が動きだしたことを確認した。今年、我々は、企業行動が更に変容し、物価も賃金も上昇するノルムのもとで、物価と賃金が好循環に向かっていることを検証した。

人手不足経済の克服や、豊かなストックの活用など、我が国が直面する構造的な課題を乗り越えるための鍵は、価格である。賃金と物価が動き、価格メカニズムが機能してはじめて、市場経済はその資源配分機能を十全に発揮して発展することができる。物価も動く、賃金も動く、そうした通常の市場経済に戻ること、それこそが我が国を新たな経済ステージに移行させる。政府もまた、それを前提とした政策立案、経済政策運営を行う必要がある。

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