おわりに
我が国は、感染症対策を講じつつ、経済活動の再開・拡大を進めているものの、国内外の感染症への懸念は未だ大きく、先行きも極めて不透明である。輸出は上向きになっているが、国際的な人の移動が制限されていることもあり、5兆円弱まで拡大したインバウンド需要も失われたままである。国内においても、消費全体は持ち直しているものの、飲食や宿泊を始めとする対個人向けサービスへの需要の戻りは遅れており、こうした事業に携わる者には厳しさが残っている。
感染症由来の危機を乗り越えて、再び経済を成長軌道に乗せていくためには、医薬品開発といった直接的な問題解決を待つだけでなく、既に存在している様々なデジタル技術の社会実装を促すと同時に、必要となる社会制度の変革を迅速に進めることが必須である。
こうしたことから、本報告では、新型コロナウイルス感染症の影響により、急激な景気後退とそこからの再起を進める日本経済の現状と課題について分析するとともに、過年度から進められてきた働き方改革とその成果、女性の就業促進と希望出生率の実現に向けた動き、そして「新たな日常」への移行に不可欠となるデジタル化に関する動向や課題について分析した。以下では、本報告の主要な分析結果と含意について整理することでむすびとしたい。
●新型コロナウイルス感染症の影響と日本経済
我が国経済は、感染症対策として要請した自粛等の影響により、個人消費を中心とした大幅な内需の減少と、より強制力のある感染症対策を実施した諸外国への輸出が大幅に減少したことにより、これまでにない厳しい状況に陥った。しかし、全体としては、4、5月を底として持ち直しの動きがみられており、経済活動を引き上げていく局面に入っている。政策支援の効果もあって、消費は大きく反転したが、感染者数の増加がマインドや行動抑制へとつながり、需要の下振れが顕在化するリスクは小さくない。同様のことは輸出にも当てはまり、諸外国における感染動向とそれに対する防疫措置が、我が国に与える影響には十分留意する必要がある。
感染症拡大による需給の緩みは世界中で生じており、当面はデフレ圧力の顕在化に注意を払う必要がある。実際、企業の予想物価は下振れしており、今後、需要回復のテンポが鈍化すれば、物価への下押し圧力は高まる。また、需要の弱さは設備投資にも影響し、投資不足が長引けば、潜在成長力が低下することになる。潜在成長力の低下は、デフレリスクを緩和するものの、それは豊かさの喪失であり、中長期の成長経路が下振れにするというより深刻なリスクの顕在化を意味している。したがって、早急に、感染防止を図りながら需要の喚起、回復を図ることが極めて重要になっている。
他方、景気循環の視点から経済を眺めると、2012年11月から始まった大型の景気拡張局面では、これまで以上に雇用動向が景気変動に影響し、雇用構造の変化が外生的な経済ショックへの頑健さを生み出しつつ、自律性の高い生産、所得、消費の循環を形作っていたという特徴がある。当面、感染症の影響は残るものの、経済活動との両立を図ることが必要であり、外需の持ち直しに期待しつつも、内需を持ち上げていくことが自律的な循環を再び取り戻すためには必要である。特に、生産年齢人口の減少が続くことからも、ソフトウェアやIT投資、人的投資を促すことで生産性の高い供給体制を構築し、同時に、感染防止策を講じる下において需要を十分発現させることが出来れば、再び自律性の高い経済成長軌道へ復することは可能である。
●感染症拡大の下で進んだ柔軟な働き方と働き方改革
感染症の拡大は働き方にも大きな影響を与えた。過年度から、一億総活躍の下での女性や高齢者の就業を促進し、同時に働き方改革を進めてきており、残業時間の抑制や有給休暇取得を促してきた。今年の上半期は、感染症の影響による休業の広がりを反映し、総労働時間は大きく減少したが、その中にはこうした取組の成果も含まれている。ただし、長時間労働者は依然として一定割合で存在しており、是正に向けて、企業は柔軟な業務の調整ができる体制構築や社内慣行の見直しに取り組んでいく必要がある。
