第2章 アジアの世紀へ:長期自律的発展の条件 |
●アジアの今後の展望と課題
世界金融危機発生後のアジア経済は、世界に先駆けて回復し世界経済をけん引する役割を果たしているが、今後の安定的・持続的な経済発展の実現に当たっては、以下の問題が短期及び中期、長期において大きな影響を及ぼすと考えられる。
(i)欧米先進国市場の低迷
第一に、短期的には、先進国市場が低迷するリスクがあることである。欧米諸国の経済見通しをみると、基調としては緩やかな回復が続くと見込まれるものの、信用収縮や雇用の悪化等により景気回復が停滞するリスクがあり、本格的な回復軌道に乗るまでにはしばらく時間がかかるとの見方が強い。今回の危機は欧米諸国を震源とするものであり、アジアへの影響はアジア通貨危機の混乱に比べると軽微であったが、第1節でみたとおり、輸出主導型の成長モデルを採用する国にとっては、欧米諸国の深刻な需要低迷が大きな負の影響をもたらすことが明らかとなった。欧米市場に依存する構造が改善されなければ、貿易チャネルを通じてアジアの成長を引き続き下押しする可能性がある。
一方、金融チャネルからの影響については、アジア地域の金融機関は証券化商品の保有は少なく、今回の世界金融危機の影響は限定的であった。しかしながら、外国資本の引揚げによる外貨準備の減少や通貨・株価の下落に直面した。アジアは、1997年のアジア通貨危機は乗り越えたものの、依然として金融システムに脆弱性が残っており、今後も欧米諸国における金融の調整が長期化し、国際金融資本市場が再び不安定化する場合には、大きなリスクとなろう。
(ii)グローバル・リバランシング
第二に、中期的なグローバル・リバランシング、すなわち世界的な経常収支不均衡是正の要請である。経常収支の不均衡は、異時点間の最適資源配分行動の結果であるが、ある国の資産バブルの発生等による非効率な投資の結果生じた不均衡の場合には、注意を要する。例えば、米国の過剰消費、住宅投資は、今回の世界金融危機の一因となった。
アメリカの経常収支赤字は09年には縮小したものの、再び拡大の兆しがみられる。もし、例えば現在の水準の財政赤字が続き、再び経常収支不均衡が拡大すれば、財政の持続性に対する投資家の懸念を高め、アメリカにおける資本流入の減少あるいは資本流出の拡大を招くおそれがある。この場合、ドル急落や金利急騰、株価暴落といったプロセスを通じて米国経済が失速し、世界的な経済の停滞や金融市場の混乱が発生する可能性がある(ハードランディング・シナリオ(1))。
今回の世界金融危機では、ヨーロッパも金融危機の震源であったことからドルからユーロへのシフトが起こらなかったこと、投資家のリスク回避が極端に強まった結果、資金がアメリカから逃避せず相対的に安全とみられた米国債に向かったことなどから、ハードランディング・シナリオは回避された。しかし、不均衡状態をもたらした構造が引き続き維持されれば、ハードランディング・シナリオが発生する可能性を否定できない。
今後も、アジアは自由貿易投資体制のもと、活発な財・サービス・資本等の移動の恩恵を受けて成長していくことが予想されるが、オープンな経済体制においては、他方で貿易チャネル、金融チャネルを通じて今回の世界金融危機のような海外のショックの影響を再び強く受ける可能性が高い。また、アジア各国はドル建ての資産で外貨準備を多く積み上げているが、経常収支不均衡の状態が継続すれば、中長期的にはドル安になる可能性がある。ドルの価値が低下する事態になれば、こうした資産の価値が減少(キャピタル・ロス)するという新たなリスクも抱えている。
(iii)人口減少・高齢化の進展
第三に、中長期的な人口減少・高齢化の進展である。アジア各国は、かつて先進諸国が経験したよりも速いペースで人口減少及び高齢化を迎えることが予想されており、2015年からは中国を始め各国が次々と人口負担期に転換する。アジアにとって深刻なのは、十分な経済発展を遂げる前にこの問題がもたらす負のインパクトと対峙しなければならないことである。人口の減少による市場規模の縮小及び労働力の減少は、アジアの成長の制約要因となるとともに、投資先としてのアジアの魅力を減退させることとなる。これはアジアの現行の成長モデルの持続性にも大きな影響を及ぼすこととなろう。
