おわりに

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2022年春以降の日本経済には、物価や賃金の上昇の動きに広がりが見られ始めている。こうした変化は、過去四半世紀続いてきたデフレとの闘いから、日本経済が転換点を迎えつつある可能性を示唆している。今回の白書では、こうした転換点の先にある、持続的かつ自律的な日本経済の成長を目指していくためには、どのような環境を整えていくことが必要なのか、我が国経済の立ち位置を確認するとともに、今後の方向性を議論した。

本白書全体を通じて何が明らかになってきたのか、主要な論点と、それに対するメッセージを整理すれば、以下のとおりである。

「長く続いてきたデフレからの脱却は見えてきたか」

物価の動向に変化の動きはみられるものの、持続的・自律的なものになっていくかは引き続き注視が必要である。物価上昇については、企業所得の適切な分配を前提とした賃金上昇との安定的な関係が構築されれば、家計の可処分所得の増加を受けた消費などの需要の増加を伴いながら、経済全体に連続的に波及していくことが期待される。今回の物価上昇局面では、輸入物価の影響による財価格の上昇が顕著であり、上昇品目にも広がりがみられる。こうした中、消費支出の動向の特徴を見ると、所得弾力性が高いと考えられる耐久財などの選択的財は、物価上昇下で実質所得低下の影響が大きい低所得世帯で、消費が相対的に大きく抑制されたことがうかがえる。消費の持続的な回復に向け、適切な価格転嫁を通じた継続的な賃上げ、最低賃金の引上げ及びそれに向けた環境の整備、非正規雇用者の正規化や処遇改善が課題である。サービス物価については、財物価と異なり輸入物価の影響は小さく、国内の需給や賃金コストの影響が強いため、これまでのところ価格動向には目立った変調がみられていない。こうしたことを踏まえ、物価を取り巻くマクロ環境を見ると、現時点では、デフレ脱却の定義である「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みはない」という状況には至っていないと考えられる。今後、サービス物価などを中心に、労務費の価格転嫁等を通じて賃金上昇が幅広い品目の価格に波及し、弱まっていた物価上昇と賃金上昇の好循環を回復していくことが課題である。

このような物価と賃金の好循環が実現するための前提として、これまでの我が国経済に根付いてきた、物価や賃金は上がらないとみるノルム(人々の物価観、物価に関する相場観)が変化することが重要である。既に、定価に代表される正規価格の改定頻度の高まりなどの企業の価格設定行動や、賃上げへの前向きな姿勢などにみられる変化の動きを、より持続的なものにしていくことが鍵と考えられる。また、企業がこれまでの価格据え置き行動を変えていくためには、物価上昇下での賃金上昇を前提として、消費者の予想物価上昇率がアンカーされることが重要である。

過去四半世紀、デフレは、我が国経済の桎梏であった。デフレから脱却することは、長年据え置かれた価格や賃金が動きやすくなることで、相対価格や相対賃金の変化が起こり、市場における価格メカニズムが資源配分機能を果たすような、健全な市場経済に戻っていくことに他ならない。また、これまで長く低成長が続き、企業の期待成長率が低下していたことに加え、デフレ下で借入による設備投資のリスクが高まっていたため、企業は投資を抑制してきたが、今後はこうした環境が変化していく可能性が高いと考えられる。加えて、名目売上高の増加により、コストカット圧力が下がり、マークアップ率を高めやすい環境になることから、投資や賃上げ余力も上昇していくことが期待される。デフレから脱却するチャンスを迎えている今、企業・家計に染みついたデフレマインドを払拭し、成長期待を高め物価が上昇しないことを暗黙の前提にしていた仕組みを見直して、デフレ脱却に確実につなげていく必要がある。

「持続的な賃金上昇や家計の所得向上はどのように実現していくことができるか」

我が国は構造的な人手不足下で、労働需給面から賃金が上がりやすい局面にある。今後、需給面からは、引き続き賃金押上げ方向での影響が続くことが予想されるが、これに加えてより構造的、持続的な賃金上昇を実現していくには、大別して以下の二つの点に注目していくことが重要である。