また、感染症の拡大によって東京を中心に時差通勤やテレワークが広く浸透した。テレワーク実施率は、緊急事態宣言の解除後も大きくは下がらず、実施者の多くが今後も日常業務で取り入れたいという意向を示している。アンケート調査結果を詳しく分析すると、同じ業種でもテレワーク経験者の方が未経験者よりも「テレワークができない職種である」との回答が少なく、実際やってみるとテレワークが導入できる部分があり、実施率はまだ高まる可能性がある。ワーク・ライフ・バランスや働き方改革の目指すところからも、後戻りさせることなく取り組んでいく必要がある。
2020年4月より大企業に施行されたパートタイム、有期雇用労働法への対応については、2020年夏の特別給与において、パートタイム労働者への一時金の支給実施を反映した動きがみられた。今後は2021年4月の全面施行に向け、企業が説明のできない待遇差を解消しているかを確認するとともに、引き続き政策的な支援を続けていくことが重要である。
こうした働き方改革の具体的な取組が雇用や生産性に与える影響を定量的に分析すると、効果の出方に違いがある。例えば、労働時間に関する取組では、「有休取得目標の設定」をした企業群では、設定しない企業群より有給休暇日数が増加し、総労働時間は減少した。また、「残業時間の公表」を実施した企業群は、実施しない企業群に比べて残業が抑制され、「残業時間の人事評価項目への追加」を実施した企業群では、実施しない企業群より離職率が低下した。同一労働同一賃金に関する分析でも、非正規雇用比率の低下や労働時間の減少に有効な取組(給与体系の見直し等)や離職率の低下につながる取組(業務内容の明確化)があった。テレワークの実施は、生産性に有意にプラスの効果があることが示されたが、これは、フレックスタイム制や事業場外みなし労働時間制といった時間管理方法の改善、あるいは、成果主義を踏まえた裁量労働制の導入といった雇用管理の見直しと相まって、生産性上昇に寄与することが期待される。
●女性の就業と出生を巡る課題と対応
相互に関連するが、働き方改革と並んで重要な政策課題は女性活躍の推進である。今回の景気拡張局面は、女性雇用者が大きく増加した点が特徴である。いわゆるM字の女性労働参加率は解消されつつあるが、欧米主要国と比べると水準が高まる余地はあり、特に、30歳代後半で欧州諸国と開きがある。こうした子育て世代と考えられる時期の女性就業率は、国内外ともに低下する傾向はみられるが、就業希望者にとって、これがキャリアの断絶にならず、休職・休業が一時的なものに出来るよう、継続就業への道を拡げる必要がある。また、子どもがいる女性の就業率には地域差があり、それには3世代同居世帯の割合も関係しているが、世代間扶助の有無にかかわらず、子育て世帯の女性の就業希望がかなうように環境整備を進めることが必要不可欠である。実際、保育環境の整備は、量的拡充を通じて、女性の就業を促すと考えられ、育児休業にも就業促進効果が期待できる。しかし、男性の育児休業取得は未だ極めて少数であり、就業者の意識の変化や政策面での一層の後押しが求められる。
女性の継続就業は結婚・出産といったライフイベントにおいて変化することが多い。国際比較でも国内の都道府県比較でも、就業率の高い地域では出生率も高いという傾向はみられるが、国内の動きを年齢別にみると、就業率と出生率に関係はみられず、就業率はいずれの年齢階級でも年々上昇し、出生率は30歳代で年々上昇している。これは、就業を促す環境の整備、あるいは出産や子育てが継続就業に不利とならない環境整備が寄与すると同時に、出産年齢の高齢化が進んでいるためである。こうしたことも勘案すると、我が国の出生率の低下要因は、特に未婚率の上昇による影響が大きいと考えられ、女性の就業が出生に悪影響を与えているとは言えない。独身者の9割がいずれは結婚を希望し、希望出生数も2近傍にあることから、婚姻率の回復を図ることが求められる。