また、高齢化に関しては、前節でみたとおり、2030年までに各国の高齢化率は7%を超える高齢化社会に移行することが予想されている。高齢化の進展は、国内貯蓄率の低下をもたらし、貯蓄超過の縮小によって経常収支不均衡の縮小につながる一方、投資の減少をもたらし経済成長を押し下げる要因となる。また、生産年齢人口の減少による税収減や社会保障費の増大を通じて財政を圧迫する要因となる。
●新たな成長戦略のあり方
グローバル化の進展を受けて、世界経済のリンケージは実体経済、金融両面でますます進化しており、他地域で発生した危機が直ちに波及し多大な損失を受けるリスクが高まっている。今後のアジア地域の更なる発展のためには、アジア通貨危機以降の成長モデルとなった「欧米市場に依存した成長」、「経常収支不均衡を拡大する構造に依存するような成長」から転換することが不可欠となる。そのためには、(i)現行の輸出主導型成長モデルの新たな方向づけ、(ii)経常収支不均衡に伴うリスクの緩和が重要であり、また、 (iii)将来の人口構造の急速な変化に対する備えも急務である。
(i)現行の輸出主導型成長モデルの新たな方向づけ
今回の世界金融危機では、主に貿易チャネルを通じてアジアに影響が波及したが、アジア域内各地に構築された重層的な生産ネットワークはアジアの競争力の源泉であり、輸出主導型の成長モデルは引き続き維持されるものと考えられる。第1節でみたとおり、安定的で持続的な経済発展を遂げるためには、欧米先進国市場への依存度を低下させ、外的ショックに強い構造に転換させることが重要である。具体的には、輸出競争力の強化、輸出品目及び輸出先の多様化等が課題となるが、特に輸出先の開拓という観点では、アジア自身の市場に目を向けることが重要となろう。アジアの市場規模は大きく、所得水準が上昇すれば更に拡大の余地がある。アジア地域が「世界の工場」だけでなく「世界の市場」としても発展し、現在の中間財を中心とする貿易から最終財を中心とする貿易に構造転換が進めば、より大きな成長が見込まれる。また、アジアの内需拡大は、欧米市場のみに依存せず、より安定的で自律的かつ持続的な成長に資するものと考えられる(「Balanced Growth」)。
(ii)経常収支不均衡に伴うリスクの軽減
経常収支不均衡自体は必ずしも否定すべきものではなく、長期的には人口構造の変化により縮小に向かっていく可能性もある。しかしながら、経常収支の不均衡が何らかの市場の歪みを反映していないか、将来のリスクの芽となっていないか、常に警戒する必要はある。リスクの芽になり得る経常収支不均衡の問題が今後の世界経済の不安定要因とならないようにするためには、不均衡をもたらす要因を改善しリスクの軽減に努めることが重要である。不均衡の是正にあたっては、その中心となるアメリカが経常収支赤字の縮小に取り組むことが不可欠であるが、不均衡を結果として支える役割をしてきたアジアも不均衡の是正に取り組んでいくことが求められる。中国を始めとする一部のアジアの国々の高い貯蓄率については、予備的動機が背景にあると考えられることから、その抑制にあたっては社会保障制度の整備が有効であろう。将来の高齢化への対応としても重要である。また、上述のアジア域内内需の振興も不均衡の是正に寄与するものであり、投資機会拡大のため金融・資本市場整備、健全な銀行システムの構築といった制度インフラの整備促進が重要である。
(iii)人口構造の急速な変化への対応
人口減少・高齢化に伴い、生産年齢人口の減少、貯蓄率低下等の成長制約が本格化することが予想される。女性や高齢者の労働力率を高めることに加え、労働生産性を高めることが基本的な戦略となる。特に、後者については、直接投資を通じた多国籍企業からの技術移転も引き続き有効となるほか、良質な資本ストックの着実な蓄積、研究開発投資の活性化を通じた技術革新、教育投資を通じた人的資本の向上といった取組を通じ、政策的にその引上げを図ることも重要である。
なお、世界銀行が1993年に公表した報告『東アジアの奇跡』では、東アジア諸国の急速な発展の基礎的条件として評価されている要素として、安定的なマクロ経済環境が維持されたこと、教育投資による良質な人的資本が蓄積されたこと、企業が活動しやすいビジネス環境を整備したこと、成長の成果が適切に再分配されたこと等が挙げられている(2)。こうした要素は、アジアの今後の成長戦略において引き続き維持、強化すべき重要なポイントである。さらに、経済成長に関する様々な実証研究で成長に寄与する要素であることが明らかになっているもの、例えば、中等・高等教育の普及による人的資本の蓄積や技術開発、法の支配等についても、更に推進すべきである(3)。