第一に、生産性の上昇を伴う賃金の上昇が鍵となる。このための一つの方法は、労働市場の流動化である。自発的な転職が活発になれば、労働市場の資源再配分機能が発揮され、成長分野への人材移動にもつながり、生産性上昇が加速することから、経済全体の賃金上昇率も高まりやすくなると考えられる。自発的な転職を阻害する要因を分析した結果、子育て中であることや、配偶者の労働所得や資産所得などの収入源がなく、転職に伴う所得面でのリスクを抑えにくいこと、過去の転職経験や自己啓発経験を有さないことなどが要因として明らかになった。このため、自発的な転職を促していくには、在職中のリ・スキリング支援や専門家による相談体制の整備、女性活躍・男女共同参画の推進や資産形成支援を通じた家計の稼得経路の幅の拡大などが有効と考えられる。

なお、リ・スキリングによる能力向上支援は、転職につながるか否かに関わらず、我が国全体の人的資本の蓄積となり、生産性上昇に直結しうる施策と考えられる。後述するように、我が国の人的資本ストック水準は他の先進諸国と比べて低いが、各人が持つ知識やスキルには正の外部性があることから、個々の企業による意思決定では過少投資になる可能性があり、官による後押しの余地がある。また、リ・スキリングの現状や生産性との関係についての正確な分析を可能にするようなデータの蓄積が期待される。

第二に、追加的な就業希望を叶え、就業者数・就業時間の両面から、労働供給の増加を後押ししていくことが引き続き課題である。このためには、昭和の時代に形成されたいわゆる「日本型雇用慣行」から離れて、ジョブ型雇用を拡大していくことも有効と考えられる。これにより、これまで日本では、長い勤務時間の下で多様なタスクに対応できる者に対して賃金の上乗せを行う、いわゆる「長時間労働プレミアム」があったが、こうしたプレミアムの縮小につながることが期待される。「長時間労働プレミアム」が低下すれば、勤務時間に制約がある子育て中の女性の労働所得の減少を緩和したり、長時間の就業が難しい高齢者の活躍を促すことから、追加的に就業を増やしたいと思っている女性や高齢者の希望が実現しやすくなり、家計所得向上に効果的と考えられる。また、職務内容が明確な雇用形態であるジョブ型雇用の広がりは、自発的な労働移動の促進とも整合的である。

今回の白書では、これらの点に加えて家計の資産所得向上の重要性にも触れている。我が国では欧米と比べ、家計部門の所得に占める資産所得の割合が低い。我が国の雇用慣行の実態が変化し、賃金カーブのフラット化が進むにつれて、雇用者が予想する生涯所得の稼得パターンも変化している。こうした変化の下、貯蓄から投資への移行を進め、若年期からの資産形成を支援してくことも大切である。

「我が国の経済社会全体に関わる課題である少子化には、どのような対策が効果的か」

今回の白書では、我が国最大の課題ともいえる少子化の急速な進行への対策についても、特に経済的支援の側面に注目しながら議論した。我が国の少子化は、近年、女性人口の減少、非婚化の進行、夫婦の出生率の低下の三重の要因により、これまで以上に速いペースで進んでおり、2022年の出生数でみても低下に歯止めがかかっていない。個々の要因を分析した結果、少子化への最も重要な対応策として、3つのポイントを指摘した。

第一に、若年世代や子育て世代の構造的な賃上げ環境の実現は、婚姻率の上昇や、有配偶出生率の上昇につながり得る。また、出産後の女性の労働所得減少が男女間賃金格差の背景に根強く存在し、出産前の男女間賃金格差が縮小する下でも、女性が主稼得者となる結婚が少ない現状を踏まえれば、女性にとっての生涯所得減少への懸念を抑制することが、結婚へのハードルを下げる可能性も考えられる。