また、結婚・出産と女性の就業の関係では、かつては一般的であった結婚退職は減少しているが、第1子の出産前後で3割が退職している。特にパート・派遣といった雇用形態で働くグループでは、妊娠前後に離職を選択する者が多く、雇用形態が継続就業の確率に大きく影響している。さらに、共働き世帯が多くを占めるようになり、働き手の多様化も進んでいるが、男性の家事参加は低調である。男性の働き方・家事・育児参加が出生率に影響しているとの先行研究もあり、変化が必要である。その際、男性の家事・育児時間が短時間となる背景には長時間労働の影響も無視できず、働き方改革の進展も含めて、ワーク・ライフ・バランスの一層の改善が求められる。こうした中、感染症の拡大による生活様式の急激な変容は、夫婦の家事・育児分担にも影響を与えており、プラスの面もある。引き続き、働き方改革を進め、誰にとっても働きやすい環境を整備するとともに、子どもを産み育てやすい社会の形成が求められる。
●デジタル化による消費の変化とIT投資の課題
感染症を克服する「新たな日常」に向けて、消費面では既に大きな変化が生じている。EC(電子商取引)は感染症の拡大防止の観点から注目されているが、これまでも、消費者向けEC市場は年率約8%で成長してきた。EC消費支出はEC利用世帯の増加によって増えてきたが、若年世帯、共働き世帯の利用が多い。特に、緊急事態宣言以降、ECの利用は高齢世帯へと拡がっており、履歴効果も期待されることからすそ野広く定着していくと見込まれる。EC普及率は欧米よりも低いが、仮に感染症拡大の下で加速した今のテンポが続けば、1年程度で並ぶといった計算もできる。供給体制がボトルネックにならないように、通信や物流インフラの拡充、人手不足を解消するIT化と働き方の改革を急ぐべきである。
また、EC同様にインターネット上のプラットフォームを介して行うシェアリングといった新しい消費形態やサブスクリプション(定額制)といった新しい契約形態も拡がりをみせている。例えば自動車のシェアリング市場はまだ小さいが、これが普及すれば、個人の自家用自動車保有は減少するかもしれないものの、利用者としては用途に応じて車種を選択する余地が拡がり、生活の利便性が高まるほか、保有資産(自動車)の有効活用につながる可能性がある。また、サブスクリプションが普及している音楽業界では、ネット配信により利用者にとっては廉価に多くのサービスを需要出来る一方、提供側も財を介した販売コストを負担せずにサービスの提供が行えるだけでなく、広告や付帯サービスによって追加需要を生み出す機会を得ている。
こうした新たな消費生活を支えるためにはIT・ソフトウェア関連投資が不可欠となるが、我が国の従業者一人当たりソフトウェアストックは他の先進国に比べて見劣りしている。従業員一人当たりのソフトウェア装備率を高めることは労働生産性にプラスであり、また、省力化に向けたIT投資はバックオフィスの労働時間削減に効果があり、投資を加速する価値がある。
また、今回の感染症の拡がりにより、民間部門よりも公的部門のIT化の遅れが明らかになった。特に、教育や行政といった公的部門のIT化については、国際比較においても遅れが著しく、早々に改善・是正を図ることが求められる。
さらに、今後のデジタルイノベーションに必要なIT人材も不足していると懸念される。IT人材の総数不足だけでなく、欧米各国との比較からは、我が国のIT人材がIT関連産業に偏っていることが明らかになった。この点、米国では公的部門にもIT人材が1割以上所属しているのに対し、我が国は1%にも満たない。各産業に広くIT人材がいること、つまり、システムのユーザー側にある程度のIT人材が所属することは、ユーザーのニーズに合致した、合理的・効率的なIT投資やスムーズなIT運用が進む基礎となる。公的部門の改革に合わせて、IT技能を有する人材が広く産業に雇用されていくことで、「新たな日常」に向けた社会変革が実現できると期待される。