第二に、保育所の整備や男性の育休取得の推進などによる、「共働き・共育て」のための環境整備が重要となる。我が国では、女性の家事・育児時間が男性対比で長く、出産後の女性の負担感は大きいと考えられる。こうした中で、国際的にみても制度の利用が進んでいない男性の育休取得や、保育所やベビーシッターなどの利用可能性を引き続き高めることで、家庭での育児負担軽減のための選択肢を増やすことが、共働き・共育てを支援する社会的な仕組みとして重要である。

第三に、子育てに伴う住居費や、補助学習費を含む教育費用などの負担への懸念が、非婚化や出生率の低下につながっている可能性があることから、住宅手当の支給、児童手当拡充といった負担軽減策に加え、公教育の質を高めていくことが必要である。さらに、こうした経済面での対応に加え、子育てをしている人、希望している人たちを社会がやさしく包み込み、子どもたちが健やかで安全・安心に成長できるような社会的な気運を醸成することも重要と考えられる。

「企業の収益性を高めていくための鍵は何か」

上述したように、企業の収益性改善の鍵となるマークアップ率の向上は、設備投資や賃金とも正の相関関係にあり、デフレ脱却の鍵となると考えられる。こうしたマークアップ率向上は、企業が原材料コストを適切に転嫁することや、研究開発投資や人への投資などの無形資産投資を活発に行い、製品の高付加価値化・差別化を図ることで実現できると考えられる。

また、生産性上昇に向けたより構造的な取組としては、低インフレ、低成長の下、長期間低水準のままで推移してきた資本装備率や資本生産性の向上が課題と考えられる。コロナ禍後の経済社会環境の回復を背景に企業収益が改善し、設備投資意欲が高まっている環境下で、今後の企業の設備投資の拡大が期待される。

今回の白書では、設備投資の中でも、企業部門の収益性の改善の鍵として、無形資産の蓄積に注目して議論した。無形資産投資はスタートアップ企業などで活発に行われ、こうした企業の事業価値の多くの部分を構成するとともに、製品の高付加価値化・差別化に直結し、企業の価格設定力向上に加え、外需獲得のチャンスも高めうる。実際、企業の輸出開始にあたっては、研究開発などを通じた「技術力」や「ブランド力」が重要であり、価格競争力を高めても外需獲得にはつながりにくい。また、ICT資本と組織構造や人的資本など、多様な無形資産が相互に補完しあって企業の生産性の向上に寄与することが指摘されている。無形資産投資には知識や生産性の波及など正の外部性がある一方、人材流出などの可能性も伴い過少投資となりやすいため、官の投資を呼び水とする官民連携投資等を通じた、民間企業の投資に対する支援が効果的と考えられる。

我が国の企業の収益動向を俯瞰すると、経済活動の回復に伴い、収益環境が大きく改善した企業がみられる一方、消費の構造変化や原材料コストの上昇などもあって収益が悪化した企業もみられ、ばらつきがある。コロナ禍後の経済においては、コロナ禍での実質無利子・無担保融資や雇用調整助成金の拡充措置などの支援の終了に伴い、雇用や資本などの成長分野への再配置を進めて行くことが、マクロの生産性向上に向けた重要な課題となる。例えば円滑な事業承継の支援や、退出企業の従業員のリ・スキリングやマッチング支援に取り組んでいくことが必要である。

本白書では、我が国経済が、過去四半世紀にわたってなぜデフレの桎梏から抜け出せなかったのか、コロナ禍後の経済を迎え、デフレ脱却に向け確実に歩んでいくには、どのような構造的な課題に取り組んでいくことが必要なのかを議論してきた。ひとたび、物価と賃金の好循環が我が国経済に定着し、マークアップ率の向上が企業の設備投資や賃金上昇につながっていけば、我が国経済の持続的・自律的な成長が実現していくことが期待される。こうした中、財政政策についても、これまでの緊急時支援から、少子化対策や民間投資誘発など中長期的な成長に資する分野にメリハリをつけていくことが求められる。

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